mission5-9 試される少年
「う、う……うわぁぁぁぁぁっ!」
地面に叩きつけられた少年は顔を真っ青にして喚き、クレイジーから離れようとした。しかし目覚めるのに時間がかかったが故の筋肉の衰えか、あるいは仮面の男に対する恐怖か、身体がこわばってしまって上手く動かない。地面に尻をつけたまま、じたばたと後ずさるだけであった。
「ふうん、良い反応だね。本能的にボクがどんな人間か理解したってことでしょ?」
クレイジーは笑みをたたえたまま、わざとゆっくりとした歩調で少年との距離を詰める。訓練場の壁際まで来た時、彼はおもむろに口を開いた。
「いいかい、まずはハンデをあげよう。同時に複数のナイフを投げて敵を追い詰めるのが本来のボクのスタイル——だけど、君は実戦経験がほとんどなさそうだね。だから、一本ずつから始めるよ」
少年の顎が震え出し、歯がガチガチと音を鳴らしている。
「なに、簡単だってば。もう一度だけ説明するよ。今からボクはキミにナイフを投げる。キミはただ逃げてそれを避ければいい」
少年は拒絶するようにぶんぶんと首を横に振った。そんな彼にはお構いなく、クレイジーは思いついたように言葉を続けた。
「ああ、あともう一つ、ボクの本来のスタイルについて言い忘れていたことがあったよ」
それは、少年が恐る恐る首を横に傾げるのとほぼ同時だった。
先ほどまで少年の顔があったところに、一本のナイフが突き刺さっていた。金色の髪が一筋宙に舞う。音はしなかった。目でも捉えられなかった。しかし彼の目の前に佇む長身の男の手には、いつのまにか何本もナイフが用意されている。少年の全身から冷え切った汗が噴き出た。
「……ボクは口よりも手が先に出るタイプでね」
クレイジーが低い声でそう呟いた瞬間、少年は悲鳴をあげてその場から駆け出した。よろけながらも必死に走っている。クレイジーはその様子を見て満足気に口角を吊り上げた。壁に刺さったナイフを抜き、ペロリと舌で刃の部分を舐め、再びその切っ先を少年に向ける。
「気兼ねしなくていいよ。ボクなら他人を殺しても心が痛むことはない。キミが本当に死にたいのなら、ありがたくナイフを受け入れればいいのサ」
少年はただがむしゃらに身体を動かし、広場を駆け回る。少年がゆっくり息をする間もなく、クレイジーは次のナイフを投げていった。
放ったナイフを回収する必要はない。右腕のヒラヒラとフリルのついた袖をまくると、そこにはびっしりと黒い刺青が入っていた。その腕を少年の方向へ向ける。すると刺青が赤紫に色を変えて光を発し、その中からナイフが並んで浮き出てくる。まるで腕から生えるようにして湧き出てくるナイフを引き抜いては、次から次へと標的に向かって投げているのだ。
「相変わらず気味の悪い神器ね……やっぱり理解できないわ、あの男」
上層のテラスから様子を見ていたアイラは、柵にもたれかかる格好で頬杖をつき、うんざりしたように言った。訓練場は吹き抜けになっていて、上層から広場の様子を眺められるようになっていた。
「気味が悪いとはなんだ。より強い力を得るために神石を黒流石ごと溶かし、刺青としてその身に刻み込む——戦いに身を置く男の覚悟ともとれる所業だ。理解できん者にこの戦いを見届ける資格はない」
ぴしゃりとそう言われ、アイラはさらに深いため息をついた。隣には任務を終えて本部に戻ってきたばかりのリュウがいる。ブラック・クロス最強とも謳われるクレイジーが訓練場で戦っていると聞いて、休むことなく駆けつけてきたのだ。
「そうもいかないでしょ。クレイジーなら本当にあの子のこと殺しかねない。ちゃんと見張っていないとね」
別にノワールから見張りを命じられたわけではない。やるべき任務がないわけでもない。ただ彼女は自分の意志でこの場にいたのだ。
(こんなところで死んでもらっちゃ困るのよ……私のためにもね)
数時間ほど経った頃だろうか。
ずっと走り回ったせいで、少年の息は上がっていた。何度かナイフがかすめたせいで、身体中に切り傷ができて出血も多い。めまいがしたのだろう。少年はふらりとその場に倒れこんだ。
一方クレイジーは容赦なかった。その一瞬の隙を見逃さず、少年の必死さとは対照的なステップを踏むかのような軽い足取りで彼との距離を一気に詰める。
「もう限界?」
クレイジーは長い肢体を折り曲げて少年の正面にしゃがみ込み、彼の前髪を掴んで顔を上げる。少年の体力はすでに限界を超えているのだろう。その表情はすっかり青ざめていて、ヒーヒーとかすれた音で浅い息をしている。
「ねェ、なんで逃げるんだい? キミ、死にたがっていたんだろう。せっかくボクがその機会を与えてあげてるっていうのに。一体キミは何がしたいんだい?」
少年の瞳からぼろぼろと涙が落ちる。赤子のようにただひたすら泣き喚く。おかげでより一層息苦しくなったらしい。急に「うっ」と喉を詰まらせたかと思うと、むせ返って胃液を吐いた。吐き出された胃液がクレイジーの衣服に付着したが、彼は表情を変えない。
「……キミは弱いね」
クレイジーはため息を吐きながら、呟くようにそう言った。
「絶望と罪悪感で死ぬ決意を固めるほどの強い子なら、ボクの手で華麗に殺してあげよう——そう思っていたのに、まったく興醒めだよ。キミみたいなどっちつかずの弱い子はボクが手をかけるまでもない、どこかのしょぼい荒くれ者にでも無様に殺されるといい」
少年はただ嗚咽を繰り返す。言語に関する記憶も抜けているというから、言葉が通じているかはよく分からない。しかしクレイジーは淡々と続けた。
「でもキミの身体はキミの気持ちよりよっぽど素直だ。どんなに惨めでも、生きようとしている。時の島の人々の命を奪った罪を背負って生きていこうとしているんだ。……ボクだって同じサ。たくさんの人の命を奪った者なりの生き方ってやつがあるんだよ」
少年は過呼吸気味になっていたが、視線はクレイジーから外さなかった。涙でほとんど見えてはいないだろうが、目の前の男を捉えようとしているのがはっきりと伝わってくる。
(はてさて……これは餌付けにすがる子犬の瞳か、はたまた怨敵に向ける決意の瞳か……どうなるのかはこの子次第、か)
クレイジーの腕が少年の喉元に伸びる。ガッとその発達途上の細い首を絞めた。少年は呻き声をあげる。
「生きる理由を見つけるんだ。今のキミには死ぬ自由すら無いんだから」
ニヤリと笑うと、徐々に力を緩め、その手を首元から離した。一瞬少年は混乱していたが、ハッと気づく。呼吸がずいぶん楽になっている。
「そういえばキミ、名前は?」
「ナ……マエ……?」
オウムのように言葉を返され、クレイジーはやれやれと肩をすくめた。
「覚えてないのかい。それなら——」
クレイジーは天を仰ぐ。上層から様子を見ていたアイラと目が合い、彼女は逃げるようにして去っていった。なんだい、逃げなくてもいいだろう、と思いつつも、彼の頭の中にはノワールに任務を言い渡された時のことが浮かんでいた。紫色の唇が、ゆったりと吊り上がる。ガクンと首を元に戻すと、クレイジーは少年の身体をひょいと担ぎ上げ、医務室の方へと向かいながら言った。
「ルカ・イージス。今日からキミはルカ・イージスと名乗るといい」
「”イージス”か。お前がその名前を他人に与えてやるとは思わなかったよ」
少年を医務室に預けた後、リーダー執務室に訪れたクレイジーにノワールはそう言った。
「意味なんかないよ。ただの思いつき。名前なんて人を識別するためにつけられた記号に過ぎないのサ。キミの名前も、ボクの名前も、そういうものだろ?」
ノワールはふっと笑う。
「……そうだな。でも与えられた方にとっちゃ、ありがたいもんだろうぜ」
「そういうものかい?」
きょとんとして首を傾げるクレイジーに対し、ノワールは腕を組んで頷く。
「ま、どっちでもいいか。あの名前をもらってくれるなら、それで」
そう言ってひらりと身を翻し、クレイジーは軽やかな足取りでリーダー執務室を出て行った。
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