mission10-55 裏切りと、裏切り




 その日、ヴァルトロの拠点が位置するニヴルヘイム大陸は吹雪に覆われていた。年中雪の降る地域ではあるが、ここまで風が強く吹くのは珍しいことであった。二国間の緊張状態にある時期とはいえ、この天候では見張りの兵士は減らさざるを得ない。おまけに物音は吹雪の轟音にかき消されるので、気味が悪いほど暗殺には適した日であった。


 マティス・エスカレードはヴァルトロの首長であるが、この当時の彼の屋敷は非常に質素だ。だだっ広く、装飾はほとんどない。狭い面積に意匠を凝らし、各所に呪術式による仕掛けが設置されているルーフェイ王城とはまるで対照的だ。


 クレイジーは屋根裏に忍び込み、エルメの部屋の天井を目指す。何度も来ているから侵入はお手の物だ。


 エルメの部屋にはまだ明かりがついていた。


 話し声が聞こえる。


 耳を澄ますと、子どもの声が聞こえてきた。


「母上、夜遅くに申し訳ございません」


 声変わりしかけの溌剌とした声。長男のライアンである。


「どうしたのじゃ」


「吹雪のせいでドーハが眠れないみたいで……」


「うぇっ……ひっく……だって、だってぇ……おうちがこわれちゃうかもしれないって、こわくて……」


 もう一人の子、七歳になったばかりのドーハのぐずる声が聞こえる。


「よしよし、ドーハや。ならば今夜は妾と一緒に寝るとしよう」


「で、でも、父上が男は六さいをすぎたらひとりでねるものだって……」


「大丈夫。父上は今ガルダストリアに出かけていてご不在じゃ。妾は告げ口などせぬよ。のう、ライアン?」


 すると今度はライアンがおずおずと口ごもる。


「わ、私も……」


「ん?」


「私も、母上のおそばにいてもよろしいでしょうか……? その、今夜だけ……」


 エルメはくすくすと笑った。


「ライアン、そなたも怖かったのじゃな」


「申し訳ございません……長男である以上、しっかりせねばと思っていたのですが……」


「良い、良い。誰にでも怖いものはあるものじゃ」


 三人の談笑を聞きながら、クレイジーは天井裏でじっと息をひそめて待った。二人ともまだ子どもだ、いずれ眠くなって静かになるだろう。


 その時が、好機。


 無意識のうちに幼い子どもたちの前で任務を遂行することを避けようとしていることに歯がゆい思いはしたが、敵の拠点で騒がれるのも困るからと自らに言い聞かせる。


 エルメは二人の子どもに添い寝しながら読み聞かせを始めた。


 国を出るときに絵本を持って行ったのだろうか、中にはルーフェイに伝わるおとぎ話もあった。鬼人族が悪い怪物として誇張して描かれ、ルーフェイの王子がそれをこらしめにいくという他愛もない物語だ。


 怪物が登場する場面に差し掛かると、怖がりのドーハは「ひゃっ」と悲鳴をあげた。


「こわい! こわいよう! こんな話きいたらよけいにねれなくなっちゃう」


「ふふふ。すまぬ、ドーハがそこまで怯えるとは思わなかったのじゃ」


「母上はこわくないのですか! だって昔はこのかいぶつが住む国にいたんですよね?」


 そこまで言って、ドーハははっと息を飲んだ。


「ご、ごめんなさい……母上の出身を悪く言うようなことを……」


「わかっておるなら良いのじゃ。それに、妾は別にこわいと思ったことはないよ。昔も……そして今も、な」


「母上はお強いんですね。俺とは大ちがい……」


「そんなことは無いよ。妾には『守りの盾』がいるだけのこと」


「守りの盾?」


 不意に飛び出したその言葉にクレイジーはどきりとした。ナイフを持つ手がわずかに震える。


「ああ、守りの盾というのは幼い頃より妾に尽くしてくれる大切な部下のことじゃ」


「俺、その人に会ったことない気がする……」


「私もです」


「そうじゃろうな。訳あって今は離れ離れになっておる。じゃが、今もなおできる範囲で助けてくれているよ。そばにいなくとも……あの子がいるというだけで一人じゃないような気がする、そんな存在なのじゃ」


 話を聞きながら、クレイジーは唇をぎゅっと強く噛んだ。


(なんで、今さらそんなこと……)


 任務を受けてから抑え込んでいた迷いが、恐れが、どっと溢れ出してくる。


 手の震えが強まり、指先から血の気がなくなっていく。


 これ以上決意が鈍る前に任務を遂行しなければ。


 ライアンとドーハはまだ眠る気配がないが、悠長なことは言っていられない。


 天井板に呪術式を仕込み、爆破の用意をする。


 だが——




「エルメ様っ!」




 扉が勢いよく開く音とともに、ビビアンの声がした。


「ご無事ですか!? お怪我は!?」


「どうしたのじゃ、騒々しい」


「ああああ良かったぁ、エルメ様の身に何かあったらどうしようかと……先ほど領内に仮面をつけたルーフェイ人を見かけたという情報が入りましてっ」


「クレイジーか?」


「いえ、それが……女であったと」


「何?」


 どういうことだ。


 クレイジーも混乱していた。


 自分の他にヴァルトロに潜入任務を任された人間がいるとは聞いていない。ジグラルからは一人で向かうようにと言われたはずだ。増援か? この天候にもかかわらず敵方に目撃される程度の素人しろうとなど、足手まといにしかならないというのに。


 そこまで考えて、ふとある考えにたどりついた。




(増援なんかじゃない、これは……ボクに対する警告だ)




 おそらくその女は万が一クレイジーが任務に失敗した時の後処理部隊だ。エルメを殺さなければ、今度はクレイジーを離反者として殺す。それを示唆するため、わざと姿を晒したのである。


(ジグラルさまは、ボクのこと半信半疑だったってワケか)


 落胆することはなかった。


 むしろ、自分の感情に必死になってこの最悪の事態を想定できなかったことを悔いた。


 悩んでいる暇は、ない。


 警戒したエルメが二人の子どもをビビアンに避難させる。その隙に、クレイジーは彼女の部屋の天井を爆破した。呪術式で焚いた白煙が立ち込め、部屋中の視界を奪う。


「ぐっ……刺客か!」


 クレイジーは祈りをこめるようにロケットペンダントを軽く握った後、音を立てないように天井から飛び降りた。


「エルメ様!?」


 不審に感じたビビアンが戻ってこようとしたが、クレイジーは扉に結界術式を張り入り口を封じた。


 今、部屋の中にはエルメとクレイジー、二人だけだ。


 白煙の向こう側で、エルメがくっくと笑う声が聞こえてくる。


「違う……そなた、例の刺客ではないな?」


 クレイジーは無言のまま、じりと彼女との距離を詰める。相変わらず、ナイフを持つ手は震えていた。右手を左手で支えながら、確実に標的の命を奪う位置を見定める。


 エルメの方は冷静な声音だった。


「ここまで気づかれず忍び込むことのできる者が、見張りの兵に姿を見られるような失態をおかすはずがない」


 エルメの背後から、彼女の両腕を拘束し、その細い首筋にナイフを突きつける。




「……ああ、やはりそなたか、ヴェニス」




 吐息とともに、悲しげな音で彼女はそう言った。


 胸が締め付けられるような感覚がして、クレイジーはその場に立っているだけでも精一杯だった。


 早く。ひと思いに。


 だが……右手が言うことを聞かない。彼女の首筋と、刃の距離は縮まらない。それはまるで、彼女とクレイジーとの距離を暗示しているかのように。


 幼い頃、養成所で初めて彼女を見た時。入隊試験で双子の兄を殺し、仮面を与えられた時。彼女の結婚が決まり、玉座の間で大あばれした時。そして彼女に底なし地下牢で王家の情報を流し続けるという任務を言い渡された時。


 様々な記憶がとめどなく蘇ってくる。


 その中で、一瞬リアとルカの顔が浮かんだ。二人の顔が、咎めるようにクレイジーを見つめている。


(わかってる。わかってるよ……!)


 もう一度、ナイフの柄を握り直す。


 エルメの口角がゆっくりと吊り上るのが見えた。


「……愚か者。ためらうくらいなら任務など受けなければよかったものを」


 彼女がそう言うなり、足元に呪術式が展開した。


「妾に呪術で勝ると思ったら大違いじゃぞ!」


 術式からまばゆい光が発せられて目がくらんだかと思うと、次の瞬間には白煙が消えていた。扉に施した結界術式も徐々に解除されている。


「くっ……!」


 もう一度術をかけ直そうとしたが、そうして力を緩めた隙にエルメはクレイジーの拘束を抜け出し、懐に潜めてある短刀を取りだした。


「妾を殺せと命じたのは兄上じゃな?」


 エルメが向けてきたのは、これまでに見たことのないほどに暗く憎悪のこもった眼差しだった。


「そう、ジグラルさまの命令だよ……。ボクはもう分からないんだ。ジグラルさまにお仕えし、あなたに情報を流すことがあなたのためだと思ってた。なのに、それなのに……!」


「言い訳は聞かぬ!」


 きっぱりと断つ。


 その言葉の後で、エルメの片方の瞳からつうと涙がこぼれ落ちた。




「妾に刃を向けるようなこと、そなただけは無いと信じておったのに……! 裏切り者……裏切り者め……!」




 ああ、やってしまった。


 その後のことは、頭の中がこんがらがっていたせいで記憶は曖昧だ。


 エルメが結界術式を解き、そこからヴァルトロの兵士たちがなだれこんできて……発砲されながらクレイジーはその場から逃げ出した。


 傷を負って、罵声を浴びて、猛吹雪の冷たい風にさらされながら、ひたすら雪原の上を走った。


 いっそ倒れて雪に埋もれてしまえばどんなに楽だったろう。


 だがクレイジーの足は疲労をこらえて動き続けた。リアのために。ルカのために。ここで死ぬわけにはいかない。とにかく、帰らなければ。


 だが……満身創痍の彼の前に、一人立ちはだかる者がいた。


 仮面を身につけた女だ。


 嫌な予感がした。


 いや、予感というよりもそれは……明確な絶望となって襲いかかってきた。




「ねぇ、どうしてジグラル様の命令に背いたの?」




 仮面をつけていても分かる。


 その声は、彼の妻・リアの声そのものであった。



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