第36話 今宵大事なひととき


 凶悪な顔はどうやっても凶悪なのだが、そこから感情の機微は窺うことができる。

 風間成明は明らかに困惑していた。九鬼瑞葉はその顔を見て、自分の顔が外気温よりも熱くなっているような感覚に陥る。

「相談する相手を、間違えてませんか」

 風間の言葉は確かにその通りであった。だが瑞葉には、思い当る人物がこの男しかなかった。

「風間さんは幼い頃から近くで見ていたのでしょう」

「それはそうだが……師匠と弟子という関係だしなあ。プライベートな部分にがんがん踏み込んでいくことはしなかったし、甘やかすのも違いますしねえ。しかし――」

 風間が緩んだ目尻で瑞葉の顔を見る。大丈夫だ――この熱さは八月の熱気のせい。

「麻子ちゃんの誕生日プレゼント――とはねえ」

 目が回った。脳と胸から同時に押し寄せた熱が頭の中を溶かしていく。

 気取られないようにぐっと手をついて身体を支え、傾いたことを利用して頷く。

「まず僕は年を食った坊主です。麻子ちゃんのような年ごろの子が欲しがるものなんて見当もつかない。それならむしろ九鬼さんのほうが感覚が近いのでは?」

「私がアテにならないことを、私が一番知っています」

 風間は豪快に笑った。ここまで大きく笑ってもらえると馬鹿にされた気もしない。

「まあ、国家陰陽師の個人的な交友関係には触れないほうがいいでしょうね。そちらもアテにはできない、という認識でいいんですね?」

 一気に熱が引いていく。冷たく乾いた瑞葉の本質を思い出すと、やはりとても落ち着く。

「ええ。賢明な判断、感謝します」

「それで僕――ああ、消去法ですか」

 当然だと頷く。

「ううむ、だがやっぱり僕では駄目でしょう。一番はやはり、本人に直接――」

 言いかけた風間は瑞葉の形相を見て言葉を切る。

「あー……大人同士、欲しいものをそのまま渡すのは芸がないと。なるほど、なるほどねえ――」

 腕を組んで考え込むことしばらく、溜め息を吐いて顔を上げた風間は破顔していた。

「九鬼さんが自分で考えて選ぶしかないでしょう。今日のこれも、その一環ということで無駄にはなりません。この過程も含めて、麻子ちゃんへのプレゼントになるんじゃないかな」

「漏らせば」

「そんな野暮な真似はしません。九鬼さんが自分で考えたことは、九鬼さんにとって重要なんですよ。それは麻子ちゃんに伝えても意味のないことです」

 知ったような口を利く――瑞葉は普段なら覚えるはずの殺意が湧かなかったことに首を傾げる。

 瑞葉にとって殺す価値と意味のある人間は、もうどこにもいなくなっていた。

 相手を見れば即座に生殺与奪を掌握する。それが瑞葉の自己確立だった。

 いつでも殺せるという安心感で自分を満たしていなければ、相手とまともに話すこともできなかった。さすがに陰陽寮の中でそんな真似はしなかったが、外で出会った相手――それが瑞葉の式を視認できる見鬼でも、相手が居丈高に振舞えば萎縮させるために首筋に刃を向けてきた。

 そんな瑞葉を、あのひとは嘲笑った。少なくとも瑞葉はそう認識した。

 瑞葉の振るう力など片手で吹き飛ばせる力を持った式を従える川島麻子は、その上でわざわざ瑞葉に釘を刺した。

 それはやめたほうがいい。

 屈辱だったが、屈服するしかなかった。

 瑞葉が誰にでも刃を向けるのは単なる虚勢でしかないのだと、麻子は知っている。理解はしていないのかもしれない。それでも瑞葉など相手にならない力を持っている麻子は、すんなりとわかってしまうことができる。

 その時にどんな目で見られるのか――考えただけで、瑞葉は魂が千々に乱れる苦痛を味わった。

 紛うことなき屈辱である。だがそれを受け入れなければ、さらに凄絶な屈辱に瑞葉は塗れることになる。

 虚勢を張る自分を麻子の目に晒すのは、天下に晒し者にされる以上の恥辱である。

 あのひとは瑞葉が弱いことをわかっている。知らないだけで、理解している。

 だからこそおぞましいのだ。忌まわしいのだ。ただ言葉を交わしたいだけなのだ。

 無作為に向けられた殺意ももう必要ない。一片の衝動もなにもかも、全てを一つの標的に傾けることでしか、瑞葉はこの屈辱に耐えられない。

 瑞葉は麻子と向き合うしかなかった。自己の確立方法を取り払われた瑞葉にできる、精一杯の抵抗であり、叛逆であり、逆襲だった。

 なにを贈ればいい。なになら喜んでくれる。熱病に侵されたような身体で必死に考えているのも、瑞葉にとっては闘争にほかならなかった。





 盆と正月は一緒にこないが、盆と誕生日は一緒にくる。

 川島麻子――ひいては川島家にとって、それは時に重大で、時にどうでもよく、時に便利なイベントであった。

 青川市泗泉町の中で、ひときわ大きく古い家――があった土地の上に建てられたマンション。麻子の父方の祖父母はそのオーナー兼入居者として一階の角部屋で暮らしている。

 元あった家は確かに大きなものだったそうだが、マンションになるとどこにでもある建築物に様変わりをした。できた当時はこの辺りでは一番高かったそうだが、最近増えてきた新築マンションにはとてもではないが適わない。

 ただ逆を言えば、競合相手がいない時期にこの土地に真っ先にできたマンションだということでもある。

 最近のマンション建築が加速しているのは大太良市のベッドタウン機能の拡張という面が大きい。特急停車駅である青川駅へとつながる内陸地にベッドタウンとして団地ができていたが、近年住人の高齢化が進むとともに生命線であったバスの本数も減り、交通の便が目に見えて悪化していた。

 そこで急行停車駅である泗泉駅周辺が、急速に注目され始めていた。駅から徒歩圏内に半分遊ばせているような土地が相当数残っており、交通の便も申し分なく、さらに言えば大太良市だけではなく、青川市街地へ向かうのにも都合がいい。

 その事実にいち早く気付いたのがこのマンションの住人なのだと、冗談めかして祖父は笑う。

 実際建築当初は心配されていた入居者不足は起こらず、部屋はあっという間に埋まったという。

 泗泉駅からは若干距離はあるが、入居者用の駐車場と駐輪場もしっかりスペースをとってあり、電車を日常的に利用しない住人にも「我が家」として認識されるだけの年季が入っている。

 麻子は風雲寺の墓地で先祖に手を合わせると、そのまま徒歩で祖父母のマンションへと向かう。自宅とすぐ近所の風雲寺、そして祖父母のマンションの立地上、これが一番効率がいい。まるでもうご先祖様の仲間入りじゃないかと祖父は毎回拗ねるが、それを見越して麻子が迎えにいくことになっている。

 麻子の自宅には仏壇がある。元は川島の本家にあったものだが、祖父母がマンションに入居しようとした時になって、あまりに豪勢に作られたこの仏壇が搬入できないサイズであると判明し、宗教嫌いの父との大喧嘩の果てに今の家に置かれることになった。

 あらゆる宗教を分け隔てなく嫌悪する父が折れたのは、まだ言葉も話せなかった頃の麻子が「大暴れ」したからだという。その一件以降祖父は麻子には滅法甘く、麻子の行動に文句をつけることができない。

 そうしたわけで仏壇のある麻子の家に祖父母を連れてくるのが麻子の毎年の役目であった。

 祖父はまだ矍鑠としているが、祖母は随分前から足が弱っていた。二人ともこの辺りでは珍しく運転免許を持っておらず、一度父が車で迎えに行こうとしたが断念した。わずかでも車を停めておける場所が、全くないのである。

 祖父母のマンションは交通量が少なくないにも関わらず、車が一台しか通れない狭さの道路に面している。そこに横付けすると、入居者用の駐車場の大部分を塞いでしまう。祖父はただでさえ人の出入りの多いお盆にオーナーの家族がそんな真似をしては申し訳がつかないと発奮し、警察官である父も違反切符を切られでもしたら洒落にならないと納得した。

 とはいえ祖母の足はシルバーカーを押していれば充分に歩けるものであったし、マンションから麻子の家までそこまで距離もない。

 問題は風雲寺の立地で、祖父母がマンションから風雲寺での墓参りを経由して自宅に向かうとなると、大幅な大回りとなってしまう。一度そのコースを取ったことがあったが、祖母はその日にマンションに帰ることができないほどまでに足を痛めてしまった。

 そこで麻子の出番となる。麻子がまず墓参りをして、そこからマンションへ祖父母を迎えに行き、そのまま一緒に自宅へと歩く。

 祖父母は当然、父の徹底した無信心ぶりを承知している。なので父が墓参りに行ったとしても、かえって罰当たりだと激怒することは目に見えていた。

 その点、祖父の麻子に対する信頼はなぜだか抜群に高い。自分たちの代わりに麻子が墓参りをすれば、それで全く安心されてしまうほどまでに麻子は信頼されていた。

 なので線香とライター、掃除用のスポンジの入った祖母から受け継いだ「墓参りセット」の手提げ袋を持って麻子が迎えにくると、それだけで祖父は小躍りしだす。

 インターホンを鳴らし、そのままドアを開けて玄関に入る。

「おじいちゃん、おばあちゃん、きたよー」

「はいはい。お誕生日おめでとうね。いくつ?」

「二十歳になりましたよ」

 玄関に出てきた莞爾とした笑みを浮かべる祖母にそう言うと、奥からよく通る低い声がする。

「麻子ぉ、こっちきておじいちゃんに酌させてくれ」

 麻子の顔が曇ると、祖母が呆れた溜め息を吐く。

「そうそう。麻子が二十歳になるから一緒に飲むって言って、昼前からずっとこれ」

「上がったほうがいい?」

「そうね。直接顔見て怒られたほうがしゃきっとするだろうし」

 靴を脱いで部屋に上がり、奥の冬は炬燵になる座卓で一升瓶を掲げている祖父と向き合う。

「おじいちゃん、私お酒は飲めないの」

「二十歳になったんだから、もう飲めるだろうが」

「そういう問題じゃなくて、体質の話」

「なんだよもう、茂も下戸で、麻子も下戸じゃあ年食った楽しみが一つもねえ」

「長七くんは飲めるでしょ?」

「あいつは駄目」

 同じ孫であるはずがこのあからさまな態度の違いに、麻子は申し訳なさよりもいつも納得してしまう。それほどまでに長七は酷い。祖父にまで態度を変えないのだから感心すらしてしまう。

「はい。じゃあうち行くよ」

 祖母よりも祖父のほうに気を向けなければならないだろうな、と麻子は祖母と一緒に酒盛りの片づけをしながら笑う。





 直接家に出向くわけにはいかない。川島麻子の家には当然その父である川島茂警部補がおり、瑞葉はその存在を宮内庁の官僚という形で知られている。

 第一、私的に知人に会いに向かった先で出くわしたその親に、どんな態度で接するものなのかを瑞葉は知らない。それは瑞葉がこれまで生きてきた中で知る必要のないことであったし、知ろうとも思わなかった。

 まさか社会人として生きている今この場面で、そんなどうでもいいことに頭を悩ませるなど――どれだけ瑞葉に辛酸をなめさせれば気がすむのか。

 では呼び出せばいいのかと悩んで、あまりの頭痛に眩暈がした。

 私的に知人を呼び出すための手管を瑞葉は知らない。しかもよりにもよって今日は相手にとってなんらかの意味を持つであろう誕生日当日である。

 そこになんらかの意図を察せられでもすれば、瑞葉は煩悶の果てに相手を殺してしまうかもしれない。

 加えて、川島麻子に連絡をとるという行為そのものが、瑞葉にとっては大きなトラウマと化していた。以前に電話をかけ、電話口に出た相手が思い出すだけでも忌まわしい下劣な男だったことが未だにじくじくと疼いている。

 これでまた麻子ではなくほかの人間に応対されでもすれば、瑞葉は二度と麻子に電話をかけることができなくなるだろう。それは――いやだった。

 今はまだ踏み出せないし、なによりタイミングが最悪だ。ここでその乾坤一擲をぶちかますのは早計にすぎる。

 ならばメールを――とメールの新規作成画面を開いて消してを、もう数十回繰り返している。

 誕生日。結局これが最大の問題だった。

 この日に瑞葉が麻子に対してなんらかの行動を起こせば、それはすなわちその日付に関連した行動であると推察されてしまう。

 あまりの馬鹿馬鹿しさに、息も忘れていた。

 それらはどれも麻子の誕生日を祝うという行動を起こすための前工程であるはずだ。最終的に行き着く地獄は麻子の誕生日というイベントに収束するとわかっているはずなのに。

 それをわずかでも気取られるのが、怖くてたまらない。

 怖い――のか。瑞葉は麻子を恐れてなどいない。いざ真剣での立ち会いとなれば、勝てないとしても遅れはとらないと断言できる。

 ではなにを恐れる。相手を必ず殺せるという優位に立てないことか。いや、そのクラスの術者ならば陰陽寮に腐るほどいる。

 瑞葉など及びもつかない技術を持った陰陽師たち。瑞葉など及びもつかない式を従えている川島麻子。両者の違いはなんだ。陰陽師たちの伏魔殿で、真っ当な人間を演じ続けてきた瑞葉がいまさら技能の差如何で気おくれするものか。

 瑞葉は人間などではない。

 その他覚の違いか。

 誰も瑞葉を人間ではないとは認めなかった。

 だけど麻子は、その言葉に揺らいでしまった。自分が人間ではないかもしれないと、瑞葉が自称する人間ではないという認識に――恐れをなしたのだ。

 そうか――麻子が瑞葉を恐れたから、瑞葉もまた麻子を恐れる。

 虚仮脅しばかりを繰り返していた瑞葉が、またさかそれをまともに受けてしまった相手と巡り合った。結果、瑞葉のほうが恐れをなしてしまった。

 なぜ? 自分が人間ではないということは、これまでもずっと吹聴してきたわけではない。瑞葉は確かに自分が人間などではないと自覚している。周りの誰もがそれを鼻で笑っていただけで、瑞葉にとっては真剣な至上命題であった。

 瑞葉は初めから崩れた地盤の上で自我を保っている。誰も自分を認めないと、わかりきったうえで。

 だが、もしも自分を認めてしまうような人間が存在すれば――崩れた地盤の上で必死に保っていたバランスが滅茶苦茶になってしまう。

 瑞葉が人間ではないということを認められてしまったら――終わりだ。それではまるで、人間のようではないか。

 認められないことでこそ、瑞葉は自分が人間ではないと強く自覚し続けることができていたのか。

 なんとも滑稽で惨めな自意識だ。自覚が他覚に変わってしまった瞬間に、その自覚は瓦解する。

 ならばそう――ならばだ。

 瑞葉は麻子の前で懸命に人間の真似事をしなくてはならない。

 麻子に人間ではないと認識されれば、瑞葉は人間にされてしまう。

 だから、できるはずだ。躊躇もしていい。羞恥も覚えていい。そのうえで人間くさい真似を行えば、麻子を騙すことができる。

 その日が終わるまで、残り三時間を切っていた。





「おじいちゃん、しっかり歩いてよ」

 夕飯を食べ終えて後片付けをすませ、麻子は祖父と祖母を自宅のマンションへと送り届ける役目を全うしていた。

 祖父は麻子が酒を飲めないとわかっていながら、めでたいめでたいと母と互いに酌をしながらがんがん缶ビールを開けていった。

 迎えにいった時から相当酔っていたが、そこにさらにアルコールを加えた祖父の足取りはあまりに危なっかしい。今日は泊まっていったほうがいいのではないかと両親が気を回したが、祖父は頑としてマンションに帰ると言い張った。

 それも、麻子の付き添いつきで。

 孫と酒を酌み交わせないのだから、せめて酔った爺の面倒くらいは見てほしいと駄々をこねられ、麻子もやむ方なしと承諾した。夜九時すぎの泗泉町の治安はほかの町と比べれば極めて良好だ。

 大した距離もないし、祖父と祖母と三人で並んで歩けば安全だろうと家を出たが、果たして脅威となるのはこちらのほうだった。

 千鳥足の祖父は時折車道へとふらふら歩いていってしまう。これでは通行するなんの罪もない車両にとってはいい迷惑である。幸い交通量の少ない道を選んで歩いてきたのでこちらの過失による事故は起こっていないが、麻子は何度も祖父を道の端へと引っ張ってやるはめになった。

 その緊張感のためか、やっとマンションにたどり着いた麻子はすっかり汗みずくになってしまっていた。夏の夜は確かに暑いが、普段ならばここまで汗はかかない。ほとんど冷や汗と脂汗だった。

「ごめんねぇ麻子ちゃん。おじいちゃんには明日きちんと謝らせるから。ちょっと上がって涼んでいく? アイスあるわよ」

「あー……ううん、このまま帰るよ。早くシャワー浴びたいし」

 汗が引くのを待つより、直帰したほうが不快感が短くすむだろうと判断した。ここでシャワーを浴びようかとも考えたが、着替えが昔に置いていったパジャマしかない。シャワーを浴びてまたこの服を着たのではほとんど意味がなくなってしまう。

 泊まっていけばいいのにと言いだされるより早く、麻子はマンションの敷地内を出た。

 何時かを確認しようと携帯電話を取り出すと、メールが届いていた。着信時には鳴動するようになっているが、鞄の中に入っていたせいで気付かなかったらしい。

 おや、と麻子は目を丸くした。

 メールの差出人は九鬼瑞葉。受信したのは十分ほど前。

『墓にきてください』

 それだけの簡素なもの。だが瑞葉から返信ではないメールが届くのは初めてだ。墓――となると風雲寺の敷地内しか思いつかないが、何の目的でこんな呼び出しをするのだろう。

 まさか決闘の申し込みではあるまいな、と麻子は苦笑する。瑞葉ならば充分にあり得る話だからだ。

「タマ」

 麻子の頭の上で、巨大な蜘蛛が前足で麻子の額を撫でて返事をする。

「なあに?」

「うん、ちょっと警戒しておいて。九鬼さんから呼び出された」

「うげえ」

 そう言いつつタマはいつでも飛びかかれるよう、巨体に緊張感を高めている。やはりタマは瑞葉が苦手なようだ。この間麻子が瑞葉と海を見にいった時も、片時も警戒を解かなかった。

 最初に出会った時から、瑞葉はタマを仕留めるために式を打ってきた。それに加えて麻子と精神がつながっているタマは麻子が瑞葉と接している時に常に覚えている小さな動揺を敏感に感じ取っている。タマにとっては瑞葉は、あくまで麻子を悲しませる人間なのだ。

 しかし――自宅からマンションを経由して風雲寺とは。一番面倒な大回りのルートだ。

 風雲寺所有の墓地に入場時間などという洒落たものはない。いつなんどきでも誰でも自由に立ち入ることができる。それはこの一帯の神社なども同様だ。

 照明のない墓地の中で、時々光が明滅していた。その光によって、九鬼瑞葉の冷たい表情が浮かび上がる。

 霊的な光ではないのはすぐにわかった。なんのことはなく、瑞葉が手にしている携帯電話の開閉によって液晶の光が明滅しているだけだった。

「九鬼さん」

 瑞葉は油断なく機敏に麻子へと目を向ける。氷のように冷たい目つき。麻子は顔を合わす度に怖気づきそうになるのを毎回ぐっとこらえなければならないでいた。

「メールは」

 瑞葉の言葉で麻子はしまったと頭を掻いた。瑞葉のメールに返信をしていない。メールを見てそのままここへと直行していた。

「すみません、ちょっとどたばたしてまして……。あの、それで一体なんの用で――」

 瑞葉は麻子の眼前に、ビニール袋に入った一升瓶を突き出した。麻子でも名前を知っている有名な日本酒だ。

「ええっと……」

 瑞葉は無言。麻子はその意図をつかもうと必死に頭を捻っていた。

 そのうちに痺れを切らしたのか、瑞葉はビニール袋に雑に放り込まれていた紙コップを取り出し、日本酒の栓を開ける。

 有無を言わさず麻子に紙コップを握らせ、そこになみなみと酒を注ぐ。

「あの……」

 無言のままの瑞葉の視線の圧力に耐えきれず、麻子は仕方なく紙コップを煽った。

 麻子の意識はそこで途絶えた。





 急に真後ろに倒れた川島麻子の頭の先には、墓石の角があった。

 瑞葉はわけがわからない状態の中、電光石火で麻子の身体を抱きとめ、最悪の事態を回避した。

「川島さん……?」

 気付かぬうちにぎょっとするほど近くに寄っていた麻子の顔を覗き込みながら意識を確認する。目は虚ろで焦点も合っていない。けほけほと弱々しくせき込む音が断続的に続く。

「すみ――ません。私、本当に、お酒、駄目で――」

 身体を震わせ、その悪寒から逃れようとするように瑞葉の胸へと強く顔を埋める。瑞葉は喉の奥から潰れた悲鳴が上がりそうになるのをぐっとこらえ、少しでも麻子との接地面積が少なくなるように両手を宙に浮かせて背伸びをした。

 麻子の全体重をつま先だけで支える瑞葉の身体は耐えきれずにわなわなと震えだす。

 仕方なく――仕方なく、瑞葉は麻子の身体を両腕でかき抱いて砂利の敷かれた墓地の地面にそっと身体を落とした。

 体勢の移動の関係で、膝枕をする形になってしまっていることに気付いて瑞葉が脂汗をだらだらと流しているうちに、とうの麻子はより強く瑞葉の腹部に頭を押しつけている。

 呻き声を上げ、虚空をかく麻子の両腕を、瑞葉は我知らず自分の背中に回すように導いていた。

 寄る辺を求めていた麻子の全身が、瑞葉の身体を抱き寄せた。

 瑞葉は今度こそ、「ヒッ」と短い悲鳴を上げた。

 麻子は強く、より強く瑞葉の身体にすがりついてくる。それが代謝できずに身体中で暴れ回るアルコールのせいだとはわかっている。それでもすすり泣きのような声を上げて瑞葉の身体を抱きしめる麻子を見ていると、瑞葉はまるで身体の自由が利かずに硬直してしまっていた。

「川島さん」

 瑞葉は両手を宙に浮かせたまま、ろくに意識も残っていない麻子に声をかける。

「なぜ酒を飲んだのですか」

「九鬼さんが、強引に――」

 瑞葉の顔がかっと熱を持ったことに自分でも気付いた。

 この女は、瑞葉が彼女のために誕生日の贈り物をしたという意図に、まるで気付いていなかった。ただ目の前に酒を注がれたから、飲めないものを無理をして飲んだだけだったのだ。

 では瑞葉のこれまでの苦心は一体なんだったのか。もはや記憶にも残らないやりとりだと半ば理解しつつ、瑞葉は麻子に問いかける。

「今日はなんの日ですか」

「あー……私の誕生日……ですか? でも九鬼さんには、話してないような……」

 それはそうだ。麻子が瑞葉に自身の個人情報を伝えるなどありえない。瑞葉は自分の手で麻子の個人情報をかき集め、そこから今日が彼女の誕生日であるということを知った。

 だから麻子が自分の誕生日を瑞葉が知っているなど、毛ほども思っていなかったのだということは理解できる。

 そして瑞葉は、麻子に誕生日プレゼントとして日本酒を差し出したのだと、結局自分の口から言うことができなかった。

 結果的に、麻子はわけもわからず飲めない酒を飲み、ほとんど自失状態となってしまっただけだった。

 だから、言わない。死んでも言えない。言う意味はもうなくなっている。

「ありがとうございます」

 瑞葉の膝の上で顔を半分だけ懸命に持ち上げて、麻子は笑った。

「プレゼント、なんですよね。すみません、前もってお酒飲めないって言っておけばよかったんですけど……」

 瑞葉の身体を締める麻子の腕が一瞬、ぐっと力を増す。

 上を向いていた口から勢いよく、瑞葉の顔めがけて汚物が噴き上がった。

 麻子はその吐瀉の激流に抗えず、途中で下を向いたものの、長いこと嘔吐を続けた。

 瑞葉は冷静に、自分の身体中に汚物をまき散らす麻子の背中をゆっくりさすった。それに反応してまた嘔吐する麻子の喉に吐瀉物が詰まらないよう、溺れていきそうになる麻子の身体をしっかり胸の前まで持ち上げる。

 吐き出すものがなくなると、麻子は瑞葉の肩にもたれかかった。

 瑞葉の膝の上にできた汚物溜まり。そこに麻子が倒れ込んでしまわぬよう、瑞葉は正面から麻子を抱きしめていた。そのためであるという迅速な思考が先にあると、瑞葉は平然と麻子と密着することができていた。

 風間に言って風呂と着替えを用意してもらわねばならない。

 そう理解しつつ、瑞葉はなぜか悪臭の中、もう少しこのままでいたほうがよいと速やかに判断し、とうに意識を失った麻子を抱きしめ続けていた。

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