mission10-43 狂気の人



 ターニャ、ユナ、リュウの三人はシリーの仮面から手に入れた鏡の破片を使って城内にある転送術式を次々と移動していた。なぜ移動できるのか原理はよく分かっていなかったが、ひとまず追手をまくことが優先だった。


 やがてラヴィシュが追ってくる気配がないと分かると、とある一室に逃げ込んで三人とも糸が切れたように倒れこんだ。そこはあまり使われていない家財倉庫らしく、あちこちほこりが溜まっていて、横になるにも綿がぼろぼろと崩れている古いソファしかなかったが、体力の限界を感じている彼女たちにとっては何でもよかった。


「さて、ここはどこなのかな……」


 天井を見上げながらターニャは呟く。周囲には窓がなく、今いる場所の高さを確かめる手段がない。転送術式で移動する際に鏡の破片に呪術文字で行き先が表示されているようなのだが、三人にはそれを読み解くすべがなかった。


「逃げようにも逃げ道が分からない状態だし、まずはルカたちと合流かな」


「ああ。クレイジーが裏切ったというのが本当なのか確かめなければいけないしな」


「うん……」


 ひとまずルカたちの状況を確かめる必要がある。ここでなら仮面舞踏会ヴェル・ムスケの目を気にすることもない。リュウはサンド三号を起動して通信を始めた。やがて、浅葱色の光に包まれたサンド三号の身体がぴくりと動く。通信がつながったようだ。


「おい、ルカ。返事をしろ。今どこにいる」


『おい、ルカ。返事をしろ。今どこにいる』


「む……?」


『む……?』


 リュウは首を傾げる。サンド二号の方で発せられているはずの自分の声がどこかで響いているのだ。


 つまり、サンド二号はすぐ近くにいる。


「ふざけてないで返事をしろ」


『ふざけてないで返事をしろ』


 じっと耳を澄ませる。相手からの返事はないが、音はだんだんと近づいてきていて、今は自分たちがいる部屋のすぐ近くから聞こえる。


「あー……もしかしてこれで敵にあたしたちの居場所を知られちゃった?」


 ターニャが声を潜めながら苦笑する。リュウは「かもな」と頷くと、立ち上がって身体についた埃を払った。ターニャもいつの間にか剣を抜いていた。二人とも警戒しているのだ。サンド二号を持ってこの部屋に近づいてきている人物を。


 ユナはまだ自分がどうしたいのか分かっていなかった。その人を信じたいのか、それとも信じたくないのか。


 ただ、だからこそ、今は自分が前に立つべきだと思った。


「私が行くよ」


 ユナはそう言うと、リュウやターニャが何か言う前に部屋の扉を勢いよく開いた。


 扉の向こうには、見慣れた男の見慣れない姿があった。


「……やっぱり、クレイジーさんだったんですね」


 ユナがそう言うと、他の仮面舞踏会たちと同じ色のローブに身を包んだクレイジーは、わざとらしく首を傾げた。


「分かっていたならどうして無防備に扉を開けちゃったのかな。スウェント坑道の時も言ったよね……常に『最悪の場合』をイメージして動くんだ、って」


 紫色の唇が吊り上がったかと思うと、クレイジーの長い腕がユナをあっさりと羽交い締めにし、その首筋に手の甲から浮き出てきたナイフを突きつける。人質だ。クレイジーは牽制するようにリュウとターニャの方へ視線を投げた後、低い声で言った。


「リュウ。その鏡の破片を返してくれない? そうすれば君たちがこの城に入ってきたことは無かったことにして、外まで無事に送ってあげる」


 口調はいつも通りだが、その言葉に込められる圧がいつもと違って聞こえる。提案ではなく脅し。明らかな敵意だった。


「貴様……本当に裏切ったんだな」


「裏切った? 少し語弊があるよ、それは」


「どういうことだ」


「ボクは初めから君たちの仲間ではなかった。仮面舞踏会に入ってから今までずっと、ボクはエルメの”守りの盾”。たとえ主人のもとから引き離されても、主人にさえ裏切り者と呼ばれるようになっても、行き場がなくなって義賊に拾われても……ずっとずっとこの時を待っていたんだ。もう一度エルメの盾として働ける日をね」


「それがあんたの本音なの……?」


 ターニャは彼の意志を見ようと眼を細める。だが、あの酒場の時と同じく上手く見極められなかった。どこを向いているのか分からない、ごちゃごちゃの絡み合った意志。


 『クレイジー』、狂気の人。


 そのコードネーム通り、彼の考えや言葉を理屈で理解できそうにはない。


 どうする? 彼の言うことに従うか、それともここで戦うか。どうすればいい?


 ターニャが考えあぐねていると、拘束されているユナが息苦しそうな声で呟いた。


「……ルカは、ルカは今、どうしてるんですか……? 無事、ですよね……?」


「うん、ね」


 クレイジーは薄ら笑いを浮かべてユナの耳元に囁く。クレイジーの裏切りによって、ルカたちは『玖首蛇くずへびの式』の生贄となるべく、上層階のとある部屋に閉じ込められているのだと。


 その話を聞いてユナの顔はみるみるうちに青ざめていった。


「ね、わかったでしょ? 君たちにもう希望はない。生贄になりたくないんだったらさっさと城を出るのが賢明だよ」


 だから、鏡の破片を——クレイジーがそう言おうとした時、ユナから返ってきたのは彼が期待していたのとは全く違う言葉だった。


「今すぐルカたちのいる場所に案内してください!」


「は……?」


 クレイジーは一瞬呆気にとられたような表情を浮かべる。


「あのねェ、ボクの言ったことちゃんと聞いてた? ルカたちのいる部屋まで行けば、君たちも仲良く生贄の仲間入りなんだよ。せめてもの情けで、こうして見逃そうとしてあげてるってのが分からないかな?」


「そんなの関係ない!」


 はっきりと、強い口調で断言する。


「クレイジーさんこそどうして分からないんですか? 私たちが仲間を放って城を出るなんてできるわけないじゃないですか……! それに」


 羽交い締めにされながら、ユナはクレイジーの顔を見上げる。


「ルカの、傍に行かなくちゃ……! クレイジーさんに裏切られて、きっと今誰よりも悲しんでいるのはルカだから……! 私に何かできるわけじゃなくても、傍に行って支えなきゃいけないんです……!」


 クレイジーはしばらく黙っていた。


 表情を窺おうにも仮面に隠されて分からない。


 ただ、彼から放たれる気配は……どこか悲しげだった。


「……まぶしいなァ」


 重々しく口を開いたかと思うと、クレイジーはユナを突き飛ばして解放した。


「クレイジーさん……?」


 どこか様子がおかしかった。


 いつもの飄々とした雰囲気ではなく、鬱屈とした空気を感じてユナは思わず身震いをする。


 クレイジーは独り言のようにぶつぶつと呟いていた。


「まぶしいなァ。まぶしすぎるんだ。ボクみたいな人間にとって、君のような存在は見ているだけで目が潰れそうだ。フフ……どうして、どうしてこうも違うんだろうねェ。守りたい気持ちは同じはずなのに……どうして君とボクは違うんだろう?」


「何を、言って——……」


 ユナの脇腹にドスッという衝撃が走る。


 クレイジーの冷たい声が聞こえる。


「少し気が変わったよ。ボクが子守をするのはもうおしまいにする」


「うっ……」


 短くうめき声をあげ、ユナはその場に崩れ落ちた。脇腹のあたりにはじわりと赤紫色が滲んでいた。


「ユナ!」


「クレイジー、貴様……!」


 ターニャとリュウが駆け寄ろうとする。だが、部屋全体にまばゆい光をが満ちて目がくらんだ。クレイジーの呪術だ。


「君たちにはここで眠っていてもらうよ」


 光の中で、急所に走る衝撃。なすすべもなく、ターニャとリュウの意識はそこで途切れた——






 クレイジーがエルメの部屋に入ろうとすると、扉の前にぬっと影が飛び出してきた。ハリブルだ。


「ほんと先輩ってサイテーっ! なんであんなフラッシュ焚くのよ! 危うく死ぬところだったじゃないっ!」


 フラッシュ……先ほどの部屋で使った呪術のことだろう。影に生きるハリブルは光が苦手なのだ。クレイジーは冷笑を浮かべる。


「ふうん。やっぱりボクのこと見張っていたんだねェ」


「あったりまえでしょ! エルメ様が受け入れても、あたしは先輩のこと許したつもりはないですからっ。いくらブラック・クロスの人間を仕留めようと、あなたが一度エルメ様に刃を向けた裏切り者であることには変わることはないんですぅ」


 嫌味たっぷりにハリブルがぐちぐちとなじってくるのを半ば聞き流していると、部屋の扉が内側から開いてエルメが現れた。


「何を騒いでおるのじゃ」


 彼女は呆れたようにそう言うと、ハリブルに任務に戻るよう指示する。どうやら城内の下層階の方で転送術式に異変が起きているらしい。現在一階にいるラヴィシュからの報告によると、転送術式が不正に書き換えられて正常に動作しなくなっている、常駐の呪術師たちの力をもってしても復旧に時間がかかっているのだという。ハリブルが命じられているのはその騒動を引き起こした人物の捜索だ。


(転送術式を書き換えるだなんて、まさかが? ……なるほど、ユナたちはギリギリだったんだねェ)


 クレイジーがそんなことを考えていると、渋々任務に戻ろうとするハリブルがぎろりと睨んできた。


「あたしが目を離している隙にエルメ様に変なことしたら、ただじゃ済まさないですよっ!」


 そう言って、溶けるように足元の影に沈んで姿を消した。


「はは、嫌われてるなァ」


「仕方あるまい。あの子は責任感が強いのじゃ。妾がヴァルトロへ行くことになった時、連れて行けるのはまだ一人で歩くことさえ拙かった侍女見習いのあの子だけじゃったからな。その時からずっと、妾を守れるのは自分だけと張り切っておる」


 そう言って、エルメはクレイジーを部屋の中へと手招きする。


「おいで。仲間たちを裏切って、さすがに疲れたであろう? 妾のベッドを貸してやる。少し休んでいくといい」


 だが、クレイジーはふっと笑って首を横に振った。


「疲れたなんてまさか。むしろせいせいしているくらいだよ。ようやくあなたの元へ戻ることができたのだから」


「ふふ。狂っておるなぁ……」


「何をいまさら。ボクに『クレイジー』の名前をつけたのはあなたでしょう」


「ああ……そうであった。懐かしいのう」


 エルメはこの城には数少ない部屋の窓の方に視線を向ける。そして部屋の中に置かれた葡萄酒の瓶を取ると、グラスに注いでクレイジーに勧めてきた。


「思えばそなたと酒を飲んだことはなかった。そなたがイージス家で産声をあげた時からそなたのことを知っているというのに……不思議なものじゃ」


 そう言って彼女は再び窓の方へと視線を向けた。過ぎ去った遠くの日々を見つめるように。


「儀式の準備が整うまでまだ時間がある。せっかくじゃ、少し話をしようかの……」


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