第33話 青川市遊撃隊


 大太良市を含む広大なエリアを一人で管轄している割には、どうにも頼りない印象を受ける。

 まずこうして向き合っているというのに、敵意の欠片も抱いていないところ。第二に、見鬼ではないので唸りを上げて首元に向いている刃にさえ気付いていないところ。

 所詮は人間の範疇にしか収まらない、廃村の太夫風情である。式の扱いを心得ていようが、自らの血肉から解を導くことすらできない。

 人間風情――そう言い換えてもいい。目の前に座っている女を、同じ人間だとでも思っているような、その程度の存在。

「どうでした? 川島さんは」

 目の前の男はそう言って柔和な笑みを見せる。人の皮を被っている以上、九鬼瑞葉はそれに返答しなければならない。なんとも面倒な話だ。

「はい。見識もなく、尊厳も持ち合わせない、同じ見鬼として恥ずべき同類です」

「ははは、川島さんはそう思っていないと思うけどなあ」

 おや――表情は変わらないものの、瑞葉は目の前の男に若干の興味を向ける。立場の違いを理解していないはずではないだろうに、瑞葉を挑発すると受け取られかねない、恐らくは冗談を飛ばすとは。

「三条さんは彼女のことを理解しているとでも?」

 なので瑞葉も自然、挑発染みた問いかけをぶつける。

「いや、それはないですね。川島さんはあれで複雑ですから、僕に隠していることも相当あるだろうし。まあ、ビジネスパートナーとして上手く付き合ってはいるつもりです」

 そう、この男は見鬼を商売道具として使っている。自分に幽玄の世界が見えないのをいいことに、見鬼を手足として使い潰す。目となるべき当人は盲いているというのに。

 三条――こちらが得ている現行の個人情報はその苗字だけである。名も所在も知れないこの男は、かつて滅びたある地方の太夫の一統――その最後の生き残り。

 彼らには「目」はない。ゆえに、「使い方」のみを極めている。敵に回すとなれば厄介ではあるが、こうして顔を突き合わせていれば益体もない。なんなら今、首元で渦巻く刃を少し傾ければ、それで事はすむ。

「ひょっとして、これって癖ですか?」

 三条が困ったように笑いながら首を掻く。

「何がでしょう」

「いや、初対面の相手の生殺与奪件を握っておかないと安心できない人なのかなと疑問に思いまして」

「気付いていたのですか」

「今さっきです。ちょっと触れたので。一応いつ命を狙われるかわからない商売ですから、急所には式を忍ばせているんですよ」

 ふっと息を吹きかけると、三条の首元の刃は霧散した。

 存外油断のならない相手であると認識を改める。瑞葉の目には、三条が仕込んでいるという式は見えなかった。

 式神――瑞葉の用いるそれは、瑞葉が認識し、指示を出し、それを遂行する、見鬼にとっては可視化できる存在であるが、この男の用いる式は瑞葉にも可視化ができない。

 それは別段不思議なことではない。「式」である以上、それはつまり解を導き出すための手段であり、何も可視化する必要はないからだ。だが見鬼である瑞葉のような存在にとっては、自ら――あるいは同族に可視化できる存在を式としたほうがあらゆる面においてスムーズに事が運ぶ。

 三条は見鬼ではない。それゆえ、「式」を突き詰めたものを使っている。

 認めよう――単純な技術のみにおいて、三条は瑞葉の上を行く。敵に回した場合、見えることを前提とする瑞葉たちにとっては天敵足り得るレベルの危険性を持っていると言っていい。

「失礼しました。見鬼であるかどうかを確かめるのには、命の危機を認識できるかどうかを確かめるのが手っ取り早いので」

「なるほど、確かにそうかもしれませんね。おかげで僕は手の内を明かさなきゃならなくなってしまった」

 快活に笑う三条を見て、瑞葉が味わったのは屈辱感だった。口ではそう言っておきながら、この男はまだ手札をいくらでも持っている。瑞葉程度は歯牙にもかけないのだと言外に侮蔑している。

「それで今日になってようやく僕と顔合わせをしてくれたのは、どういったご用件で?」

 三条は笑みを浮かべたまま、表情に陰を作る。

 陰陽寮には、各地の見鬼の情報を集めたリストが存在する。それは管理するためのものではなく、有事の際に素早く見鬼へと陰陽師を差し向けるための単なる名簿のようなものである。そもそも公式には存在しない陰陽寮は、存在を悟られることを何より忌避する。そのため見鬼であろうと、陰陽寮から接触を図ることはほとんどないと言っていい。名簿はあくまでおおまかな見鬼の総数を把握するためのものでしかない。

 その名簿を作るにあたって陰陽寮に情報を流すのが、各地で見鬼を管理する民間の自治集団である。大きな組合を作り町一つを取り仕切るものもいれば、三条のように一人で広大なエリアを管轄する個人もいる。

 そのエリアの管理者を把握し、彼らに接触することで陰陽寮は情報を流してもらっている。だが当然、密な関係を築いているわけではない。互いの担当者の顔すら知らない場合がほとんどである。

 互いに干渉はしたくない――民と官という立場の違いがある以上、これは仕方がない心理ではある。瑞葉は特にそうした感情を抱いていたわけではないが、接触しようとして敬遠されるのも面倒だったので、三条の存在は知っていたが放っておいた。

 だが今日、瑞葉は自ら三条に会って話がしたいと申し入れた。今の今まで三条のシマで好き勝手していたことになるのだが、そんなことで文句を言われる筋合いはない。三条もその辺りは弁えており、表情に差した陰はあくまで密談のステップを踏んだことを示している。

「川島麻子について、知っている限りの情報をいただければ、と」

 それを聞くと三条は力が抜けたように相好を崩す。

「いや、お渡しした資料で全部ですよ。僕と川島さんはあくまでビジネスパートナーですから、踏み込んだ話はしませんしね」

 川島麻子――D県青川市居住で、三条の仕事を請け負っている見鬼。青川市にはもう一人、三条の下で働く見鬼がいるが、そちらは現在県外へと出ている。

「しかしまさか、川島さんを仲間に引き込むつもりではないでしょうね?」

 にっこりと笑う三条から敵意は感じ取れない。好奇心すら感じさせる、悪戯っ子のような笑みだ。

 なるほど、上も馬鹿ではない。瑞葉の思想は、陰陽寮内でも徐々に危険視されつつある。そもそもの見鬼とそれ扱う陰陽寮いう特異性から、排斥される段階まではいっていないものの、危険分子であるとマークはされている。

 その瑞葉が青川市くんだりまで出向したのは無論火清会の実地調査のためではあるのだが、一度中央から離れて頭を冷やせという上からのお達しでもある。その辺りの事情は、三条にも伝わっているのだろう。見鬼ではないのに、見鬼を手足として使う――瑞葉にあてがわれる現地での世話役としてはぴったりだ。それはつまり、瑞葉にとってはやりにくいことこの上ないだけなのだが。

「彼女は、揺らぎました」

 瑞葉が淡々と事実を述べると、三条の目の奥に鋭い光が宿る。

「なるほど。僕が思っていたより、川島さんはまだまだだったということでしょう。いや、むしろ好都合かな」

 含み笑いをする三条を見て、本当に油断のならない男だと警戒心をさらに強める。瑞葉に麻子の情報を提供したのはこの男だ。最初は陰陽寮側から依頼された命に従っただけだと思っていたが、三条は最初から瑞葉の危険思想を伝えられていた。それを織り込んで、瑞葉に麻子の情報を渡した。

 麻子が瑞葉の思想を一笑に付すと見込んでのことでは、恐らくない。麻子が未だ不安定な立ち位置を取っていることを理解し、その上で瑞葉をぶつけた。

「川島さんは今一歩踏み切れないんですよ。今のスタンスも悪いわけではないし、上手くやれているとは思います。でもね、僕みたいな手合いの仕事を受けたりしていれば、いずれ必ず、大きな決断を迫られる時がきます。その時、彼女が今のままでは、多分答えは出せません。その点、九鬼さんはわかりやすい。いい刺激になってくれれば、僕も仕事をやりやすくなります」

 三条は笑って、鞄からコピー用紙を数枚取り出した。

「僕が独自に調べた川島さんの資料です。有効に使ってください」

 持ってきていたということは、最初から渡すつもりだったのではないか。いや、瑞葉は試されていたのか――屈辱を噛み締めている間に、三条は自分の頼んだコーヒーの勘定だけを済ませて、町の中へと消えていった。





 陰陽寮は元より、宮内庁という肩書も、できれば消したほうが都合がいい。

 たとえば青川南警察署やD県警察などの公僕相手ならば、言外の凄まじい圧力を誇示できるので、宮内庁という肩書は使うに越したことはない。

 ただ、これは当然要らぬ疑念を抱かせる危険が常に付きまとう。警察という組織は特に守秘義務意識が高く、内々だけで噂は消えていくだろうと見越して宮内庁の名を出したが、麻子の話によると得体の知れないフリーライターとやらが嗅ぎつけたという。

 外部に漏れるとなると、宮内庁の肩書というものは急激にきな臭くなる。これは早急に対処しなければならないだろう。

 ひとまず、青川南警察署での資料の整理は片付き、陰陽寮へと隠匿すべき資料も選別した。あとは伝令役に遣わされる同僚がそれを持ち去ればひとまずの仕事は落ち着く。瑞葉への処遇は言ってしまえば体のいい左遷なので、出向期間はたっぷり取られているし、それだけ時間もあり余る。

 携帯電話を開いて、一箇月以上前に受信した一番新しいメールを開く。返信済みの表示。送信フォルダは見ない。

 麻子とのメールのやりとりはあれ以来途絶していた。そもそも瑞葉から麻子に伝えることなど何もない。用件もないのにメールを送る神経は、瑞葉には理解できない。

 それでもなぜか、携帯電話を開くと必ず麻子からのメールを開いてしまう。返信済みという表示を見る度に、もどかしさに送信フォルダを頻繁に確認していた時期もあったが、今はもうやめた。自分が返信したメールの文面を見ると、結局余計にもどかしさを覚えてしまうからだ。

 麻子のメールに、瑞葉が返信した。それでこの話は終わりだ。終わりのはずなのだが、どうしても何かがつっかえてしまう。瑞葉の返信のあまりの素気なさに、麻子がもうこの女と話すことはないと見切りをつけていたら――非常に問題だ。瑞葉が行動するにあたり、麻子の協力はやがて必要になる。

 情報の共有――まではいきすぎだが、伝達程度はスムーズに行えなければ、瑞葉の業務に差し障りが出る恐れがある。

 とはいえ、現状、麻子に伝える情報も、伝えてよい情報もないのだ。

 ならば、だから、なぜ――我知らず歯噛みする瑞葉は、メールの問い合わせを実行していた。普通は、麻子のほうから瑞葉から情報を引き出そうと接近してくるのではないか。そのための連絡手段がこうしてあるというのに、麻子からのメールはない。

 あるいはやはり、瑞葉の文面から返信する気をなくしたか。

 結局思考はそこに行きついてしまう。禁じていたはずの送信フォルダの確認をすると、麻子のメールへの返信――「はい」の二文字だけの送信済みメールに完全に嫌気が差して、そのメールを削除していた。

 全く意味のない行為ではある。瑞葉が返信したという記録を瑞葉の携帯電話だけから消去し、フォルダ容量が少し空いただけ――麻子にこのメールが届いたという事実は、何も変わらない。

 だが、これで無意味な確認作業に苛まれる要因は取り除けた。

 携帯電話を閉じて、机の上に投げ出す。

 三条から渡された麻子の資料を取り出し、ゆっくりと目を通す。全てそらで言えるほどまで読み込んでしまったのだが、閑職に追いやられた状態の瑞葉には、気を抜くと残酷なほどの時間があり余る。

 気付くと再び携帯電話を手に取って、また受信フォルダを開いていた。流れるように送信フォルダも確認するが、そこにはもうあのメールは残されていない。

 いつも行っていた確認作業にわずかなずれが生じたことで、別の方向に意識が傾いた。すなわち、電話帳の確認である。

 連絡先一覧に登録された川島麻子の項を見て、喉がからからに渇くような焦燥を覚える。焦燥――なのだろうかこれは。瑞葉は至って冷静であるし、目に見えるような表情の変化は、たとえ一人の時でも起こさない。

 川島麻子と交換した連絡先には、メールアドレスだけではなく、電話番号も含まれていた。

 今の今までそれに気付かなかったのは、迂闊と言うほかない。

 電話ならば、メールのように返信を待つ必要はない。話すことがほぼリアルタイムで相手に伝わり、声と声での応酬が可能となる。

 相手が電話に出た時点で、余計な思考は必要なくなる。そこでの会話を淀みなく行えて当然の社会人としての技能は持っている。

 だが――一度繋がってしまえば、そう易々とは引き返せなくなる。

 なぜ電話をしたのか――要件はなにか――これらの質問に答える用意は全くない。

 そもそもなぜ、瑞葉は麻子に連絡を取りたいのか。取りたい――のか。連絡経路の確実な形成が必要なのはわかっている。ならば単に、こちらから新たにメールを送ればいいだけの話ではないか。

 しかし、それは多分無理だった。一体どんな文面で、これから緊密に連絡を取り合いましょうなどと書けばいいというのだ。事務的な文書として送るには、その内容はあまりに馬鹿げている。かと言って正面切ってそれを文章にすることは、たとえできたとしても、送ることは絶対に不可能だった。もしまた返信がなければ、瑞葉は永遠にこない返信を待ち続けるだけでこの一年を使い切ってしまうだろう。

 面と向かえばなにがあろうと平静でいられるし、相手のリアクションを嘲るだけの余裕すら生まれるというのに、なぜコミュニケーション手段が別のものに置き換わっただけでこうも頭を悩ませなければならないのか。これは絶対に技術の進歩に見せかけた後退でしかない。

 ならば、文字よりももっと生に近い言葉に縋るしかない。瑞葉は滑らかな動きで、麻子の番号へと発信する。

 言葉を交わし合うのなら、瑞葉が遅れをとることはない。どんな不自然な態度にも、自然に受け答えをする程度は容易い。

 そう言い聞かせている内に、呼び出し音は何十回ループしただろうか。

 電話に出る気配がない。今日は休日であり、大学に向かう用事もないことは確認ずみである。時間は夕刻。かけている番号は携帯電話のもの。外出していようと携帯はしているはず。

 あと十回、呼び出し音が繰り返されたら切断しよう。やっとそう決心した瑞葉は、結局同じところへ戻ってきてしまったことを痛感した。麻子の携帯電話の着信履歴に瑞葉の名前が表示される――これは一度発信した時点で、絶対に覆せなくなった。それを見た麻子がどう反応するのか。今度はそれが頭から離れなくなる。

 折り返しがなければ、瑞葉の中に見限られたという疑念が渦巻く。それを払拭しようとするためには、今以上の面倒なステップを踏まなければ行動を起こせないのは明白だった。その途中に去来するわけのわからない思考に、瑞葉はもう耐えられる気がしなかった。

 最後の一回――呼び出し音がわんわんと耳の中で反響していた。そういえば着信時間が表示される機種もあるのだったか。絶対にまともな感覚ではないなと数えるのをやめようとする。

「お世話になってます、川島麻子です」

 電話の向こうの声に、瑞葉の全身からあっという間に余計な思考が引いていく。それは相手への対応へと頭が切り替わったわけではない。全てが、無へと帰しただけだった。

「もしもし? どうも、川島麻子ですよ」

 その声は、聞き覚えのない男のものだった。

「というわけで麻子ちゃんは現在入浴中でして。俺はついさっきここにお邪魔したんですけど、防水機能なんて便利なもんはついてませんから、九鬼さんからの電話ということなら別に俺が出ても問題ないだろうと思いまして。携帯電話ってなぜかロックしてても通話には出られるんですよね。技術的欠陥に付け込んだことだし、一度きちんとお話ししとかないとと思ってましたから」

「私を知っているのですか」

「あれ? 麻子ちゃんから聞いてません? 胡散臭いフリーライターがうろついてるって」

 目下の懸念――それが向こうから出てきたということか。

「というわけで、俺の口を封じるいい機会ですし、今から会いませんか。場所はやっぱり寺がいいですよね。今地図見たら泗泉駅の近くに風雲寺っていうところがありました。墓地つきですよ。立ち話にはちょうどいいですね。じゃあ待ってます。連絡用にこの携帯、しばらく借りておきますね」

 それで電話は切れた。

 瑞葉が気付いた時には、手に持っていたはずの携帯電話が壁にぶつかって砕けていた。




 私用の携帯電話であったので、損害は少ない。

 瑞葉の私用ということは、つまり使う機会などほとんどないということに相違ないからだ。これだけ携帯電話を握っていたことはこれまでになかった。業務用に使っている携帯電話ですら、ほぼ相手からの連絡を受けるだけだった。

 自分は人間などではない。瑞葉がその結論を出したのは、かなり早かった。ならば人間とやらが作り出す関係などにかかずらわってやる道理もない。瑞葉はいつも一人であったし、これからもそうだろう。

 人間のふりをするのは簡単だ。瑞葉は処世のための技術は完璧に身につけていたし、同時に相手との距離を引き離す術も最初から持っていた。

 だから、なぜだかわからなかった。

 見鬼という存在は、今の瑞葉にとって別段珍しい相手ではない。陰陽寮では見鬼が政治をしているし、そこから得られた情報で瑞葉は見鬼と接触する機会を少なくない数得ていた。

 けれど彼らは、瑞葉の言葉に耳を貸さなかった。あなたは人間ではないという教唆を、その問答は聞き飽きたとでも言いたげに一笑に付す。

 誰もが答えを持っていた。自分が人間ではないと確信している者も、中にはいたのかもしれない。だが、だからなのか、瑞葉の問いかけは空虚に消えるだけだった。

 それに、答えを出せない――瑞葉が求めていたのは、そんな相手だったのかもしれない。

 だからといって、携帯電話を壁に叩き付けるという行動の説明にはならない。瑞葉は激情を覚えたこともないし、感情を面に出すことも控える。

 連絡先のデータを移行させておいたSIMカードは無事だったことを確かめた時、瑞葉はほっと胸を撫で下ろした。それを眺めていた瑞葉の思考は、そこにいるのは本当に自分なのかと疑問を呈し続けた。

 軽薄な笑みを浮かべた痩せぎすの男は、薄く茶色の入った髪を手で何度も押さえ付けていた。

 風雲寺。その隣接する墓地。青川市ではほとんど見かけない寺と墓場を選んだ理由は、恐らくはこの男なりの問いかけ。

「こんばんは。川島麻子です」

 瑞葉はすでに、男の首筋に式の刃を向けていた。それは相手が見鬼かどうかを見極めるための通過儀礼――だったはずだった。

 男の首を、すぐにでも掻き切ってやりたくてたまらない。人間風情がいくら死のうがまるで存じぬ瑞葉が、殺意を持つということがまず自分でも理解できない。

「人は誰だって人を殺したいものなんです」

 髪を押さえていた手を、掌をこちらに向けて広げたままというふざけた動きで身体の横まで運ぶ。寝癖がうねりを上げていた。

 見えているのかと式の数を増やすが、反応を示さない。ならばこの男は、瑞葉の殺意を見抜いた――よりによってこんな時に、こんな人間が目の前に現れるとは。

「人は人を殺して生きています。人が死ななければ人は生きられません。土地も食料も限りがありますから、それなら殺して奪うというのが一番手っ取り早い。一石二鳥というわけですね。石が一個あれば人なんてものは殺せますから、それで鳥が手に入るのならやっぱりそっちのほうが楽だ。弱いから死んで強いから生きるというのはちょっと違って、殺されたから死んで殺したから生きているだけなんですね。現代の生き死にに強弱は関係ないでしょう。やられる前にやったもん勝ちだから、やっぱり人を殺したいと思うことはそんなにおかしなことじゃないんです」

 電話口でも感付いてはいたが、この男の言葉は意味を成さない。ただ言葉だけを無秩序に並べ、そこに相手がなんらかの意味を見出せば笑い飛ばす。話し合うだけ無駄だが、それでこちらの殺意を有耶無耶にしようというのなら、それも無駄だ。

 男がまた口を開こうとする前に手早くすませようと瑞葉は意識を集中させていく。

「喝!」

 雷鳴のような声が響く。瑞葉は本当に雷に打たれたように、その場に硬直した。集中するだけの余裕は、気圧されたことで削がれてしまう。

 気付くと作務衣姿の僧侶が、男を思い切り引っ張って瑞葉の式の凶刃から遠ざけていた。

「よくないなあ、こういうのは」

 僧侶の顔を見て、瑞葉は言葉を失った。鬼瓦も裸足で逃げ出す、凄まじいまでの凶悪な面相だったのである。

「あなたは――」

「見てわかりませんか。ここの住職ですよ。しかし――ここまで実用的な式も珍しい」

 瑞葉はやはりと身構える。この男は見鬼。しかも見識を持った類いの。

「職業でやっていますね。どこから?」

 瑞葉は沈黙を貫く。

「陰陽寮ですよ」

 軽薄というより酷薄な笑みを浮かべ、男が歌うように答える。

「厄介――いや、安全ではあるか。国家公務員としての意識があるのなら、それを引っ込めてください。僕は技術に関してはからっきしなので、正面からやり合うことなんてできないんです」

 瑞葉は言われた通りに式を霧散させる。陰陽寮と聞いて即座にこちらの立場を理解した相手にまで凶刃を向けることは無駄である。それに乱入された時点で、もう秘された殺害は不可能になっている。

「国家陰陽師の方にまみえるのはこれが初めてですので、失礼があってもお許しを。僕は風間成明と申します。ここ風雲寺の住職を勤めているだけの男です」

 丁寧な自己紹介を終えると、風間はその表情をぐっと固める。

「それで、先程の行為の説明をしていただけると助かるのですが」

「そちらの方が見鬼であるかどうかを確かめていました」

 風間の凶相に怯むことなく、瑞葉は涼しげに答える。掌にじっとりと汗をかいている。見識と、人間への良識を兼ね備えた見鬼。瑞葉が苦手とする相手であるのは間違いない。

「なるほど。本来不可視の凶器を向けることで、それを見ることのできる相手であるかどうかを判断すると。合理的ではありますね」

 納得はしていない。言外の追及に気付かぬふりをして、瑞葉は風間の奥で誰とも知らぬ墓に刻まれた戒名を読んでいる男へと目を向けた。

「そちらの方が、私の――知人の電話に出たので。向こうからここで会いたいと言われて馳せ参じたのですが」

「ですが、彼は見鬼でもないし、使えるわけでもないようだ。失礼ですが内容を教えていただいても?」

「火清会ですよ」

 男がなんでもないようにそう答えると、風間はさらに険しい顔になる。

「陰陽寮が、火清会を? 剣呑ですね。どちらにせよ」

 風間は青川市内で寺院を護っている。それが意味するところは男にも――恐らくは――わかっているはずだ。

「それで、あなたはなんの目的で陰陽寮などに近寄ろうとしているんですか。公けにされない国家機関の意味するところは――」

「青川三十云人殺し」

 そこまで嗅ぎつけていたか――瑞葉は男への警戒の度合いを一つ上げる。

「俺はしょぼいライター見習いなんですけど、これをネタに書いてやろうかと思ってたところに、宮内庁は陰陽寮の陰陽師の登場ですからね。それで、どうにもその人は俺の親戚にすり寄ってきているらしいと」

 風間がいなければ、その時点で男の首を刎ねていた。

「失礼、名前を聞いても?」

「ペンネームは試行錯誤中なので、仕方なく本名を名乗ると、川島長七です」

「川島――」

「ああ、このご近所の川島さん家は親戚です。多分ご想像の川島麻子の従兄ということになりますね」

 これだけ家の距離が近い見鬼同士が、互いの存在を知らないとは考えにくい。風間も麻子のことをよく知っているらしい。

「そうか、麻子ちゃんの身内にこんな爆弾が潜んでいたとは――教えておいてほしかったな。肝が潰れた」

「川島麻子とは、親しいのですか」

 瑞葉の質問に、風間は寸の間きょとんとするが、すぐに笑顔を作った。それでも顔面の凶悪さはまるで中和されていない。

「ええ。僕が勝手に弟子と呼んでいますよ。最近はどうも悪い連中と付き合っているようだが……」

 風間は笑ったまま瑞葉を射竦める。

「どうやら俺たちは麻子ちゃん繋がりみたいですね。九鬼さんが俺の誘いに乗ったのも麻子ちゃんの携帯が人質に取られていたからですし」

 もう何度目か数えるのも忘れた殺意が溢れるが、男はそれを嘲笑うかのようにスマートフォンを取り出した。

「ちなみに麻子ちゃんの携帯は家に置いてきました。なんならかけてみたらどうです? 多分もうお風呂は出てると思いますよ」

 どこまで人を虚仮にするのか――もはや瑞葉は怒りよりも、恐怖を覚えていた。瑞葉が携帯電話を破壊してそれが不可能であることすら見透かしているような――。

 いや、それではこの男の思うつぼである。長七の言葉は意味を成さない。それはその行動も同じ。ただ単に、こちらが勝手に自分に都合の悪い解釈を見出せば面白いと思っているだけで、そこに意図は介在しない。それを疑ってしまえば、長七の投げやりな術中にはまっていくだけになってしまう。

「ところで住職さん、俺が九鬼さんと会うのにここを選んだのは無論川島家の近所だからというのもあったんですが、住職さんに一度お話を伺ってみたいと思っていたからでもあるんですよ」

「ほう、それは僕が麻子ちゃんの師匠を名乗っているから?」

「いいえ。俺は麻子ちゃん方面のことにはまるで興味がないんです。まあ麻子ちゃんはいろいろと便利な伝手を持ってるので、この九鬼さんとの接触含め利用できるだけ利用はしてるんですが、個人的事情はどうでもいいんですね。俺が興味を引かれたのは、この風雲寺の立ち位置です」

 風間は鋭い目で長七を睨む。長七はそれを無視して墓石に腰かけスマートフォンの画面をつけてすぐに消した。

「青川市で寺をやっている人間は、すなわち火清会との対峙を余儀なくされますよね。戦後市街地近辺で燃やされた寺は相当数に及びますし、それが誰によってかわからないのはただの間抜けですよ。まあそれで、青川市内の寺をやってる人間の発言というか、声明みたいなのは結構出てるんですね。火清会に断固抵抗する――なんて大見得切ってるのは少ないですけど、信教の自由やらのお題目を唱えて不服従を示すところは多い。気になってその関係者の動向を調べると、まあ皆さんアンチ火清会顔負けのことをやっているわけです。でも、そうした発言や動きが全く見えない寺が一つあるんですよ」

「地理的な関係じゃないかな。この辺りはまだ――」

「俺の経験則として、全く見えない相手は見えている相手よりよっぽど危険――なんですよ。裏だとか闇だとか、そんな言葉は言葉になっている時点で見えているんです。でも、ここは全くの不可視。考えられる可能性は二つ。癒着か、おぞましく徹底した抗戦か、です」

 スマートフォンの画面をつけ、何事か操作を始める。返答には長考をおすすめする――とでも言いたげに。

「麻子ちゃん、本当に教えておいてほしかったな。残念ながら、どちらも正解ですよ」

「ほう」

 スマートフォンから顔を上げず、長七は唸る。

「火清会の今の会長と僕は、高校の同級生だったんです。親友――だったんですよ。それは疑いようもなく」

 ただし――風間は意識して感情を込めずに続ける。

「僕は火清会を絶対に許さない。彼との付き合いも、長いこと途絶しています。ただ、向こうの計らいを感じたことは二度や三度じゃない。彼との個人的な友情と、火清会という組織への敵愾心は分けているつもりです」

「それは無理でしょう」

「ええ、不可能です。でもね、思想と人間性は無関係です。僕は確かに彼を親友だと思っているが、同時に彼の行いを断固糾弾せねばならない。それを、見えないところでやっているんですよ」

「というわけで、これで俺たち三人、同じ穴の狢です」

「なにを――」

 詰め寄ろうとする瑞葉にスマートフォンを向ける。

「スマホにはいろいろとアプリが入れられて、従来の携帯電話ではできないようにされていたシャッター音の無音化が可能なんですよね」

 それだけで、今までの長七の言動全てが不気味な影を帯びる。今のは瑞葉の顔を写真に収めた――その前は? 先ほどまでの会話を全て録音していても、なんの不思議もない。

「風間さん、口裏を合わせられますか」

「やめなさい。目の前の殺人を見過ごせるほど僕は人間ができていません。それに、すでに別の場所にデータを転送しているかもしれない」

「いやだなあ、脅すつもりはないですよ。保険はかけてありますけど、保険金目当てに殺されたらひとたまりもないですからね。単に、この三人で互いを利用し合おうという提案ですよ。情報の共有、技術の提供、工作のお手伝い、抜け駆けはなし、で。俺に関して言えば、お二人に無断で記事を書いたりはしませんよってことです。実際、ライターで食えるほど甘くはないですし、俺は本来単なるアンチ火清会なので、あちらさんをおちょくれればそれで満足なんですね」

「あなたと組むメリットが見当たりません」

「デメリットはあるでしょう?」

 やはりすぐに殺しておくべきだった――今更遅い後悔を噛み締め、瑞葉は風間に視線を送る。わかっている。この男は頷かない。

「いや、俺の手綱をそちらに預けるというのはかなりの譲歩なんですよ。俺はまあ、常日頃から死んだも同じの身の体でやらせてもらってるんで、鉄砲玉紛いのことも躊躇なくやりますよ。一族郎党皆殺しだと脅されても、はいどうぞご自由にと差し出すくらいには人間性がないですからね。当たって砕けるなら諸共が信条なので。そういうわけで今の俺が砕けたら、お二人もご一緒にということになると思うんですよ」

「本当に爆弾じゃないか――」

 この男に接触した時点で、こちらは身体中に爆弾を巻きつけられていたのだ。しかもその爆弾は、自ら喜んで火に飛び込んでいく。それが爆弾の本懐だとでも言うように。

「まあしかし、お二人に纍が及ぶのはやっぱり気まずい。その気まずさを常に与えておいてほしいというだけの話なんですよ。それに、火清会を調べるのに九鬼さんと住職さんの繋がりは結構意味があるんじゃないですか? 一方は国家権力を笠に着て、一方はゲリラ以上の悪辣さで。俺はその仲介人ということでどうでしょう。無論、中抜きはさせてもらいますけど」

「僕はあまり、体制側につきたくはないんだけどなあ」

「――わかりました。私は国家陰陽師としてではなく、いち個人として風間さんと盟を結びます」

 瑞葉は熟考の末、風間に手を差し出した。

 長七を放置することがあまりに危険だという部分が最も大きいが、瑞葉のこれからの業務に、風間のような協力者はいたほうがいい。それに風間は麻子の師匠を名乗るだけの関係を持っている――麻子の情報を聞き出す役には、三条よりも有用だろう。

 だが、風間はその手を握り返さない。

「うーん。ではあなたの――陰陽寮の調査内容のあらましだけでも教えてもらえませんか。青川三十八人殺しのこととなると、それに対する火清会からの圧力――ああ、その目的を、といいうわけですか」

 瑞葉は微動だにしない。肯定も否定もしないが、それで風間には充分だったようだ。

「お互い、この仲介人が下手を打たないように気をつけましょう。骨が折れそうですが」

 風間が握り返した手をすぐに引っ込め、瑞葉はなにやらスマートフォンを操作する長七を睨む。

「じゃあ、『アオカワ・シティ・イレギュラーズ』と『青川市遊撃隊』どっちがいいですか?」

 意味がわからず首を傾げる瑞葉とは反対に、風間は苦笑している。

「ホームズは君かい?」

「それはないですね。俺は鉄砲玉がお似合いですから。さしづめ、ホームズは麻子ちゃんになるんじゃないかな」

 互いの連絡先を交換する時に、瑞葉は自分が携帯電話を破壊したことを思い出しかっと身体が熱くなる。急いできたので忘れたと言い繕うと、長七が瑞葉の携帯電話の番号をそらんじてみせた。麻子の携帯電話に表示されていた番号を記憶していたらしい。

「メールアドレスはあとでSMSで送っておきますね。すみません住職さん、これ赤外線通信に対応してないんですよ。変なとこで不便なんですよね、スマホって」

 そういえば自分はなにをしているのだろう――瑞葉はふっと意識が遠くなるのを感じた。最初は、麻子に連絡を取ろうと試みただけだったはずなのに。汚れた爆弾のような男に半ば脅される形で、その指示下に入っている。

 拭いようもない虚脱感――それは三日後、新調した携帯電話に送られてきたメールで、いとも簡単に吹き飛んだ。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る