第37話 巣作りの手鑑


 纏めた資料を素早く精読しながら、九鬼瑞葉は倒れてきたゴミ袋を素足で蹴って部屋の隅に追いやる。

 やはり火清会のガードは堅い。特に会長の高山孝明に関しては、ご大層な来歴はあちこちに載っている割に、本人の行動やプライベートについては全く情報がない。

 やむを得ないか――と、瑞葉は携帯電話を取り出して、見るのも忌まわしい男の連絡先を表示させる。

 いや――瑞葉は電源ボタンを二度押しして待ち受け画面に戻る。

 仮にも国家陰陽師である瑞葉がこれだけ調べても出てこない情報を、どうして一介のフリーライターごときが持っているだろうか。そんなことはまずありえはしない。

 連絡を取るのなら、まだ青川市内に残存する寺院の住職のほうが何かを得られる可能性が高い。何より彼はかつて高山と親友だったと述べている。その方面からのアプローチはまだかけておらず、次に行動を起こすのならそこからが順当だろう。

 風間成明の連絡先を表示させて、冷静に悩む。

 このタイミングで高山孝明についての情報がほしいと申し出て、彼が素直に応じるだろうか。

 瑞葉はまた、あの男――川島長七の連絡先を表示させていた。

 長七は風雲寺という寺院の青川市内における異常性を指摘していた。青川市内で寺院を続けていくことは容易ではない。過激な神道系の新興宗教である火清会は、仏教を不倶戴天の敵としている。そのため火清会が発足して以降、市内の寺院の多くが文字通りの焼き討ちに遭っている。

 現存している寺院は数少ないが、それらはどれも火清会との敵対を大っぴらにではなくとも宣言している。

 だが、風雲寺はそれをしていない。

 何も見えない――長七はそう評していた。

 風間は高山と個人的に親しかった。現在は絶縁状態だというが、それをどこまで信じていいものか。

 瑞葉の情報を、風間が高山に流す――考えたくはないが、可能性はある。そうした裏切りを見返りにお目こぼしを受けてきたのだとしたら、瑞葉は最も危険な相手と協力関係を結んだのではないか――。

 いや、さすがにそれは考えすぎだと信じたい。風間は火清会との対立を瑞葉と長七の前で明言している。

 それに、認めたくはないが川島長七個人が協力関係を結びたいと申し出た相手だ。あの男は罠の中にも平気で飛び込むだろうが、それ以上に罠の構造を解体して吊し上げることを好むだろう。その長七が今日まで何も言っていないということは、風間という人物に罠は仕込まれていないと考えたほうが自然だ。

 瑞葉と風間をぶつけて、共倒れになったところを笑って眺めることを楽しみにしている可能性もまた捨てきれないが、その時は風間と手を組んであの男を速やかに殺せばいい。

 携帯電話を閉じてベッドの上に放り投げ、自らも倒れ込むと、瑞葉は眼鏡をしたままうとうととし始めた。

 昨夜は資料の作成に時間を使ってろくに寝ていない。それは日中にいくらでも眠る時間があるという今の生活リズムゆえの自堕落さと言えた。太陽は高く昇っているが、誰が構うわけでもない。

 寝よう――せめて眼鏡は外して。

 携帯電話が振動していたが、柔らかい布団に包まれてせいで瑞葉にはわからなかった。





 川島麻子が祖父母のマンションに顔を出すと、珍しく二人の部屋に先客がきていた。

 広くはない玄関に、見慣れないサンダル。当然だが若い人ではないな、と麻子はそのどこで買うのかもわからない落ち着きすぎた色と形状を見てから中の様子をうかがい見る。

「川島さんのところはいいですよ。みんな昔からの人ですし、きっちり礼儀がなっとるでしょう」

 愚痴か――無言で立ち去るべきか思案していると、台所から祖母が出てきた。

「あら、麻子ちゃん。ごめんね、今おじいちゃんにお客さんで」

「ううん、いいよ。これ」

 麻子は皮のついたままのとうもろこしがいっぱいに入ったビニール袋を祖母に手渡す。

 親戚から届く野菜などは基本、麻子の家のほうに届く。ただ三人暮らしでは全てを消費することができなくなることがままあり、そのたびに麻子はこうして祖父母のマンションにおすそわけにくる。

「じゃあ――」

 帰るね、と言おうとした寸前に、奥のリビングから声が響く。

「あれ、お孫さんですか」

 しまった、と祖母と顔を見合わせる。だが祖母はすぐに愛想よく笑って、来客の対応に向かう。仕方なく、麻子も靴を脱いで中に上がる。

新井あらいさん、少しもらっていってくれません? とうもろこしなんですけど」

「ああ、ちょうだいしますよ。どうも、お邪魔しています」

 祖母の後ろについてリビングに上がった麻子に、祖父よりも少し若い、だが老人ではある男が笑顔で挨拶をする。

「こんにちは」

 笑顔を作り、身を屈めるように会釈する。

「あれ、ご縁さんとよく一緒にいた子じゃないか」

「えっ」

 思わずきょとんとしてしまったところに、祖父が笑い声という助け船を出す。

「よくご存じで。麻子はご縁さんによくしていただいとるんです」

「はあ、なんでこんな若い子がお寺さんによくきとるのかと思ってたんですが、そうですか。川島さんのお孫さんだったとはねえ。なら安心ですわ。感心感心」

 寺、という単語で麻子はやっと理解が追いつく。

「ご縁さん」というのは、すなわち住職のことを示す言葉である。父は元来の宗教嫌いのため口にすることはないが、確かにこの地域の少し上の年齢層では、普通に使われている言葉であったと記憶している。

 つまりこの人は、麻子が昔から世話になっている風雲寺の檀家で、麻子が風雲寺を訪ねている姿をよく目にしていた――ということになる。

 寺の敷地内であまり人を見ることはなかったと記憶しているが、人の目というものはどこにあるかわかったものではない。

「どうも、新井と言います。川島さんとは、そうですなあ、仕事仲間みたいなもんですわ」

 新井と名乗った老人に丁寧に挨拶をされ、麻子は半分しどろもどろになりながら、自分の名前と、現在D大学に通っているということを伝えた。

「はあ、大したもんだ。ああ、D大なら、泗泉駅から急行でしょう。そこからウチがよく見えますよ」

 快活に笑う新井。泗泉駅のホームからよく見えるのは、すぐ前にある麻子の出身校でもある青川南高校くらいだと思うが、高校関係者には見えないし、記憶にもない。

「あそこは本当にいい立地ですもんなあ」

「それで困っとるんですけどねえ」

 これは――察しが悪い麻子でもさすがにわかった。

 マンションだ。泗泉駅からも見ることのできる程度の高層マンション。

 待て――あそこは確か――。

「しかしねえ。ニュースでもやっとるが、オーナーといえども人様の住居に勝手に入ってはならんでしょう。特に新井さんのとこは新しいから、大家と店子というわけにもいかんでしょうし」

「まあねえ。でもそのせいで隣や上や下から苦情が出たらたまらんでしょう。板挟みですよ。はあ、こんな心労があるんなら、オーナーなんぞやるんじゃなかったですわ」

 そこで祖父は麻子の顔を見て、悪い悪いと頼んでもいないのに詳細を話し始めた。

「こちらの新井さんのマンションの一室がな、えらいことになっとるんそうなんだ」

「えらいこと……?」

 無視するわけにもいかず、麻子は立ったままではあるが話を聞く態勢をとる。

「まあ早い話」

 新井は泣き笑いのような顔になり、

「ゴミ屋敷――ですわ」

 と言った。




 以前のように、携帯電話を壁に叩きつけることはなくなった。

 それでも視界はぐるぐる回り、動悸が止まらず、頭がずきずきと痛む。

 瑞葉は携帯電話に届いた川島麻子からのメールに、すっかり日が沈んだ時間になってから気付いた。

 そういえば眠る前に携帯電話が振動していたが、それより眠気のほうが勝ったのだった。送り主の名をちらりとでも見ていれば、眠気など吹っ飛んでいただろうに。

 枕元の眼鏡をかけ、麻子からのメールを確認する。姿勢は布団に入ったまま。眠っていた時と変わらない。

 メールの文面を見た瑞葉は、布団を跳ね上げてベッドの上に正座していた。

 曰く――明日、瑞葉の部屋を訪れたいが、予定は大丈夫であるか――とのことであった。

 混乱する。

 急である。

 突然である。

 いきなりである。

 川島麻子には確かに、このマンションに部屋を借りているとは伝えてある。資料にある麻子の自宅からも、大した距離はない。

 かと言って、麻子が訪ねてくる道理はない。そもそも瑞葉は国家陰陽師――すなわち国の裏側を担う非公式の官僚である。その、下手をすれば国家機密の置かれている瑞葉の拠点に、こうも堂々と参上仕ると言ってくる馬鹿がどこにいるというのだ。

 いるのだ。川島麻子が。

 麻子は聡く強いが、ものを知らない。若さ――というよりは、置かれている環境があまりに生温いのだ。見鬼として生きていくために、血反吐を吐きながら知識と経験を身につけていくという行為とは全くの無縁である。

 宮内庁陰陽寮の名を出されても、あまり得心がいっていなかったことからもそれが窺える。最初に式を打った時の対応も、自立思考する式任せで、自分がいつなんどき命を狙われてもおかしくないのだということを、全く理解できていなかった。

 だから、瑞葉の言葉が届きかけた。

 ほんの少し、自己嫌悪に陥る。瑞葉が訴える、見鬼の人間への優位性について、まともに取り合う見鬼はこれまでいなかった。それが麻子の心に踏み入ったのは、単に麻子が無知であったからだと、瑞葉は気付き始めていた。

 無知な子供に無邪気に自分の思想を植え付けているだけではないのか――己が信じているはずの思想を、いざ他人に許容されそうになるとこうして怯え出す。

 それはそうだろう。あまりに過酷な人生の果てに国家陰陽師にまで登り詰めた瑞葉と、安穏とした環境で平和に暮らしてきた麻子とでは、そもそもの立っている考え方自体が違う。

 見鬼は人間ではない。

 瑞葉はそこに、己の救済を求めた。そうとでも考えなければ、これまでの自分を認めてやることができない。

 だけど、麻子にとってその言葉は、想像の埒外から放たれた、全く予期していない言葉であったはずだ。

 これまで瑞葉が出会ってきた見鬼たちが、みな揃って瑞葉の言説を一蹴したのは、誰もが同じことを考えたことがあったからにほかならない。その上で、自分たちはやはり人間であると胸を張っている。

 瑞葉にはそれが耐えられなかった。自分は簡単に人間を認めることなどできないから。

 だが、麻子は違う。麻子は最初からずっと、自分がただの人間であると純粋に信じ切っていた。それが許される場所で、麻子は生きてきた。

 疑ったことなどなかった。だからこそ、瑞葉の言葉は麻子を揺るがした。出会い頭の第一撃を、たまたま瑞葉が放っただけにすぎない。

 あまりに無知。あまりに穏当。あまりに――純粋。

 瑞葉はそんな麻子を、汚してしまった。

 こんな形で自分の賛同者が増えても、瑞葉にとってはただ後ろめたいだけだ。

 だけど、もし本当に、麻子が瑞葉の言葉を受け入れてくれたのなら。

 それが卑劣なきっかけで、無知を利用した悪辣な手管で、瑞葉自身が永遠に背徳を覚え続けることになろうとも。

 きっと、瑞葉は喜んでしまうのだろう。

 そんな自分が、本当に厭になる。

 瑞葉はそんなことを延々考え続けているうちに、また眠りに落ちていく。

 ここに居を構えてから、一度も鳴ったことのないインターホンのチャイムが鳴った。

 はっとして、ベッドの上から跳ね起きる。眼鏡をかけたまま寝てしまった。視界が少し歪んでいる――フレームが歪んだせいだろう。

 昨夜から電灯を点けていない室内は明るい。朝――か、昼になっているらしい。

 またチャイムが鳴る。誰だ全く――。

 そういえば――昨日のメールを思い出す。川島麻子がここに来る――だが返信はしていない。ならば安心だ。いくらマンションがわかったとしても、部屋までわかるはずがない。

 居留守を使おうかと思ったが、チャイムは飽きずに鳴り続ける。

 鬱陶しいので追い返そう。瑞葉はそう決意して、足の踏み場もない床に下りると、プラスチックを潰す音を響かせながら玄関にまで向かう。

 チェーンはかけたまま、鍵を外して玄関のドアを開ける。

「あっ、よかった。おはようございます。九鬼さん」

 瑞葉は無言で、ドアを閉めた。

 いた。

 川島麻子が、部屋の前に。

 どういうことだとドアノブをぎゅっと握りしめながら考えを巡らせる。

 表札は出していない。全部屋を回って居所を突き止めることはできない。

 式を打たれたか。いや、いくらこんな片田舎に身を置いて時間が経っているとはいえ、瑞葉が自分の領域に易々と式神の侵入を許すほど落ちぶれているわけはない。それに、麻子にはそんな技術はない。

 瑞葉がこの部屋に住んでいると知っている者は――報告を上げている「上」の陰陽師が数人。どう考えてもそこから麻子へのラインは出来上がらない。

「九鬼さん、あのー、部屋の掃除に来たんです。その……言いにくいんですけど、ほかの住人の方が迷惑しているそうなので」

 瑞葉はそこで、目の前に広がるゴミの山を見た。たまりにたまったゴミは、袋に収まっているもののほうが少ない。床にはプラスチックが地層のように積もり、窓を開けた拍子に飛び出したのであろう生ゴミがベランダに虫の集団を呼び寄せていた。

 やられた――マンションの管理人だ。それ以外に考えられない。この部屋を借りるにあたって、偽名は用意していない。そもそもが偽造身分で守られている国家陰陽師である瑞葉が、わざわざ姓名を偽ってまで生活することは面倒なだけだと契約したのだった。加えて、「契約」と名の付くものにはどうしても本名を明かさねばならないという、律儀な習性のようなものが備わっている。

 麻子の祖父母は違うマンションで管理人をしている――確か資料にそう書いてあった。そのルートから、麻子の耳に入ったのだ。管理人の話を聞くうちに、麻子はもしやと思ったのだろう。そして訊ねたのだ。

 ――その部屋の借主の名前は?

 そうなれば九鬼瑞葉という名前が麻子の耳に入る。気のいい麻子のことであろうから、迷惑しているという話を聞いて、ならば知り合いである自分が清掃作業を行うように言いに行くと請け負った。

 高速でここまでの経緯ゆくたてを推察した瑞葉の頭は、オーバーヒートを起こしたかのように熱くなっていた。左手でドアノブをしっかりと押さえたまま、右手で頬に触れてみると、反射的に手を引っ込めてしまうほど熱く感じる。

 川島麻子は、いったいどれだけ瑞葉を辱めれば気が済むのだろう。

 自分の生活態度が招いたとはいえ、この有様を見られ、さらには清掃までされたら、瑞葉は屈辱と羞恥のあまりに燃え尽きてしまうのではないか――それほどまでに瑞葉の身体は熱せられていた。

「川島さん」

 声が上擦っていないことを耳で確認する。大丈夫だ。感情と態度表情を切り離すことなど造作もない――。

「帰っていただけますか」

「そうはいきません。九鬼さん、今まで何回注意されても片付けなかったそうじゃないですか」

 そんな記憶はない。ポストにでも書面が入っていたのだろうか。直接言われたところで、全く聞き耳持たなかっただろうが。

 ならばなぜ今、麻子の言葉にここまで周章しているのだろう。

 そこでドアの向こうの麻子が、小さく笑った気配がした。

「すみません。なんだか意外で。九鬼さん、いつもすごく綺麗だから」

 骨という骨が火中の薪のように爆ぜそうだった。瑞葉の全身は羞恥の炎で焼かれ、今にもパキパキと音を立てて崩れ落ちる寸前となっている。

「あっ、でも、失望したとか、そういう話じゃないですよ? むしろ、そういうところを知れて、ちょっと嬉しいな……とか」

 この女はいったい何を言っているのだ。

 瑞葉をさんざ辱めておいて、それを嬉しいと宣う。頭がおかしいのか。ならば今まさに羞恥に身悶えする瑞葉の無様な姿を、ドアの向こうから愉しんで悦に入っているのか。

 ああ、いけない。ドアを開けてはならない。この女を招き入れてしまえば、瑞葉はさらに何重もの羞恥に苦しめられることとなる。

 だのになぜ、瑞葉の手はドアのロックを外し、チェーンにまで伸びているのか。

 最も見られたくない相手に、自らの恥部を見られるというのに――瑞葉がドアを開けると、ペットボトルが音を立てて通路に転がり出た。

「よし! ちゃちゃっと終わらせましょう!」

 ドアの前に立っていた麻子は、凄惨な瑞葉の部屋の中を見ても顔を顰めもしない。

 瑞葉は麻子を汚してしまった。

 だけど今日、あなたは確かに私を汚したのだ。

 ゴミを片っ端からビニール袋に詰めていく麻子を見ながら、瑞葉は身体に消えることのない火傷を負った感覚を味わっていた。

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