掛け声はすごく大事

「まずは礼を言う」

 そう言ってその狐はお行儀よく頭を下げた。

「私の名はカザクモ。見ての通り狐の化生だ」

 俺の家の二階、俺の部屋である。勉強机とベッドくらいしかない簡素な部屋の真ん中で、狐――カザクモは透明感のある声で話を始め出した。

 あの後俺は何が何だかよくわからないまま、とにかく家に帰った。途中で後ろからこのカザクモがついてきていることに気付いたのだが、お前の家で詳しい話をしてやると言われて結局家に連れ込むことになった。

 どうやら今回の件について詳しいことを知っているらしいので、何もかもさっぱりの俺にとってはありがたい――のかもしれない。

 ちなみになんで狐が喋っているのかというようなことについて考えるのは、一旦止めた。

「まず、お前が何なのかを説明しろ」

 ベッドに腰かけ、床に座っているカザクモに向かって指を差す。

「狐の化生――そう言ったはずだが」

 冷たい目で俺を見上げるカザクモ。

「いや、狐はわかる。見たまんまだもん。だけど俺が訊きたいのはそういうことじゃなくて、お前がどういう理屈で俺と意思疎通出来てるとかそういう方向の話。化粧っていうのも意味わかんねえし」

 カザクモは怪訝な顔をする。そうとわかる程、こいつの顔は表情豊かだ。

「とっくにわかっていると思っていたが、違うのか?」

 わかんねえわかんねえと俺は手を横に振る。

「そうだな、お前達に一番わかりやすい言葉で言えば、妖怪だ」

「はあそうですか――って待てい! もっと意味わかんねえわ!」

 今度は首を傾げて、カザクモは哀れむような目で俺を見る。

「何をそんなに驚く」

「当ったり前だろ! んな非ィ科学的な話信じられっか! それなら不思議な能力が身につくヘンテコな実を食った狐です――って方がまだ信じられる」

「何故事実から目を背ける」

 その言葉で、俺はさっき思い出していた岬の言葉をまた思い出すことになった。

「お前はとっくに気付いていたはずだ。頭の中で言葉として纏めることが出来ずとも、本質はとっくに見抜いていた。だというのに、お前はそれを見ようとしない」

「ず――随分知ったような口利くのな、お前」

 知っているさ――とカザクモは溜め息と一緒に吐き出す。

「一度お前と一体になった身だ。お前も気付いているはずだが――見ようとしないのなら仕方がない。私の方から説明してやる」

 カザクモは部屋の中を見回し、天井の隅で目を止めた。

「あれが見えるだろう」

 目をやると、空中に魚のようなムカデのような奇妙な形をした何かが浮かんでいる。

「見えるけど」

「あれも、私の同類だ。力のない雑鬼ざっきだがな」

 俺と目が合うと、その雑鬼は空中を泳ぐように俺の方に向かってきた。

「うあっ!」

 思わず身体を仰け反らせ、雑鬼の突進をかわそうとする。しかし雑鬼は空中で旋回し、俺の周りを離れない。

「なんだこいつ! どうにかしてくれ!」

「言っただろう。大した力はない。飛び回るくらいのことしか出来ないから害もないと思うが」

「ゲジゲジが害がないって知っても気持ち悪いと思うのが人情なんだよ!」

「お前が怖がれば怖がる程喜んで集まってくるぞ。そういう連中だ」

 見れば俺の周りにはまた違う姿をした雑鬼が複数漂っている。

「手で叩け。その程度で散っていく」

 こんなものに触るなんてごめんだったが、ここは腹を括って手を滅茶苦茶に振り回す。

 俺の手に当たると、雑鬼達は散り散りになって消えていった。

「じゃあ、つまり、本当に――」

「だから最初から言っているだろう」

 夢――ではないはずだ。頬をつねったら痛かった。

「マジか?」

 頷くカザクモ。

「マジで?」

 もう一度こくん。

「マジだ」

 勢いよく立ち上がる。

「ショォォォタァァァイム!」

 俺の突然の絶叫に、カザクモはびくりと身体を震わせて動揺する。

「すげえすげえすげえ! なんか俺すげえことになってる! 非日常か? これが噂に聞く非日常ってやつか?」

 床に飛び込むように座り、カザクモにぐっと顔を近付ける。

「な、何をそう喜ぶのだ」

「当ったり前だろうが。非日常に憧れるのは自然の摂理だ。中学二年をなめんなよ」

 怪訝そうな顔をするカザクモの心中は無視し、さらに顔を近付ける。

「なあなあ、もっと教えてくれよ。さっき俺が戦ったやつは何? あれも妖怪?」

 カザクモは俺から離れるために後ずさった後で、神妙な顔をして口を開く。

「奴は妖人という。妖怪でも人間でもない存在だ」

 さっぱりわからず俺は首を傾げる。カザクモはそんなこともわからないのかと言うように溜め息を吐いてから、続きを話す。

「我らの中には力を失っていくものがいる。その中に居場所を人間の中に求めたもの達が現れ始めた」

 わかったぜ――と俺は得心する。

「人間に取り憑いた妖怪ってことだな」

「――ごく簡単に言えばそうなるな」

 ふとここで何か得体の知れない感覚が心臓を鷲掴みにする。それが何を意味するのか理解しようという気は起きないが、喉に小骨が刺さったような不快感が付き纏う。

「お前のために言っておくが、妖人となった人間を元に戻す方法はない。倒し、消滅させるしかないのだ。だから罪悪感を覚える必要はない」

 小骨が取れた。そうか、俺は人殺しに手を染めたのではないかという不安に襲われていたのか。

「すっきりした。ありがとな」

 そう言った直後、金属を擦り合わせたような甲高い音が耳の中で響いた。耳を塞いでも、身体の中から響くように音は消えない。

「っ! なんだこれ!」

「妖人が現れたようだな。全く、話の途中だというのに」

「その、妖人。それは敵なんだよな? 倒さなきゃならない敵」

「そうだ、奴らは見境なく妖怪や人間を襲う。滅さなくてはならない」

「なら行かねえと!」

 立ち上がり部屋のドアに向かおうとすると、その前にカザクモが立ち塞がった。

「待て。まだ話は終わっていない」

「何言ってんだ。急がねえと誰かが襲われるかもしれねえんだぞ」

「――お前はそれでいいのか?」

 首を傾げる。

「妖人と戦うということは、お前の身に危険が及ぶということにもなるのだぞ」

「いや――そうだな、でも俺、そういうの好きなんだよな。正義のヒーローが悪の怪人を倒すっていうの。未だに卒業出来てねえもん」

「何を言っている。お遊びではないのだぞ」

「わかってるよ。あの時の痛みは、確かに本物だった」

 妖人に殴られた肩をさする。仮面を付けた後から痛みは消えていて、痕も何も残っていないが、激痛の記憶はきちんと残っている。

「でも、誰かのために力を使えるっていいことだろ? なら、痛みだって乗り越えられる」

「――そんなことのために命を懸けるのか?」

「こういうのに、命のやり取りは付き物だろ?」

 カザクモは暫し悩むように下を向いたが、やがて俺の顔を真っ直ぐに見上げた。

「お前の中に悪意はない。それだけは確かだ。仮面が一度お前を所有者と認めた以上、そもそも引き返すことは出来ない。何とも妙な奴だが、仕方あるまい、私の存在をお前に預けよう」

 名を聞かせろ――カザクモの言葉から、何となくだが認められたのだということがわかった。なのでここはびしっと、自分の名前を伝える。

「あしぇ――阿瀬(あせ)直人だ。……噛んじゃったよ畜生!」

 カザクモはくすりともせずに頷く。おかげで俺のかっこ悪さが倍増しているような気がする。

「詳しいことは道中説明する。仮面を持て。行くぞ」

 ここまで来たらもう余計なことは考えず、床に置いてあった仮面を引っ掴んでからドアを開けて玄関まで駆け下りる。靴を履いて玄関を飛び出ると、何も考えずに通りを駆けていく。

 道中のカザクモの説明は簡潔かつわかりやすかった。

 この仮面は名のある大妖怪が作ったもので、仮面に妖怪を憑依させ、それを人間が着けることで人間を「人間でも妖怪でもない存在」に変質させる。

 この「人間でも妖怪でもない存在」というのが厄介で、人間妖怪両方からの干渉を受け付けず、倒す手立てがないのだという。

 そして今俺達が倒そうとしている妖人こそが「人間でも妖怪でもない存在」そのもので、つまりこの仮面は通常では倒す方法のない妖人を倒すために作られたということらしい。

 人間に妖怪の力を引き出させ、自在に元の二つに戻れるように。この仮面が唯一の対抗策であり、唯一の希望なのだとカザクモは語った。

「そしてお前は、この仮面に所有者として認識された」

「所有者?」

 殆ど陽の沈んだ薄暗い町を結構な距離走っているので、俺の息は上がっている。

「仮面は一度使った者以外を認めず、他の者が使うことも出来ない」

「なら、俺が断ったらどうするつもりだったんだよ?」

「近いぞ」

 ぴくりと耳を立て、カザクモは俺の質問を無視する。俺は気配を頼りに細い十字路を右に曲がる。今の俺には妖人の居場所が気配でわかるようになっていた。これも俺が仮面の所有者になったからなのだろう。

 砂利の敷かれた駐車場の真ん中に、小学校低学年くらいの女の子が倒れている。その前に禿げ散らかった頭をした中年男が薄ら笑いを浮かべて立っている。比較的治安のいいこの町でも通報ものの絵面だが、どうやら女の子には男の姿が見えていないらしい。涙を浮かべた目で必死に辺りを見渡しているが、その目が男を捉えることはない。

 俺は咄嗟にその間に割って入り、女の子を助け起こして一喝する。

「よい子はもう帰る時間ですけどぉ!」

 それまで得体の知れない恐怖に襲われていた女の子は俺の恫喝で一気に即物的な世界に引き戻され、泡を食って逃げ出していく。

 ふと後ろを向くと、男の頬がありえない程膨らんでいる。

 男の口から褐色の液体が放たれる。その寸前、カザクモが俺の襟を口で掴んで放り投げる。

 液体のかかった砂利の地面からはもうもうと白い煙が上がっている。

「馬鹿者! 仮面を着けずに妖人に突っ込んでいく奴があるか!」

「はは……悪ぃ」

 男は依然薄ら笑いを浮かべたまま、俺の様子を窺っている。

 立ち上がり、仮面をカザクモに向ける。

「最後に、仮面を着けた時の力の奔流を自分のものとするために、一定の所作を決めておけ。毎回同じ動きを行うことで、身体の変質時の衝撃を自分の中に落とし込むのだ。声を上げるでも、型を決めるでも何でもいい」

 スポーツ選手のルーティンのようなものか。確かに初めて仮面を着けた時はあまりの力に我を失いかけた。

「なら、これしかないな」

 にやりと笑い、カザクモと頷き合う。カザクモが仮面に吸い込まれ、仮面の形状と紋様が変わる。

 仮面を顔の前に翳し、

「変身!」

 叫ぶ。

 仮面を顔にあてがうと、一気にエネルギーが全身に行き渡る。しかし今の俺はそれを御し切り、しっかりと自分を保つことが出来ていた。

 白銀の光の鎧。腰から伸びる五本の尾。顔を覆う狐の面。

 見た目は人間のままである妖人とは違い、俺の姿は異形そのものだった。

 一歩足を前に出す。五本の尻尾がふわりと靡いた。

 妖人は俺の突然の変化に驚いたのか、その顔から薄ら笑いが消えている。本能的に、敵だとわかるのだ。

「さあ――哀れな妖人よ、すぐに終わらせてやろう」

 その言葉と同時に、前に出した足に力を込める。次の瞬間、俺は妖人の懐にまで踏み込んでいた。

 右の拳打が深く妖人の腹にめり込む。妖人が突如眼前に迫った俺に表情を歪めたのとほぼ同時の一撃は軽く身体を浮かせ、それによって生じた決定的な隙に俺は左足で回し蹴りを放つ。

 直撃を受けて妖人は吹き飛ばされた。しかしその間に口の中に先程の液体を溜めていたらしく、起き上がるとその頬はさっきの比ではない程膨らんでいる。即座に口を開いて溶解液を宙に撒き散らし、広範囲から俺を狙う。

 溶解液が頂点に達しようかという時、俺はそよ風のような軽い足の運び方で妖人に向かって走る。だがその速度はさながら烈風。一瞬の内に妖人の目の前まで移動し、流れるような動きで顎をアッパーで撃ち抜いた。溶解液が俺の後ろの地面に落ち、煙が上がった。

 後方に打ち上げられていく妖人を見遣り、両手を下に広げて構えを取る。五本の尾が張り詰め、右足に熱が帯びるかのように力が集約されていく。

 駆け出し、跳び上がる。空中で右足を突き出し、勢いを乗せて宙に浮いたままの妖人の身体を弾き飛ばす。

 俺が静かに着地すると、妖人は苦悶の声を上げながら霧散した。

 仮面を外し、大きく息を吐き出す。

「直人」

 いつの間にか俺の隣に佇んでいるカザクモが声を上げる。

「なんだよ」

「お前から仮面の所有者の権利を失くす方法は一つだ。仮面は所有者が死ねば次の所有者を求める」

「それっておい、もしも俺が戦うのを断ってたら殺されてたってことかよ?」

 これでカザクモが先程の俺の質問を無視した理由がわかった。ひょっとすると俺はカザクモとの会話で結構な危ない橋を渡っていたのかもしれない。

「そうかもしれん。私が手にかけることはなくとも、いずれは誰かの手によって仮面はあるべき場所へ移されていただろう」

「じゃあなんで俺を止めるようなこと言ったんだよ。俺が殺された方が都合がよかったのか?」

 俺がむっとして訊くと、カザクモはそれは違うと強く否定した。

「お前は青い」

「青い?」

「ガキだということだ。それを戦いの中に放り込むのは気が引けた」

「なんか納得出来ねえな」

 気が引けるという理由だけで殺される道に進まされては敵わない。

「まあいいや。俺は死ぬまで替えの利かない所有者で、戦う意思を見せている。文句はねえだろ?」

「私にはない。さて、帰るぞ」

「帰るって、お前ん家はどこにあるんだよ?」

 カザクモは今来た道を悠々と歩いていきながら、俺の質問に答える。

「私に決まった住処はない。暫くはお前の家で暮らす」

「うえ、待てよ。家には父さん母さんがいるんだぞ。それにペットを許可してくれる程心の広い親でもないし」

「私の姿は普通の人間には見えないし、お前の側から何もせずとも私は暮らしていける」

 カザクモは妖怪なのだ。余計な心配は無用らしい。それに仮面の力を使うのにカザクモの協力が必要である以上、出来るだけ近くにいてくれた方が都合がいい。

「わかったよ。好きにしてくれ」

 そう言って、俺はカザクモと並んで家まで帰った。

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