第一章:アカシックレコードと管理人

01 運命論 1/2


 いっそ、消えたってよかった。


 いつも願ったのは彼女のしあわせだった。誰よりもしあわせになればいいと思っていた。わらっている顔がすきだった。その顔を見られるだけでよかった。

 そこにたとえば、俺がいなくても。


 それが、俺のしあわせだった。



 まだ耳に残るのは、ブレーキ音と、なき叫ぶ彼女の声。

 あれが運命なら、世界はあまりにも非情だ。



 俺は彼女を、しあわせにできただろうか。



「草太」



 彼女がまた、あの顔で呼んでいる。

 そこからはじまり、そしておわったこいだった。












「あれまァ」


 ひとつまぬけな声がした。


 それまで沈んでいた暗い水底から、いきなり掴みあげられて放り出されたようだった。したたかに背中を打ち付けて、思わず息を詰める。いきなり世界が変わったからか、気持ちの悪い浮遊感がして、ぶは、と息を吐きだした後、今度はうまく息が吸えずにごほごほとむせ込んだ。

 どこもぬれてはいないのに、いままで本当に水の中にしずんでいたような気がする。

 目の前にちかちかと飛ぶ星を見ながら、俺は揺れる頭を抱えた。

 

 なんだ、なにが起こった。

 ここはどこだ。


 いま、誰が俺のそばにいる。



「大丈夫かい」


 うまく見えない目をこすっていると、先程聞こえたのと同じ声が俺を気遣った。

 男の声だ。どこか聞き覚えのあるような気がするが、はっきりとしない。ぼんやりとしていて、こちらを心配しているようなことを言っているわりに感情がこもっていないような声だった。

 先程は近くでしたと思ったのに、今聞こえた声はすこし離れたところから聞こえている。自分の脳は、どこか壊れてしまったのかもしれない。相手がどこから自分に声をかけているかはわからなかった。

 応えようと開いた口からは、舌がもつれて獣のようなうなり声しかでない。

 けれど、それで声の主は満足したらしい。もう俺に声をかけてくることも、なにかをしゃべることもなかった。そこまで、俺に興味がなかったのかもしれない。


 そうしているうちに、だいぶん身体の機能が戻ってくる。

 黒いもやがとけるように開けた視界に、俺はようやく、自分の眼前に広がる光景を見た。



 目の前には、古ぼけた電球傘が静かに揺れている。


 古ぼけた傘から落ちる優しいオレンジ色の電光は、淡く光りながら室内を照らしていた。蛍光灯の鋭い光になれているからか、部屋の中を明るくするには力不足であるように感じてしまう。何だかとても薄暗くて、ときおりちか、とまたたくのがまた頼りなかった。

 傘の先を視線でたどると、何かがたしかに傘を釣っているらしいのだが、その先がたどれないほど天井は暗く、遠い。

 ここは確かに室内であるはずなのに、まるで夜空を見ているようだ。


 ごん、ごんと、なにかの機械が遠く動く音が聞こえる。


 ゆっくりと右に身体をひねると、どこかの廃校のようにくすんだ床に前腕をつけて体を起こした。尻をつけたまま室内を見回すと、辺りは大小様々な冊子、巻物で溢れかえっていた。両脇に途方もなく高い本棚があり、そこにも数多くの書物が収められているのに、床のそこらかしこにもうずたかく積まれているせいで部屋がせまく感じる。部屋の奥まった場所、階段三段分の高さに置かれた大きな机も、その要因のひとつだろう。

 不思議な空間だった。

 たくさんのものを詰め込まれているのに、圧迫感はまるでない。

 遠く、天井が離れているからだろうか。

 そう思いながらぎこちなく立ち上がる。

 しぶとく残る鈍い頭痛に眉をしかめてこめかみに指先をあてると、自分の手はひどく冷たかった。


 まるで、しんでいるようだ。

 もしかしたら、もうすでにしんでいるのかもしれない。



 そうだ、なのだ。俺は。


 俺は、暴走してきた車にはねられた。

 本当に、彼女をかばって。


 けれど、あれだけの痛みが全く残っていない。そこら中にあった傷も、付着していた血や泥さえも、あの世界を思わせるものすべてが俺の体から消えていた。


 もしかして夢だったのか。



 いや、そんなはずはない。


 だって、今も、こんなにも自分の中で事故の記憶は鮮明だ。

 九月。雨の日。雨が降ってきたと傘をさして、もうそろそろバスがくるだろうと足を踏んだ瞬間の出来事だった。

 自分の頬に触れる。そのまま事故の名残を探すように手が頭、腹と下がってきて、ふと自分の着ている服を掴んだ。

 しろいカッターシャツ。いつも着ているものと同じだ。

 いや、ちがう。

 

 ちがう。





 このカッターシャツをが着ているはずがないじゃないか。



 ざわざわと胸が鳴る。違和感にあつくなる喉元を抑えて、俺は姿見を求めて自分の背後に目を向けた。ちょうど真後ろ、大きな鏡が自分を出迎える。長い時代を感じさせる、古色蒼然たる木枠にはめ込まれた鏡は、ゆうに大人の男が通り抜けられるほど大きい。

 そこに、誰か男がひとり映っていた。男というよりは少年のようだった。


  少年。 だって、?


 よろけながら駆け寄る。

 鏡に近寄って鏡を見つめると、青い顔の少年が恐ろしげにこちらを見ていた。



 たしかに鏡の中の彼は、俺だった。


 直毛の黒髪が、肉のうすい頬にそってさらりとながれている。几帳面に分けられた前髪より短く襟足は刈ってあって、ほそい首は不健康なほど白い。

 薄い唇はほんのりと青く、茶色がかった猫目が大きく見開かれてこっちをみている。

 何年も親しんできた自分の顔だった。間違いない。けれど、


 どうして、


 俺は二十五だ。けれど、写っている自分の姿はどう見ても学生時代の自分だった。

 服も、最後の記憶のときに身につけていたスーツの代わりに、着ているのはもう懐かしい夏季の学生服だ。半袖のカッターシャツ。腿の部分が少し大きいスラックス。その先は裸足で、薄暗さもあいまって裾から見える足は血色がわるい。 

 幼い俺はひどくおびえた顔をしていた。俺は、昔に帰っていた。




「君、どうしたい。ずいぶんと、具合がわるそうだけれど」


 先程の声が、黙っている俺を言葉だけ心配して言った。

 それまで存在を忘れていた声が唐突に戻ってきたことで、思わず肩が揺れる。視線をいきおいよく上げて音源をたどると、あの大きな机が目に入った。

 山のように積まれた書物のせいで、向こうは見えない。人の影も見えない。 

 顔のわからない声はすこし不気味だったが、ただ、今はそれがありがたかった。一人で考えていると、思考の渦にのまれて出られなくなりそうだったからだった。

 鏡越しに、声の聞こえた方を見ながら言う言葉を考える。

 まだ動揺がおさまらず、声が上ずるのを感じた。


「ああ、いや」

「こまっているなら話をきくよ」

「……あの。こんなことを言うと、おかしく思うかもしれません」

「うん」

「でも、これは俺じゃない。いや、自分だということに違いはないんですが」

「ほう」

「身体が縮んでる」


 口の中はからからにかわいている。


「俺のからだは、これじゃない」


「これは、とうに追い越してきた過去の自分なんです」


 俺がなんとかそこまで言うと、声はすこしの間だんまりをした。

 なにか考えているのだろうか。それとも、俺がおかしなことを言ったから言葉をなくして困っているのか。それは、俺にはわからなかった。

 鏡のふちを指先でなでて、眉を寄せる。

 わけがわからない。どうしてこんなことになったのだろう。

 俺がかばった彼女は、無事なのか。あれからどうなったのか。

 すべてがわからないままだった。木枠をはみ出した親指の先が鏡をこすった。

 

「そうか」


 声が言った。


「それは大変だね。けれどひとつもおかしいなんてことはないさ」

「気休めはよしてください」

「僕も暇じゃないから、そんなことはしない。君は混乱しているだけなんだ。無理もない」


「ただね」

 

 鏡面が波たった気がした。



「あんまり前にでるのはいけないよ」



 瞬間、自分の肩がいきおいよく誰かに掴まれた。

 びくりと震えて、鏡越しに自分の肩を見ると何も映っていない。けれど確かに、自分の肩には何かが乗っている感触があった。ぎり、と爪を立てられるような感覚に眉を寄せる。その正体がわからないまま、自分の身体は引きずられて鏡から離された。

 ゆっくりと首を回して振り向く。

 そこには、黒いなにかがいた。


「ひっ」


 声にならない声をあげると、ゆらゆらと黒い霧が揺れる。それが集まってだんだんと人型に形どると、黒い影はゆるく首を傾げた。

 動けずに縮こまっている俺に、覆いかぶさるようにして影か覗き込んでくる。顔はなかった。そこにあるのは、ただの闇だった。



黒衣クロイ


 影が止まる。


「戻っておいで。彼は行かないよ。大丈夫さ」

「……」

「それに、このままだと山が崩れちまう。そっちの方が僕には問題だ」


 クロイと呼ばれた影はしばらく迷ったように揺れていたが、声の主の最後の言葉が終わるとするりと滑るように身を引いた。

 呆然と目で影を追うと、間髪入れずに目の前の書物の山が危なくぐらつく。あ、と思ったときにはもう遅かったらしく、俺が肩をすくめると山は大きな音をたてて呆気なく崩れ落ちた。机の上から四方八方に転がる巻物を見ながら、俺は眼前に現れた人影を見つめた。


「しまったな」


 人影は口からほそく煙をはくと、のんびりと煙管の吸い口を食む。


「どうやら遅かったみたいだ」


 彼が、声の主に違いなかった。


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