mission10-52 埋まらない距離
「お姫さまがけっこんって、どういうこと!?」
ラウリーの制止を振り切り、クレイジーはジクードがいる玉座の間に飛び込んでいた。
「クレイジーか。ちょうど今、その話が終わったところだ」
玉座に腰掛けるジクードが低い声でそう言った。
彼に向かい合うようにして立っていたエルメがクレイジーの声に振り返る。彼女の瞳には涙が浮かんでいた。
「お姫さまを泣かせた……ゆるさない……!」
ナイフを構えるクレイジー。衛兵たちやジクードの派閥の
だが、急に足元が凍りだしてクレイジーは動きを止めた。
王の側に控えるルーフェイ軍総帥テスラによる呪術だ。
「主君の危機に馳せ参じるその意気は買うが、ルーフェイを治めているお方が誰なのか、よもや忘れたわけではないな?」
「うう……」
「よく聞きなさい、クレイジー君」
テスラは諭すように言った。
「我が国はマグダラ様と陛下のお力でここ数十年で一気に国を大きくしてきた。だが、それは北の大国ガルダストリアも同じだ。今、国際情勢は力を蓄えた大国同士、一触即発の状況になりつつある。そこで、エルメ様には両国の絆を強めるための架け橋という重要な役割を担っていただくことにしたのだ。ヴァルトロというのは傭兵集団ではあるが、今やガルダストリアの軍事を支える
「そんなの知らない!」
テスラの言葉を遮り、クレイジーはエルメの方を見やる。
だって言っていたじゃないか。
ナスカ=エラの学校に通って、ルーフェイの貧民街を救う方法を学びたいって。
そこに連れて行ってくれるって。
クレイジーは氷の檻から出ようともがく。氷は固く、足や腕が千切れてしまいそうだった。それでも構わず、彼はあがき続ける。
「お姫さまはけっこんなんていやがってる! お姫さまがいやだって思うことをさせるなんて、ゆるさない……!」
「もういい! やめるのじゃクレイジー……!」
エルメは声を震わせながら叫んだ。
「これは国のため、妾のやるべきことなのじゃ。そなたは賢い子。それが分からぬほど愚かではないじゃろう? 失望させてくれるな……!」
「でも……」
納得のいかないクレイジー。だが、エルメはふいと彼に背を向けてしまった。
しんと静まった空間に、ジクードの冷たい声が響く。
「あの子どもは底なし地下牢につないでおけ。処遇は後で言い渡す」
それから何日が経ったのだろう。
クレイジーは一人、底なし地下牢の檻の中で膝を抱えてじっと佇んでいた。
ここには光が射さない。
初めは時間を数えていたが、だんだんとよく分からなくなってきて諦めた。
地上で何が起こっているかも一切情報が入ってこないため、ひたすら不安な日々が続いた。
(お姫さま……もしかしたら、もう……)
ラウリーから聞いた話では、エルメがこの国を出れば彼女の派閥の仮面舞踏会も解散だ。
今さら一般市民に戻る? そんなのは無理に決まっている。城の外に居場所なんてない。イージスの家には自分を憎んでいる両親がいるだけ。
そもそも玉座の間で武器を振るったことに対する処遇がどうなるかもわからないのに。
膝と膝の間に顔を埋める。
もういっそ、このまま消えてしまえれば……そんなことを思っていた時だった。
底なし沼の水音が響く。ボートを漕ぐ音が近づいてくる。
「クレイジー、起きておるか?」
ランプで照らされ、久しぶりの光に目が眩む。だが、誰がやってきたのかは声ですぐに分かった。
「お姫さま……? どうしてここに」
だんだんと目が慣れてくる。
鉄格子の向こう、ボートの上に立つエルメはルーフェイ伝統の赤紫色の花嫁衣装に身を包み、いつもより大人びて見えた。綺麗だ。そんな言葉が口を突いて出ようとしたが、クレイジーはこらえる。そう言ってしまったら、彼女の結婚を肯定してしまうようでつらかった。
「今日、なんだね」
絞り出した声は消えそうなくらい弱々しかった。
エルメは頷く。
「だから、そなたに伝えておきたいことがあってな」
「ボクに?」
「ああ。父上と兄上に掛け合い、そなたを兄上の管轄の仮面舞踏会に身を置くお許しをいただいたのじゃ」
「え……!?」
頭を撃たれたかのような感覚だった。
「いやだ! そんなのうれしくないよ……! お姫さまのためにはたらけないなら生きていたってしかたない! ここで死んでやる!」
「聞け、クレイジー。これは妾のために受け入れてほしいことなのじゃ」
「お姫さまのため……? どういうこと?」
エルメはため息ひとつ吐いて、目を伏せながら言った。
「……今回の結婚は陰謀じゃ。表向きは国のためと言いつつ、妾をルーフェイから追い出すために兄上たちが仕組んだことなのじゃ」
「そん、な……それならなおさらジグラルさまの部下だなんて」
「だからこそ、じゃ」
エルメはまっすぐにクレイジーを見つめる。
「そなたには兄上のそばで見張っていてもらいたい。私欲でルーフェイを滅ぼすようなことがないよう監視し、逐一ヴァルトロに来て妾に動向を報告してくれぬか」
つまり、スパイとしてジグラルの部下になるということ。
「幸いそなたの腕は父上も兄上も買っておられる。ガルダストリアとの雲行きが不穏な今、すぐに処分するには惜しいと判断されたようじゃ」
「でも、お姫さまがこの国にいなかったらボクはひとりぼっちだよ……ボクはついて行っちゃダメなの?」
「すまぬ。相手方の不審感を煽らぬよう、護衛は連れて行けぬのじゃ。連れて行けるのは侍女くらいでな……」
そう言うエルメはどこか寂しげであった。彼女が一番孤独を感じる立場であるのは間違いなかった。
「安心しておくれ。属する組織が違えどそなたが妾の部下であることは変わらぬ。……のう、そなたならできるな?
普段の彼女らしからぬ、懇願するような眼差し。
クレイジーはしばらく黙っていたが、やがて縦に頷いた。
「……うん。ボク、やってみるよ」
それからというもの、クレイジーは人が変わったかのようになった。ラウリーの指導をまじめに受け、王家から下される命令にはどんな内容であれ忠実に従う。その様は異端児でなく、模範的な仮面舞踏会そのもの。
それでもジグラルはしばらくの間、エルメの派閥に属していた彼のことを警戒していた。だが、ある日街中でエルメを慕っていた暴漢に襲われそうになった時、クレイジーがなんの躊躇もなく相手を瞬殺したことがきっかけで、徐々に心を開いていくようになった。当のクレイジーにとっては、エルメ以外の人間のすべてがどうでもいいだけのことであったが。
そうした積み重ねと元々の才能が功を奏し、いつしかジグラルの派閥の中では群を抜いた存在となっていった。
やがて北の大国ガルダストリアとの緊張状態が強まってからは、自らすすんで敵地潜入の任務を引き受けるようになった。それは危険な仕事であったが、クレイジーにとっては任務ついでに隣国ヴァルトロにいるエルメに会いに行くことができるので好都合だったのだ。
意外にもヴァルトロの警備の目は薄く、クレイジーがエルメに会いに行くのはそこまで難しくはなかった。
弱肉強食の土地柄か、よそ者であれ何であれ悪さをするのなら叩きのめせばいいだけのこと、ヴァルトロの者たちはそう考えているらしい。実際、元主君に会いに来てルーフェイ国内の情報を横流ししているだけのクレイジーは、ヴァルトロにとってはあまり害の無い存在とみなされていた。
「それにしても大きくなったな、クレイジー。初めて会った頃は妾の膝よりも小さかったのに」
クレイジーが十五歳になったばかりの頃、エルメは感慨深そうにそう言った。成長期に入ってクレイジーの身長はぐんぐんと伸び、すっかりエルメの身長を追い越していたのだ。
「そういうエルメも、もう二人の子どものお母さんだなんてね」
ヴァルトロのエルメの部屋の中から、クレイジーは庭で遊ぶ二人の子どもを見つめる。ライアンとドーハ。マティスとエルメの間に生まれた二人の子ども。
「妾もまだ実感は無いよ。自分が人の親になるなんてな。未だこの土地に馴染めてすらいないというのに」
エルメはそう言ったが、彼女の視線、口調にはルーフェイにいた頃には聞いたことのない穏やかな響きがこもっている。
(……なんか、イヤだな)
胸の内にモヤモヤと黒い感情がくすぶるのを感じ、クレイジーは庭から視線をそらした。
「そういえばビビアンは?」
「すぐそこに控えておる」
エルメのその言葉とともに、部屋の柱からツインテールの少女がぬっと顔を出した。
「へェ。気配を消すのが上手くなったじゃない」
クレイジーがそう言うと、ビビアンはびくりと肩を震わせた。
エルメの命令で、クレイジーは彼女の指導を任されていた。侍女にすぎない彼女を仮面舞踏会並みに育て上げてほしいというのだ。厳しい訓練にビビアンはクレイジーに対して怯えているようだが、それでもエルメを守る力を身に付けたいという気持ちはあるのか、柱の陰からクレイジーをじっと見つめて言った。
「こ、今回もよろしくお願いします……先輩」
「うん。じゃ、外に出ようか」
クレイジーはビビアン本人に対してはあまり関心がなかったが、時折彼女の存在に助けられていた。
訓練をしている間は、エルメとの埋まらない距離——むしろ年々離れていく距離のことを考えなくて済むからだ。
エルメがヴァルトロに嫁いでもうすぐ十年、無意識であれ彼女は年を経るごとにルーフェイの姫ではなくなっていく。そしてクレイジーもまた、エルメの部下ではなくジグラルの部下としての時間が長くなり、ふとした時に自分の主君は一体誰なのか分からなくなる。
(エルメは今もひとりぼっちなのかな。それとも、もう……ボクのことは必要ないのかな)
狂ってしまった運命に身を置きながら、時間は無慈悲に過ぎていく。
そうしてクレイジーが十八になった時、ジグラルからのとある提案が彼の運命を変えることになるのであった——
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