mission8-23 冥府の番人ハデス



 その頃、エルロンド城の玉座の間——


 眠る王と、その側に寄り添うウーズレイの母親は、ウーズレイとユナがやってきたことにはまだ気づいていないようだった。


 二人はひとまず柱の陰に隠れ、様子を伺う。ウーズレイの母親はうっとりと王の寝顔を眺めているだけで、顔をあげる様子はない。気になっていることを聞くならば今のうちだ。ユナは声を潜めて尋ねた。


「ウーズレイさん、あなたが第一王子の影武者ってどういうことなんですか? あそこにいるのはエルロンド王クリストファー十六世なんでしょう? だったら、ちゃんと血が繋がった王子のはずじゃ……」


「ええ、確かに血は繋がっていますよ。だけど、を見ればわかるでしょう? 私の母親は見ての通り〈チックィード〉の身分の遊女で、本来ならこのような場所にいてはいけない人間なんです。……王の子どもを産むなんて、もってのほか」


 そう言ってウーズレイは奥歯を噛みしめる。


「それでも母さんは信じていたんです。王に取り入って、王の子どもを身ごもれば、きっと〈チックィード〉の身分を抜け出して豊かな暮らしができると……愚かにも、信じ続けていたんです。だから私を産んだ」


「そんな……」


 その結果どうなったのかは、聞かずとも想像にかたくなかった。


 王家の血筋の正当性を乱す子どもがどのような扱いを受けるのかは、ユナ自身がよく分かっている。身分は保証されても腫れ物のように扱われ続けるか、そもそも存在を抹消されてしまうか。どの国でも大抵はこの二択だ。


 ウーズレイはおそらく後者だったのだろう。王家の血を引けども、母親の身分がゆえに表の世界に生きることを許されず、第一王子の身代わりになるためだけに育てられたのだ。


 そして彼を産んだ母親も、決して長生きは出来なかったのだろう。玉座に寄り添う彼女が、母親と呼ぶには若い外見のままでいることが、それを証明している。


 ウーズレイは柱の陰に隠れたまま、じっとそこを動こうとはしなかった。よく見ると、その指先が少しだけ震えている。


「あの人のことを、ずっと恨んできました。浅はかな考えで私を産んでおいて、自分だけさっさと死んでしまうなんて……。もし死後の世界があって、あの人にもう一度会えるなら、気が遠くなるまで恨み言をぶつけてやろうと考えていました。だけど、こうして顔を見ると……だめですね、全然言葉が出てこなくて」


 そう言って彼は小さなため息を吐く。


 ユナもなんと声をかけたらいいのか分からず、相槌を打つだけだった。


(ウーズレイさん自身もきっと混乱しているんだ……もう二度と会えるはずのないお母さんと再会して、苛立っているのか、あるいは……)


 こんな時、彼の隣にいるのが自分ではなくターニャだったらなんと言ったのだろう。


 ユナはふと彼女の顔を思い浮かべた。神石の力で人の意志を視ることのできる彼女なら、今のウーズレイにどんな言葉が必要なのかきっと即座に分かるだろう。いや、息の合った二人には神石の力などなくとも通じ合ってしまうのかもしれない。


 いずれにせよ、ウーズレイがこの空間に来てからというもの、ずっと余裕のない表情を浮かべているのは、ターニャがどこにいるのか分からないという不安も大きいのだろう。


 二人が柱の陰で立ち往生していると、急にひんやりとした冷気が吹きつけてきた。


"ほら、いつまでぐずぐずしてるのかえ? 久々に会えた両親じゃないか。家族水入らずの時間を楽しめばいいだろうっ!”


「……っ!?」


 女の声がしたかと思うとウーズレイは背中を小突かれたように前につんのめった。後ろを振り返るが、そこには誰もいない。


「今のは……?」


 きょろきょろと周囲を見渡すうちにハッとした。


 思わず声を上げてしまったせいか、母親に気づかれたようだ。彼女はにっこりと微笑み、ウーズレイに手招きをする。


「いつの間に帰ってきていたの? もっと近くへいらっしゃい。そしてあなたの顔をよく見せて……。私にはわかるわ……その涼しげな眼差しと端正な顔立ちはこの人に、そしてその癖のない細い髪は私にそっくりですもの……ねぇ、ウーズレイ?」


 名前を呼ばれて、ウーズレイはぴくりと身体を震わせる。彼はおびき寄せられるようにして、母親の方へとおずおずと歩いて行き、彼女の前で跪く。いつも毅然としている彼らしくない行動だった。まるで幼い頃からそうするようにしつけられているかのような、反射的な行動のようだった。


 ウーズレイはなるべく目を合わせまいと下を向いていたが、母親はその指で彼のあごを引き、見上げるような形になったウーズレイの顔を見て満足げな笑みを浮かべた。


 ウーズレイはごくりと唾を飲み込むと、かすれた声で言った。


「……お久しぶりです、母さん。もう二度と会うことはないかと思っていましたが」


「あらあら、寂しいことを言うのね。でもね、私はいずれあなたが私の元に戻ってくると信じていたのよ。ほら、少し汗ばんでいるじゃない……それだけ急いで、私に会いたかったのでしょう?」


 彼女は妖艶な仕草でウーズレイの額を撫でる。ウーズレイはそれを拒絶するかのように首を横に振った。


「あなたがここにいるとは思いませんでしたよ。私はそこのクリストファー十六世に会いにきたのです」


 バチン!


 乾いた音が、玉座の間に響き渡る。


 ウーズレイの母親が、目の前の息子の頬を力強く叩いたのだ。


「何度言ったら分かるの!? 陛下のことは『父上』と呼びなさいとあれほど言って聞かせたじゃない!!」


 それまでのゆったりとした仕草が嘘かのように、彼女は美しい顔を歪ませて激昂していた。


「あなたは王子! エルロンド王家の血を引いた、れっきとした王子なのよ! 第一王子がなによ……! 彼さえ亡き者にしてしまえば、私とあなたは晴れて王家の一員になれるのだから……!」


 ウーズレイは叩かれた頬をさすって起き上がる。ほんの少し赤く腫れた息子の顔を見て、彼女はハッとした表情を浮かべ、今度は彼にすがりつくように抱きしめた。


「ああごめんなさい……私ったらなんて酷いことを……。誤解しないで、ね? あなたのことが憎いわけではないのよ。だけど私はあなたに頼るしか生きてはいけないの……。ねぇお願いよウーズレイ。どうか私のことを嫌わないで」


 すり寄る母親を引き離し、ウーズレイはふっと苦笑いを浮かべた。


「……何を言っているのですか。生きていくも何も、あなたはすでに王の手で」


 ウーズレイの言葉が途切れる。


 背後から口を塞がれたのだ。病的に白い、女の手によって。その手はまるで死人のように冷たく、ウーズレイはぞっと背筋が凍る想いをしながらも、自らの言葉を遮った相手の方に視線を向ける。


 そこにはいつの間に部屋に入ったのか、一切光沢のない漆黒の長い髪を携えた女がいた。黒く丈の長いドレスに身を包んでいて、白く長いストールが彼女の周囲をふわふわと漂っている。ウーズレイと視線が合うと、彼女は生気のない黒い唇をにっと吊り上げた。


"まぁまぁ、そう焦るな。を口にしたら、あの女は物言わぬ死霊となって、せっかく用意してやった舞台が幕引きになっちまうよ? せめて観客たちがここにたどり着くまで待ってやったらどうだ"


「あなたは一体……!?」


“何者、か? そうだねぇ、お前たちは港にはいなかったから、ワタシの声を聞くのも初めてか”


 港——その単語でウーズレイはこの空間にやってくる直前のことを思い出した。見慣れない船が港に入ってきて、応戦するためにヨギたちを送り出したはずだった。だが、彼らが港に着く頃、突然寒気がして気付いたらバレンタイン家の庭にいた。


「まさかあなたが港の侵入者で、この幻を作り出しているのも……!」


“いいや、残念ながら二つともちょーっとばかし間違いだねぇ。まず一つ、港に侵入したのはワタシではなくワタシの共鳴者の方だ。そしてもう一つ、これは幻なんかじゃない。ちゃあんと実在する世界だぞ? お前たちが普段住んでいる世界とは座標が違うだけのな”


「座標……? どういう意味です、それは……!」


 ウーズレイの問いに、色白の女はけらけら笑って玉座の方を指差した。振り返ると、彼の母親はきょとんとした表情でウーズレイの方を見ていた。


「ねぇウーズレイ、さっきから何をぶつぶつと話しているの?」


「いやむしろ母さんはなぜ驚かないんです? 関係者でもない女がいきなり玉座の間に入ってきたのに」


「女……? 一体何のこと?」


「まさか……見えていないんですか」


 すると色白の女は、いつの間にかウーズレイの母親の背後に回ると、その白い腕を彼女の身体に絡めてにやにやと笑った。触れられている母親の方は、全く気づいていないようだ。


“ふふふ……死神の姿をすでに死んでいる者に見せても仕方ないだろう? ワタシの姿を見ることができるのは、だけ”


 そう言って色白の女はすっと姿を消すと、今度は柱の陰からウーズレイたちの様子を見守っていたユナの背後に現れた。ユナはぎょっとしてその場から逃げようとしたが、彼女の周囲に浮遊している白いストールに絡め取られてしまった。


“なに、取って食おうというわけじゃないんだから、自己紹介くらいさせてくれよ。ワタシは冥府を司る死神ハデス。お前たちはソニアの力によってワタシの庭に迷い込んだのだ"


「ソニアってヴァルトロ四神将の……!?」


 ストールによって拘束されたユナが尋ねると、ハデスは窪んだ眼を精一杯に見開いた。


“おお、そうか、お前は確かジーゼルロックにいた少女だねぇ? ソニアはなかなかワタシの力を使いたがらないから、こうしてワタシの声を聞くのは初めてだろうけど”


 確かにソニア・グラシールの神石の力を目の当たりにするのはユナにとって初めてであったが、以前ルカとグレンからジーゼルロックでソニアと対峙した時の話を聞いたことがあった。ソニアの右眼の眼帯の下には漆黒の神石があって、彼が眼帯を外した瞬間にその場で亡くなった人々の声が聞こえたのだと。


「ここは一体なんなんですか……死にかけているけど死んでいないって、どういうこと……?」


 ユナが声を震わせて尋ねると、ハデスはちっちと舌を鳴らして呆れたように肩をすくめて言った。


“だーかーら、さっきも説明しただろう? お前たちが知らないだけで、世界には何層も座標の異なる空間が存在している。お前たち生者が住まう世界もあれば、ここのように死者たちが住まう世界もあるってことだ。本来ここの住人でないお前たちは、元の世界に帰ることができれば生還するし、ここに住みついてしまえば死者となる。たったそれだけのことだよ”


「そんな……! 元の世界に帰る方法はあるんですか?」


 唖然とするユナに、ハデスはからかうように笑った。


“ワタシがそれを教えるわけないだろう? ワタシはねぇ、地獄ってのが大好物なんだ。お前たちがずぶずぶと地獄の沼にはまって、元の世界に帰れなくなる様子を眺めているのがこの上なく楽しいんだよ……。ほら、あの男を見てみな”


 ハデスがウーズレイの方を指差す。


 ウーズレイが元の世界に戻りたくないと思うことなどあるはずがない。彼には大切な人がいるのだから。ユナはそう思って玉座の方へと視線を向けたが、ウーズレイの様子がおかしいことに気づく。


 彼は今、母親の腕の中にいた。


「かわいそうな子……しばらく見ないうちにずいぶん心をすり減らしてしまったのね……疲れて幻覚でも見ているのよ、きっと……」


 母親がそう言い聞かせ、ウーズレイの頭を優しく撫でている。久々に母親の温もりに触れたせいか、ウーズレイはどこか呆然としていて、瞳の焦点が合っていない。


「ウーズレイさん、だめ! 気をしっかり持って……!」


 地獄の沼にはまっていく——ハデスの言葉の意味を理解したユナは、ウーズレイに向かって叫んだが、距離の割に声が一切届かない。どうやらハデスのストールが彼女の声を妨げているようだった。


 ウーズレイの母親は大きく成長した息子をぎゅっと抱きしめて、彼の耳元に向かって囁く。


「ねぇ、もう一度やり直しましょうよ。私とあなた、そして陛下と、三人で一緒に穏やかに暮らすのよ。それも、老いることなく永遠に……。そのためにね、あなたに一つやってほしいことがあるの」


 そう言って彼女は玉座で眠る王の方をちらりと見やる。


「陛下はずっと眠られたまま、悪い夢にうなされているの。あのお方はああ見えてとても孤独な人……だから、あなたが『父上』と呼ぶだけでもきっと救いになるはずなのよ……。ねぇウーズレイ、お願いだから……『父上』と呼んであげて……」


 母に拘束されながらも、ウーズレイはわずかに残る自分の意識を保とうと必死のようだった。自らに言い聞かせるように、ぶつぶつと呟く。


「私はこの男を父だと思ったことは一度もない……母さんのこともずっと恨んできたのです……私にとって心を許せるのは、あの人だけ……あの人だけのはずなんです……」


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