第十八話 再始動と単独行動
一、
「よぉ、童貞君。寄宿舎に移ったんだって? どうした、ついにフラれたか」
町田涼子がニヤニヤとした顔で話しかけてくる。大学の正門から附属治療院の脇を通って研究棟に向かう道は、この国の花にもなっている桜の花びらが、ひらひら、というにはやや豪快に舞っている。桜の季節も過ぎ去ろうとしている。
僕は博士後期課程二年目を迎えたのを機会に、居候をやめ、大学の寄宿舎に引越していた。アパートを契約してもよかったのだけれども、どうせあと一年かそこらしかいないのだし、敷金や礼金も要らないし、家賃も市価の半分以下の寄宿舎でいいかと決めたのだった。
通常、学部学生向けの宿舎なため、最初に相談に行った時には事務員に派手にびっくりされて、田中さんとの件も相まって、あっという間に事務部に噂が流れていた。町田さんは、それを聞きつけて話かけてきた、というわけだ。
僕はやれやれという顔で、返答する。
「……別れたも何も、そもそも付き合ってもいませんし。いつまでも居候でいれるわけないじゃないですか」
ふーんという顔をしながら、町田さんが続ける。
「カナエも奥手だし、うら若き青年には刺激が足りなかったか……どう?お姉ぇさんにしとく?」
片方の口角にわざとらしく舌を出して、胸元に右手を持ってく。明らかに馬鹿にしているのがわかる。
「遠慮しときます」
僕はきっぱりと即答すると、目線を町田さんからラボの方に移して、歩き出す。今日も調べないといけないことや、実験が山積みになっていて、正直、相手をしている暇などなかった。
「えっ!ちょッ……」
後ろで何か続けようとしている町田さんをそのままにして、僕はラボへと急いだ。
「……おっと、わりと本気だったんだけどねぇ」
ポリポリと頭をかきながら、町田は軽いため息をつく。
「まぁ確かに、雰囲気似てるわね。彼に」
もうだいぶ遠くになった背中に向けて、ボソっとつぶやいた。
二、
僕は教授たちの行動に疑念を抱きながらも、自分の学術的な興味から、ジェネラル・アンチスペルの研究を続けていた。
今年の1月から作製と注射剤への変換を行っていた改変呪術式の構築が終わり、
原典にあるマリスコードをすべて削除、
一見しただけでは、これがジェネラル・アンチスペルであるとは認識できないほど、シンプルな呪術式である。可能な限り単純化した呪術式で、ジェネラル・アンチスペルの効果を再現し、その作用機序を明らかにするための実験である。
当初の計画とは改変する部分や方法が大幅に変更になってはいたが、ようやく、『ジェネラル・アンチスペルのどの部分が、どのように作用しているか』を実験によって確かめることができるようになる。
一方で僕は教授には相談せずに、対象の呪術式に挿入するアダプター部分そのものの作用を
自分の実験にかかる負担は倍以上になるが、フェイ氏の来訪以降燻っている教授たちへの疑念からも、どうしても行っていたい実験であった。実際、ここ数週間は一日三回の食事のうち、一回、二回とればいいほうなくらい、研究室で実験をしている。
初夏に向かうまだ少し肌寒い風が、開けっ放しの窓から、大学院生部屋のなかを通り抜けていく。ほとんどの灯りを消し、デスクの照明だけになった薄暗い部屋で、最初の投稿論文を書いている僕を、誰かが――たぶん、田中さんが――見ているような気配を感じていた。
■僕の博士課程論文提出期限まで、あと――10ヶ月と一週間
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