第九話 敗北のあとで



「うッ……」


 身体が無意識に動いた拍子に、刺すような痛みが全身に走る。左手、右手ともに指のいくつかは固定されていて、背中にも何かがつけられているらしい感触はあるものの、感覚がまるでない。

 黎花れいかがぼんやりと目を開けると、いつものアパートではなく、格子状に区切られた白い壁材の天井が広がっている。左側の視界が少しぼんやりとしているのも"あの時"の影響だろう。


(わたし、負けたのか……)


 ここがどこなのか、どうやって自分がここに運ばれたのか……などの当たり前の質問よりも先に、あの龍神になす術もなく自分が負けたことについての感情が沸き立ち、それはやがて心だけに収まりきらずに沁み出して、右の頬を伝う。自分のものではないように思えるほど重く感じる左手を、何とか胸のあたりまで持ってくる。

 天井に吊るされている蛍光灯の光が人差し指の黒い指輪を照らす。

 その飾り気のない黒いゴツゴツとした指輪に、黎花は囁くように「大丈夫、次は――負けない」と息をかけ、目を閉じた。





「そん……な……あれは、もう一つの死……"嘆きの女神"……」

「莫迦なッ‼ 今日の御下みおろしのは、幻獣・佐士布都神さじふつのかみのはず。それにあんな高位の神――いや、神よりも原始に近い存在をまだ修行中で魔力に乏しい黎花れいかが呼び出せるはずがない‼」


 狼狽える大人たちの騒ぎを意に介さず、"嘆きの女神"―――そう呼ばれた存在は、何をするわけでもなくぼんやりと天を仰いでいる。涙の筋が彫り込まれた白い能面をつけ、黒い衣装で身を包み、背丈は2メートルほど。能面の後ろから生えている髪は白く、衣装からのぞく両の手は包帯で覆われていて、ところどころに乾いた血糊のようなものがついている。


 しばらく経ったところで、視線を天井から外すと、足を動かさず体をよじって能面が黎花の方を向く。そしてそれは、声を出さずに黎花の意識に語りかけてくる。


『お前が壊して―――――もの――姉―――――――――でいいのだな?』




「……か……黎花ちゃんッ‼」

 麻衣さんの声でハッと目を開ける。どうやら自分でも気づかないうちに眠っていたらしく、その間にみた夢のせいか全身に汗が滲んでいるのが感じられる。

「良かった……本当に……」

 私の顔を覗き込んでいる麻衣さんの目に涙が浮かんでいる。視界の端に居る亮平も口元に手をあて、同じような表情をしている。

「あ、あの……心配かけちゃったみたいで……その、ごめんなさい」

「本当にアンタって子はッ‼ 突然あんなことになって、ウチや亮平君がどんな気持ちで――」

 後半は涙声で何を言っているのかわからなかったものの、もう一度、「ごめんなさい」というと、麻衣さんは私の右手を軽く握り、本当に良かったと繰り返した。


 しばらくして亮平が可動式のベットを操作して、黎花の身体を少し起こすと、麻衣が古ぼけた神社で逆鉾龍命さかほこたつのみことに言われたことを告げる。

「黎花ちゃん? 悪いこと言わないから、アイツの言う通りにした方が……」

 黎花は項垂れ、言葉を失っている。微かに肩が震えているのが見える。



「あはははははは‼ やっぱり! アイツが"当たり"なんだ‼」


 麻衣の次の台詞を遮るように黎花が顔を上げ、大声で笑いだす。突然のことに呆然としていた亮平がやっとの思いで声を絞り出す。

「あ、あのお嬢様……何を……?」

 黎花は痛む身体を捩って亮平の方に向き直り、満面の笑みを浮かべる。

「アイツが――あの龍神が、私が捜していた存在なのよ、亮平」

 亮平は「えっ⁉」と訳がわからないまま驚く。


「万人の祈りや畏怖という魔力チャージによって作り上げられた『仮初かりそめ意識やくわり』とは別の――確固とした自分の意志を持つ幻獣。やっぱりアイツは何としても手に入れないといけないわ!」


 いつもと変わらない調子に戻った麻衣が咎めるように声をかけようとするのを制して、黎花が続ける。

「――麻衣さん。私はね、青魔道士になる時に大切な人に誓ったの。『もうこれ以上、誰にも負けない』って。だから、私はまたあの朽ち果てた神社に行く。麻衣さんが守っているあのソーマと同じ、大事な約束のために」


 すうと一呼吸おいて、最後の言葉は自分に言い聞かせるように力を籠めて放つ。


「何より、自分自身のために」




(続く)

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