第二部第二話 黒い瞳の新入生


 カタカタというキーボードを叩く音が響く。

 

 扉を開けっ放しにした誰もいない院生部屋で、僕はパソコンに西大陸言語べつのくにのことばを打ち込んでいる。博士課程の学生だった時に書いた原著論文の続きとなるジェネラル・アンチスペルの解析の論文を投稿して、その査読後の手直しリビジョンの作業を続けていた。

 前に出した学位要件となる論文とは違って、今度は有名な魔法誌である『Magic』に載せるために、気合を入れている。Magic誌のインパクトファクター(IF、その雑誌に掲載された論文が一定期間内にどれだけ引用されたという指標)は32と、超難関雑誌の一つであり、最初は査読にも回らないんじゃないかと思っていたため、リビジョンのメールが来た時には、僕も松田先生も大声で歓声を上げてしまった。


 そのため、必然的に手直し作業にも熱が入る。久しぶりに集中して西大陸言語を書いたせいか、教授や佳苗かなえさんが帰ったのかとかどうかさえもわからないでいた。時計の針はもう夜の八時を回っていて、そろそろお腹も空いてきている。


 僕は「ふー・・・」と長めに息を吐いて、思いっきり背もたれに寄りかかって、背伸びをしながら天井を見ようとする。すると、一緒に放り出した両方の手が"柔らかい何か"にあたり、「きゃぁ!」と小さく聞き慣れない声がする。突然のことに「えっ」と身体を起こそうとすると、その瞬間、僕の視界に、それも僕の顔のすぐ傍に知らない女の子の顔がひょいっと現れる。


「うわぁっ!!」


 とっさに身体を引こうとしたせいで、もたれかかっていた椅子ごと、院生部屋の緑の床に倒れこむ。その拍子に打った後頭部を抑えてうずくまる。

 しばらくしてようやく後頭部から手を離し、目を開けると、僕が床に仰向けに寝転がっていて、その上から四つん這いの女の子が僕の顔を覗き込んでいる・・・という状況になってしまっていた。


「・・・やっと見つけた。」

 アニメ声というのだろうか、可愛らしい声で女の子がそういうと、僕はわけがわからないまま、「え?」と小さく声を漏らす。


「私の事、覚えてませんか? センパイ。」


 僕は無言で首を振る。僕の顔のすぐ横に垂れている金色の髪からは、女性ものの香水なんだろうか、花のような、果物のようないい香りがしてくる。すると、女の子は僕の右耳の辺りまで口を近づけて、ゆっくりとささやく。


「おととしの雪の降ってた頃、逆鉾村さかほこむらで・・・」


 僕はしばらく考えたあとで、「あっ」と声をあげる。

「あの時、道教えてくれた"二人組"の・・・・」

 その言葉を聞くと、女の子はニィと笑みを浮かべ、「やっぱり」と小さく呟く。いつの間にか僕の胸の辺りに左手の白くて細い指を置いていて、そのうち一本の指には真っ黒な指輪がはめられている。


「あの、ちょっと・・・どいてもらえないかな?」、僕はさすがにこの態勢でいるのがやましい気がしてそう尋ねる。金色の髪をツインテールに結わえた女の子はそんなことお構いなしに、僕の目をじっと見つめている。


「センパイの瞳・・・天井の灯りを映し込んでも、ちっとも光が見えない感じの・・・本当に真っ暗な瞳、ですね。私と同じ色・・・」


 女の子の顔が近づく。確かに、そういった女の子も、金色の髪とは対照的に吸い込まれそうなほどに黒い瞳をしている。僕が視線を外せなくなった瞬間――


「・・・こんナところで、一体、何してるノかしら?」


 怒りに満ちた聞き慣れた声のする方を見ると、力強く握った拳の甲の部分で、コンコンというよりドンドンッという音で院生部屋の扉を叩く、佳苗さんの姿があった。


 謎の女の子は「あら、残念」と小さく舌を出していうと、態勢を整えて立ち上がり、「センパイ、また明日ね」と院生部屋から出て行く。(一体、何だったんだろう)と呆気に取られていると、斜め上の方から、これまでに感じたことの無い殺気をまとって、佳苗さんが僕を見下げているのだった。



■■


「・・・・えっと・・・"何が"あったのかな?」


 第三呪術研究室のセミナー室に入ってきた松田先生が、開口一番、このおかしな状況について疑問を口にする。昨日の件でボロボロにやつれた僕と、その右腕に抱きついている昨日の女の子、それを少し離れたところで腕を組みながら睨んでいる佳苗さんに、オロオロとしている斉藤先生・・・僕もまったく、意味がわからないでいた。


「何か雰囲気感じるし、聞かないでおくことにするよ。じゃぁ、黎花君、今日からなんだし、自己紹介を。」


 松田先生にそう促されると、昨日の女の子は松田先生の立っている左横に移動する。


「朝比奈黎花です。東都大学を卒業して・・・ちょっと間は空いてるんですけど、この76行政区魔法大学院の白魔法専攻科博士前期課程に入学して、今日からこの研究室でお世話になることになりました。皆様、よろしくお願いします。」


 昨日のハチャメチャな行動が嘘のように、両手で黒のゴシック系のスカートの裾をつまんで、頭を下げながら、軽く膝を曲げ、スカートの裾をかすかに上げる。一連の動作が、途中で止まることなく優雅ゆうがに流れていく。思わず見とれてしまうほどに、洗練されていた。


「黎花君はもともとは青魔法を専攻していたんだけど、どうしても『呪具じゅつぐ』の開発研究をやりたいということで、この第三呪術研究室に来たというわけだ。細かい研究テーマなんかはおいおい話すとして、とりあえず――」


 松田先生が黎花ちゃんに向けて右手を差し出す。



 「ようこそ、第三呪術研究室へ。」




■ 田中佳苗の「最後」まで、あと


 ―2年と3週間

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