運命論 2/2


「やあ、君。やっと見えたね」


 うすい煙をまとって現れたのは、中年の男だった。


 年は四十を過ぎた頃だろうか。

 目元にかかる黒髪から覗く三白眼には生気もやる気もなく、薄い隈が寝不足を訴えるように浮き出ている。首筋に喉仏が不健康そうに存在を主張していて、口元には黒檀の煙管があった。

 鈍くひかるそれが、骨ばった指に支えられている。

 男は安楽椅子にゆったりと身体を預けてこちらを見ていた。

 こまったと台詞を吐いたくせに慌てた様子はひとつもない。あれだけ雪崩落ちたのにまだ残る書物の奥で悠々と煙を吐いている。

 先程からの声は、この男のもので間違いないようだった。


 クロイと呼ばれた影はずるずると足を引きずりながら、声の主である男の背後に収まった。

 痩せぎすの男をはみ出して蠢くのを恐ろしげに見ていると、ふいに男と目が合った。そのまま見つめ返す。

 男はなにも言わない。自分も、言う言葉に迷ってなにも言えない。

 そのまま少しの間見つめ合っていると、男は雑多な机に頬杖をついて煙管で俺を指した。そのはずみで、何かが軌道にぱっと舞った。


「口がきけなくなったかな」


 言われた言葉にすこし面食らって、返事が遅れる。


「あ、いえ」

「ああよかった。ずっとしゃべらないから」

「すみません」

「謝らなくていい。こっちこそ悪かったね、おどかしたみたいで。こわかったろう」

「いや、そんなことは」


 ありません。そう言いかけて、途中で口を閉じた。

 男の後ろで自分の様子を窺うように覗いた黒に、また鳥肌がさらに粟立つ。

 出かかった言葉が口先だけの嘘だということは、自分が一番よくわかっていた。


 まるで、蛇に睨まれた蛙のような気分だった。


 自分に向かってきたあの物体は、地面に落ちている影というよりは、くろいクレヨンでぐちゃぐちゃに塗りつぶした塊と言ったほうが正しかった。

 ぞわぞわと黒が集まって人の形を成したそれは、自分にとってとてもおぞましいもので、言い様のない恐怖がべっとりとこびりついて消えなかった。

 特になにをされたわけでもない。

 悪意だって感じない。

 けれど、感情という感情が一切感じられない、ただ塗りつぶされただけの闇に、今もなお抱いた恐ろしさは消える様子がなかった。


 言うべき言葉を見失い迷っていると、俺の心情を見破ったのか男は首を横にふった。


「いいんだよ、そう気に病まなくて」


 男はやんわりと言うと、どこだかわからない虚空に視線を投げた。

 どう返すべきか迷っている間に、そのまま男との間に沈黙が腰を下ろす。

 ちら、と様子をうかがうと、男は先程の言葉で完全に会話をちぎってしまったようだった。こちらを心配するようなことを言いながら実際こちらの安否などどうでもいいのか、安楽椅子から降りる気も見られない。

 雪崩落ちた書類を拾おうとする気すらないようだった。


「あの」


 静寂に耐えかねて口を開くと、つい、と男の目がこちらに戻った。


「いくつか、きいてもいいですか」

「なんだろう」

「ここはどこで、あなたはいったい誰なのか」


 少し距離のある相手を見上げて尋ねると、男は重たい瞬きをした。


「それと、どうして俺はこんな姿でここにいるのか」

「それを僕にきくのかい」

「ええ。俺におかしなことじゃないといったからには、何かご存知なんでしょう。俺の事情も。きっと、俺が」

「君が?」

「俺がほんとうは、しんでいるはずだってことも」


 男がひとつ瞬きをした。


「覚えています。自分がもうこれで、しんでしまうのだと思った瞬間を」

「……」

「俺には記憶がある。あの瞬間を覚えている。けれど、どうして昔の姿でこんなところにいるのか、それだけがわからない」


「できれば、教えてもらいたいんです」


 俺が少し詰まりながら言うと、男はこん、と煙管の中のかすを落とした。

 空気にきらきらひかる粉が舞う。赤にも青にも見えるそれを目で追うと、男は一息ついてから口を開いた。


「めんどうなことを言っちまったもんだ」


 煙を噛みながら煙管を置くと、男が言った。


「実際、しんでいるというのはすこし違うだろうな」

「違う、? じゃあなんで俺は」

「言ったろう。前にのめりすぎるのはいけない」


 男はかぶりを振った。


「そもそも前提からして間違っているということだよ」


 何ひとつ理解できないまま男の言葉を待っていると、骨ばった指がすい、と俺を指さした。


「君は人じゃない」

「え」

「ただしくは、そうさな。、というべきか」


 俺を突き刺すように伸びた指先はゆらりとゆれたあと、置いてあった煙管へと帰った。それを見ながら、もつれる舌で先を急かす。


「いったい、どういう」

「先に質問に答えようか」


 男は俺の言葉を遮ると、こん、ともう一度先を鳴らして煙管を持ち直した。



「僕はここの管理人だ。もう忘れたころから座り詰めで、つぎの管理人がここに就くまで、管理を繰り返す運命にある」

「管理って。書物を、ですか」

「半分に満たない正解だね。アカシックレコードの管理だ」

「アカシックレコード、?」

「宇宙の真理さ。このせかいが始まったその日から、せかいにいるもの全ての生涯を記したものをそう呼んでいる。運命が体現されたものとでも言おうかな」


 男はねむそうな瞼をおろしてから、吸い口を静かにくわえた。


「アカシックレコードは様々なものの決まった運命、その一生の記録を記している。どう生まれどう終わるか。物も生き物もすべてだ。ここはその中でも、【人間】の記録レコードを管理している」

「そんな、そんなものあるわけが」

「事実は奇なり。僕に冗談をいう器量はないよ。中を見せることはできないけれど、そういう、書物のかたちで管理をしているんだ」


 そう言われて、あたりに積み上げられた書物に目をやる。ずいぶんと古そうなもの。すこしちぎれたもの。かと思えば、先程刷られたばかりのような真っ白なものもある。

 男は、これらに人間の一生が書いてあるのだという。


 言葉を失っている俺をよそに、男は話を続けた。


「管理人を除いて、ここにあるのはレコードと、決められたものだけだ。生きている人間ないし生き物はいない。だから君は、レコードから落ちちまった君という人間の軌跡の一部分だろうな。君ぐらいの年代は、この前怒られているときにあわてて詰めたあたりの気がするから。どこのやつだろう」

「……」

「だから、しんでいるというのはすこしちがう。そもそも今ここにいる君自身は、人ではないから」


 言葉に殴られて、俺は自分の視界がぐらりと揺れるのを感じた。


 人ではない。

 それは、自分が仮定していたものよりも自分にとって受け入れ難かった。

 アカシックレコードという言葉を聞いたことはあってもそれ自体の概念は初めて聞いたし、第一、実存するとはとても信じがたい。それも、自分がそれの一部だなんて。

 もう夢や空想を信じる年齢ではない。

 男が妄想を並べ立てているとしか思えなかったが、それ以外に今の自分の状況を説明するものがないという事実も自分には苦しかった。



 ふいに視線を感じて思考を切ると、男がじっとこちらを見つめていた。


「おかしいな」

「はい、?」

「僕は君を見たことがあるような気がする。ずっと前か、つい昨日に」


 またふわりとしたことを言われて、少しだけ眉をよせる。

 自分の記憶を一応辿るが、男のことはしらないはずだ。

 ただ、変に既視感はあったが。


「君、名前は言えるだろうね」

「名前ですか」

「うん。君自身の名だ」


 だから、それも俺にとっては何でもない質問だった。


「思井、です。思井草太」


 けれどそう答えたとき、俺の運命は自分を思い出したらしかった。




「え」


 男の表情に変化があった。

 眠たげにしていた目が、いまははっきりと開かれている。くすんだ茶色の目がこちらを驚いたように見ていた。

 感情らしい感情が見えたのははじめてだった。

 何度もその瞳に自分の顔は映っていたのに、初めて目が合ったような気さえした。


「そんなはずはない」


 男の声は怠惰を忘れたようだった。

 

「そんなはずはないんだ」



「だってきみは」



 ひときわ大きく声がはじけて、ちらちらと灯りが揺れた。

 男の長い前髪が目元を隠すように落ちて、表情が見えない。

 俺はなにも言えなかった。ただ彼の様子を見て、そしてたしかに先程とは別のものが目の前にいることを感じていた。


「ああ、僕は馬鹿か」


 男の顔は見えないままだった。

 声だけがゆがんで聞こえた。


「なんといったら良いんだろう。この感情は、もう、僕には何もないとも思っていたのに。これも、置き土産の内か。参ったよ。ああ、いつぶりだろう。いつぶりだろうね、もう全部預けてしまったと思っていたのに」

「……何を、言っているのか。俺にはまったく」

「そうだろう。そうだろうよ、僕もきっとそうだった」


 男は少し考えるように、煙管の吸い口を食んだ。

 うすい唇が、なんどかそれを繰り返す。ようやく見えた目は、あわく濁っていた。


「おめでとう、君は選ばれた」


 背筋を伝う冷たい汗がさらに冷えて、思わず身震いをした。


「選ばれた、というのは」


 なんだろう、この、おそろしさは。

 男の視線が自分を刺しているようだった。


「君はこれから、アカシックレコードを管理する者となる。つまりは僕の後継者だ。これはめったにないことだよ。よろこんでいい。よろこばなくてもいいけれど」

「後継者って、ちょっと待ってください」

「僕の跡を継いで、君はここで、もう一度いきることになる。そのために、君はその身体を与えられたんだ」


 男がわらう。


「君は、落ちるべくして落ちてきた」


 震えた。


 男の言葉の意味など分からないのに、得体のしれない感情が自分の喉を圧迫する。息がうまくできなかった。胸に手をあてて、よろりと足がふらつく。動悸が激しかった。意味もわからずに、俺は怯えていた。



「わからない」


 やっとそう声が出ると、男が俺の方を見た。


「ひとつだって意味がわからない。アカシックレコード? 人間の一生を記したもの、? そんなの、そんなのあるわけがない。しんじられません」

「そうかい」

「それに、後継者なんていきなり言われても。俺にはできません」

「ああ、うん。そうだろうね。それもわかっている」


「だから君に、頷く必然性をあたえよう」


 男がそう言った瞬間だった。

 室内を無数の風が吹き抜けて、その反動で冊子や書類が舞って落ちた。

 反射的に顔の前に両腕を突き出して、自分に向かって羽ばたく書物から身を守る。それがおさまって恐る恐る目を開けると、足元には落ちたままだった巻物に混ざるようにして、先程吹き上げられたのであろう冊子のひとつに目が行った。

 風の余韻でばらばらと流れたページが、ぴたりと止まる。

 古い筆文字で書かれた文字が、眼球ごしに脳に焼き付いた。



[三ツ井今日子。《主人公》。トラックにはねられて死亡。]



「どうして」



 声をこぼしながら伸ばした手よりも早く、どろりとした黒が冊子をひったくって俺の目から取り上げた。

 あの、クロイという影の手だった。

 衝動的につきだしたせいで、バランスを崩した体は無様に床に落ちる。

 間髪入れずにいきおいよく顔を上げて目で追えば、男の後ろに引っ込む黒と伏し目がちに冊子を見る男が見えた。


「そんなわけがない」

「なぜそう思う」

「だって、俺が代わりに轢かれたんだ。俺がかばった。彼女を守るために」

「ほう」

「彼女がそうなったはずがない、今日子がひかれたはずが」

「そうかい」

「こんなの間違っている、うそだ、にせものだ、やっぱりこんなの」


「はたして、


 喉がふるえた。


「君の記憶が、

「なに、なにを」

「君はおぼえているのか。うまれた場所は。両親の顔は。兄弟はいたのか、彼女以外に、君のそばにいたものたちの顔は」

「なにを言って」

「君はわかっているはずだ、自分の中にあるものを」


 見下ろした指先も震えている。


「君には、断る事なんてできないはずだろう」


 もう、俺はなにも言えなかった。



 かつ、と短く音がした。

 男が立ち上がった音だった。そのまま何度も音がして、俺の上に影がかぶさる。


「草太君と言ったね。君の望みを言うといい」


 汗が落ちて、床にしみができる。

 俺はじっとそれをみていた。顔がゆがむ。ゆがんで、見えなくなる。


 ああ、



 俺は、どうして彼女今日子の顔も思い出せない。


「俺は、」


「俺は、俺のいたはずのせかいにかえりたい」


 男の足が、床についた腕の間から見えた。

 靴の先にこびりついた泥がかわいている。


「おめでとう、君は選ばれた」


 見上げた男の顔が、逆光で見えない。


「きっといつか、自分へとたどり着けるさ」


 静かに言う男の言葉で、俺は自分の運命の上に立った。

 かすかに誰かの声がする。




 そう、運命は決められているのだから。



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あかしの秋 なないち @nn1_nai

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