mission6-29 古代文字解読



 ターニャから彼女の過去について聞かされてからというもの、ミハエルは義務となっている見回りの時間以外は一切自分の部屋——と言っても、あくまでバスティリヤの中にある一室なので独房に毛が生えた程度の快適さの個室——から出なかった。


 好奇心旺盛な彼は普段、必要以上に見回りをしては囚人たちに話を聞いて外界のことを知りたがるので、この日囚人たちは幼い看守長が病気にでもなったのではないかと心配したくらいだ。


 だが彼は決してふさぎ込んでいたわけではない。むしろ精力的にルカたちに依頼された創世神話の原典の解読に取りかかっていた。


 そうでもして気を紛らわしていないと、ターニャの言葉の意味を深く考えてしまいそうだったからである。


 たくさんの人を騙し命を奪ってきた女スパイは、昔の自分とミハエルが似ていると言った。


 初めは、なんて雑な冗談なのだろうと思った。


 社会の裏に潜み罪を重ねてきた彼女と、曲がりなりにも聖職者の一人であるミハエル。その立場の違いは当然であるが、何よりも瞳の力の強さが違うと思った。脱獄不可能と言われる場所に捕らえられてもなおらんらんと輝くその瞳は、物心ついた時から薄暗い牢獄塔の中でただ兄に必要とされる日を待つだけの無力な少年のものとは比べ物にならない。


(だけど、あの人も僕と同じ歳の頃は……)


 ターニャは言った。


 幼い頃、家族を自分以外全員殺された。家族を殺された理由を理解できるほど彼女は大人ではなかった。だからその国の中で一番偉い人が「お前の両親が罪を犯したからだよ」と言ったのを信じるしかなかった。そうしていつしか人の心の揺れを読むことのできるヴァルキリーの力を手に入れるまで、彼女は家族の分の罪滅ぼしのために健気に王に仕えていた。


 ターニャは言った。


 今となってはあの愚かな娘であった十二年もの年月が憎くてたまらない、と。


 ミハエルは首を横に振って頭の中に浮かんだ考えをかき消した。


 今は解読に専念しよう。あと数行で読み終えるところまで来ている。


 ミハエルは小さな木机の上に左手にルカたちから受け取った原典の写しを、そして右手にかつてアディールからもらい受けた古代ミトス文字の文法書を開いた。


 途中まで読んだ内容は世界中に普及している創世神話・第十三章と全く同じだ。だが『契りの神石ジェム』に関する記述から古代ミトス文字の割合が増えて、難読な内容になっている。つまりこの部分は世の中には知られていない創世神話の裏の部分ということになる。


「”海の底の鮟鱇あんこう、高らかに歌いて”……これは区切るとすると”海の底”、”鮟鱇”、”高らかに歌いて”の三文節ですね。”海の底”に該当する意味は暗闇、寒さ、はるかな距離、あるいは秘せられしもの……この場合は四つ目のものが一番合いそうです」


 古代ミトス文字の厄介なところはその文字自体の形の複雑さだけではない。一つの単語に対して複数の異なる意味を持つところだ。気ままな詩のように綴られた文章を文節に区切り、文脈に合うように意味を組み合わせていく。まるでパズルのように一つ一つのピースをはめていくのだ。


「”高らかに歌いて”はおそらく、力を発揮するという意味でしょう。そうなると間の”鮟鱇”が分からない……確かこの時代の鮟鱇って……」


 ミハエルは部屋の隅に積み上げられている本の山をごそごそと漁り、一冊の古い図鑑を取り出した。古代の海洋生物図鑑だ。


「この時代は今よりも海温が低かったから、いまの時代の深海魚も日常で見られていた可能性がある……あった、これだ」


 ミハエルが開いていたページは変わった狩りをする古代魚についての特集になっていた。そこにはヨリシロアンコウという種類の”鮟鱇”が載っている。捕食した魚の殻を自身の身体の一部にくっつけて、それを疑似餌としてまた新たな捕食を行うという魚だ。


「ここから推測して……”鮟鱇”の示す意味として考えられるのは犠牲、再利用、欺き、いや違う……もう少し違う意味が……」


 解読に行き詰まって再びターニャの話が彼の頭を支配しそうになったその時だった。ミハエルはハッとして息を飲む。そして慌ててペンを取り、羊皮紙に頭に浮かんだフレーズを書き出した。これまでに解読した部分とつなげていく。


 意味は通る。だがにわかには信じがたい。


(まさか……神石にこんな力が……?)


 もし解読した内容が本当なのであれば、神官長の許可なしに勝手に解読することが禁じられている理由にも納得できる。


 ミハエルはペンのインクが乾かぬうちに羊皮紙をビリビリと破き、ろうそくの火をつけ燃やした。だがそれで自分が知ってしまった事実を消せるわけではない。彼はすぐさま自室を飛び出し、ある独房へと向かう。


 牢獄塔バスティリヤ、最上層。


 ここには国際的な指名手配犯たちが収監される。標高に換算すると地上6,000m級の場所にあり、常に空気は薄く地上の賑やかさも一切届かない。


 ミハエルは息を切らしてターニャの独房の前に立っていた。


「そんなに慌ててどうしたの、看守長サマ。今日はずいぶん引きこもっていたみたいじゃないか。あたしの話がそんなにショックだった?」


 彼女の身体には昨日会った時よりも傷が増えている。拷問を受けたのだろうか。ミハエルは奥歯をぎゅっと噛んだ。


「……あなたは力の強い者なら神石がそばになくとも力を使えると、そう言いましたよね」


「うん、言ったよ」


「それは……”神石に秘せられし力”のことですよね?」


 ミハエルが声を潜めて尋ねると、銀髪女の口角がゆらりとつり上がった。


「君読んだのかい。創世神話の原典を」


「『も』ということはあなたも……?」


「うん、あたしが読んだのは七年くらい前のことだけどね。創世神話の原典の内容は各地の王族に密かに受け継がれている。あたしはエルロンド王を殺した時にその存在を知った」


 ターニャの答えに、ミハエルの表情には影が差す。


「アディール兄さまは今までかたくなに原典を読ませてくれませんでした。もしかしてこの力のことは僕が知ってはいけないことだったのでしょうか……」


 ターニャは笑う。すがる思いで絞り出した少年の言葉をそっと抱きとめてやるような優しさは、彼女には一切無縁のものであった。


 からかうように肩をすくめて、ミハエルの目を見ずに言う。


「さぁね。気になるんなら今度試してみたら。神の眼では視たくないものまで視えてしまうかもしれないけど、それは君の自己責任だよ、少年」



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