Supplementary information: 世界歴2030年2月14日


世界歴2030年2月14日――


 定年退官を二年後に控え、自分の講座としては最後となる大学院の卒業生を見送る。”見送る”と言っても、もう一度、学位授与式の当日だけは会うことになるのだが、それでも公聴会が終わった後で学生が大学近隣のアパートを引き払って、それぞれの場所に向かう、このタイミングが松田にとって学生の巣立ちを感じる一番の時期であった。それは毎年変わらない。


「あ、松田先生! これ」

 今年卒業する修士課程の学生から赤い包み紙に入った小さな箱を渡される。

「うん? これは?」

「”あっちの”キャンパスで魔法史学やってる友達に聞いたんです。何でも櫻国よりももっと古い――まだ魔法が見つかる前の時代の風習なんですって。2月14日に、お世話になった人だったり、恋人にチョコレートを贈るらしいです」

 就職先も無事に決まり、晴れやかな気分でこの日を迎えたのだろう、歳のわりにはだいぶ幼い顔をほころばせて、説明している。

「へぇ、恋人へ贈り物をする日か。面白いね」

 松田はそう言うと、ここを去っていったまま一度も連絡が取れないでいる、あの二人を思い浮かべる。

「……そう言えば、先生ってご家族はいらっしゃらないんですか?」

 松田は突然の質問に、一瞬驚いた後で笑いながら答える。

「ははは、昔ね。もう若い頃に別れてそれっきりなんだよ」

 女学生が気まずそうに「すいません……」というので、気にしていないよと穏やかに返す。


 まだ研修中の白魔道士だった自分と結婚した彼女を置いて、松田は突然朱く染まった砂漠に渡り、数年後櫻国に戻った頃には、もうその姿はどこにもなかった。戻ったアパートの部屋は以前のままで、埃が積もったテーブルにただの一行だけの手紙を見つける。


 ――彼女は今も元気だろうか?


 次に思い出されたのは、あの快活でとても優秀だった姪のことで、彼女の言動を思い出すと自然と顔が緩む。彼女が朝比奈の家を出たのと同時期に、逆鉾村の何人もの住人が一斉に村から出ていき――そして、古い友人であった緑魔道士ドルイドの夫婦も何の連絡もないまま、いつの間にか居なくなっていた。


 一昨年に亡くなった兄さんは最後まで彼女のことを気にしていたのだけど、まぁ黎花のことだ、上手くやっているに違いない。


 あれから色々なことがあった。


 この小さな地方国立大学で学んでいた一人の学生によって、ジェネラル・アンチスペルの改良と解離性魔力中枢症の治療法の開発が同時に成し遂げられ、それが大きくクローズアップされると、そこに隠されていたモーリュ戦争当時の櫻国軍および櫻国政府の行動――特に、『英雄王』と称えられる黄伯飛ホアン・バー・フェイの暗殺計画が明るみになり、大スキャンダルとして櫻国だけでなく、各国で報道されることとなった。

 今は大統領を退いているものの南西諸島周辺でのフェイの人気は絶大で、この報道がなされるやいなや、南西諸島と近しい関係にある夷国を中心に、多くの国々が櫻国に対して厳しい措置を執った。それを受け、当時の政権と与党は失脚し、緊密な関係にあった朝比奈家およびその関連企業も没落する。


 そんな大きな時代のうねりのなかでも、松田は一人一人の学生たちと向かいあい、その旅立ちを見送ってきた。最近では、それこそが大きな財産だったのではないかと思っている。


「……あの……先生?」

 女学生が心配そうにのぞき込んでいる。

「ああ、ごめん。ちょっと考え事をしていてね。 ……そうだ、せっかくだからこのチョコレートを開けて、みんなで教授室でコーヒーでも飲もう。斉藤く……じゃなかった、御神苗おみなえ先生も呼んできてくれるかな?」

 女学生が嬉しそうに返事をして教授室を出ていく。その拍子に、壁に掛けてあった古い額がカタンと音を立てて傾く。

 そこには骨董品としての価値もあるほど古い時代の封筒と、いつかの研究室のメンバーで撮った写真が入っている。写真の真ん中に写っている背の高いすらっとしたくせ毛の男子学生が、その横に立っている綺麗なスーツ姿の眼鏡の女性を優しい目で見ている。


 ――君はまだ研究を続けているだろうか?


 彼のことだ、おそらく余計な心配なのだろう。誰もいない第三呪術研究室教授室で、松田はにっこりと笑う。傾いた額を戻していると、扉の向こうからわいわいと学生たちの声が近づいてくる。それを聞いた松田は、何かのお祝い事のためにデスクの引き出しに取っておいた南西諸島の高い酒でも開けるとするか、ともう一度優しく微笑むのだった。





「佳苗さん、これ」

「……何、これ?」

「この間、ツクバ・ベースに行った時に見つけた古い本に書いてあったんですよ。2月14日きょうは大切な人にチョコレートを贈る日なんだそうです」

「へぇ、何か面白い風習ね。ねぇ……本当にワタシで良かったの?」

「何ですか急に。あの日から、もう何度も同じこと聞いてますよ」

「……でも、聞きたいの」

「はい、はい。じゃぁ改めて――」



『僕は君のことが一番大切だよ』



(了)

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