第31話 思い出の手記
1
意識しないというのが、結局一番正しく、悪辣で、賢明だ。
何故意識してしまったのかと言えば、それは自分が正しくない人間だったからなのだと
これまでの人生で、別段失敗はない。大学に推薦で入り、地元の大企業に就職した。人間関係も至って良好で、地元の友人に大学時代の友人、会社の同僚とも上手くやっている。
何もかもが滞りなく回っているのが宇藤の人生である。
それでも、宇藤は自分が正しくない人間だと思っている。
正しい人間ならば、こんな考えは起こさない。それは周囲の人間を見ていれば明らかだ。
以前行われた中学校の同窓会。宇藤は正直そこに行きたくなかった。
中学時代、宇藤は友人達と一緒に、一人の女子を徹底的にクラスから排斥していた。
誰が始めたのかは定かではない。それでもその行為には、クラスの男子の殆どが参加していたはずだ。
宇藤は周囲に合わせて厭々参加していた――訳ではない。その女子を排斥することは学校生活で最高の娯楽であり、その行為を中心に毎日の会話が潤っていた。
その行為は当然であり、誰も何の疑問も抱かなかった。
宇藤もずっとそうして生きてきた。
ところが大学生の頃、ふっと中学時代の記憶が蘇り、自分はとんでもないことをしでかしたのではないかという思いがふつふつと湧き上がってきた。
何のきっかけがあった訳でも、同じ境遇になったからでもない。そういえば昔あんなことがあったな――と思い出してみると、自分の行いが急にとても恐ろしいものに思えてきてしまったのだ。
ただ、それで何か行動を起こした訳ではない。ただ胸の中にしこりのようなものが残り続け、時折思い出しては意識し続けてしまっていた。
同窓会に、その女子は来なかった。
かつてのクラスメイト達は、彼女を話題に出すことすらしなかった。まるで最初からいなかったかのように扱われ、同窓会は恙なく終わった。
おかしいのは自分の方なのだと、宇藤はその時に気付いた。
ずっとゴミのように扱ってきた人間に、申し訳なさだとか、慚愧の念だとかを抱く方がどうかしているのだ。それは過去の自分を否定することであり、真っ当な人間のすることではない。
クラスメイト達は、皆そうしたことをわかって生きている。ところが宇藤は意識してしまった。この時点でもう宇藤は正しくない人間なのだ。
正常な感覚を喪失してしまった宇藤は、なのでずっと胸の中のしこりを忌々しく思い続けている。忘れてしまえば楽なのに、あるいは当然のことだと正しく認識すればいいのに、あろうことか自分の行いに間違いを感じてしまっている。
そんな時だった。
宇藤は会社に近いアパートを借りて一人暮らしをしている。
仕事終わりに同僚と飲みに行き、自宅に帰ってきたのは日付が変わる頃だった。
D県は北部に行く程地価が大きく下がる。南部は大太良市のベッドタウンとして、中部では県の中枢として――そのため宇藤が住んでいるアパートは格安でもそれなりの広さがある。
鍵を開けて廊下の電灯を点け、着替えるためにリビング兼ダイニングに入る。
電気を点けると、普段そこにないはずの影が浮かび上がった。
電灯の下に、人がぶら下がっている。地面に足は着いておらず、時々ゆらゆらと振れている。
「うわあああ!」
誰もいないと思っていた部屋に人がいる。それも天井からぶら下がって。二重のパニックに陥った宇藤はまず腰を抜かした。
それまで宇藤に背を向ける形で吊られていたその影が、ゆっくりと回転し始める。
目が合った。虚ろな何も映していない色をしているのに、その目は確かに宇藤を捉えていた。
「に――新田――」
新田渚。中学時代に徹底的に排斥したその女は宇藤と同じ年代の姿をしてぶら下がっていた。
渚の口が開き、地の底から響くような呻き声が漏れ出す。
「や――やめてくれ――」
宇藤が歯の根が合わないまま悲鳴を上げそうになると、渚の口角がにんまりと吊り上がり――
「ぎゃははははは! いいね! 最高! びびっちゃった? うーんこのー」
すとんと床に着地すると、腹を抱えて笑い出した。
「は――?」
「うんうん、そりゃ驚くよね。残念だったな、トリックだよ――って訳でもないんだよねーこれが。うははははは」
悪質な悪戯をしかけられたのか。そう思うとだんだん腹が立ってきた。
「出ていけ」
「え? 何、いきなりそんなこと言っちゃう? まあまあ少し話してこうよー。わざわざこうして来てあげた訳なんだしさー」
有無を言わさず締め出そうと、渚の腕を掴もうとする。
だが、その手は空を切った。そこには確かに渚の腕があるはずなのに、掴むことは疎か触れることも出来ない。
「なんだ――」
「あれ? 今更そこに驚く?」
渚は満面の笑みで、
「死んでるからね、私」
「う――うわあああああ!」
再び腰を抜かし、この悪霊から逃れようと廊下に逃げ出そうとする。
ふわりと宙を舞い、渚は宇藤の行く手を阻む。
「だから今更そこに驚くかねー。まあ話だけでも聞いてよ。宇藤君にも無関係な話じゃないからさー」
とにかくやばいとは思ったが、何とか気持ちを落ち着かせ、宇藤はテレビに向けられるソファに座った。渚は宇藤とテレビの間で宙に浮きながら胡坐を掻いている。
「というか、お前――そんなキャラじゃなかっただろ」
中学時代の渚は殆ど言葉を発さず、何をされても押し黙っているような女子だった。
「そういうのよくないなー。学校生活っていう一側面だけでその人の人格を決めつけるの。私結構お喋り好きだし、高校や大学ではそれなりにウェーイしてたよ? まあ、とはいえ私も死ぬ前はここまでべらべら喋る奴じゃなかったんだけど、死んだらテンション上がっちゃってさーあははははは」
普通は怨念だとか言って邪悪な存在になるものだと思っていたが、どうやら渚は違うらしい。しかしそれにしても、『死んだらテンション上がる』というのは意味不明だ。
「私さー、今朝死んだんだけど、死因はなんだと思う?」
「知るか」
「じゃじゃじゃじゃーん! 自殺でーす! うははははは!」
「全く面白くない」
「そこは笑ってよー。毎日死ね死ね言ってた奴がやっとこさ死んだんだよー?」
宇藤はぎゅっと唇を噛む。
「そんなこと――忘れた」
「あ、そっかー。そこで問題なんだけど、私、死ぬ前に手記をしたためました。それをある信頼出来る、マスコミにも繋がりがある人のとこに送ってから死んだのね」
「おいちょっと待て――」
「そこには中学時代にクラスの男子からされたことを克明に書いてあって、それに参加した全員の名前が書いてありまーす。私が自殺したことを確認した後、それをしかるべきところに公開してくださいと言い残しておきましたー」
「なっ――」
「そこには当然宇藤君の名前もあるんだよねー。ふふふふふ、さあどうするー?」
宇藤は言葉に詰まる。そのせいで宇藤の社会的評価が下がるのは由々しき問題だ。だが――
「どうしようも、ないだろうが」
そう吐き捨てた。
渚が報復目的で手記を書いたことは想像に難くない。それをわざわざ死んだ後に現れ、宇藤に宣告していくということは、この歯痒さをせいぜい味わえということなのだ。今与えられた情報から手記の在所は特定出来ないし、公開をやめさせる手段もない。
「送った相手の名前は川島長七。自宅は赤森市。仕事先は青川市。住所はそれぞれ――」
渚は住所をそらんじてみせた。
「それは――」
「本当だよー。さあ、どうする? 取り返すっていうなら、協力は惜しまないよー」
そうして渚はけたたましく笑った。
2
取り憑かれた――ということになるのだろうか。
結局一睡も出来なかった夜が明け、宇藤はふらつきながら身支度を整えると休日ダイヤの電車に乗った。
その間、渚は全く離れることなく宇藤の近くを漂っていた。死んだことによって上がったという妙なテンションで話しかけられ、自宅の中では適当に話を合わせていたが、外に出ると辟易した。人目を全く気にせず話しかけてくるからだ。
どうやら渚のことは宇藤にしか見えない聞こえないらしく、町ですれ違う人々は宙に浮いて宇藤の隣を飛んでいる渚に気付かない。こんな状態で渚に反応すれば明らかに異常だ。黙れと怒鳴りたくなるのを必死で堪え、赤森駅で降りた。
タクシーを拾って川島長七なる人物の家に向かう。
だが、ここで目的は達成出来なかった。長七は現在自宅には住んでおらず、ずっと青川市の方の仕事先で寝起きしていると、応対に出てきた母親が語った。
ここ数日で長七宛に届いたものはないかと詰め寄ると、昨日何か届いたようだが、夜にふらっと帰ってきた長七がそれを抱えて青川に戻っていったという。
赤森駅に戻り――タクシーを拾うのに恐ろしく苦労した――そこから急行で青川駅に向かう。
青川市街地の中に建つ、背の低い雑居ビルの二階が渚の教えた住所だった。ところがそこは空きテナントになっており、当然人は誰もいない。
「お前、嘘を教えたのか?」
「いやいや、多分場所を変えたんだよ。割と危ないことしてるからさー」
そもそも手記という話自体が嘘の可能性すらある。宇藤が出鱈目に踊らされて七転八倒するのを隣で見て楽しむことが目的だったりしないだろうか。
「こんにちは、阿藤さん」
いきなり背後からそう声をかけられ、宇藤は飛び上がりそうになる。
落ち窪んだ目の病的に痩せた男だった。渚はその顔を見るとあっと声を上げる。
「これこれ! この人が川島君!」
「え? この人――あの、あなたは川島長七さんですよね?」
「ええそうです。名前というのは実に無意味で、現在ペンネームを色々と考え中なんですが、これが本当に無意味です。ただノーガードで殴り合える程体力もないですし、そうなると一撃必殺でも問答無用で命中しますからね、体力など無意味という訳です」
「は?」
支離滅裂な言葉に思わず聞き返すが、長七はまるで気にする様子もなく続ける。
「焼き討ちに来たのなら、ここには師匠が忘れて俺に取って来いと命令した資料しかありませんよ。まあ資料ですから燃やせば燃えるんでしょうが、紙よりデータ媒体の方が多いですから燃えたら臭いと思いますよ。高温で焼かないから分別が必要になるんですし、臭いんですよ。焼くならきちんとした焼却炉を用意してほしいですよね」
「あの!」
宇藤は早々に見切りをつけた。この男は駄目だ。まともな話になる予感がまるでしない。ならば相手の言葉に耳を貸さず、自分の要件だけを伝える。
「昨日、新田渚から届いたものがあるでしょう?」
「ということはその人は自殺したんですね」
「っ――!」
この男、どこまで知っている。まさか渚が死ぬ前に自分が宇藤のところに化けて出るなどと手記に書いていた訳ではないだろうが。
「伊藤さんは変わらないですね。昔のままだ」
何を言っている――そこで自分のことを言っていることに気付く。この男は宇藤のことを知っているとでもいうのか。
渚はさも楽しげに笑い転げている。この女、宇藤が狼狽するのを見て楽しんでいる。
いや、いけない。この男の言うことに耳を傾けた時点でこちらの負けだ。自分の言い分だけを伝えて、押し切る。
「新田からの荷物を渡してもらえませんか。引き取るように、本人に言われているんです」
全部が嘘というわけでもない。今宇藤の前でひいひい笑っている渚のほうから、手記のことも長七に送ったということも教えられている。
「妙な点と点を結ぶと、妙な線になるというわけでもないんですよね。点は点ですから、結べば直線になるのは当たり前です。それが妙な線になるというのなら、線を引くほうに問題があるということです」
まず――と長七は戸棚を物色しながら続ける。
「あなたは俺を知らない。俺があなたを知らなかったので、これは当然ですね。つまりあなたは誰かから俺のことを教えられている。それも俺のところに荷物が届くことを知っているというおまけまでついています。こうなると、あなたに俺のことを教えたのは荷物の送り主しかありえなくなってしまいますね。ところがその人は自分で俺から荷物を回収することを放棄している。連絡くらい電話かメール一本ですむ時代です。やっぱり返してと言えばすむことを、あなたを使いに出すという回り道をしています。そうなると、送り主は自分ではもう荷物を回収できない状況にあるということですね。一番単純なのはあなたがその人を殺すついでに吐かせたというパターンですが、これは無理がありますね。タイミングがおかしすぎる。あなたとその人には普段からの接点はないですもんね。あ、あったあった」
そこで長七は目当てのものを見つけたらしく、ずっと続けていた話をすっかり忘れたかのようにぱたりとやめてしまった。
「では、ここに住所を書いてください」
長七は部屋にあったメモ帳から一枚取ると、鉛筆と一緒にそれを宇藤に突き出した。
「は?」
「いいならいいですよ。荷物を送ろうと思ったんですが」
宇藤は慌てて自分のアパートの住所を書いた。
長七はそれを仕舞うと、無言で部屋を出ていこうとする。
「あの――」
「ああ。それと、本当に困っているようなら、信頼できる霊能者を紹介しますよ」
それだけ言うと、長七は姿を消した。
3
翌日、宇藤のアパートに荷物が届いた。
封筒が一つと、中学の卒業アルバム。これで長七が宇藤のことを知っていた理由がわかった。卒業アルバムで宇藤の顔を見ていたのだ。
封筒の中の手記は、本当に淡々としたものだった。だが、それがかえって宇藤達の行為のおぞましさを際立たせる。ほとんど箇条書きにされたそれらの行為を思い出す必要はなかった。宇藤はずっと、それらの行為が頭にこびりついて離れなかったのだから。
「なんで、俺なんだ――」
宇藤は正しくない人間だ。本来ならばすっかり忘れてすがすがしく生きていけるところを、思い出し、胸の中にしこりを残したまま生きている。そこに追い打ちをかけるように、渚の幽霊が現れた。
「いやー、私もいろいろなとこ行ったんだけど、宇藤君だけだったんだよね」
相変わらず部屋の中にだらしなく漂っている渚は、口調は軽いが、どこか遠い目をして呟く。
「なんていうの? とっかかりがないと、私は存在できないみたいでさ。私のことを綺麗さっぱり忘れてるような人のとこには、出ようとしても出られなかったの。私を見つけてくれたのは、宇藤君だけだったんだよね」
宇藤はじっと宙に浮かぶ渚の背中を見る。
「最初はさ、全員呪い殺してやるくらいの気概でいたのね。でも、みんな私のことなんかどうでもよかった。干渉することもできなくて、それが延々続いて、宇藤君のとこに、漸く出られた。その頃にはもう、やる気も何も失っちゃって。死ぬ前に書いたそれも、なんだか無意味に思えちゃってさ」
「――なんだよ、それ」
宇藤はぐっと唇を噛んだ。
「付き合ってくれてありがとね。じゃあ、思い残すこともなくなったから、私はさっさと消えるわ」
「ふざけるな」
それまで背中を向けていた渚が、驚いたように振り向く。
「いいわけないだろうが。お前、結局何もできてねえじゃねえか。復讐しろよ。呪えよ。公表しろよ。じゃないと――そんなの、あんまりじゃねえか……」
渚は、滅茶苦茶に笑った。
腹を抱えて腹の底から笑っている。あまりにおかしくてたまらないのか、空中でごろごろと文字通り笑い転げている。
「馬鹿じゃないの? あなたの同情が、一体どれだけ無意味で私を愚弄しているか、わからないの?」
ばんばんと床を叩き、涙が出るほどに笑っている。
「あなたが他の人と違うのだとしても、あなた達が私にしたことは何も変わらないの。そこには当然あなたもいた。私が化けて出たっていう意味、わかってる?」
「なら、俺を呪えばいいだろ。なんならこれを送り返して、公表させても――」
「だから、私がもういいやって思った時点でもういいの」
大きく息を吐き、そこでやっと馬鹿笑いが収まる。
「でも、うん、ありがとう。宇藤君だけが、私を見つけてくれたのは事実だから。それに、呪いならもうかけてあるよ」
渚の身体が、どんどん透明になっていく。
「私を、忘れられない呪い」
はにかんだような、優しい笑み。
「待っ――」
渚の身体に触れようと手を伸ばすと、触れた瞬間に渚の身体は光となって消え去った。
意識しないというのが、結局一番正しく、悪辣で、賢明だ。
宇藤の考えは変わらない。自分は所詮正しくない人間なのだ。それでも、間違った人間は間違っているから、苦しむこともできる。
この胸のしこりに、今は名前を付けることができる。これは呪いだ。新田渚が宇藤にかけていった、決して解けない呪い。
間違った人間として、この呪いを受け入れる。それが宇藤が、間違ったなりにできる生き方だった。正しい人間を羨ましくも思う。けれど、自分も正しい人間になりたいと願うことはない。
渚を忘れないということは、きっと宇藤の望むことなのだ。
だからある日、宇藤の部屋の天井から同じようにぶら下がっていたそれを目にしても、宇藤は馴染みのように、「よう」と声をかけただけだった。
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