mission10-56 リアとの約束
「リア、なのか……?」
「ええ」
彼女は頷いて、仮面を外す。そこにはやはりリアの顔があった。彼女はいつもクレイジーに向けるように柔らかく微笑む。
「ごめんねヴェニス。私は嘘をついていたの。リアというのは本名じゃないわ。『クレイジー』と同じ、コードネームなの」
「なんだって……?」
そんな名前聞いたことがない。ジグラル派の筆頭を務めるクレイジーは
「あなたが知らないのも無理はないでしょうね。私は非正規の仮面舞踏会。入隊試験で死にそびれた落ちこぼれだもの」
彼女は目を伏せながら、自らの生い立ちを語った。
幼い頃に仮面舞踏会の養成所で過ごし、周囲から入隊を期待されていたこと。だが入隊試験本番、同期同士で殺し合いをすることが怖くなって彼女は死んだふりをしてやり過ごしたこと。試験が終わった後、彼女が生きていることに気づいた大人たちは彼女を罵り、処分しようとしたこと。そんな中、ジグラルに拾われ、彼の侍女兼護衛として生き延びたこと。
リアはゆっくりとクレイジーの方に近づいてきて、彼の顔に触れた。その手は吹雪にさらされひんやりと冷たい。風の轟音にかき消されないよう、リアはクレイジーの耳元でそっと囁いた。
「ねぇ、分かるでしょう? 私とあなたは同じなのよ……愛してはいけない人を愛してしまったという点で」
「……ッ!?」
クレイジーはハッとして彼女から身を引いた。彼女はクスクスと笑っている。
「もしかして自覚が無かった? ふふ……外から見ていれば丸わかりなのに。あなたはエルメ様を愛していた。そして私は……ジグラル様を愛していた」
「……じゃあなんでボクと結婚した? 好きな男に別の男との結婚を勧められるだなんて、さぞかし屈辱だっただろう」
「違うわ。私が提案したのよ」
「は……!?」
「エルメ様への思いを捨てきれないあなたは、いつかジグラル様を裏切る。そうなった時に真っ先にあなたを殺せるように、あなたの妻になることを提案したの」
「そういう、ことだったのか……。はは……あははははははは…………!」
クレイジーは殺気を露わにリアを突き飛ばし、ナイフを構える。すぐ目の前にいる彼女。ためらいさえなければいつでもその首をかっきることはできる。
「君から見たらボクの全てが滑稽だっただろうね……! 君から距離を取ろうとするのも、素顔を晒すのも、ルカのことも、この任務が終わった後の約束をするのも……!」
「そうじゃない。話を聞いて」
「聞くものか! もう嘘をつかれるのはたくさんだよ……!」
鋭利な刃が彼女の首の皮を裂いた。赤い血の花が雪原の上に咲く。ただ一瞬かすっただけで、リアはすぐに跳び退いた。その動きはやはり仮面舞踏会そのもの。それが一層クレイジーの中の怒りを加熱させた。
「よく隠していたよ……! ああ、君はすごいね! ボクは疑いもしなかった……君にすっかり騙されたんだ!」
矢継ぎ早にナイフを繰り出す。リアの身のこなしは軽かったが、それでも筆頭を務めるクレイジーの技をすべて避けることができるわけではない。彼女の色白な皮膚に少しずつ傷が刻まれていく。
「何で反撃してこないんだよ! 舐めているのか? 君はボクを殺しに来たんだろう」
するとリアは弱々しく笑った。
「殺せる、わけないでしょ……。あなたは、私の大切な人だもの……」
クレイジーの動きはピタリと止まる。
「それも嘘なんだろう? もう騙されない……」
「嘘じゃない!」
珍しく語気を強める彼女に、クレイジーはびくりと肩を震わせた。
「確かに最初はあなたのことなんてこれっぽっちも考えてはいなかったわ。でも……同じ狂った運命の中でもがき、苦しみ、情けない素顔を晒すあなたに……いつのまにか惹かれてしまったの。あなたと一緒に生きてみたいって思うようになったのよ」
「は……ははは……。君はボク以上に狂ってるねェ。それならなぜこんなところまで来た? ボクのことが大切なら任務を断れば良かっただろう」
「あなたと同じよ。家族のことを想いながら、主君に逆らうことができなかった。それに——」
だが、言葉は続かなかった。
彼女は言葉の代わりに赤い血を吐き出した。
銀の短刀が彼女の胸を突き出ている。
クレイジーのものではなかった。
「ヴェニ……ス……」
リアはクレイジーに向かって手を伸ばしながらその場に崩れ落ちる。
「先輩、サイテーですね……」
リアの背後から姿を現したのは、返り血を浴びたビビアンだった。彼女は虚ろな眼差しをじっとクレイジーに向ける。
「エルメさまを裏切っただけじゃなく、あたしたちの知らない場所で女つくって家族ごっこしてたんですかっ? ……あーーーーーーっ、反吐がでるっ!」
もう一本短刀を取り出し、リアを突き刺そうとするビビアン。クレイジーはとっさに彼女のそばからリアを退避させる。勢い余って雪に埋もれた地面に短刀を突き立てたビビアンはゆらりと身体を起こしてぶつぶつと呟く。
「おかしいですよっ。そんなの先輩らしくないじゃないですかぁ。双子のお兄さんを殺して、最愛のエルメ様と離れ離れになって、二国間のいがみ合いに葛藤しながらも健気にエルメ様に尽くす……そんな悲劇的な人だから尊敬してたのにっ……。なーんで自分一人で幸せになろうとしてるのっ!? ねぇ、ねぇっ!?」
地団駄を踏むビビアンに構わずクレイジーはリアに応急処置を施した。だが、ビビアンの短刀は真っ直ぐに彼女の心臓を貫いている。傷は深い。おまけに刃先には……
「なんとか言えーーーーっ!」
「……黙れ」
クレイジーが放った低い声に、無視されて叫ぶビビアンがぴたりと動きを止め、天敵に狙われたウサギのように身をすくめる。
「その醜悪な顔をこれ以上見せるな。おかげでボクの頭の中にはお前をいかに苦しめて殺すかしか浮かんでこないよ……。ばらばらに刻まれたくなければ今すぐ失せろ……すぐにだ!」
「ひ、ひぃっ……!」
クレイジーの殺気に震え上がり、ビビアンは「先輩なんて大嫌いっ!」と捨て台詞を吐きながらじたばたと雪原を這うように逃げて行った。
吹雪は容赦なく強く吹き、リアの身体に降り積もっていく。クレイジーは血と雪にまみれた彼女を抱き起こし背負った。
「……帰ろう、リア。二人でルカの待つ家に」
「無理、よ……」
「無理じゃない。この任務が終わったら静かに家族で暮らそうって、言い出したのはリア、君の方だ。あれも嘘にする気なのかい?」
リアは観念したようにクレイジーの背中でふっと小さく笑った。
「ねぇ、あの子、あなたが教えたの……? いい腕、してる……狙いは的確だし、刃には毒が……」
げほげほと咳き込み、彼女は再び血を吐く。
クレイジーには分かっていた。ビビアンに仮面舞踏会の技術を教え込んだのは自分だ。力が弱い彼女には一撃で相手を弱らせる技を仕込んだ。
リアは……もたない。おそらく、この北の大陸を出る前に命が尽きる。
「……泣いて、いるの?」
リアが弱々しくクレイジーの頰に指を這わす。
「涙が出たのは、これが人生で二度目だよ」
「一度目は?」
「ロマが死んだとき」
「そう……」
リアの頭がクレイジーの首の裏にもたれかかる。
「ねぇ、ヴェニス」
彼女は穏やかな声音で呟いた。
「私、ほっとしているの。これで、私もあなたも、お互いを手にかけなくて済むから……」
「いいもんか。……ボクのせいだ。ボクが、いつまでも迷っていたせいで……」
彼女はふるふると首を横に振った。
「違うわ。これは……誰のせいでもない。あなたのせいでも……そして、エルメ様やジグラル様のせいでもない……」
「じゃあ、なんだって言うんだ」
「糸を……掛け違えたのよ」
「糸?」
「そう。私たちは……人の縁という糸に縛られている。関わりが深いほどその糸はきつくなり、関わりが多いほど多くの糸に縛られる……。私たちは気づかない間にたくさんの糸にがんじがらめになって……そして、お互いを巻き込みあった」
クレイジーには殺した双子の兄の糸、そして憧れの人であるエルメの糸が強く結びついているのだと、リアは言った。
「でもね、糸は辛抱強く向き合えばいずれほどけていくの。私とあなたのように……。ジグラル様やエルメ様にも、そういう糸をほどく人が必要だった」
「……いいから、少し休んで。喋ると体力を使う」
「優しいのね。でも……どうせなら、もう少しあなたと話したい」
「はぁ……分かった。好きにしてくれ」
それから二人は他愛のない話を続けた。リアの作る料理はそこまで美味しくなかったとか、クレイジーは時々寝言を言っていたとか、そんな話。それはこれまでで一番夫婦らしい会話だったのかもしれない。
ただ、どれだけ笑っていても背中越しに彼女の命の灯火が消えかかっているのは分かってしまった。鼓動が弱まり、呼吸が浅い。体温が、冷たい。
「いっそボクもここで死んでしまおうかな。君がいなくなったら、ボクは」
クレイジーがそう呟くと、リアは「ダメよ」とかすれた声で否定した。
「ジグラル様に……ルカを、人質にとられてしまったの」
「え……!?」
「中央都に戻らなくちゃ……あの子が、殺されてしまう……」
「まさか、君がここに来たのは——」
「お願い、ジグラル様を責めないで。あの方も、可哀想なお方なの……。ただ、糸を……糸を掛け違えただけなのよ……」
ヴァルトロの領内を抜け、小舟で海へ出る。
クレイジーはリアを下ろして横たわらせた。意識が朦朧としていて、目を開けてはいるがクレイジーのことははっきりとは見えていないようだった。探るように伸ばすその手を握る。リアは嬉しそうに微笑んだ。
「ヴェニス……私のいとしい人……。これだけは、嘘じゃない……私は、あなたに救われた。あなたが素顔を見せてくれて、私も素顔になれた……狂った運命の中で、あなたは……希望だった……」
クレイジーは頷く。信じるよ、と。
リアは柔らかい笑顔をたたえながら、その瞳の端に涙の粒を浮かべた。
「ねぇ、約束よ……。あなたも、あなたの大切な人も……これ以上糸に縛られないで……。ひとりで苦しんでいる人の糸を、ほどいて、あげ……て……」
ジーゼルロック付近のひと気の少ない浜に上陸すると、クレイジーはリアの遺体を岩陰に隠して中央都に向かった。
慣れ親しんだ街だ、一歩足を踏み入れただけで異変が起きていることがわかった。
木でできている街では厳禁とされている火が焚かれ、人々が即席の旗を振って行進している。そこには「イージスの血を絶やせ」「裏切り者に制裁を」と書かれていた。
(どういうこと……?)
身を隠しながら街をぐるっと回って状況を確認する。
(……はめられた)
燃え上がる自宅を前に、クレイジーは呆然と立ち尽くす。
町中にはとある噂が流れていた。
『クレイジーことヴェニス・イージスこそヴァルトロの内通者である』
もともとはクレイジーが任務を遂げればそこにエルメの名前が書かれているはずだった。だがジグラルは彼が失敗した場合を見越して用意させていたのだろう。リアが戻らなかったことからも彼の中でクレイジーの任務失敗は確信めいたものになったに違いない。
「……遅かったな」
背後から聞き慣れた声がした。ラウリーだ。
その腕には煤けた布にくるまれた何かを抱えている。
苦々しい表情に、全てを察した。
不満を抱えていた民たちは噂に躍起になり、想定以上に暴徒と化した。行きすぎた怒りの矛先はクレイジー自身ではなく彼の子や彼の血縁者にも向けられ、自宅だけでなくイージスの屋敷も焼け落ちたのだという。
生き残りは誰一人としていない。
「すまん。俺の力不足だ。この子に罪は無かった。だから、救ってやりたかったんだが……」
ラウリーは暴徒に火をつけられ燃え盛る家の中に飛び込んだが、一歩遅かった。幼い子どもは炎の中で窒息していたのだという。
「逃げろ、クレイジー。俺もお前を探すよう命令を受けてる。このまま放っておくわけには」
「……分かってる。分かってるよ」
「え……?」
「ごめん、リア。それでもさすがに……何もしないわけにはいかない」
クレイジーはぶつぶつと呟いていたかと思うと、足元に閃光弾を投げつけた。ラウリーの目がくらんでいるうちに彼や彼の部下の包囲を抜け、真っ直ぐに王城へと向かう。
途中、暴徒たちに石を投げられたり、城を守る呪術師や仮面舞踏会たちから攻撃を受けたりした。ヴァルトロを出る時点ですでに傷を負っていた彼は、一層ボロボロになりながら、それでも立ち止まることはなかった。
胸の内に負った傷に比べれば、どれもかすり傷にすぎなかったから……。
勢いよく玉座の間の扉を蹴破る。ぎょっとした様子で青ざめるジグラル。クレイジーはつかつかと彼の目の前まで歩み寄ると、思い切り素手でその頰を殴った。
「こんなやり方じゃ、何も変わらない……リアからの伝言だよ」
伝えたいことはもっとあった。
本当ならこの場で彼の首を刎ねてしまいたかった。
だが、ぐっと奥歯を噛み締め、身を翻す。
背後からジグラルの叫び声が聞こえた。
「あの裏切り者を殺せ!」
追手の兵たちの足音の騒々しさが、頭の中に渦巻く感情を追いやっていく。限界はとうに来ている。それでも彼はその場から逃れ、中央都を逃れ、リアを置いてきたジーゼルロックの近くまで戻ってきた。
すっかり冷たくなった彼女の身体を抱きかかえ、崖のふちに立つ。その背にはもう何もない。
「いたぞ! あそこだ!」
追手はすぐそばまで迫っていた。
「ふ……ふふふ……君たちには、あげないよ……!」
クレイジーはにぃっと唇の端を吊り上げると、リアを抱えたまま崖から飛び降りた。そして真っ直ぐに荒々しくうねる波の中に姿を消した。
海流にもまれ、上も下も分からない暗い海の世界でクレイジーはゆっくりとまぶたを閉じる。
(これでボクは……いや、ボクたちはまたひとりぼっちになったのか)
頭の中で「違うわ」と声が聞こえた。
やけにはっきりと、いつもと変わらぬ優しい声で。
(そうだね、リア。もし生き延びたら……今度こそ君との約束を果たすよ。だからそっちに行くのは、もう少し待って……)
そこでクレイジーの意識は途切れた。
瀕死の彼はその後、海で過ごしていたノワールに発見されて一命を取り留めるのだが、それはまた別のお話……。
***
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