mission5-3 第十の歌



 賑やかな市場とは違って、入り江の洞窟は相変わらず静かでひんやりとしていた。内部は薄暗いが、薄桃色の桜水晶がぼんやりと光っていて足元が照らされている。


「どうしてここへ?」


 アイラが尋ねると先頭を歩くユナは前方を指して答えた。


「ここは元々、ミューズの神石が安置されていた場所なの。石の持つ強い力に気付いてからは王族が保管していたけど、そうなる前はずっと昔からここにあったって聞いてる」


 ユナが示したのは、洞窟の中央部、天井の開けた空間の中央部にある祭壇だった。近くにまで寄れば、それが九人の女神の絵が描かれた石板だと分かる。ノワールは物珍しげにぐるりと祭壇の周囲を回ると、石板の背を見て言った。


「この裏側に書かれた文字はなんだ? 見たところ古い象形文字……古代ミトス文字のようだが」


 古代ミトス文字というのは、創世神話が書かれた時代の失われた文明の文字だと言う。解読方法は広まっておらず、ナスカ=エラの一部の学者くらいにしか読めないという。


「九つの詩……おそらくはミューズの歌。旅に出る前は何の詩なのか分からなかったんだけど、今はなんとなくわかる。ミューズの力を使う時に頭に浮かぶ歌詞……あれの事なんじゃないかなって」


 九人の女神たちはただ黙っていてユナの頭の中には話しかけてこない。ユナはノワールが見ている石板の裏側に回った。九つの段落に区切られた詩。そして九つ目の下には、奇妙に空いた空洞がある。


 ユナは再び石板の正面に回った。九人の女神はそれぞれ全く異なる様子で描かれている。中央に立って穏やかな表情で微笑んでいるのはきっとカリオペだろう。そしてその隣の切り株に座り竪琴を奏でいるのはクレイオ、木の幹にもたれかかって眠っているのはポリュムニア、一番右端の自信ありげな表情で高らかに歌うのがエラトー、それぞれの名前は書かれているわけではないが、ユナの中には不思議と確信があった。そしてどの女神も共通して胸元に小さな穴が空いている。


 ユナは腕輪にはめられている小さな薄桃色の石を外し、石板の穴にはめた。カチと音を立てて石がぴったりとはまると、女神の胸元に薄桃色の光がぼんやりと灯る。ユナは続けて残り八つの石を腕輪から外し、それぞれの女神の場所に戻した。九つの朧げな光がぼうっと石版を照らす。


「おい、ユナ! こっち来てみろ!」


 ノワールに呼ばれ、ユナとアイラは石版の裏側に回った。九つの詩の刻まれた文字が薄桃色に光っている。ノワールはその下を指差した。石版の下部にある空洞に光が満ちて、その底に何か文字のようなものが書かれているのが見えた。ユナは屈んで下方からその空洞を覗いてみる。刻まれた詩と同じ、古代ミトス文字で何か書かれていた。


"そこに書かれているものは……あなたにとっては不都合な真実かもしれませんよ"


(カリオペ! あなたにはこの文字が読めるの?)


 ようやく話しかけてきた歌の女神に問いかける。いつも落ち着いていて穏やかなのがカリオペの性分ではあるが、今の彼女は普段以上に静かな口調で言った。


“ええ。ここに書かれているのは、第十の歌についてです”


「第十の歌?」


 驚いて思わず声に出していた。ノワールとアイラが何事かと振り返るが、彼らもまた神石の使い手である。ユナの様子を見て神石と話していることがわかったのか、話に割って入ろうとはしてこない。


(待って、ミューズの女神は九人のはずでしょ? 十番目の歌って、どういう……)


 カリオペはしばらく黙っていた。その時間が長いほど、ユナの胸の内には不安が積もっていくような気がした。今までカリオペはミューズ神たちの中でもユナが困った時の案内役のような立場で、何か尋ねれば必ず答えてくれていた。その彼女が言葉を濁す第十の歌とは一体何なのだろう。


"カリオペが話さないのなら、あたしが話しちまうぞ?"


 ハキハキとした男勝りな口調の声が聞こえた。彼女はタレイア。まだ彼女の歌のことは知らないが、以前飛空艇ウラノスで初めてミューズ神たちの声が聞こえた時に、一度話をしている女神だ。


(タレイア。私は無理に聞き出すつもりはないよ。何か事情があって話せないということなら、今は聞かないでおく。でも)


 ユナは一息置いて、再び意識を集中する。


(もしその第十の歌が私を強くしてくれるのなら……知りたい。みんなと一緒に旅をするために、もっと強くなりたいの)


 ユナの頭の中には、ジーゼルロックの封神殿でのことが浮かんでいた。破壊神を目の前にして、自分たちは何もできなかった。あのヴァルトロ王でさえ、破壊神に傷一つつけられなかった。そしてもしクレイジーやノワールが助けに来なければ今頃——


 封神殿の水の祭壇への道でアイラと話してから、何度も何度も繰り返し浮かぶ問いがあった。


——私は、戦いにどう向き合っていくべきなんだろう。


 破壊神だけじゃない、疫病に侵されたヤオ村の人々のように、普通の人間が破壊の眷属になって襲ってくることがある。それにこれからもまだヴァルトロと対立したり、また銀髪女とどこかで鉢合わせたり、あるいはハリブルのようなルーフェイ人と対峙したりすることになる可能性はある。


 敵ばかり増えていく中、自分にできることが後ろからの補助だけでいいのだろうか。


 自分は戦いに向いていない。ユナはそのことをよく自覚していたし、神器を作って渡された時のガザの言葉——ユナは前で戦う必要はない、仲間を守り助けることこそ彼女にしかできないことだと彼は言った——も頭にしっかり残っていた。


 だが、それだけではいけないのだ。立ち向かう仲間の背中をただ何もできずに見つめている……ルカだけを残して封神殿を脱出した時のような、あんな思いはもうしたくない。




“……成長しましたね、ユナ”




 ユナの考えていることはそのままカリオペに伝わったらしい。彼女は柔らかい声音でそう言うと、ユナに石板の空洞の中に浮かび上がっている文字に手をかざすように指示した。言われた通りにしてみると、ユナの頭の中にカリオペの声が響く。


“共鳴者が九つの歌全て極めし時、第十の歌の資格者とらん。第十の歌、すなわち共鳴者自身をもって第十の現人神あらひとがみとし、此方こなた彼方かなたに響かせ紡ぐ歌なり。の力、大なるが故に代償と引き換えに発現せん。代償とは、共鳴者の、共鳴者たり得るものなり——これが、その場所に書かれている言葉です”


 ユナはカリオペに読んでもらった内容を復唱し、アイラがそれをミッションシートの裏に書き写す。書き写された文字を改めて読んでみるが、三人とも首を傾げた。これだけでは意味が分からない。


「代償……なんだかルカのクロノスと似てるわね。あの子の神石は代償によって覚醒した可能性が高いし、時間軸転移タイム・シフトの能力も自らの時間軸を代償にすることで発動する」


「うん、私もそれは思った。でも『共鳴者の、共鳴者たり得るもの』っていうのが分からないなぁ。結局何を代償にすればいいのか……」


 カリオペは黙っている。文字は読めるが、書いてある内容について知っているわけではなさそうだ。


「ま、いずれにせよ、まずは九つの歌を覚えてからってことか」


 ノワールの言葉にユナは頷く。今知っている歌は四つ。まだ知らない歌の方が多い。


“第十の歌を知るかどうかは、九つの歌を知ってからでも遅くはありません。今はあまり気にしないでも良いでしょう”


(そうだね。でも今後困った時に役に立つかもしれない。教えてくれてありがとう、カリオペ)


 その時、入り江の洞窟の入口の方から足音が近づいてくるのが聞こえた。ユナを呼ぶ声もする。ミントが迎えに来たのだろう。ユナは石板にはめたミューズの神石を腕輪に戻し、入口の方へと向かう。




“私は……あなたが第十の歌に触れる機会が来ないことを、切に願っています”




 歩いている途中、カリオペは呟くようにそう言った。




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