補遺3 櫻国第3行政区に降る雨


■ 世界歴2002年 3月22日


 雨が降っていた――土砂降りというのが一番近い、大粒の雨。私はその中で、傘もささずに一軒の小さな店の前で立っている。


 櫻国第3行政区。東都とうと周辺に位置するこの行政区は、世界歴1950年代から始まった団地造成ブームによって、のどかな農村地帯から一転して首都圏で働く人々のベッドタウンとして発展してきた。急ピッチで建てられた商店街のアーケードも、2002年の今となっては塗装がはげ、そこから赤茶色のさびが浮き出ている。



「あの・・・何度来られても、うちでは雇えませんから、お引き取り下さい・・・」


 店の入り口の引き戸を少しだけ開けて、店の中からややふくよかな年配の女性が困った様子で私に声をかける。


「お願いシます!何でもしますから、私をここで働かせて下さい!!」


 降り注ぐ雨のなかで、私は女性の方に向けて頭を下げる。しばらくして、ピシッという音がして引き戸が閉まる。ガラス戸になっている部分にもカーテンがかかり、中を見ることが出来なくなる。その入口にかけられている日に焼けてやや色あせた緑色の軒先テントには、白い文字で『田中酒店』と書いてある。


 ――私の、大切な人の生まれ育った場所だった。



 次の日も朝から大粒の雨が降っていて、容赦なく私を打ち付ける。もう3月も終わろうとしているのに、吐く息が白くなるほどに寒い。部隊章がぎ取られた軍服は昨日から濡れたままで、おそらく酷く臭うんだろう。でも、寒くて、それに気づくほど鼻は効かない。

 無造作に伸びた髪が頬に張り付いていて気持ちが悪いのと、もう数日何も食べてないせいで、時々、目が霞む。何か食べ物を買おうにも、金がない。帰るべき故郷も家も、私にはなかった。



 あの赤褐色の大地で、私はすべてを失ってしまっていた。愛する人を失い、やっとの思いで合流した本隊で、私と涼子はとがに一時拘束されると、櫻国に帰ることなく懲戒解雇され、あてのない砂漠の国・湖国デルイヤで放免された。

 通常、こんなことはありえない。それほど、"あの作戦"が特殊だったのだろう。わずかに蓄えていた金も、湖国から"乾いた河"を超えて、夷国経由で櫻国に戻るまでに使いきってしまっていた。


 寒い。髪を伝った雨が目に入ると、それがしみて痛む。


 ガラガラっという音と一緒に薄鈍色うすにびいろのシャッターが上がる。それと同時に軒先に出てきた彼の母親の姿をみた途端、私は意識を失った――





「・・・気がついたかい?」


 目を覚ますと私は布団の上で横になっていて・・・あの酷く臭う薄汚れた軍服は脱がされていた。


「? ああ、もうボロボロだったからね。私が脱がしたんだよ。替えの服は"あの子"のだけど・・・まぁしょうがないね。」


 私があぅあぅと言葉にならない声を絞り出そうとすると、直哉さんのお母さんはそれを察して、優しく声をかけてくる。


「ごめんなさいね。私達もあの子が死んだなんて、すぐには受け入れられなくてね。あなたが此処にきた時、すぐに直哉が言っていた『恋人』なんだってわかったんだけどさ。


 ・・・・あなたを見ると"息子の死"を認めないといけない気がしちまってね。」


 (ごめんなさい)、そう言いたいはずだった。でも、私の喉はそれを発することができない。そうしていると、白いレンゲに乗った白粥が私の口元に近づいてくる。


「・・・何も食べてないんだろ? 若い女の子が、そんなに頬がこけちゃって・・・ホラ!」


 口の中に暖かい感覚が広がる。まだよく動かないあごが、それをたどたどしく噛み砕いていく。そうしていると奥の部屋から、「おい! 目ぇ、覚めたのか!?」と男性の声がする。


 声の主が急いだ様子で私が寝かされている部屋に入ってくると、粥を口にしている私を見て、すぐに破顔する。


「おお! よかったなぁ。無事で。」


 そういう彼の父親の仕草が、あまりにも"彼"に似ていて、私は目を外せないでいる。


「今までいじわるしちまって、悪かったな・・・・それで、母ちゃんとも話し合ったんだが、二階に直哉なおやが使ってた部屋があるからよ。そこを使ってもらって・・・・アンタ、帰る家がないんだろ? 仕事はちゃんとしてもらうけどな。」


 ところどころ照れながら、ぶっきらぼうに話すのを、お母さんの方が「ちゃんと話なよ」と注意している。私の頬を涙が伝う。ようやく言葉を取り戻した私は、


「うわああああああん」


と子供のように泣くことしか出来なかった。





■ 世界歴2015年 12月26日


「お義母さん、ただいま。」


 玄関を開けると、お義母さんが出迎えてくれる。2年前にお義父さんが亡くなって酒屋を閉めてから、急にしわが増えて、それに痩せてしまったように見える。


「おや、佳苗。 ・・・・何かいいことでもあった?」

「え? 何もナいわよ?」


 「あら、そう」と鼻を鳴らして台所に戻るお義母さんの後ろ姿をみて、今年も帰ってこれてよかったとぼんやりと思う。外は夜半から雪にかわるという雨が、降っていた。


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