mission13-57 キーノ・アウフェン
「久しぶりだね、クロノス。いや……今はルカと呼ぶべきなのかな」
キーノは穏やかな笑みを浮かべて言った。
……読めない。
反射的に全身が強張っていく。ルカとして彼と対面するのは初めてだ。だが、時の追憶を見た今、時の神クロノスとして彼と契約した時のこともしっかりと覚えている。お人好しな善人に見えて、これと決めたことにはたとえ相手が神であろうと一歩も譲らない人間だ。
特に、ユナのことに関しては。
そう考えて、ぞわりと全身に鳥肌が立つ。
ルカの考えを察してかどうかは分からないが、キーノは表情を変えないままルカの方へと歩み寄ってきた。
「神様なのに契約を守ってくれなかったね。僕、言ったでしょ。勝手に死ぬのだけは絶対に許さない、って」
ああ、これは。
怒っている。
絶対に怒っている。
返す言葉が見当たらず、ルカはごくりと唾を飲み込む。すると、目の前まで来たキーノは空恐ろしい微笑を崩して素顔に戻り、ぽんとルカの肩を叩いた。
「……なんてね、冗談だよ。今回ばかりは僕も君のことを守ってあげられなかった」
「おれを、守る……?」
「そう。君がルカとして目覚めたばかりの頃のこと、思い返してみてよ」
三年前。すべての記憶を失い、神石覚醒のために多くの人の命を犠牲にした罪悪感に押しつぶされそうだったあの頃。クレイジーにしごかれるまではすっかり生きる気力を失い、何度も自ら命を絶とうとした。だが、どれも何かに妨げられているかのように上手くはいかなかった。
「もしかして、おれが死ななかったのは……」
キーノはこくりと頷いた。
「僕の身体の本能みたいなものかな。君が記憶を失ったぶん、それが君を守ってきた。でも、あの別世界の女の子の攻撃を避けるのだけはできなかった」
「後ろにユナがいたからな」
「……うん。君の判断は正しかった。おかげでユナは冥界には来ていない。今は、まだ」
キーノはどこか悲しげな表情を浮かべ、ルカに対して背を向けた。
「キーノ?」
「ねぇ、どうして君までこっちに来ちゃったんだい」
キーノは後ろを向いたまま、ソニアと同じようなことを言う。
「まさか、僕に同情した?」
「それは……ぐっ!」
言いかけている途中で頰に拳を食らい、ルカは後方へよろける。キーノは拳をさすりながら自らを落ち着けるように深く息を吸った。
「言い返せないだろ。君は僕でもあるから分かる。無意識だったかもしれないけど、君は僕の死を自分の死だと認識してしまったんだ。君だけでも生き残れば、ユナにあんなに辛い思いをさせることは……!」
キーノの表情が苦痛に歪む。声が震えて途切れる。
悔しいに決まっている。
遠い日の約束を果たすためにクロノスとの契約を結んだのに、あんなところで死んでしまうなんて。ユナの目の前で、再び彼女を置き去りにするようなことを。
ルカだって悔しいのは同じだ。
だが、果たしてクロノスの神格が現世にとどまることがユナの救いになっただろうか。
ルカは首を横に振った。
「……違うよ」
「違うって、何が……」
「
「何を言ってるんだ。ルカは君だろ」
「そうじゃなくて」
ルカはキーノの両肩を掴んで言った。
「おれだけじゃない。『ルカ』は……おれとお前が共存して初めて成り立つ存在だよ。だから、お前だけ死なせるわけにはいかないんだ」
ルカの言葉に、キーノは目を見開く。しばらくの沈黙の後、彼はぷっと吹き出した。
「な、なんで笑うんだよ」
「ごめんごめん。初めて話した時とずいぶん変わったなぁって」
「そうかな?」
「うん。神様っていうのは、もっと傲慢で理不尽な存在だと思ってたよ」
そう言われると気恥ずかしくなって、ルカはぷいと顔を背けた。
「仕方ないだろ。ついこないだまで自分のことを人間だと思ってた。それに、今だってそう思ってる。お前の身体を借りているうちは」
その時。
急に世界が色づいた。
見えている景色が変わったわけじゃない。
だが、命の気配なんてしなかった木々が、大地が急に生き生きとして見える。
歌が聞こえたから。
どこからか響く、優しい歌が。
「ユナ……?」
ルカの瞳から自然と涙が溢れ出し、頰をつうと伝っていく。それを見たキーノは安堵したように笑った。
「やっと、君にも届いたんだね」
上空から羽ばたきの音が聞こえ、カラスとなったソニアが降りてきた。
「話し合いは終わったか?」
「……最後に一つ、聞きたいんだけど」
キーノが口を開く。
「君はここへ来る直前、ユナになんて言おうとしたの?」
——おれ、ユナと……もっと…………。
思い出して、ルカの顔がみるみるうちに赤く染まった。あの時は余裕がなくて、つい思ったままのことを口にしたのだ。キーノの契約のこととか、神石は『
「でも、それが君の本音ってことでしょ」
キーノはくすりと笑うと、ルカに向かって右手を差し出す。
「今度は約束破らないでよ」
ルカは頷き、その手を取った。
「もちろん。お前との約束も、お前がユナと交わした約束も、全部守る。……だから」
「っ!?」
ルカがキーノの手を力強く引っ張った。
「勝手に諦めるな。お前も一緒に来るんだよ!」
姿勢を崩したキーノの肩に腕を回し、ルカは漆黒の穴の前に立つ。
「待ってくれ、僕は——」
「ソニア。この層は浅い、死に切ってないやつしか来れないんだろ?」
「ああ、そうだ」
「ってことはキーノ、お前だってまだまだ生き延びる可能性があるってことだよ」
「……!」
カラスが二人の顔の目の前に飛び上がり、真下に開いた穴を見つめる。
「俺にも現世で何が起きているかはわからない。だが、お前たちを蘇生させようとしている者がいるのは確かだ。そして、この歌はお前たちが元の場所へ戻るための
再び嘴で羽を一枚抜くと、ルカの上着の胸ポケットにそれを挿す。
「持っていけ。お前に縁のある死者が力を貸したいんだそうだ」
一体誰のことなのか、尋ねる前にソニアはルカたちの背後に回ると翼で二人の背中をドンと押した。
「わ!?」
突き落とされる形で穴の中へと真っ逆さまに落ちていくルカとキーノ。穴は徐々に塞がれていき、覗き込んでいるソニアの姿もあっという間に見えなくなった。
……ピ、ピ、ピ、ピ……。
一定の間隔で響く、聞き慣れない電子音。
鼻をつく薬品の臭い。
左胸がずきずきと痛む。そこに水のように冷たいものが流れ込んできているような妙な感覚。
手足の先が冷え切っていて、鉛のように重い。
——だが、生きている。
ルカははっとして起き上がった。
全身に痛みが走る。身体に繋がれているケーブルが引っ張られて上手く身動きが取れない。
ただ、そんなことどうでも良かった。
ベッドの脇で眠る彼女の姿が見えたから。
ルカが動いたことで目を覚ましたのだろう、彼女はゆっくりと顔を上げ——ぱちぱちとまばたきを繰り返した。そして何度もまぶたをこすり、すでに泣き腫らした痕のあるその瞳に、大粒の涙を溜めた。
ルカもまた、視界が滲む。
手を伸ばし彼女の存在を確かめるように力強く抱き寄せる。
温かい。
触れているだけで、死にかけていた身体に生きる力が戻ってくる。二人の胸の鼓動が響き合い、言葉以上にその胸の内にある感情を交わしていく。
しばらくして顔を離し、互いに見つめ合う。
潤んだ藍色の瞳がまっすぐにルカを見つめていた。汗ばんで濡れた髪。ほんのり紅く染まる頰。神石の色に似た薄桃色の唇。すべてが愛おしかった。
引き寄せられるように、二人は口づけを交わす。
そうしている時間はまるで永遠のように感じられた。想い合う者同士、隔てるものは今どこにもない。互いに初めて知る、幸せの感覚だった。
だが、ルカは彼女のかすれた吐息の音で気付く。
唇を離し、おそるおそる彼女に尋ねる。
「ユナ。声は……?」
ユナはまつげを伏せ、ただ首を横に振った。
その瞬間、ルカは悟った。
彼を呼び戻したあの歌の代償がなんだったのかを。
共鳴者の、共鳴者たりえるもの。
ユナにとってそれは、「声」だったのだ。
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