mission10-53 素顔の君
ランプの明かりを落とした薄暗い部屋で、ジグラルは誰かと話していた。
「……ヴァルトロが父上の病気のことを知っているだと?」
「はい。まだガルダストリア側には伝わっていないようですが」
ジグラルは苛立ちを露わに、すぐそばにあった机を強く蹴り飛ばす。
この頃ジクードは不治の病に侵されていた。徐々に筋肉が弱っていく病気で、ヤオ村出身の薬師・ジジによると今は何事もなく動けているが、あと一・二年経てば寝たきりの状態になってしまうという。
歴代王の中でも最も国を大きくしてきたジクードが倒れると分かれば、ガルダストリアを始めとする諸国が一斉に攻め込んできてもおかしくはない。ゆえに彼の病状については最重要機密として国内でもごくわずかな者たちにしか知らされていない情報のはずだった。
「それなのになぜ! なぜ情報が漏れた!? あれだけ強く
「おそらく、クレイジーの仕業かと」
「なんだと?」
「彼がガルダストリア潜入任務の際にヴァルトロに立ち寄った形跡があります。エルメ様に会いに行っているようです」
淡々と答える声に、ジグラルは眉間にしわを寄せる。
「……奴が今でもエルメに付き従っていると? 馬鹿馬鹿しい。もう十二年だぞ。その間クレイジーは我が部下として忠実に働いてきた。それを疑うようなことは」
「おっしゃる通りです、ジグラル様。ですが、私にはよく分かるのです。彼が本心で何を考えているのか……痛いほどに分かります」
ジグラルはしばらく黙っていたが、やがて納得したように頷いた。
「君がそこまで言うなら無視はできん。クレイジーに例の件を話してみよう」
「ありがとうございます。必ずやジグラル様のために……」
相手が暗闇の中に気配を消すと同時、部屋の扉を叩く音が響いた。
「入れ」
ジグラルがそう言うと、クレイジーがすっと姿を現した。
「お呼びでしょうか、ジグラルさま」
いつも通りの薄ら笑いを浮かべて、クレイジーはうやうやしくこうべを垂れる。今までは特に何も感じなかったが、疑いを持ってしまうと彼の下手な敬語すらわざとらしく聞こえてきて不愉快だ。ジグラルは感情を表に出さないようこらえ、明るい声音で言った。
「そうかしこまるな。今日は君にいい話を持ってきた」
「いい話、ですか」
「ああ。今年でもう十八になるだろう? そろそろ身を固めては、と思ってな」
意外だったのか、クレイジーは仮面の奥できょとんと目を見開いている。
「えっと、それはつまり?」
「察しが悪いな。常日頃の君への信頼の証として、女を紹介してやると言っているのだ。幼い頃から私の身の回りの世話をしてくれた侍女で、なかなか器量の良い女だぞ」
クレイジーは相変わらず要領を得ない様子で、首を傾げている。
「これは、命令……でしょうか?」
ジグラルは深い溜息を吐いた。
「逆に断ったらどうなるのかをよく考えるのだな」
「……謹んでお受けします」
そうして、クレイジーはジグラルから紹介された侍女と結婚することになった。彼女の名前は「リア」と言った。四つ年上で、短髪で飾り気はないものの元々の顔立ちが整っており、確かに器量の良い女だった。
クレイジーにとっては相手がどんな顔をしていようとどうでもいいことだったのだが。
「早速だけど、ボクは君に言っておかなくちゃいけないことがある」
リアと共に暮らし始めた初夜、クレイジーは彼女に告げた。
「ジグラルさまから聞いているかもしれないけど、ボクの仕事は王家を守ることだ。当然家族よりも主君の方が優先度が高い。君と結婚したのもジグラルさまからの勧めがあったからで、君に対して愛情を求めるつもりはないし、ボク自身も与えられないだろう。だから、期待はしないでほしい。代わりに世間体を気にするようなことはしないから、もし他に恋愛をしたい相手がいるなら自由に——」
リアはくすくすと笑っていた。
「……なに?」
面白いことを言ったつもりはなかった。むしろ彼女にとっては不愉快なことを言ったつもりだった。
それなのに彼女は楽しげに笑っている。
「ごめんなさい。聞いていたよりもよく喋る人だと思って」
「そうかな。別に無口なつもりはないんだけど」
「それに……なんだか私に対してというより、自分に言い訳しているみたいに聞こえたから」
「む……」
そんなつもりじゃない、とはっきり否定することはできなかった。
口をつぐむクレイジーをリードするように、リアは穏やかな口調で言った。
「心配しないで。私も王家に仕える身ですもの、あなたの言いたいことは理解しているわ。だから気楽にやっていきましょうよ、仮面夫婦としてね」
そう言って彼女はクレイジーの仮面を指差した。
クレイジーは苦笑いを浮かべる。
(エルメ……これでいいんだよね? ジグラルさまに忠義を尽くすふりをすることが、あなたのためになるのだから……)
確かにリアの言う通りだ。
ジグラルの命令だからというのは言い訳にすぎない。
本当は……距離が遠のいていくばかりのエルメに対して、ほんの少しあてつけたかったのだ。
リアにはその下心を見透かされている気がして、クレイジーはできる限り彼女を避けるようにして過ごした。
わざと夜遅くまで任務に出たり、家に帰っても一言も口をきかずそのまま寝床に入ったりした。当然、仮面を彼女の前で外すこともなかった。彼女に指一本触れることもなかった。
それでも彼女は家にいて、甲斐甲斐しくクレイジーのために食事を作り、身の回りの世話をし続けた。
こんな生活、嫌にならないのかと尋ねてみたこともあった。だが、彼女は微笑んでこう言うのだ。
「見返りなんて、求めていませんから」
本心なのか、それとも皮肉を込めてなのかは分からない。とにかく自分を責められているような気がして、それ以降クレイジーは彼女について何か言うのをやめてしまった。
リアと結婚して一年が経った。
クレイジーは相変わらずエルメの元に通い続け、ジクード王の病状やルーフェイ軍の内情など機密情報を流していた。
「そうそう、今回のガルダストリア潜入任務でちょっと面白いものを見つけたんだ。エルメは『アンフィトリテの悲劇』って聞いたことあるかい?」
「確か今の宰相リゲルが若い頃に指揮した、アンフィトリテの一族を根絶やしにした事件であろう。それがどうした」
「あの事件には生き残りがいたんだ。で、その子はアンフィトリテの一族が隠した制海権の力を持っていて、今は反戦活動家のジョーヌ・リシュリューと一緒に行動してるみたいだよ。名前はなんて言ったかな……確か、ああそうだ、ノワールって言ったっけ」
「ジョーヌと共にいるということは、今はガルダストリアとルーフェイ、どちらの手にも渡っていないということじゃな」
「そ。でね、その制海権の正体ってのはどうも創世神話で伝わる『
そう言ってクレイジーは自らの服を嗅ぐ。今はもう乾いているが、潮の臭いがしっかりと染み付いていた。
「ここで着替えて行くと良い。その格好では任務がしづらいだろう」
やがてエルメの従者が着替えを持ってきた。クレイジーがそれに袖を通していると、エルメがふと尋ねた。
「……クレイジーよ。そなた、妾に隠していることがあるのではないか?」
いつになく真剣な響きを伴った問いだった。
「隠し事なんてするわけないでしょ。ボクの主君はエルメなんだから」
けろりとした様子で返す。
本当は分かっていた。エルメが尋ねたのはリアのことだ。
どれだけ国の情報を流しても、自身の結婚についてはずっと報告していなかったのだ。あてつけのつもりのはずが、いざエルメを目の前にすると話す気が失せてしまったのである。
「……そうか、ならいい。つい気が立っておるのじゃ。ここのところ、ヴァルトロの中でも不穏な動きが相次いでおるからな」
どうやらマティスが信頼していた部下が何者かに暗殺される事件が立て続けに起こっているのだという。
「エルメは大丈夫だよ。だって、ボクが見張っているからサ」
クレイジーはそう言って彼女の元を後にした。
その晩——
ヴァルトロを出る途中、彼は武装した兵士たちに取り囲まれた。どうやら例の事件によって暗殺された男の配下の者たちのようだ。クレイジーはやれやれと溜息を吐いた後、素早い動きで彼らの息の根を止めていく。着替えたばかりの服は真っ赤に染まり、血の臭いが鼻をつく。
(ボクは……何をやっているんだろう……)
ここのところ、ヴァルトロの重要人物の暗殺任務が増えていた。エルメが言った「不穏な動き」とはすべてクレイジーの仕業だ。きっと、彼女もそのことに気づいている。
急に背後から強い光を当てられた。追っ手だ。
「まだあそこにいるぞ!」
「ルーフェイの刺客だ!」
「追え! 逃すな!」
ガルダストリアの最新式機関銃による容赦ない攻撃。さすがのクレイジーもすべて避けるのは不可能だった。弾丸が顔のすぐそばをかすめ、仮面が割れて欠ける。破片を拾っている暇はなかった。そのまま全速力で敵地から逃げ出す。
それから何度も死線を超え、五日以上かけてようやくルーフェイの家に戻ってきた時、クレイジーの意識は疲労と怪我で朦朧としていた。
家で待っていたリアは彼の姿を見て目を丸くする。
「一体何があったの……!? すぐに手当をしないと……!」
クレイジーは何も答えないまま、その場に崩れ落ちるようにして倒れる。彼の身体を支えるリアの腕はやけに温かく……そして頼もしく感じたのであった。
何日眠ったのだろうか。傷が炎症を起こしたせいで高熱にうなされる日々が続き、クレイジーは日付の感覚が曖昧になっていた。
(あれ……仮面が、ない)
熱が引いてきた頃、いつも顔の上にあるはずのものがないことに違和感を覚え、クレイジーはがばっと身体を起こした。ベッドの脇に座っていたリアの肩を掴む。
「仮面は? ボクの仮面はどこにある?」
焦りが指先に込める力となり、爪がリアの肩に食い込む。彼女は痛みで少しだけ顔を歪めるも、拒絶することはしなかった。
「割れていたから修理に出したの。あなたが復帰できる頃には直っているそうよ」
「勝手なことをしないでくれ!」
思わず大きな声が出て、リアの肩がびくりと震えた。だが、クレイジーは構わず彼女を振り払い、よろよろとベッドから抜け出す。
「ボクには……ボクにはあれがないとダメなんだ……! 早く、返してもらわないと……!」
ふと、床に置かれた水桶が目に入る。金属でできたその桶の底に、十年以上ぶりに見た顔が映っていた。
「ロマ……!?」
膝ががくがくと震え、クレイジーはその場に座り込んだ。頭を抱えて丸くなり、水桶に背を向ける。
「やめろ、やめろぉぉぉぉ……! ボクを見るな……! 見ないで……見ないでッ……!」
駄々をこねる子どものように泣き叫び、暴れ出す。
そんな彼を、リアは蔑むようなことはしなかった。
「落ち着いてヴェニス!」
彼女の腕が、クレイジーを包み込んだ。
暴れる彼に腹を蹴られ、噛みつかれ、髪を引っ張られようとも、決して離しはせず、しっかりと彼の身体を抱きしめていた。
「あなたはロマじゃない、ヴェニスよ……! 私の夫、ヴェニス・イージス……! 他の誰でもない、あなたはあなた。亡くなったお兄さんじゃなくて、あなたはヴェニスなの……!」
リアは両手でクレイジーの顔に触れ、自分と向き合わせる。
「ねぇ、私の目を見て」
顔をそむけようとするが、無理やり正面に向けさせられた。
彼女の澄んだ瞳には、親に置いて行かれた子どものように不安な表情を浮かべた青年の顔が映っていた。端正な顔立ちが台無しの、情けない顔。
「それがあなたよ。私が見ているヴェニスなの」
リアは微笑んだ。それは普段のような穏やかな笑みではなく、少し突けば崩れてしまいそうなほど脆い笑顔だった。
「……可哀想なひと。ずっと、あなたの素顔を見てくれるひとに出会えなかったのね」
彼女はそう言った後、瞳の端から一筋の涙をこぼした。
その時なぜ彼女が泣いたのか、クレイジーには分からなかった。
だがその涙がやけに熱くて、触れていると自分の身体の中に血が流れていくような、不思議な感覚がした。
それは生まれて初めての感覚だった。
(……そうか。ひとりぼっちじゃないって、こういうことなんだ……)
その日から、クレイジーとリアの距離は少しずつ以前と違うものへと変わっていった。
やがてリアは身ごもり、生まれてくる子に名前をつけた。
ルカ・イージス、と……。
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