mission8-16 屍者の王国



「うぅ……んん……」


 真っ暗だったまぶたの向こう側が明るくなるのを感じて、ユナはゆっくりと目を開けた。一面の緑がまず視界に入り、土と草、そして花の香りが鼻腔をかすめる。


「え……!?」


 ハッとして起き上がった。


 先ほどまでは旧エルロンド城のバルコニーにいたはずだ。ウーズレイと話している時に急に寒気がしてきて、ウーズレイが「紅茶を出しましょうか」なんて言っていた最中さなか、足元から黒い霧が噴き出した。目の前が真っ暗になって……そして今、どこかの広い邸宅の庭の芝生の上にいる。


「ようやく気がつきましたか」


 声がした方を振り返ると、ウーズレイが立っていた。ひとまず自分だけが別の場所に移動していたわけではないと分かって、ユナはホッと胸をなでおろす。だが同時に、彼がいるということはこれが単なる夢ではないことの証明でもあった。


「あの……ここはどこなんでしょうか? さっきの黒い霧は一体……」


「黒い霧のことは私にも分かりません。ですが、ここはよく知る景色です」


 そう言ってウーズレイは周囲を見渡す。普段余裕げな表情を浮かべている彼の顔が、今はどこか不安げに曇っていた。


「それにしてもおかしい……どうしてこの家が……」


 その時、芝生を踏む足音がして、ユナとウーズレイは音がした方を見た。


 庭の中に佇む白壁の美しい家から、一人の女が出てきてこちらに向かってきていた。高貴なドレスに身を包み、長くつやのある銀髪を優雅に風に揺らしながら。


「……イェレナさま」


 ウーズレイがぼそりと呟いた名前に、ユナは耳を疑った。


 イェレナ・バレンタイン、ターニャの母親だ。確かに彼女と同じ色の銀髪に、ジルと名乗っていた時とよく似た穏やかな表情。血のつながりをはっきりと感じさせる。


「でも待って、ウーズレイさん。確か、ターニャの両親はすでに亡くなっているんじゃ——」


 ウーズレイの手がユナの口を塞ぐ。


 イェレナがすぐ目の前まで来ていた。芝生を踏む音が響き、息遣いが聞こえ、ほんのりと温かい。幻想なんかじゃない、生身の人間として彼女はそこにいる。


 イェレナは不思議そうにウーズレイとユナの顔を覗き込んだ。


「驚きましたわ。うちの庭にお客さんが来ていただなんて。一体いつからここにいらしたのかしら?」


 おっとりとした声でそう言うと、彼女はウーズレイの方を見てにっこりと微笑んだ。


「大丈夫、王様には言いつけたりしませんよ。さ、お上がりなさい。せっかくですもの、紅茶でも飲んでいってくださいな。……ね、?」






 その頃、リュウは薄暗い船倉の中で目を覚ましていた。すぐそばにはヨギとミハエルが倒れている。肩を揺すってやると、二人の少年はハッとして起き上がった。


「あれ……!? 僕たち、いつの間に船の中に移動してきたんでしょう……?」


 慌てふためき、周囲をうろつくミハエル。無理もない。先ほどまでは全員港にいたはずだった。船に乗り込んだ記憶などない。だが、上陸してきたヴァルトロ四神将の姿を見た次の瞬間には目の前が真っ暗になって、気付いたらここに寝かされていたのだ。


「おい、白髪しらがのガキ」


 リュウがそう声をかけると、ミハエルはむっとして振り返った。


「ミハエル・エリィです! あと、この髪の色はエリィの一族の生まれつきで——」


「アイラはどこだ?」


「へ……?」


 ミハエルはきょろきょろと周囲を見渡す。だが、そもそもリュウの身長でも立ち上がると頭がぶつかりそうな狭い船倉だ。一目見て彼女がここにいないのは明らかであった。


「おかしいですね……港では一緒だったはずなのに」


「お前、未来が視えるとか言っていただろう。アイラの居場所を探れないか」


「わかりました。やってみます」


 ミハエルは大事に抱えていた石板にはめられた神石に手をかざす。ウグイス色の光が煌々と輝き——やがてしゅんと消えた。


「……何か分かったか?」


 リュウの問いにミハエルはすぐには答えず、慌てた様子でもう一度神石に手をかざした。だが、同じことが起こるだけ。神石は一瞬光った後ですぐに消えてしまう。


「何も視えません……」


 ミハエルは震える声でそう呟いた。


「どういうことだ?」


「僕の”千里眼”に何一つ映らないんです……! ヘイムダルが言うには、ここには『時間軸』そのものがないって……」


「『時間軸』がない……?」


 リュウは眉をひそめる。その言葉が何を意味するのか彼にはいまいちピンと来ていなかったが、一つだけ気がかりなことがあった。


(それならあいつは……ルカの力はどうなるんだ?)


「うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!」


 叫び声がして、リュウは考えを中断した。


 声の主はヨギだ。急に叫び出して、その場にうずくまっていた。身体は痙攣しているかのように震え、さほど暑くないのに全身びっしょりと汗をかき、唇は青ざめている。


「おいおい、大丈夫か……? 待ってろ、今ここから出てユナに救護を——」


「ダメだ!!」


 船倉の外に出ようとしたリュウの身体を、ヨギが力強く引っ張った。


「外に出ちゃダメだ……ここは……この船は……!」


 船が波に大きく揺られた勢いで、ヨギはふらりとバランスを崩してその場に倒れてしまった。そしてそのまま起き上がらず、魂が抜けたような表情でぼそぼそと呟く。


「……嫌だ……嫌だ……あの頃に戻るのは嫌だ……戻りたくない……戻りたくないよぉ……」






 旧エルロンド城で刃を交わしていた二人は、今は互いに背中を預け、砂漠の砂煙の向こう側から襲いかかってくる破壊の眷属の相手をしていた。一体一体は弱い個体だが、倒しても次の一団が現れるせいできりがなく、だんだんと二人とも息が上がり始めていた。


「おいおいどうした! さっきのキレがないじゃないか!」


 背中越しにターニャがルカに向かって叫ぶ。


「仕方ないだろ! この場所に来てからクロノスの力が全く使えないんだ! そう言うあんただって、さっきから全然とどめさせてないし、ずいぶん顔色が悪そうだけど!?」


 ルカの返しに、ターニャは額に冷や汗を浮かべながら答える。


「そりゃそうもなるでしょうよ……! だっては……!」


「危ない!」


 ルカの目には、ターニャの死角から不意をついて破壊の眷属が飛び掛かるのが見えていた。最後の一体が砂の中に隠れていたのだ。反応が遅れた彼女をとっさに押しのけ、ルカは大鎌を勢い良く薙ぎ払う。


「ウ……グガ…………ター、ニャ……」


「え……!?」


 胴体が真っ二つに切り裂かれた破壊の眷属は、かすれた音でそう言ったかと思うと、黒い煙となって消失した。


「……あーあ。殺しちゃったね」


 ルカの後ろで座り込んでいたターニャがぼそりと呟く。


「今のは……?」


「こいつらね、みんな昔のあたしの仲間なんだよ」


「なっ……!?」


 ターニャは立ち上がり、先ほどの破壊の眷属が消えていったあたりの砂をすくい上げた。少しだけ黒ずんだ砂漠の砂は、彼女の指の隙間からさらさらとこぼれ落ちていく。


「……七年前、二国間大戦の最前線に送り込まれた〈チックィード〉の奴隷兵士たちは、戦場で破壊神の誕生をの当たりにした。普段から虐げられていたことで厭世の念とやらと相性が良かったんだろう……奴隷兵士たちは破壊神の撒き散らす穢れに染まって、次々に破壊の眷属と化していった」


 そう語るターニャの方を見てルカはハッとする。彼女の剣を持っていない方の左腕が、まるで破壊の眷属のように黒く穢れ、骨や枯れ枝がまとわりついて変形している。


「にしても参ったなぁ……あたしは一体、いつの間に地獄に堕ちてたんだ……?」


 彼女は激しい砂嵐の向こう側を見つめながらそう言った。そこにはこちらに向かって近づいてくる、馬に乗る騎士らしき影がぼんやりと映し出されていた。






「リュウ、ミハエル、ヨギ……! お願い、目を覚まして……!」


 しんと静まり返った旧エルロンド港で、アイラの声が虚しく響いていた。三人はどれだけ揺すっても目を覚ます気配はない。それどころか、体温がぐんぐんと下がっていって、ひんやりと冷たい。


 ソニア・グラシールが長刀を大地に突き刺した瞬間、辺りは黒い霧に包まれて、その場にいた全員が急に意識を失って倒れてしまった。


 そう、アイラだけを除いて。


「一体どういうつもりなの……!? みんなに何をしたのよ……!」


 アイラは神器を構え、その銃口をソニアに突きつける。ソニアは銃口を向けられても表情を変えなかった。


「諦めてくれ。ハデスの力はこの国全体に及んでいる。姉さんが頼りにしているルカ・イージスも、ヴァルトロの脅威のターニャ・バレンタインも、全員今頃『屍者ししゃの王国』の中だ。輪廻りんねの境界はそうたやすく抜け出せるものじゃない。彼らがここに戻ってくることはないだろう」


「それは、どういう……」


「全員死んだということだ。俺が、殺した」


「ソニアぁぁぁぁぁぁッ!」


 アイラはがむしゃらに砂弾を撃ち込んでいた。だが、ソニアの手前で砂弾は黒い霧に覆われ消えてしまう。


「はぁ、はぁっ……はぁ……はぁっ……」


 どれだけ撃ち込んでも、彼には届かなかった。アイラは肩で息をしながら、もう一度銃口を相手に向けて狙いを定める。


「どうして……どうしてこんなことをするのよ……私が知っているあなたは、こんなに酷いことをするような子ではなかった……! 私の大切なはこんなことをするはずがないのに……!」


 アイラの灰色の瞳から、ぽろぽろと涙が溢れ出す。彼女にとって、本当は銃口を向けることすら苦痛だった。彼の隣に立たずに向かい合っていることすら苦痛だった。「姉」と「弟」。かつてはそう呼び合っていた仲であった二人の間には、今では目に見えない分厚い壁が立ちはだかっているかのようだった。


 アイラが残る力を振り絞って引き金に指をかけた時——急にソニアの表情が苦しげに歪んだ。


「ぐっ……!」


 片膝をつき、うつむいて激しく咳き込み出す。


 その光景にアイラは目を疑った。


 彼の口からは大量の血が吐き出され、地面を真っ赤に染め上げていたのだ。


「どういう、こと……?」


 ソニアは口の端を拭うと、ゆっくりと立ち上がった。


 再びアイラに向き合った顔は、青ざめてはいるがどこか先ほどよりも緊張が解けたかのような表情に見えた。


「……姉さん。俺たちはもう、あの頃には戻れない……俺は、それを伝えるためにここに来たんだ」



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