第26話 青川物語


 墓地を怖がる人の気が知れない。

 曰く、不気味。

 どうしてそうした考えに至るのか、まるで笑えない。

 墓は死者を弔うためのものだ。基本的に現代日本の墓に入っているのは、火葬された後の遺骨くらいのもので、そこに穢れは感じられない。

 仮令土葬だろうとなんだろうと、言ってしまえば死体など所詮ただの物に過ぎない。毎日肉や魚を食っている人間が、同じ人間だからというくだらない理由で死体に意味付けをしようというのは馬鹿げている。

「でも、幽霊が出そうじゃない」

 そう言われて、ますます呆れてしまった。

 幽霊とやらが出るのなら、この世の中はそれこそ足の踏み場もない程幽霊で覆い尽くされてしまう。

 人類が誕生して一体どれだけの数の人間が死んだというのだ。それが幽霊になっていたら、とてもじゃないがまとな世の中にはなっていない。

 それだけ滔々と語って聞かせると、大村おおむら幸子さちこは何がおかしいのか声を立てて笑った。

「じゃあわたる君、なんでそんなにお墓に行ってるの?」

 そう言われて、矢部やべ渉はやれやれと肩を落とした。

 まあ、確かに矢部の語りに問題があったのは認める。幸子は頭が悪い訳ではないが、極めて一般的通俗的な考えの持ち主だ。デザートをスイーツと呼ぶような、そんなタイプ。

 矢部と幸子は一年程前から交際している。あまり社交的ではない矢部と、人の輪の中心にいるような幸子が付き合っていることに驚く友人――主に幸子の――は多い。

 きっかけは単に合コンで出会ったというありふれたものだったが、矢部はその時が初めての合コンだったので思い切り緊張していた。それを見て幸子が色々と気を回し、その場は何とか乗り切ることが出来た。助かったとは思ったが、矢部は必要以上の感謝も恋慕もしなかった。

 実際その時に連絡先すら交換しておらず、幸子と再会したのは大太良駅の構内という場面でだった。

 大太良市には複数の私立大があり、矢部はその一つに通っていた。幸子が通っているのは矢部の大学より偏差値がワンランク上の周辺県ではそれなりに名の知られた私立大だった。

 矢部は隣のD県の実家から電車で大太良駅に向かい、そこから地下鉄で大学に通学する。

 大太良駅はこの地方最大のターミナル駅だ。複数の私鉄はここが始点であり、JRのホームの数は十を超す。

 その時矢部はD県方面に向かう電車に乗るためにホームへ上がったのだが、ちょうど電車が出たところだった。次の電車は三十分後――D県行の電車はやはり本数が少ないのだ――であり、やることもなくベンチへ腰かけた。

 そこでふと、昨日見た夕方の情報番組を思い出した。

 密かな人気――などと謳って、大太良駅のホームの立ち食い蕎麦屋を特集していた。

 ホームに立ち食い蕎麦屋などあっただろうかと隅まで歩いてみたが、やはり記憶通り見当たらない。

 私鉄のホームなのだろうかと諦めてベンチに戻ろうとすると、隣のもう一つ隣のホームの一番奥まったところに、売店とは違う店が見えた。

 もしやと思い――まだたっぷり時間はあった――そのホームに向かって一番奥まで行くと、小さく地味な立ち食い蕎麦屋が確かにあった。

 矢部は逡巡した。立ち食い蕎麦屋というものに入ったことがなく、心がまだ決まっていなかったのだ。

 どうしたものかと店の中から気付かれないように店の前をうろついていると、急に声をかけられた。

「入らないの?」

 矢部は顔が赤くなる感覚を味わった。見られていたのかという羞恥があっという間に頭を真っ白にしていく。

「あ、やっぱり渉君」

 ぎょっとして恐らくまだ赤いであろう顔を上げると、幸子が笑顔で立っていた。

「入りにくいなら一緒に入ろうか?」

 まるで悪意を感じさせない笑みを向けられ、矢部は呻き声のような返答をして、幸子がそれを肯定と受け取ったことで中に連れ込まれた。

 この立ち食い蕎麦屋があるホームは幸子の下宿先方面に向かう電車が出ており、大学が終わって電車までの時間があるとといつも小腹を満たしにここに来るのだと幸子は楽しそうに話した。

 立ち食い蕎麦屋を出ると幸子の方からアドレスを交換しようと持ちかけられ、唯々諾々と幸子の言葉に付き従ってきた矢部はそのまま言われるがままに連絡先を交換した。

 そしてどういう訳か二人は今こうして交際している。

 そんな出会いを思い出したのか、幸子は矢部が次の言葉を続けようと口を開きかけると機先を制して笑った。

「ホント私にはよく喋るようになったよね。話す内容は相変わらず根暗っぽいけど」

「そもそもは幸子さんが――」

 幸子の方が学年も年齢も矢部の一つ上なので、敬語こそ使わないが「さん」は付けるのが矢部の話し方だった。

「そもそものそもそもは、渉君がこの間のデートすっぽかしたことでしょ?」

「だからあれは、一週間前にきちんとキャンセルしてくれって言っただろ」

「一度約束したデートをキャンセルするっていうのはすっぽかすのと同じなの。で、そろそろ教えてよ。なんで渉君、私とのデートすっぽかしてまでお墓なんかに行ったの?」

 そう――そもそもの話の始まりはそれだった。

 矢部は幸子とのデートを事前にキャンセルしてまで、墓に向かった。

 その時は理由を話さなかったのだが、今日こうして会うと理由を問い質され、矢部は正直に白状した。

 矢部は盆に先祖の墓参りをして以降、毎月曾祖父の月命日に墓を訪れるようになっていた。

 そう言うと幸子は矢部が理由を話す前から、「お墓って不気味じゃない?」と苦言を呈し、それに矢部が真っ向から反論することになった。

 ただ、これはこの二人の会話では割合よくあることだった。幸子が世間一般の見識を言うと、矢部がそれを独自の見識で論破しようと試みる。結局どれだけ言っても幸子が考えを変えることはないので論破とはいかないのだが、矢部はこうした会話が出来る相手がいるということを非常にありがたく思っている。

「っていうか、さっきの話からすると渉君、お墓なんて無意味だって言ってるようなもんじゃん」

「まあ、俺の言い方はまずかったと思うよ。でも、それとこれとは話が別だろ?」

 死体がただの物である事実、幽霊などいる訳がないという事実を認めることと、信仰は全く別のものだ。

 信仰のあまり事実を見失うのは最も忌むべき行為だが、それ以上に事実を信奉するあまり信仰を失うのは最も恥ずべき行為だ。

 先祖を大切に思うことも、墓に参って掃除をすることも、何もおかしいことはない。それを無意味と断じるのは、過去から連綿と続く文化を全て否定するに等しい。この国に根を下ろし続いてきた信仰の形を、無碍にするのはあまりに悲しいではないか。

「それ、言い訳でしょ」

 矢部が話し終えると、幸子はにやりと笑って言った。

「な、なんで」

「だって、渉君がお墓に行くようになったのって、この前のお盆からなんでしょ? それより前からずっとそんな考えを持ってたなら、習慣的にお墓に行ってたんじゃないかって」

 矢部はがっくりと肩を落とす。幸子はさらに追い打ちをかけた。

「だから、何かあったんでしょ?」

 そう言われて、矢部は完全に降参した。

「はい――その通りです。幸子さんには敵いません」

「もう、拗ねないでよ」

 幸子は困ったように笑う。矢部が幸子に敬語を使う時は機嫌を損ねた時なのだと知っていたからだ。

「じゃあ、何があったか話してよ。そしたらこの間のことは水に流してあげる」

「――本当ですか?」

「うん。あ、でも内容によるかな?」

「わかりました。怒らないでくださいよ?」

 まだ機嫌が直らないのか――幸子は苦笑しながら、矢部の話に耳を傾けた。




 墓というものは、何も人類共通の概念ではない。確かに人類の多くは墓を築くことをよしとしてきたが、墓を持たない文化も無論存在する。

 ただ、日本ではどうか。

 日本には墓という文化が深く根差している。文字通りの古墳時代や、仏教が入ってきてからは土着の文化と融合して葬式仏教が生まれた。

 ただ、戦後になって墓という概念を必要としない集団が、新しく生まれていた。

 D県青川市には墓がないという噂が、インターネット上を中心に囁かれている。

 青川市に住んでいる矢部からすれば、そんなことはないと断言出来るが、笑い飛ばすことは出来ない。

 青川市――特に市街地を中心に四泉川によって仕切られる範囲までの中に、霊園は殆どない。市内でも四泉川以南の地区にはまだ墓地が一定数存在するが、四泉川を越えると、小さな霊園が一箇所だけしか存在しない。土地が狭い訳ではなく、四泉川以南の地区の何倍もの面積を誇る地区に、本当に一箇所しか墓地がないのだ。

 矢部家の先祖代々の墓はその墓地にあった。市街地から離れた、緑の多い斜面にある小ぢんまりとした共同墓地だ。

 盆になると、祖父に言われてそこへ墓参りに出かけるように言われた。殆ど命令と言ってもいい。祖父曰く、成人したのだから長男の使命を果たせとのことだった。

 矢部としてはあまり気が進まなかったが、祖父は癇癪を起こすと手が着けられないので、大人しく従った。

 死人をどれだけ敬ったところで何の意味もないと思っていた矢部は、家を出る時に花を手渡されながら「気を付けろ」と言われたことに首を傾げた。まさか幽霊が出るなどという世迷言を言っている訳ではあるまい。祖父はそこまで愚かではないことを矢部は願った。

 自転車を漕いで墓地まで向かうと、おぼろげな記憶と薄れた墓石の文字を頼りに自分の家の墓を見つけ、掃除をしてから線香を上げて手を合わせた。

 緑はあるが、八月の半ばということもあり暑さは変わらない。早く帰ろうと立ち上がると、墓地の隅で誰かが話している声が聞こえてきた。

 盆の季節であるので、普通ならば墓地に他の人間がいることは何ら不思議ではない。だがそれを言うなら、今矢部が置かれている状況の方がよっぽど奇妙であることに気付く。

 霊園に入った時に、人気は全くなかった。盆であるというのに、矢部以外に墓参りに訪れている人間がいないのである。早朝でも深夜でもない。真昼間の、お盆の墓地に、自分以外の人間がいない。これはどう考えてもおかしい。

 だからその時の矢部は、薄ら寒い違和感を味わうのと同時に、他に人がいたのだと安堵することになった。人の気配を感じて違和感を覚えたのがそもそものきっかけだったのだから、妙な話ではある。

 とは言え、見知らぬ相手に話しかけるような社交性を矢部は持ち合わせていない。さっさと帰って冷房の利いた部屋で横になろうと手桶を柄杓を持って水道の設けられた一画へと歩いていくと、それまでひそひそ声で話していた人物が急によく通る声を上げた。

「やあ、こんにちは。暑いですね」

 こちらに気付いたらしく近寄ってくる人物を見た矢部は完全に固まった。

 殺される――本気でそう思った。

 凄まじく人相の悪い男だった。命の危機を感じる程の殺人的に凶悪なご面相である。頭をスキンヘッドに剃っていることが一層威圧感を増している。

 その男は蒼白になっていく矢部の顔を見つめると――恐らくは――笑った。笑顔を作ってもその凶悪さは全く軽減されないどころか、むしろ増している。

「どうも、僕は風雲寺という寺の住職をやっている風間といいます」

 よく見れば男――風間は簡素な僧衣を纏っていた。そう考えるとスキンヘッドは坊主頭なのだと合点がいくが、それでもこの悪鬼羅刹の如き顔の怖さは変わらない。

「お坊さん――このお墓の、ですか?」

 いえいえと口調だけは愛想よく風間は続ける。

「風雲寺は泗泉町ですからね。そこにもお墓はあるんですが、今日はこちらで知り合いと少し話をしに」

 泗泉町は四泉川の南側に位置する町だったはずだ。しかし墓場を待ち合わせ場所にするとはなんとも奇特な人である。

 話してみて、とりあえず命の危機はないと安心した。顔はともかく話し振りからするに悪い人間ではなさそうだ。

「風間」

 透明感のある声がして、一つの影が音もなく姿を現した。

 矢部はその姿を見て、思わずはっと息を呑んだ。

 涼しげな着物を纏い、裾から覗く手足は透き通るように白い。肩まで伸びた髪を無造作に掻き上げ、鋭い目付きで風間を睨む。

 思わず見惚れてしまうような美しい女だった。

 矢部が息を呑んだのと対照的に、風間はその女の姿を見るとぶっと吹き出して咳き込んだ。

「か、カザクモ、そんなことまで出来るのかい」

「ああ。少し窮屈だがな」

 風間は女に目が釘付けになっている矢部を横目で見ると、やっぱりか――と呟いた。

「ここは密度がすごいからなあ。そっちからアプローチをかければ見える訳だね」

「その男は、奴らの仲間か」

 女がきっと矢部を睨む。整い過ぎた顔に明らかな殺気を剥き出しにしていることで、矢部は思わず慄いた。ひょっとするとこの女は風間よりはるかに危険な手合いなのではないかと脂汗が伝う。

「多分大丈夫だよ。彼は墓参りをしている。だからそんなに怖い顔をしないの」

 風間に言われたらおしまいだと思ったが、女は言葉通り殺気を静めて矢部から目を逸らした。

「すみません。彼女はカザクモと言って、さっき話した僕の知り合いなんですが、少し変わっていて」

「は、はあ……」

 変わった名前に格好に言動だと思ったが、それを差し引いてもカザクモは美しかった。

「あの……」

 矢部が珍しく自分から声をかけると、カザクモは例の鋭い目付きで睨み、「なんだ」と突き放すように言う。

「あなたも、墓参りに?」

「違う」

 風間が諫めるような視線を送るが、カザクモは意に介さない。

「ここは我らがこの火の海の中で身体を休められる数少ない地だ」

 なんのことやらさっぱりだ。

 カザクモはそこではっと顔を上げる。

 墓地の入り口に、二人の中年男性が立っていた。

「奴らか」

「まあ待っていなさい。僕が話をしてくる」

 風間は無駄のない動きで男達の前まで進み出ると、矢部にしたように愛想よく挨拶をした。

 男達は風間のその顔に面食らったようだったが、すぐに険しい顔つきに変わる。

「ここは寺院の管轄ではないはずだが?」

 背の高い方の男が言うと、風間は笑顔のまま答える。

「いや、僕も墓参りに来ただけですよ。こうして利用者はいる訳です」

「せめてもの抵抗という訳か」

 背の低い方の男が侮辱するように言うが、風間は泰然自若としている。

「僕が信用出来ないというのなら、ほら、あそこに。若い人もこうして墓参りに来ているんですよ」

 自分のことだとわかり、矢部は身を硬くする。

「利用者がいるかどうかは大した問題ではない。この街に必要か、不必要かという問題だ」

「暴論だなあ」

「そんなことはない。利用者が一人いるというだけで、赤字の店舗を潰さない理由にはならないだろう」

「それを霊園という場所に当て嵌めるのが暴論だと言っているんですよ」

 それまで言い合っていた背の高い男が気色ばむと、それを受けたように背の低い男が凄む。

「坊主がでかい顔してると、痛い目見るぞ」

「――ほう?」

 瞬間、空気が凍った。

 風間は、その顔を静かな怒りに染めていた。ただでさえ怖い顔がほんのわずかでも怒りを帯びることで、その表情のおぞましさは筆舌に尽くしがたいものと化していた。

 男達もこの顔を見て完全に腰が引けていた。

「それは、脅しと受け取ってもいいんですね? ならば、こちらも然るべき対応をさせてもらいますよ。まずは手始めに、二名程度に――」

 男達は尻尾を巻いて逃げ出した。捨て台詞も何もない、見事なまでの敗走だった。

「最後まで聞かずに行くとは、失敬な人達だ」

 そこで破顔し、風間は矢部とカザクモのところへと戻ってきた。

「あの、さっきの人達は?」

「市の職員ですよ。名目上はね」

「公務員にしては――」

 口調に明らかな棘があった。矢部がそのことを指摘すると風間はにやりと笑った。

「公務員じゃないと思いますよ。外部の人間ですが、ここの監査は一任されているといったところでしょうね」

「監査……?」

「ええ。市はこの霊園を撤去しようと考えているんです」

「上辺だけの言い方はやめろ」

 カザクモが不機嫌そうに風間を諫める。風間は苦笑して、低く唸った。

「あのねカザクモ、僕達には色々面倒な体面というものがあるんだ。僕自身はそんなことは気にしないが、彼に踏み入った話をするのもどうかと思うんだよ」

「あ、あの」

 矢部は思わず声を上げていた。

「その、さっきの人達が何なのか、その踏み入った話を聞かせてほしいんですが」

「はい?」

 風間は呆気に取られたように表情を弛緩させる。それでも充分すぎるくらいに怖い。

「いや、墓を潰されるっていうのはなんか厭だし、それに――」

 祖父のあの言葉。それが何を意味するのか、恐らく風間は知っている。

「とにかく、興味があるんです」

「場合によっては危険な話ですよ」

「気を付けろとは――言われてきましたから」

 矢部が言うと、風間は小さく笑ってから、おもむろに表情を引き締めた。

「火清会を、知っていますか?」




「なにそれ。浮気?」

 幸子は少し唇を尖らせて矢部を睨む。

「って、ちょっと待って。文脈を考えてよ」

 矢部が風間に火清会という名を出されたというところまで話すと、それまで黙っていた幸子は急にそう言って話を遮ったのだった。

「だってさ、渉君のそのカザクモって人褒める言葉がすごく熱っぽいんだもん。靡いちゃったらしてないかなって、不安になっちゃ悪い?」

「いや、そうじゃなくて……」

 火清会についての話の途中だったではないかと言おうとしたが、幸子は機先を制して事もなげに「ああ火清会ね」と矢部の言葉を奪ってしまう。

「宗教でしょ。悪い噂ばっか聞くよね」

「あの……」

 そう――なのだが。

 少なくとも風間から話を聞かされるまで、矢部の中の認識は違った。

 火清会と聞いて一番に思い浮かぶのは、塾のようなもの――だった。

 火清会は青川市の中心街に巨大なビルを持ち、その一部を学生用の自習スペースとして解放している。矢部は行ったことはないが、高校時代の周囲の評判はすこぶるよかった記憶がある。

 だから風間から火清会が宗教法人だと聞いた時は少なからず驚いたのだった。

 しかし幸子はそんな矢部のカルチャーショックなど歯牙にもかけず、さも当然のように宗教だと言い当てた。

「それで、そのお墓を潰そうとしてるのが火清会の圧力だった、っていう話?」

 少し冷めたように言い放つ幸子に、矢部は頷くことしか出来なかった。

「幸子さんは、なんで……?」

「なんでって、火清会の噂聞いてたら想像はつくでしょ。他の宗教、特に仏教に対してはすごく攻撃的だって有名だもん」

「有名なの?」

 まるで矢部がおかしなことを言ったかのように幸子は怪訝な顔をする。

「渉君、本当に知らなかったの? うわー怖いなあ、青川」

 そう。こと青川市においては、火清会の力は絶対的だった。

 青川市が火清会発祥の地であり、現在も本部がこの地にあることで、その影響力は計り知れない。

 墓地が少ないのも、ひとえに火清会の勢力が強すぎるためである。

 火清会の信者は墓を持たない。遺体は火葬にすれば、それで終わりという考えなのである。火清会の教義の根本は、火によって全てを浄化する「お焚き上げ」に根差している。その信仰の前には旧来の価値観など無意味だった。

 そして青川市の住人の多くは、火清会の信者で占められている。それ故、ごく自然な生活の一部として火清会は浸透している。矢部のような信者でない者が、火清会の実態をまるで知らないレベルにまで。

 幸子はB県の人間だ。火清会の力が絶大であるD県――しかも本部の座す青川市の住人である矢部とは、まるで物の見方が違うのだ。

 風間の話はこうだ。

 火清会は青川市、特に市街地近くの霊園を完全に排除しようと考えている。そこで四泉川以北に唯一残った矢部の先祖の墓がある霊園を潰そうと市に圧力をかけた。そうして信者を監査役として送り込み、霊園を撤去する方向で話を進めている。

 風間やカザクモは、それを何とか食い止めようと墓参りを頻繁に行っているのだという。とにかく利用者がいるのだということを市にアピールすることが大事なのだと風間は言った。

 それを受けて矢部も、月命日には必ず墓参りをすることにした。

「やっぱり、浮気?」

「な、なんでそうなるの」

「じゃあひいおじいさんの月命日は何日?」

「――十日です」

「それでこの前のデートは何日だった?」

「――五日です」

「あらら? 月命日でもないのにお墓に行ったんだあ。おかしいと思ったんだよね。恋人とのデートをすっぽかしてまでお墓参りに行くなんて、渉君の性格からしたら絶対にありえないもん。仮令それが祥月命日でも、渉君はデートを優先してくれる人でしょ? ということは、そのお墓参りに、よっぽどの思い入れが出来たってことじゃない?」

 矢部が冷や汗を流しながら沈黙していると、幸子はさらに追及してくる。

「その女の人に、お墓参りに行くと会える――なんて思ってるんじゃないの。お墓参りはあくまで名目で、本当は逢引きが目的だったり、しない?」

 矢部が口を閉ざしたまま真っ青な顔をしていると、幸子は目を丸くする。

「え、嘘。マジ?」

「い――いやいやいやいや! 違います! 違いますから!」

 矢部は自分なりに火清会について調べ、その悪評を厭という程見せつけられた。そんな相手に好き勝手に先祖の墓を潰されるのは御免被るというのは本心である。それで、出来る限り墓参りに出向くことでささやかながら抵抗を試みていたのだ。

 ただ――。

「何故かはわからないんですが、俺が墓に行くと、必ずあの人がいるんです」

「やっぱり浮気じゃない。泣くよ?」

「待ってください! いや、本当に何故かわからないんですよ。約束した訳でも、俺の都合を伝えた訳でもないんです。ただ、俺が行くと絶対にあの人がいる。それでこの間は、絶対にいないだろうと当たりをつけて、夜中に行ったんです。そしたら」

 やっぱりいたんです――どこか熱っぽい調子で言って、矢部は頭を下げた。

「それ、幽霊だったりしない?」

 普段の矢部ならば鼻で笑うところだが、この時ばかりは沈黙した。

「まあいいや。なら次は私も連れてってよ」

「はい?」

「だから、お墓。あ、もう陽暮れてきたね。どうせならこのまま行っちゃう?」




 大太良駅から快速で青川駅に着いた頃には、すっかり陽が暮れていた。

 目的の霊園は市街地からは結構な距離がある。矢部は普段は自宅まで自転車を使っているが、今日は連れがいる。

「いいよ、二人乗りで行こ」

 幸子はにっこりと笑って矢部の自転車の後ろの荷台に座った。

「あの、こういうのはあんまり……」

「何? 恋人と二人乗り出来て嬉しくないっての?」

「いや、二人乗りなんて初めてで。こけたらごめん」

「そういうとこは信頼してるから」

 そういうとこは――か。先程の自分の話を聞いてこれなら、まだマシだろう。

 慣れない二人乗りで、ゆっくりと夜道を進んでいく。

 青川の市街地は殆ど青川駅の周りばかりで、そこを離れると一気に喧騒とは無縁になっていく。とは言っても青川市は全体で見ても決して田舎という訳ではないので、大きな道路を通れば街灯も明るいし車もひっきりなしに通っていく。

 ただ、矢部が選んだのは人通りの少ない暗い道だった。国道から一本脇へ入るだけで、こんな光景が無数に転がっている。それは二人乗りを見咎められるのを恐れた訳では――その分もあるにはあったが――なく、単に霊園に通じる最短ルートを取っているだけだ。

 半分山と呼んでも差し支えない場所にあるので登り坂を二人乗りで進むのは骨が折れたが、何とか目的の霊園の前まで辿り着いた。斜面に広がる墓石に参るには、そこから延びる階段を上らなければならないので、自転車は山道の端に止めておく。

「ここだよ」

「そう。っていうか暗っ。普通外灯くらいあるでしょ」

 幸子の言った通り、この霊園には外灯というものはない。なので今のような夜中は真っ暗になる。それでも空を見上げると青川市街地や沿岸部の工場の灯りが雲を白く染めているので、全くの真っ暗闇という訳ではない。とは言え暗いのには変わりないので、矢部が以前夜に訪れた時は懐中電灯を持ってきていた。しかし今日は言わば強行軍なので、そんな用意はしていない。

 そんなことを思っていると、矢部の顔を強い光が照らした。

「携帯のライト。渉君のには付いてないよね」

 頷くと、幸子はそのライトで足元を照らしながら階段を上っていく。

「ほら、早く。暗いと危ないよ?」

 苦笑を洩らし、矢部は後に続く。

 先に階段を上り切った幸子が、鋭い悲鳴を上げた。矢部は慌てて駆け上がり、幸子の身体を庇うように前に出る。

「やあ、こんばんは」

 その声と共に、闇の中からこの世のものとも思えない凶悪な顔が現れた。

 危うく矢部も情けない悲鳴を上げるところだったが、見覚えがあったので何とか踏み止まった。

「住職さん?」

 矢部に火清会のことを教えた、風間だった。

 風間は笑って、まず謝った。

「いやすみません。怖がらせてしまったようで。こんな時間にお参りですか?」

「ええ、まあ」

 幸子も矢部の反応を見て話に聞いた風間だと察したのか、怯えたまま会釈する。

「しかしまあ、なんでまたこんな晩に、ねえ」

 小さくそう呟いた風間は次の瞬間はっとして、二人を手招きしながら闇の中に駆け込む。

「ど、どうしたんですか?」

 有無を言わさぬ迫力についてきてしまった矢部は、同じく事情を呑み込めていない幸子の手をしっかりと握っていた。

「いや、今夜は運動会でしてね……」

 苦笑する風間が指を差す先には、強烈な光を放つ電灯を手にした二人の男が立っていた。

 以前に現れた二人ではないが、纏っている雰囲気がどうしても同じに見えてしまう。恐らくそれは勘違いではないはずだ。

「麻子ちゃんのリークは確かだったようだね。しかしあの子も一体どこから――」

 ひとりごちる風間に気を取られていると、男達が同時に絶叫した。

 風間の顔を見た訳ではない。幸子は既にライトを消しているので、この三人の姿は完全に闇に隠れている。

 だが男達は腕を滅茶苦茶に振り回し、一目散に逃げていく。まるで何かに纏わり付かれるか、追いかけられるように。

「風間」

 透明感のある声。

 矢部達の背後にカザクモが涼しげに立っていた。光源はないはずなのに、何故かその姿ははっきりと浮かび上がっている。

「上々――といったところかね」

「ああ。付きっきりで発破をかけた甲斐があった。あとは連中だけでやれるだろう」

 そう言うと踵を返し、カザクモは闇の中に溶け込んでいく。

「あ、あの!」

「お前も、役に立ってくれた。よかったらまた墓に参ってやってくれ」

 その声が耳に残っている内に、カザクモの気配は完全に消えてしまった。

「渉君? 誰かいたの?」

 幸子の声に矢部は首を傾げる。

「誰って、さっきまでそこにあの人が――」

 今度は幸子が首を傾げる番だった。

「誰もいなかったけど」

 驚いたことに、それを聞いても矢部は全く動揺しなかった。逆に憑き物が落ちたかのようにすっきりと落ち着いた気持ちになっていく。

「カザクモはもう来ませんよ」

 風間の顔に似つかわしくない穏やかな言葉に、矢部はそうだろうなと一人納得した。

 それ以来、矢部が墓参りをするのは曽祖父の月命日だけになった。勿論、そこでカザクモに出会うことも、二度となかった。




 川島麻子は少し不機嫌そうに住職の淹れた茶を啜っていた。

「私結局、まだカザクモときちんと会ってないんですけど。なんで住職だけ……」

 風雲寺の講堂で麻子と向かい合って座る住職は困ったように笑う。

「だって、用事があるって言ったのは麻子ちゃんの方じゃないか」

「それはそうですけど……」

 請け負った仕事に追われ、結局懐かしい相手と会えなかった。三条にもう少し仕事を減らしてもらうように言っておかなければと麻子は自戒した。

「なにー、麻子はそんなにカザクモが大事なのー?」

 頭の上で柔らかい声がして、麻子は苦笑する。麻子の頭の上に陣取る巨大な蜘蛛の妖鬼――タマは、何よりも大切な麻子の友達だ。それはタマも同じなので、麻子が他の妖怪に情を寄せているのを見て少し機嫌を損ねている。麻子が不機嫌になっている場合ではないようだ。

「で、上手くいったんですよね?」

「それはもう。相手は大慌てで逃げていったよ。カザクモも上手くやったね」

「カザクモ、どんな感じでしたか?」

「昔と変わらないよ。あ、でも人間に化ける力を身に付けてたね。妖狐としての成長は著しい。これも麻子ちゃんの力かな」

 カザクモは麻子が名前を与えた狐の妖怪だ。元は山の自然霊だったのだが、己の存在を保てなくなり、青川市に下りてきた。そこで衰弱し、人間に取り憑いていたのを麻子と住職でどうにか引き剥がし、麻子が名前を与えたことで存在を保てるようになった。

 そんなカザクモは今、青川市を中心に、妖怪の居場所を守るために奔走しているという。

 カザクモは山から青川市に下りてきた結果、一層衰弱していった。

 曰く、青川市は火の海だという。

 青川市を埋め尽くす新たな信仰――火清会。その影響力が及ぶ範囲では、以前のカザクモのような信仰や畏怖から生まれ出た妖怪は、その身を焼かれるが如き苦痛を味わい、存在を保てなくなっていってしまう。

 それで妖怪が全て青川市を離れていくのかというと、そうでもない。この地に愛着を持つ妖怪達は、火清会の力の及ばない土地を見つけてそこに居座っている。

 今回カザクモと住職が訪れた霊園も、そんな場所の一つだった。

 墓を持たない火清会と相容れない墓地という場。そこは火清会の炎の及ばない貴重な妖怪達の居場所だった。

 だが、火清会はその霊園を撤去しようと動き出した。それを受けてカザクモは墓場の妖怪達に火清会に立ち向かえと発破をかけた。

 最初は乗り気ではなかった妖怪達も、住職が説得に加わり、火清会が本気なのだと知るとならばやってやろうと気合いを入れた。

「実はね、若い人が墓参りに来てくれていたんだ」

 カザクモはそこでその人物に自分の――人間に化けた――姿を見せた。住職は火清会について教え、協力を仰いだ。

「半分取り憑いたみたいなものだったんだけどね。カザクモには悪気はなかったと思うけど」

「カザクモが見えたんですか?」

「ああ、あそこは霊的密度がすごいことになってたから、向こうから人に化けてアプローチをかければ麻子ちゃんじゃなくても見えるよ。それだけカザクモの力が強かったというのもあるんだろうけど」

「でも、また取り憑いたって――」

「うーん、それは言葉の文かな。直接取り憑いた訳じゃないんだ。ただなんというか、魅了した――というべきか。とにかく、彼が毎日のように墓参りに来るようになると、妖怪達のモチベーションも上がっていったんだ」

 人が使う。妖怪が存在出来る。そんな貴重な場所を勝手に壊されて堪るか。

 一度やる気になった妖怪達は、火清会の手の者を、昔ながらのやり方で撃退することを考えた。

 化かす。脅かす。誑かす。

 この霊園は霊的密度が著しく高い。妖怪達はそこに他の土地からも妖怪を呼び寄せてさらに密度を上げ、その場をある種の異界へと作り変えた。

 そこに麻子が、火清会の手の者が霊園の破壊工作に訪れる計画があることと、その日取りを住職に流した。この情報の出所は従兄の長七だが、住職には言っていない。

 住職がそれを妖怪達に伝えると、妖怪達はその日に決行することにした。

 そして夜、二人の男が現れると、妖怪達は牙を剥いた。

 男達を滅茶苦茶に襲い、撃退することに成功した。彼らから噂は広まるだろうし、次の相手が来ても同じように追い返すだけの力はある。

 ただ――

「いつまで通用するか――ですね」

 住職は重々しく頷く。

 火清会は強力な信仰だ。それは既に青川市の大部分を塗り替えてしまっている。

 その信仰に対し、この国の古い風土である妖怪というものが、果たしてどこまで効果を上げられるのか。

 今はまだいい。妖怪達の猛攻に、火清会の手の者達は退散した。

 だが、新たな信仰が骨の髄まで染み込んでいけば、ひょっとすると彼らは決定的に妖怪とは全く違う位相に移動してしまうのではないか。

 干渉が不可能になるとまではいかずとも、妖怪が起こしたアクションに何の疑問も抱かなくなるようなことはあるかもしれない。妖怪は行動を起こし、それを人間が認識することで活かされる。だがそれを認識こそすれ、それを全て火清会への信仰へと帰結させてしまえば、そこに妖怪の居場所はない。

 幸い、火清会はまだそこまでの段階には入っていない。ならばまだ妖怪は有効だろう。

 だが、火清会の成長は早い。その信仰が人々の奥深くまで染み込んでいくのに、そう時間はかからないはずだ。

「でもまあ、カザクモが頑張ってるんだから暫くは安心だろう。次に共同戦線を張ることがあれば、きちんと麻子ちゃんにも連絡するから」

 そもそも住職は妖怪に肩入れすることをよしとしない人間だった。麻子と同じ「見える」人間だが、そこは麻子と一線を画す。

 住職が件の霊園に訪れたのは、本当に墓地を撤去させないためだった。どんな事情があるのか麻子にはおよそ計り知れないが、住職は火清会に対して強い嫌悪感を持っている。それを好き勝手にさせておけないという理由から墓地に赴いたのだが、そこには無数の妖怪達とカザクモがいた。

「私にも役に立てることがあれば、いつでも」

「ボクもいるしねー」

「随分と頼もしく聞こえるようになったなあ」

 住職は複雑な表情で笑って、随分と遠くに行ってしまったなあ――と口の中で呟いた。

「何か言いました?」

「いや、何も」

 きょとんとした顔で訊いてくる麻子を見て、住職はやっと快活に笑った。

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