第34話 星の夜願い込めて



 メールの返信がきた時、川島麻子はほっと胸を撫で下ろした。

 三日前、麻子の携帯電話に、九鬼瑞葉から着信があった。

 その間、麻子はゆったりと風呂に入っていた。風呂から上がると、従兄の川島長七が麻子の携帯電話を手に取って、寸分違わず元あった場所に戻していた。

 携帯電話にはロックをかけてある。長七は悪質な人間だが、それを突破することはできない――はずだ。

 長七は麻子の視線に気付くとにやりと笑い、すぐに家を出ていった。自宅からこの家にくる時に使っている自動車のエンジン音が聞こえなかったので、歩いてどこかへ出ていったのか。

 麻子は怪訝に思いつつ、なにか妙なことはされていないか確認するために携帯電話を開いた。目に見える変化はない。友人から届いていた未読のメールも開かれていない。いや、開いたメールを未読状態に戻す機能があったか――とはいえ、別に読まれようと問題はない他愛のないものだったので、絵文字も顔文字も使わない淡白な返信を送る。

 電源ボタンを二回押して待ち受け画面に戻り、携帯電話を折り畳む。

 長七は帰ってくると、夕飯を食べるだけ食べて帰り支度を始めた。だが、長七は夕飯の席で酒を飲んでいる。父と麻子が下戸なので一人で飲むのも面倒だと普段あまり酒を飲まない母に完璧なタイミングで酌をしながら、自分は相手を寄せ付けないハイペースの手酌でビールの空き缶を並べていった。

「というわけで麻子ちゃん、今度家にくるついでに車返しといて」

 田舎でなくとも地方では自動車は必須とも呼べる交通手段だ。麻子も免許はすぐに取ったし、三人家族のこの家にはワンボックスと軽の二台が置いてある。大学の中には免許を取った記念にと新車を一台プレゼントされた者も少なくない。免許所有者よりも持っている車の数のほうが多い家庭も決して珍しくないほどである。

 長七の家はここ青川市よりも交通の便が悪い赤森市にあり、家には長七が拝借してきたカセットテープが聴ける中古車のほかにも十年以上前の新車と親戚からもらったという軽トラックがあったはずだ。免許を持っているのは叔父と叔母の二人なので、頭数は足りている。

 長七は酔いは感じさせないが、どこか上機嫌な足取りで泗泉駅へと歩いていった。電車を使うということは、青川市街に点在する長七の「師匠」が借りている事務所――というよりはアジトで寝泊まりするつもりなのだろう。

 それから三日、長七からの音通はない。

 便りがないのはよい便りであるのは確かで、むしろ長七からの便りは決まって麻子にとっての凶報でしかなかった。

 ならばこのワン切りはどういうつもりだろうかと、麻子は瞬間振動した携帯電話を開いて首を傾げた。

 着信履歴を開くと予想通り長七の携帯電話からかけられたものだった。呼び出し時間は一秒と表示されている。あの男ならば〇秒で切断することも可能だと麻子は知っていて、つまり一秒は麻子の気を引きたかったということか――と、その下を見て麻子は思わず困惑の声を上げた。

 三日前の着信。麻子はそもそも携帯電話で通話はあまり行わないので、それが二番目に新しい履歴であった。

 発信者の名前は九鬼瑞葉。

 呼び出し時間は四〇六秒――実に六分以上。

 そしてあろうことか、その着信は応答済みになっていた。

 そうかと麻子は頭を抱える。携帯電話のロックは解除されていなくとも、呼び出し中の着信への応答は可能である。そうなった場合不在着信として待ち受け画面に表示されることもない。あの時長七は、瑞葉からの呼び出しに気付いて勝手に応答に出たのだ。そしてその後のいやに楽しげな態度――思い出すと寒気がしてきた。

 電話を折り返そうとして――麻子は駄目だと自戒した。時刻は午前十時過ぎ。麻子は現在大学の構内にいる。

 他人に聞かせられない内容になる恐れがあることがまずあって、その上で瑞葉は名目上は官僚であり、D県に出向してきたのもれっきとした職務があってのことである。そしてその業務は恐らく、「汚れ」たものであるに相違ない。

 邪魔になってしまうことよりも、この時間に電話をしても無視されるだけだという確信があった。そこで麻子は講義中にずっと頭を捻りながら、失礼のないように長七の行ったであろう蛮行への謝罪と、その詳細を訊ねる文面を作成した。

『いいえ』

 夜になって返信されたメールの文面はこのたった三文字だけだった。如何様にも受け取れるが――察しの悪い麻子は必死に考え――謝罪の必要はないということと、詳細は話せないという二つを一緒くたにした『いいえ』であると判断した。

 瑞葉が怒っているのかはわからない。面と向かっても氷のような人であるから、察しの悪い麻子に推し量ることは元より難しく、加えていまは材料があまりに少なすぎる。6バイトに含まれる情報は、きっと見た目よりも少ないに違いない。

 ひとまずは瑞葉が無事――というのも妙ではあるが――であることを確認できた。以前に送られてきたメールのことを思い出し、麻子は苦笑する。あの時は、『はい』の二文字だけだったか。

 2バイト増えた――意味はないだろうが、麻子はそれで満足した。





 死後の世界を信じるかと訊かれれば、否と答える。

 死後の世界を観測したかと訊かれれば、是と答える。

 九鬼瑞葉の仕事はそうしたものだった。

 輪廻の狼――そう呼称される存在との接触が、過去数度陰陽寮にはあった。彼女からの情報を最重要機密として保管していた陰陽寮は、今回の出向にあたってその情報を瑞葉に与えた。

 瑞葉は特になんの感慨も湧かなかった。

 陰陽寮はその性質上、機関内で保持する最重要機密がそもそも膨大な数に及ぶ。それゆえ最重要機密を与えられることは、珍しいことでもなんでもない。かつては機関内の派閥構成が与えられた機密に由来しており、派閥闘争の駒として目ぼしい職員を抱き込むために、洗礼として機密の譲渡が横行していた時期もあったという。

 今回の瑞葉への情報は、ほとんど三くだり半のようなものだった。

 国家陰陽師は全員ではないが、その大半が見鬼である。そのため死生観は彼らにとっては非常にナイーブな問題であり、瑞葉のくだらない思想よりも重視すべき議題であった。

 そこであえて瑞葉に、死後の世界の観測結果を伝える――政治的意図よりも、悪意に溢れた意趣返しであろう。

 そんなもので揺らぐ瑞葉ではない。だが相手の嫌味は存分に感じ取ることができる。人間のふりをするのも難儀なものだ。

 左遷するので、誰もやりたがらない仕事をついでにやってこい――瑞葉は承知するしかなかった。この機密を知った確固たる地位のない陰陽師は恐らくもう、陰陽寮には戻れない。

 火清会。内部における接近遭遇の有無と段階の判定。有であり第四種以上であるのなら――「仕分け」せよ。

 期限はない。ゆえに急ぐ必要もない。むしろ慎重に慎重を重ねなければままならない相手である。

 瑞葉は当面は様子見に徹するつもりでいた。査定もなく下がらない高給に加えて、このマンションなどは公金で手配されたものだ。生活にはまるで困らない。左遷にしては随分と贅沢な待遇であった。

 しかし――瑞葉は忌々しさに歯ぎしりをする。

 川島長七。あの男に瑞葉は目をつけられた。

 あの人間は、瑞葉が最も忌むべき存在である。殺すことが可能な状況になれば、瑞葉は一切の躊躇なく首を刎ね飛ばす。そしてそんな状況を生み出すヘマをしない相手であることも理解した。だからこそ何重にも忌々しい。

 長七は火中の栗を拾うどころか、栗を焼くために山を燃やすだろう。そんな相手に捕捉されてしまったことで、瑞葉も悠長に構えてはいられなくなった。

 長七と組んだことで、互いの牽制と同時に、互いの活動に義務が生じてしまった。瑞葉がなにも行動を起こす素振りを見せなければ、長七は火清会に瑞葉の情報を流して激流を起こすくらいのことはする。明確な敵として認識している相手だろうと、利用できるのなら利用しない手はない。

 火清会に対して陰陽寮は完全に不干渉である。全国規模の宗教法人であろうと、いち新興宗教をことさら警戒する必要も敵視する必要もない。火清会の信者は政界にも潜んでいるが、その程度の支援に頼らなければならない人間が陰陽寮の存在にたどり着くことはないだろう。火清会が陰陽寮の存在を認識していることはまずありえない。

 それゆえに、長七の介入は厄介極まりなかった。

 瑞葉は陰陽師であることを隠して動く。宮内庁職員という事実である肩書以外にも、偽造身分は用意してある。

 身分を秘匿するのは情報アドバンテージで優位に立つこと以上に、陰陽寮の存在を気取られてはならないという不文律のためでもあった。国家機関として存在しながら、決して公にはされない裏の領域――明らかになってしまえば、最悪国家への不信へと繋がりかねない。

 だから、川島麻子には話した。

 身分を明らかにすることで優位に立ちたかったのか、相手の出方を見て見識のほどを確かめたかったのか。

 あるいは、ただ話したかったのか。

 瑞葉は開いたままの携帯電話を見ながら、固まっていた。

 新調したばかりの携帯電話。SIMカードが無事だったので電話番号もメールアドレスもそのままだ。そこに登録された連絡先は、本当に数えるほどしかなかった。携帯電話ショップの店員に、機種変更よりも改めて新規入会したほうが得であると勧められもした。

 瑞葉は迷わず機種変更を選んだ。

 電池が切れそうになり、充電ケーブルを差し込んでまた同じ姿勢に戻る。

 川島麻子からのメール。文面は彼女の年代には珍しい、絵文字も顔文字もない、簡素だが実直なもの。

 長七の行いについての謝罪。そして長七との会話の内容を開示する要求。

 麻子は長七が具体的になにを仕出かしたのかは知らない。それでも平謝りであることから、あの男の悪質さについてはよく理解していることがわかる。

 そのメールを何度も何度も読み返して、瑞葉は返信画面を呼び出す。

 携帯電話での文字入力には不慣れだったはずが、実際にやっているうちに完全にものにしていた。

 瑞葉は書いた。麻子に要求された全てを。執拗なまでに詳らかに。

 書いているうちにまた書きたいことが増える。長七について瑞葉が抱いた所感。瑞葉に下された出向の本当の意味。輪廻の狼によってもたらされた情報――。

 気付くと、文字が入力できなくなっていた。

 打った文字がその場で消えてしまう。そこで我に返ってメール全体を眺めてみると、凄まじい長文がびっしりと並んでいる。残り0バイト。メールに書ける上限の容量を越していた。

 急に――冷めた。顔が耐えがたい熱を持っているのは小さな画面の見すぎだろう。

 メールを破棄する。新たに返信画面を呼び出し、素早く文字を打ち込む。

 送信して、瑞葉はベッドに倒れ込んだ。忘れていた空腹と喉の渇きと尿意を覚える。メールを確認したのは午前だったはずが、六月の長い夕暮れもとっくに過ぎ去っていた。

 川島麻子は間違いなく第三種以上の接触者である。彼女もまた瑞葉の仕分けのうちに含まれる。

 だが、それは最終段階においての話。

 彼女に近づいたのは、瑞葉の思想への承認を欲したからにすぎない。

 瑞葉は人間ではない。そう信じている。信じなければ――あまりに悲惨にすぎる。

 見鬼は人間ではない。そう言って耳を貸す見鬼はいなかった。周回遅れの問題提起。誰もがとうの昔に折り合いをつけた他愛のない危険思想。

 瑞葉はほかと違って折り合いをつけることなどできなかった。人間ではないから。大人でもないから。

 瑞葉ひとりだけが人間ではない。同じものを見ることができない人間。同じであるはずのものを見ることができる限られた人間。そのどちらも瑞葉を承認しない。

 見鬼と会った。何度も会った。陰陽寮から見鬼に干渉してはならないという掟を無視し、データベースに登録された見鬼たちに身分を隠して接触した。

 同僚や上司はそれを黙認した。単に呆れていただけだったと思う。すぐに瑞葉も折り合いをつけるだろうと、成長を願った部分もあったのだろう。

 実際に思惑通りになった。瑞葉の言葉に取り合うような者はいなかった。

 それでも瑞葉が自分を人間だと思える時は訪れなかった。

 周囲と瑞葉との認識は、最初から手段と目的が逆だった。

 瑞葉はまず、結論を持っていた。揺らぐことのない、自分が人間ではないという確信。

 目的は知見を広めることなどではない。ただ、瑞葉が人間ではないと――そして自分も同じなのだと請け負ってくれる誰かがいてほしかった。

 それだけだ。承認されさえすれば瑞葉は満足する。それ以上の感情を起こすはずもない。

 しかし――いっとき忘れていたもどかしさがまたぶり返す。

 瑞葉はそれから片時も携帯電話を手離さなかった。

 こないかもしれない、麻子からの返信に怯えて。





 まるで鏡像のように、致命的に食い違っている。

 長七は大太良大学のキャンパスで待ち人を気長に待っていた。

 年齢的には長七も、周囲を行き交う大学生と違いはない。だが彼らは長七に必ず不審の視線を寄越した。

 もうそこまでズレているのかと長七はにやにやと笑う。彼らを羨ましいとは思わないし、いわんや優越感を覚えることもない。

 ただ単に、位相がズレてしまっているだけだ。長七のほうがどう思おうが、彼らが自分たちと異なる相手に嫌悪を向けるのは極めて真っ当なことである。それを非難して回るほど長七は暇ではないし、お人よしでもない。好きなだけ排除し続けて自分たちの中だけで生きていけばいい。

「その癖、まだ治ってないの?」

 聞きなれた穏やかなトーン。違うのは、声だけ。

「そうだね。どのくらい前からだろう。いとこだった時からか、さっき『キモい』と笑われた時からか。そうしたわけで俺と一緒にいるところを見られるのは不都合しか生まないと思うよ」

「呼び出したの長七君じゃない……。まあ、大丈夫だってことくらい知ってるでしょ?」

 長七はにやついたままの顔を上げる。

 長く艶やかな黒髪。端正な目鼻立ち。たとえば警察で証言から似顔絵を作成することになった時に、提供できる情報はまるで同じにしかならないだろう。

 残念ながら長七の知るその二人は、決して噛み合うことはない。両者を視覚情報から再現しようとすれば同一であるはずが、同時に目にすれば決定的なまでに位相がズレていることに気付く。

 長七はなぜか、使命感のようなものを覚えていた。この二人を決して対面させてはならない。その邂逅が起きた時、致命的なパラドックスが生じるような気がしてしまう。

 鏡に映った自分は、決して自分のそのままの姿ではない。気付く必要もなく、気付いたところでなんの問題もない差異。

 その差異がそのまま顕現した両者が、互いを認識した場合――長七が覚えるのは好奇心ではなく、恐怖だった。

「電話にも出ないしメールもろくに確認しないから、直接言いにきた。ここで会うようにメールで連絡入れたの一週間前だからなあ。まるで信用ならないから、大事な連絡は口頭でするしかない。三条さんも頭を悩ませてるそうだから、いい加減そこは直したほうがいいよ」

「それだけのために?」

「これは愚痴だね。これから青川のほうでいろいろと面倒事が起こりそうだから、首を突っ込まないようにしてほしい――というのが本題。正直、出てこられると役不足なんだよね」

「えーっと、それは誤用じゃないほう……?」

「まさしく。というか、遺恨はないのに能力だけはあるような人間が首を突っ込むと、味気ないじゃないか」

「火清会――か」

「その通り。俺としては俺も含めてしっちゃかめっちゃかになってほしいから、第三者の意見は聞きたくもない。それに、こっちの深みにまで足を突っ込むような面倒はかけたくない」

 困ったように笑う。様々な屈託を感じさせる、触れれば砕けてしまいそうな笑顔。一番わかりやすい、そして深刻な差異だ。

「まさか、心配してくれたの?」

「もちろん。火清会への妄執に囚われた俺たちが内輪でわいわい盛り上がっているところに、水を差されたらたまらないからね」

「本当にもう――」

 長七は立ち上がり、踵を返そうとした体勢で固まる。ぐるりと身体を戻して、言い忘れたことを告げておく。

「卒業したら官僚とかいいんじゃないかな。まゆらちゃんなら一種狙えるんじゃない?」

 寸の間呆気にとられるが、すぐに小さく笑う。

「宮内庁の官僚さんなら、もう会ったよ」

 長七は珍しく機先を制されたことにぐうと音を上げて、元通り踵を返した。

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