第32話 青川の醜聞


 タマが瞬時に身構え、迎撃する。

 頭の中でタマが危険を知らせたことに驚き、反応が遅れた川島麻子は、飛んできた恐らく普通の人間には見えないであろう刃をタマが叩き落としたあとで、漸く振り向くことができた。

「聞いた通り、いい式を持っていますね」

 身を切るような冷たい声だった。

 見た者の背筋を無理矢理伸ばさせるような、恐ろしくフォーマルなスーツ姿のその女性は、予定調和のような切れ長の目で麻子を睨む。

「えっと――」

 害意を向けられていることは間違いない。タマが刃を弾いていなければ、麻子は傷を負っていた。

 それでも麻子は、突然のことと、人間相手ということもあって、警戒するのがどうにも遅れてしまう。

「初めまして、川島麻子さん。私は宮内庁陰陽寮の九鬼くき瑞葉みずはです」

 そう言ってその女性は右手を差し出す。

 麻子は結構な時間悩んだが、結局手を握り返していた。

「ここではなんですね。場所を変えましょうか」

「はあ……」

 D大学のキャンパスの、人気のない中庭だった。麻子はここを突っ切って図書館に行くつもりだったのだが、どうやらもうそんな状況ではないらしい。

 瑞葉は麻子と並んで大学構内を出ると、裏通りに突っ込んでまるで人気のない喫茶店へと入った。

「コーヒーを二つ」

 麻子の確認も取らずにそう店員に注文すると、瑞葉は今までずっとそうであったように、凍ったような表情のまま口を開いた。

「私の用件はもう察していただいているでしょうか」

「そっち方面だということは、なんとなく」

 瑞葉は頷く。

「そちらの式と、意思疎通は可能ですか?」

 瑞葉の目は麻子の頭の上を見ている。

 そこには巨大な蜘蛛の妖鬼が、窮屈そうに乗っている。

「タマが――見えるんですね」

「ええ。私も見鬼です」

 あくまで事務的といった調子で、瑞葉は答える。

「ボクと話せるの?」

「ええ」

 子供のような柔らかい声で訊ねるタマに、瑞葉は淡々と答える。

「宮内庁って言いましたよね? 官僚さんなんですか?」

「便宜上はそうなります。ただ、陰陽寮は公式には存在しない組織です。こう言えば、おおよそのことはわかっていただけるかと思います」

 あまり表だっては言えない役職ということだろう。

「それで、具体的にはどういうお話でしょう……?」

 運ばれてきたコーヒーに口もつけず、麻子は恐る恐る訊ねる。

「具体的――というほどのことはありません」

「はい?」

「あなたに会いたかっただけ、というのはどうでしょう」

「どうでしょうって……」

 冗談なのか本気なのか、その氷のような表情からは判断できない。

「私は、見鬼の方と会いたいんです」

「それは――お仕事ですか?」

「それもありますが、ほとんどは個人的なことです」

 瑞葉がすっと人差し指を立てると、そこに風が渦を巻く。

「これは先程あなたに放った式ですが、たとえばこれをあの店員に放つと、容易に殺傷することができます。証拠も残りません」

 麻子はぎょっとして、さらにそれが先程自分に向けられて放たれたのだという事実に戦慄した。

「やめてください」

 麻子は頭の中でタマにいつでも瑞葉に飛びかかれるように警戒を促す。

 瑞葉は指先にふっと息を吹きかけ、渦巻く風を散らす。

「これはものの例えですが、私が言いたいことは単純です。見鬼は人間よりも優れている。選ばれた者であると」

 麻子は無言で、心中、タマに警戒を解かせることができずにいた。

「私はあなたを襲いましたが、あなたはその力によってこれを退けた。人間ならば、何もできずに死んでいます。これが我々が、そしてあなたが優れているという、なによりの証拠です」

 麻子は寒気がしてきた。この女は先程からずっと、自分と違う者のことを、『人間』と呼んでいる。まるで、自分が人間ではないかのような。

「あなたは――」

 麻子は絶句しつつ、なんとか問いかける。それだけで瑞葉には意図が掴めたようだった。

「では逆にお訊ねします。あなたは――人間ですか?」

 瑞葉の言葉に、麻子は再び絶句した。それは、確かに麻子が瑞葉に問いかけようとしていた言葉だった。だが、それをそのまま返されることで、ここまで動揺するとは思ってもいなかった。

 瑞葉は、口元を少しだけ上げた。

「よかった。即答するほど愚かではないのですね」

 麻子は何故自分が人間だと声を大にして言えなかったのか――激しく狼狽していた。

「我々は人間ではないのですよ、川島さん。問題はそれに気付くか気付かないかです。私達が帰るところは彼岸ではないのです。何故なら、私達はとうに彼岸の住人だからです。私はあなたにこう言いにきました」

 その場から身じろぎもしなかったはずなのに、まるで耳元で囁くように、瑞葉の声は届く。

「人間をやめてしまいなさい」

 コーヒーカップが二つ同時に音を立てて倒れた。店員が慌ててクロスを持って駆け寄ってくる。幸いぶちまけた中身はテーブルの上だけに留まり、店員が手早く片付けて去っていった。

「麻子を悲しませるな」

 テーブルの上に巨体を広げたタマは、瑞葉を明確に威嚇していた。

「雄弁な式ですね。精神同調を?」

 答えない。それも織り込みずみなのか、瑞葉は冷淡な態度を崩さず、タマを一瞥もせずに麻子と目を合わせ続ける。

「おい!」

 タマが牙を剥いて身体をもたげる。

「タマ」

 麻子は頭の中ではなく、声に出してタマに伝える。

「大丈夫だから。落ち着いて」

「麻子――」

 嘘だということは隠しようもない。麻子とタマは直接繋がっている。麻子の滅茶苦茶に溢れた感情は、そのままタマにも伝わっている。それでもその乱れた奔流に、なんとか落としどころを捜しているのだということも、確かに伝わっていた。

 タマは麻子の頭に飛び乗り、不貞腐れたように身体を縮こめる。

 瑞葉は伝票を持って立ち上がり、冷たい目で麻子を見下ろす。

「私は火清会の実地調査のためにこちらへ派遣されました。向こう一年は青川に住むことになります。あなたとはまだ話したいことがありますから、また会いに伺いますよ」

 会計と先程の謝罪をすませ、瑞葉は店を出ていった。

 麻子は暫くそのまま、頭の中を瑞葉の言葉が何度も去来するに任せていた。





 それだけはやめておけと言われると、かえってやる気を出し始めるのが川島長七だということを、安中栄一郎せんせいはすっかり失念していたらしい。

 なにせ自ら嬉々としてタブーに踏み込み、地雷原でタップダンスをするのが信条の長七である。その点は師匠である安中も似たようなものだが、安中には最低限の分別がある。長七にはそれがない。なので地雷が剥き出しであろうが喜んで踏みにいく。

 青川三十八人――ないし三十九人――殺し。そう呼ばれる事件の記事を書こうと長七が言い出したのは、暫く仕事らしい仕事が中身のないネットニュースの執筆ばかりだったからだったからだろうか。

 平成二十年、青川南高校でひとクラスの内三十八人が怪死する事件が発生。当初殺人事件説も取りざたされた中、最終的に出された結論は集団食中毒。以降メディアはこの事件について、全く取り上げなくなっていった。

 ちなみに三十九人殺しとも呼ばれるのは、生存した生徒二人の内の一人が事件発生から数日後に死亡したことから、数に含める場合もあるからである。

 とにかく、青川三十云人殺しは、現在の報道の最大のタブーの一つとして扱われている。事件の取材や検証は疎か、話題に上げることすらも絶対に許されない。

 それはひとえに、火清会による圧力である。それが長七達にとっての常識だった。

 何故圧力をかけたかはわからない。だが、それ以外に考えられない。マスコミを完全に黙り込ませてしまうほどの力を持っているのは、間違いがないのだから。

 ところが長七には、そんなタブーと圧力を簡単に飛び越えてしまうだけの伝手があった。

 長七の叔父の川島茂は、この事件の初動捜査の現場主任を務めていた。そうなればもう秘匿されている情報など引き出し放題である。叔父の口を割らせることができればだが。

「いや、それは無理じゃないかなあ」

 羽鳥保はそう言って長七の肩を叩いた。

「俺もさー、青川三十八人殺しについて教えてくれって川島さんに何度もお願いしてるわけ。でもあの人絶対喋らないんだもん。いくら君が甥だからっていっても、無理なもんは無理なんじゃない?」

「そうですか。では羽鳥さんの分も叔父さんに聞いてきます」

「おーい、話聞いてた?」

 青川南警察署の面する国道を進んだところにある書店。そこで長七は叔父の部下である羽鳥と会っていた。

 昨年起きた連続絞殺魔事件の時、安中と知り合った羽鳥は、そのまま弟子である長七とも伝手ができた。

 上司の甥という間柄の長七を羽鳥はどんな思惑があったかは知らないが気に入ったらしく、今ではすっかり馴れ馴れしく話しかけてくる。

 青川南署で刑事課が動くような事件は、そうそう起こらない。青川云人殺しという異常な事件を担当したことで世間の見る目は変わっているが、南署の管轄では本来ならば殺人事件などは数年に一件程度しか発生しない。

 ただし、青川市内の南署を除く警察署では、頻繁に放火事件を扱うことになる。そのため南署の刑事課は唯一の安息地と呼ばれていたが、それも三年前の青川云人殺しで掻き消えてしまった。

 そうは言っても現在の羽鳥は割合時間が取れるらしく、こうして長七と外で会う時間を作れている。

「俺は当たって砕けるなら諸共が信条なので」

「それって俺を道連れにしてるよね!」

 長七はこのまま叔父の家に出向き、叔父が帰宅するまで待たせてもらうつもりだった。流石に仕事中の刑事課に乗り込んで聞き込みをするつもりはない。

「それで、俺を呼び出した理由はなんですか?」

 長七は人気のないゲーム攻略本コーナーに移動し、羽鳥に訊ねる。

 今回長七をここに呼び出したのは、羽鳥のほうだった。そこで最近どうかなどと聞かれたものだから、現状報告をしていた。

「いや、よかったよ。タイミングばっちりだ。俺のほうの話も、多分青川三十八人殺しについてなんだよ」

「多分」

「そう。確証はない。でも、なにかやばいことを片付けようとしている臭いがプンプンする」

 羽鳥は周囲の人目を気にしてから、声を潜めて言った。

「官僚が来てる」

「警察なんですから、言ってしまえば皆さん官僚では」

「警察庁じゃないんだ。どこだと思う」

 長七は無言で続きを促す。

「宮内庁だ」

「やばい」

「やばいだろ? それが南署に来て、刑事課は今資料の整理中だ。整い次第、その官僚が取捨選択して持ち帰るんだとさ。これ、絶対あれだろ?」

「あれですね」

 鸚鵡返しのような心のこもらない返答だったが、羽鳥は感じ入ったように頷く。

「当然知ってるとは思うが、南署の管轄内どころかD県内で、過去に皇族絡みの事件なんて一度も起こってない。それがなんでまた宮内庁がこんな田舎の警察署にやってくる? 署内はここんとこ、不敬罪で首が飛ぶんじゃないかと戦々恐々だよ」

「ご落胤に南朝の末裔だとかいう噂はいつの時代もつきものですが、それを使うのには用心が必要です。連中は神道系ですが頭がいいですし、そもそもがトップへの崇拝が主ですから、事実確認のできない危険なブーストは使う理由がありません」

「相変わらずすっ飛ぶなあ」

 そう言うものの、羽鳥はそれを最初からその疑念を念頭に置いていた。

 つまり、火清会と宮内庁の繋がりである。

 青川南署に資料を要求したということは、十中八九青川三十八人殺しについての情報の収集が目的だ。それは一体、なんのための目的なのか――これが現在の二人の議題である。

 青川三十八人殺しの情報統制を指揮しているのは火清会である――第一にこの暗黙の了解があり、そこに宮内庁の官僚が乗り込んできた。

 なので長七はまず、宮内庁と火清会が協力関係にある可能性は極めて低いと提言した。羽鳥はそれを充分に解し、苦笑しながら頷く。

「うん、俺もその線はないと思ってるよ。取り上げるにしてもタイミングが事件発生から遅すぎる。ということはだ――」

「別段頃合いというわけでもありませんし、何より宮内庁が動く理由が全くないですね。食中毒あるいは未知のなんたらなら厚生労働省でしょうし」

 羽鳥は、宮内庁が火清会の制止を振り切り、事件の全容を公表しようとしているのではないかと踏んだのだろうが、長七は先回りをしてその線を潰す。

「そうなんだよな――どうあってもなんで宮内庁なんだって疑問に行き当たる」

 長七はやおら棚を眺めながら歩きだし、羽鳥が慌てて呼び止めようとする。

 長七はひとこと、

「麻子ちゃんですね」

 と言って去っていった。





 去っていった瑞葉のことを鬱々と考えて喫茶店で時間だけが過ぎていき、いつ間にか喉が渇いていることに気付いた。

 水だけもらうのも悪いと思い、アイスコーヒーを注文して一気にストローで飲み干すと、すでに陽が傾いていることに気付いた。

 帰ろう、図書館は明日でもいい――そう思って立ち上がると、テーブルに今飲んだアイスコーヒーの伝票がないことに気付く。レジでそのことを告げると、店長らしき髭面の男は笑って、

「さっきのお姉さんが弁償するって言ってね、いいって言ったんだけど無理矢理お金渡してきてさ。だからそのお代は結構だよ。なんなら食事していってくれてもまだ足りないくらい」

 快活に笑う店長にたじろぎながら、麻子はまた来ますと言って店を出た。

 大正町駅から急行に乗って泗泉駅。駐輪場から自転車を引っ張り出してすぐ近くの家へと帰る。

「ごめんってば」

 周囲に誰もいないことを確認するわけでもなく、声に出して謝る。

 頭の中でのタマとの会話を、麻子は喫茶店からずっと遮断していた。そうは言っても本質的に繋がっている二人の間では麻子の思考など筒抜けだが、それでも会話を拒んだということはタマの機嫌を損ねるには充分だった。

 それを理解した上で、麻子は口に出してタマに話しかけた。タマは最初こそ拗ねていたものの、徐々に麻子の話に乗ってきて、家に着く頃にはまだ不服そうだが機嫌自体は治っていた。

「だから、陰陽師は国家公務員でもおかしくないの」

「そうだよね。やっぱりその結論しかない」

 家の中に入っても続くタマとの会話に夢中になっていた麻子は、いきなり割って入ってきた声にぎょっと目を剥く。

 従兄の川島長七が、何やら一人で納得したようにうんうんと頷いている。

「長七君、来てたの?」

「うん。麻子ちゃんに訊いたのは正解だったね。となるとあとはおじさんを追い詰めればいいわけだけど、ところで青川三十云人殺しと陰陽師の関係はなんだろう」

 麻子はぞっと背筋が冷えた。長七の言葉が支離滅裂なのはいつものことだが、そこになぜ、青川三十八人殺しと陰陽師というワードが入り込む。

「長七君、もしかして、知ってる……?」

 言ってからしまったと頭を抱える。長七に腹芸は無意味どころか逆効果だ。

「ああ、じゃあ麻子ちゃんは陰陽師の知り合いがいるんだね。三条さんは陰陽師という自称はしないし、その薫陶を受けた麻子ちゃんが自称だけの陰陽師と付き合うはずもないから、やっぱり国家公務員――宮内庁の官僚ということだね」

 探りを入れようものならこちらの手札を正面から覗き込んでくる――長七はそういう手合いなのだ。

 長七と会話が成立するのかという不安を抱えながら、麻子は仕方ないと瑞葉のことを話す。

「火清会の実地調査――面白くなってきたね。協力関係はないとはわかっていたけど、敵対する気――いや、むしろ毛程にも思ってないのかな。問題は結局青川三十云人殺しの調査になるのかな」

「待って、九鬼さん――陰陽寮は、青川三十八人殺しを調べてるの?」

「それを叔父さんに聞こうと思ってたんだけど、どうやら帰ってきたみたいだね」

 麻子の父――川島茂は、にべもなかった。長七の質問すら受け付けず、風呂に入ると長七を入れた四人で夕食を食べてさっさと横になった。

「羽鳥さんが何か言ったかな。というわけで俺は聞き耳を立てておくから、麻子ちゃんから聞いてきて」

「何を?」

「その陰陽師の名前と、今日自分に接触してきたこと」

 なんだか長七のいいように使われているような気もするが、瑞葉について知りたいのは麻子も同じだ。

 父はテレビの点いたリビングで横になっている。仰向けではないので、眠っているわけではないだろう。

「お父さん、九鬼瑞葉っていう人、知ってる?」

「長七の口車に乗るんじゃないぞ」

「ううん、実は今日、その人が大学まで私に会いにきて――」

 父は不服そうに唸る。

「とりあえず、麻子の質問には答えないよ。後ろで長七が聞き耳を立ててるし、あいつは本当にろくでもないことしか思いつかない」

 麻子は真剣に頷く。長七についての意見は全く同じであった。

「お疲れ様。まあ収穫は収穫だったんじゃないかな。全部機械でできれば楽なのに、力加減を間違えると潰れて商品にならないから困ったものだよ」

 長七はそう言って、麻子を値踏みするように見下ろす。

「麻子ちゃん、その陰陽師と仲良くなってくれない?」

「は?」

「できればその陰陽師から話を聞きだしたいからね。向こうから麻子ちゃんに接触してきたということは、あちらさんは麻子ちゃんに興味があるんだと思うし、麻子ちゃんがちょっと色目を使えば懐に潜り込めるんじゃないかな」

 長七には瑞葉のあの苛烈な思想は話していない。同類同士仲良くできるという判断を長七がするというのも考えにくい。要は麻子の心証などどうでもいいから、長七が情報を引き出しやすいように接近しろと言っているのだ。

 だが――麻子は頷く。

「わかった。私も九鬼さんとはまたきちんと話したいと思ってたし――」

 それは決して穏やかな談話にはならないだろう。それでも麻子は、瑞葉と向き合う必要がある。彼女を否定するのか、認めるのか――それはまだわからない。





 さてそうは言ったもののどうやって彼女と再び相対せばいいのか――麻子が頭を捻りながら通学のために泗泉駅のホームで電車を待っていると、それは向こうからやってきた。

「おはようございます」

 一発で社交辞令とわかる、温かみもクソもない突き放すような挨拶。

 九鬼瑞葉は泗泉駅の改札を通って、麻子の隣に立っていた。

「九鬼さん――」

「昨日は失礼しました」

 謝る気など微塵も感じさせない、淡々とした物言い。それでも形式上謝られては、麻子も突っぱねるわけにはいかない。

「お住まいはこの辺りなんですか?」

「ええ。あのマンション」

 瑞葉は駅からも見える近年増えているそれなりの高層マンションを目で指し示す。

「あそこに部屋を借りています」

 麻子はそこで思考を巡らせる。火清会の実地調査なら、泗泉駅近辺よりもここから急行で一本の青川駅近辺のほうが都合がいい。となると、やはり青川三十八人殺しについて調べるために、初動捜査を行い捜査本部の置かれた青川南署と、事件の舞台となった青川南高校に近いここを選んだということか。長七から宮内庁の官僚が南署に出入りしているという情報を得ている麻子は、それが間違いなく瑞葉だという確信を得た。

「あの、九鬼さん、火清会について調べるんですよね?」

「あなたはもう少し危機感を持ったほうがいい」

 思い切り侮蔑するように、瑞葉は麻子を睨む。

「この土地がどういう信仰の下動いているのかさえ把握していないのですか。無自覚というよりは、単なる危機意識の不足でしょうが」

 そこで麻子は瑞葉の言わんとすることをようやく理解した。

 青川市は火清会のお膝元である。泗泉町以南はまだ少ないが、市街地に近付けばそれだけ信者の割合は高くなる。

 そんな土地で「火清会を調べる」などと口にすれば、必ず不審の目で見られる。しかもここは駅のホームである。瑞葉は事前に調べてからここに来たのだろうが、ここで生まれ育った麻子にはその意識が欠けている。

 しかし一度放った言葉は取り消せない。仕方なく、麻子は声を潜めることで対応した。

「私に、何かお手伝いできることはありませんか?」

「何か勘違いをされているようですが」

 長く細い指で、目の間辺りを押し上げる動作。日常的に眼鏡をかけている者が無意識に行ってしまう仕草だ。

「私があなたに接触したのは、単純な興味からです。それと私の職務は無関係です」

「青川南署に、資料を整理させてますよね?」

 ちらりと冷たい視線を投げて、すぐに前を向く。

「川島茂警部補の守秘義務への認識がここまで低いとは思いませんでした」

 麻子は慌ててそれを否定する。

「私の従兄にフリーライターがいて、彼が嗅ぎ回ってるんです。お父さんは何も言ってません」

 瑞葉はそれ以上情報の出どころを探ることはしなかった。

「私は、あの事件の第一発見者です」

「存じています」

「だから私に接触したんでしょう?」

 瑞葉は口元を少しだけ上げる。それが瑞葉の笑顔――ガラスがひび割れたような不自然な笑顔だった。

「それは違います。全てにおいて勘違い甚だしいですね。私が業務上あなたと接触するのなら、それは最終段階においてです。言ったはずですよ。単純な興味であなたと接触してはいけませんか」

 麻子が眉を顰めると、瑞葉は腕時計を覗く。次に来るのは各駅停車――大正町駅には後発の急行のほうが先に着くが、青川駅にはこちらが先に着く。

 駅のアナウンスの途中、瑞葉は鞄から携帯電話を取り出した。それを無言で麻子のほうに突き出す。麻子がきょとんとしていると、焦れたのか短く訊ねる。

「赤外線通信には対応していますか」

 麻子は頷き、自分の携帯電話を出して連絡先を交換する。ちょうど各駅停車の普通電車が到着して、瑞葉はそれに乗っていった。

 大学の講義が終わって、やっと思い出した麻子はメールを送ろうと携帯電話と向き合った。そのままじっと睨めっこをして、やっと書き上げた文面は「川島麻子です」という絵文字も装飾もない実に六文字だけのものだった。何を書けばいいのかわからない――距離感も、抱くべき感情も、麻子には何もわからなかった。結局この六文字しか、思い浮かばない。

 送るべきかどうか長い間迷ったが、結局送信した。

 家に帰って携帯電話を確認すると、送信してから一分後に返信がきていた。「はい」というだけ――実に二文字の圧倒的なスピードと軽量さの返信だった。

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