第25話 孤高の愚者


 桐谷匠はかっこいい。

 際立って男前、という訳ではない。

 常に誰かが死んだような仏頂面で、細い目は険があるし、それなりに頑健な身体付きもどこかおっかなさを感じさせる。

 だからと言って不良という訳でもない。

 一応の国公立大学に通っているのだから、高校時代にはある程度は勉学に励んだはずだ。このD大学には素行の悪い連中はいくらでもいる――それはどの大学でも同じだろう――が、ヤンキーはいない。

 人がいい訳でも、無論ない。

 いや、実際に話した訳ではないのでそこは憶測でしかないのだが、桐谷は全くと言っていい程人付き合いをしないので、その憶測は中っているはずだ。

 そんな桐谷はかっこいい。

 岡本おかもと美樹みきは、そう確信している。

 桐谷は誰がどれだけ誘っても、一度として飲み会に参加したことがない。

 そこがまたいい。

 美樹は大学に入ってから、酒の力に任せてテンションを上げまくるそういったノリに辟易としていた。

 確かに親睦を深めるのは必要だろう。その潤滑油としてアルコールを使うのも手っ取り早いのだろう。だが、そんなことばかり繰り返して、果たして堅実な人間関係は築けるのか。

 そんな疑問を抱き続ける美樹にとって、桐谷は己を貫く孤高の賢人に見えた。

 口さがない連中は桐谷を変人だのクソボッチだの言っているが、美樹はそうは思わない。

 美樹からすれば、群れ合って騒いでばかりの連中の方がよっぽど変に見える。上辺だけの友達とやらを作って仲間意識に浸っているより、確固とした我を持ってただ一人一段高いところへ立っている方がまともなはずだ。

 とにかく、美樹は桐谷という人間に魅かれていた。

 ところが――である。

 桐谷にはどうも、彼女がいるらしい。

 川島麻子。化粧をした女子大生の中に埋もれてしまう一見地味な学生だが、実際には非常に整った目鼻立ちをしている。

 美樹はそれを知った当初、厭で厭でしょうがなかった。

 決して嫉妬ではない。美樹にとっての桐谷は孤高の賢人だ。それが綺麗な女に現を抜かしているということが、我慢ならなかった。

 彼女など、あまりに俗っぽい。桐谷はそんなものとは無縁でいなくてはならない人間なのだ。

 しかも――である。

 麻子の評判は、夏休みに差しかかる辺りで、急に風向きが変わった。

 曰く、麻子には霊感がある。

 そんな噂が学内を静かに漂い始めていた。実際に麻子に心霊相談を持ちかけた者もいたという。それがどんな結果に終わったのかまでは、噂になっていない。

 それを聞いて、美樹は少しだけ納得した。それと同時に憤慨もした。

 桐谷程の男なのだから、一風変わった相手を彼女に選んだのかもしれない。そう考えれば、ほんの少しは理解出来ないこともない。

 だが、そんな変な噂の付き纏う相手を彼女にしたのは、桐谷の風評にも悪影響を与えかねない。そんなおかしな相手との付き合いは断って、桐谷には孤高の賢人であってほしかった。

 なんというか、矛盾した感想である。

 一番後ろの席で講義を受けながら、美樹は真ん中辺りに座っている桐谷をじっと眺めていた。

 今日も今日とて気怠げな空気を漂わせ、他人を寄せ付けないオーラを放っている。実際桐谷の周りは空席だらけだった。

 もしも――美樹は想像する。あの隣の席に座り、声をかけるだけの勇気が自分にあれば。それでひょっとしたら仲良くなって、話を出来るような間柄になり、いずれは――

 美樹ははっとして黒板に視線を移す。

 ――何考えてるんだろ。

 桐谷は一人が似合う。その生き方に、自分が割って入るなどあってはならない。

 講義が終わると、桐谷はすぐに教室を出ていった。

 追いかけてはならない。美樹は桐谷を離れたところから憧憬の眼差しで見ることしか許されない。

 今日受ける予定の講義はこれで全て終わった。友人――上っ面の――と暫く談笑して、美樹は帰宅するために外へと出た。

 ぼうっとして歩いていると、中庭を妙な足取りでふらついている人影が見えた。長い黒髪から女性だとわかるが、どうも様子が変だ。時折何かぶつぶつと呟き、校舎に身体をぶつけてはっとするようなことが何度もあった。

 ――なんだろう、あの人。

 美樹は思わずその人物を凝視していた。

 化粧気のまるでないその顔を見て、美樹は思わずあっと声を上げていた。

 川島麻子だ。

 美樹の声に気付いたのか、麻子はぴたりと動きを止めてこちらを振り向いた。

 ――しまった。

 顔を合わせてしまって、何を話せばいいのか美樹にはわからない。

 それは勿論、麻子には言いたいこと訊きたいことは山ほどある。本当に桐谷と付き合っているのか。桐谷は普段どんなことを話すのか。桐谷の趣味は何か。桐谷の好きな食べ物は。

 あたふたとしている内に、麻子の視線は完全に美樹に向いていた。

「あの、なんか変なもの見せてごめんなさい」

 照れるように笑いながら、麻子は美樹に言った。

「なんていうか、まだ慣れて――調子が悪くて。その、大丈夫だから、あんまり気にしないで」

 思ったよりも気さくな態度に、美樹は思わず警戒を解いていた。

「調子悪いって、本当に大丈夫? 医務室ならついていくけど」

「こら、そんなこと言わないの」

 急に言われ、美樹は呆気に取られた。

 麻子はそんな美樹の様子を見て、慌てて手を横にぶんぶんと振った。

「あ、その、さっきのは違うの。うん。医務室に行くようなものじゃないから、ありがとう」

 突拍子もないことを言い出したが、話している分には感じの悪い相手ではない。

 ここは――一歩踏み込んでみるか。

「あの、川島さん――だよね。私、文学の岡本美樹」

 麻子は美樹が自分の名前を知っていることに若干驚いたようだが、すぐに愛想のいい笑顔を見せた。

「岡本さんね。よろしく」

 麻子は美樹に歩み寄ろうとしたが、途中で思い切りつんのめった。

「危ない!」

 美樹は頭から地面に倒れようとする麻子を助け起こす。

「あ、ありがとう」

 ――なんだろう。

 悪い感じはしない。今も申し訳なさそうな笑みを浮かべている。

「あの――あのさ」

 そして美樹は、

「川島さんって、桐谷君と付き合ってるの?」

 聞いてしまった。




 大正町駅近くのチェーン店の居酒屋で、美樹は麻子と向き合ってチューハイを飲んでいた。麻子はウーロン茶を傍らに置き、枝豆を美味しそうにつまんでいる。アルコールは一滴も飲めないそうだが、酒のつまみは好きなのだという。

 美樹の禁断の質問に対する麻子の返答は迅速だった。

 愛想よく笑って、「よく勘違いされるけど付き合ってないよ」と即答した。

 それでなんというか毒気を抜かれてしまい、気付くと飲みに誘っていた。麻子は一滴も飲めないと断りを入れてから、付き合ってくれた。

「匠って、愛想悪いでしょ?」

 空になった枝豆のさやを弄りながら、麻子が言う。付き合ってないにしては下の名前で呼ぶんだな――美樹はそんなことを思った。

「あれでも昔は、人と話すときはずっと笑顔を浮かべてたんだよ。それこそ、厭になるくらいへらへらしてた」

「そうなの?」

 意外だった。桐谷はずっと昔から、あの仏頂面で通してきたものだと思っていた。

「そうそう。でもさ、それってなんていうか仮面だったんだよ。処世術っていうか、見栄えがいいからとにかく笑っとけみたいな。で、途中からそれが自分でも厭になったんだと思う」

 色々あったから――美樹にかろうじて聞こえるくらいの小さな声で、麻子は付け加えた。

 多分そこは聞いてはならない部分なのだろう。美樹にもそれはわかった。

「だから今の匠はずっと素顔で通してる。それで他人に嫌われても、全然構わないんだと思う。そんな匠を――」

 麻子は美樹の顔を見てにっこりと笑う。

「好きになる人が出来たっていうのは、喜ばしいことだと思う」

「ぶっ!」

 噎せた。チューハイが少し気管に入り、美樹は思い切り咳き込む。

「だ、大丈夫?」

 誰のせいでこんなことになったと――言いたかったが、思ったよりも本格的に咳き込んだせいで声は出せなかった。

「す、好きって……」

 やっと落ち着いた頃になって、美樹は自分でも顔が赤くなるのを感じながら言った。

「え? 違うの?」

「いや、なんというか……」

 違うのかと訊かれると、どうにも返答しづらい。美樹は確かに桐谷のことをかっこいいと思っている。それは疑いようのない事実である。だがそこに恋愛感情が加わるかと言うと、実は自分でもよくわからないのだ。

「匠、最近なんか危なっかしくて」

 麻子はそんな美樹の心中を察したのか、話題を別の方に向けた。

「だから恋人でも出来たら少しはマシになるかなんて思ったんだけど、余計なお世話だったかな」

「桐谷君は――」

 酔いが回ってきた勢いもあって、美樹は口を開いていた。

「一人が似合うと思わない? 誰にも関わらずに、一人で。だから、彼女なんていない方がいいような気がする」

 麻子はなるほどと頷いた。

「だから私に匠と付き合ってないか訊いたんだ」

 決まりが悪く、チューハイを啜りながら小さく頷く。

「でも、匠があんまり他人と関わらずにいるのは、私からしたら心配なの――って、なんか保護者みたい」

 途中から笑って、麻子は枝豆を口に運ぶ。

「だからさ――」

 麻子は急に真剣みを帯びた声で、美樹に告げる。

「出来たら、匠に近付いてあげてくれないかな。付き合ってほしいなんてことは言わないから、声をかけてみるだけでも」

 それは――美樹の信条に反する。

 だが――本当にそう思っているのか。

 美樹も心のどこかで、桐谷に近付きたい――そしてかけがえのない存在だと認めてほしいと思っているのではないか。

 桐谷は一人でいるからこそかっこいい。美樹は確かにそう信じている。だが、桐谷を見ている時の自分の目は、ただの憧憬だけではなく、その隣にいたいと願うものでもあった。

 ――矛盾している。

 もしも美樹が桐谷に近付いて、その隣にいることが出来る存在になることが出来たとしたら、美樹の憧れる桐谷像は崩れてしまうことになる。それでもその立ち振る舞いを見ている内に、そのままずっと眺めているだけではなく、近付きたいと思ってしまっている。

 自分から、壊しにいくのか。

 そこに例えようもない後ろめたさを覚えてしまう。

 単純に怖いというのもある。他人を寄せ付けない雰囲気を放ち続ける桐谷に、どんな顔をして声をかければいいのか。

「話しかけづらいと思うから、私が仲介役をしてみるよ」

 美樹の不安を理解しているのか、麻子がそう言って身を乗り出す。

 いや、不安はそれだけはない。ないのだが――。

 結局、美樹は麻子とアドレスを交換し、明日行動に移すことを取り決めた。




 翌日、講義を全て終えた美樹の前に、示し合わせたかのように麻子が現れた。

 最後の講義で、美樹と桐谷は同じ教室だった。そこに麻子が現れ、美樹の手を引っ張って周囲に人気のない桐谷の席に突き進んでいく。

「話しかけるなら早くしなきゃ。匠、講義が終わると即帰宅だから」

 ちょっと待ってだとか心の準備だとかいう言い訳を考え付く前に、麻子は桐谷に声をかけた。

「匠、もう帰りだよね?」

 声をかけられ、桐谷は気怠げに振り向く。

「ああ。それでなんでお前がここにいる?」

 実は美樹にとってはこれが桐谷の声を初めて聞いた瞬間だった。やはりいかにも鬱陶しげに、突き放すような物言い。もしも勇気を振り絞って美樹一人で声をかけていたら、この威圧感に圧倒されてまともに二の句が継げなかっただろう。

 麻子は美樹の手を引っ張り、桐谷の前に押し出した。

「岡本美樹さん。知ってる?」

「知らね」

 冷たいを通り越して投げやりな返答に美樹は心が折れそうになる。

「ほら、岡本さん」

 麻子が笑顔で美樹を促す。

 というか、麻子は一体どんな太い神経をしているのだろう。桐谷の言葉の端々からは、明らかな鬱陶しさというか、もはや敵意すら感じられる。だというのに麻子はまるで意に介さず、明るく桐谷に話しかけている。しかも美樹にも同じ調子で話してみろと促している。麻子のような芸当は、とても美樹には出来そうにない。

「あ、あの――」

 この物怖じ全開の声を出せただけでも、美樹にしては頑張った方だと思う。しかし意味を成さない言葉でしかないという事実は動かせない。

「何」

 ――こ、怖い……。

 桐谷の言葉はまるで抜き身の刀だった。うっかり触れようものならざっくりといく。

「匠、そんな怖い顔しない。岡本さんが怖がってるでしょ」

 本当に麻子という女は何者なのだろう。精神が鋼で出来ているのかと思う程、桐谷にずけずけと文句を言っている。美樹ならばそんな口を利けば卒倒している。

「帰りてえんだけど」

 立ち上がろうとする桐谷を、麻子は笑顔で席に押さえ付けた。

「岡本さん、匠は私が押さえとくから、好きに話して」

「おい――」

 文句を言いたいのは美樹も同じだった。そんなことをされて心証がよくなる訳がない。現に桐谷から注がれる視線は痛いし冷たいし怖い。

 しかし――桐谷を麻子が引き止めておけばおく程、桐谷の機嫌は加速度的に悪くなっていくだろう。つまり美樹が早く会話を成立させない限り、どんどん会話が成立しにくくなっていく。麻子の気遣いははっきり言って有難迷惑だが、それで美樹は腹を括った。

「あの! 桐谷君は! 友達いないんですよね!」

 小さいが、その実絶叫するような声で美樹は言った。

 言ってから、自分は何を言っているんだという猛烈な後悔が襲ってきた。支離滅裂どころか、失礼を通り越して罵倒にも近い台詞である。だが美樹はもう勢いに任せて声を上げることしか出来なかった。その結果、こんな無茶苦茶な言葉になってしまったのだからどうしようもない。

「いたよ」

 恐ろしく低い、まるで地獄の底から響くような声。

 美樹はそれが桐谷の言葉だと理解するのに暫しの時間を要した。まさか桐谷が自分と会話してくれるなどと考えていなかったせいもあるし、それまでとは明らかにトーンの違う声だったせいもある。

 それまで泳いでいた目を勇気を振り絞って桐谷に向けると、なんと桐谷は笑っていた。

 だが、その笑みはあまりに悲壮だった。笑顔を作ってはいるのだが、まるで地獄の責め苦を味わっているかのような、苦痛に歪んだ表情だった。

 助け舟を出してもらおうと麻子の方へと視線を上げる。そしてその表情を見て、美樹は絶句した。

 麻子は、桐谷に勝るとも劣らない悲壮な表情を浮かべていた。こちらは笑顔で隠していない分、一層痛切に映る。

 話が違うじゃないかと美樹は心中で絶叫した。

 麻子は美樹が桐谷と会話する仲介役を迷惑にも買って出てくれた。それが、完全に桐谷が危険なゾーンに入ったというのに、自分まで一緒になって言葉を失っている。

 ――というか、これは……。

 地雷を踏んだのか。

 この二人の反応を見るに、どうもそうらしい。美樹は桐谷の――それに加えて麻子の――触れてはならない部分に踏み込んでしまったのだ。

「今はもういねえ」

 桐谷が例の悲壮な笑みを浮かべたまま呟く。

 ――ほらァー!

 やっぱり地雷だったんじゃないか。

 この言葉から察するに、桐谷は過去に友人と決定的な決別をしている。それが理由で今日に至るまで孤高の存在となっているのだ。

 ふと、桐谷の表情から力が抜けた。

「聞いてくれる奴、初めてだ」

「え――」

 美樹がどう答えればいいのか逡巡している内に、桐谷は美樹と向き合った。

「岡本さん――だったっけ。ありがとな」

 ――ありがとな――ありがとな――ありがとな――。

 礼を言われた――のか。

 いやいや、脈絡が全く読めない。美樹はただ恐ろしく失礼な暴言を発しただけで、桐谷が明らかに気分を害した。だというのに、桐谷は美樹に礼を言っている。

「いえ! 滅相もない!」

 また意味不明な返しを――いや、意味としては通るが、とても現代の大学生が発する言葉ではない。

「じゃあ、また」

 桐谷は笑いこそしなかったが、幾分か優しい表情を浮かべて立ち上がり、軽く手を上げて教室を出ていった。

 ――また?

 それはただの社交辞令なのか――いや、桐谷のような男がそんなことをするとは思えない。つまり、また会話をしようという明確な意思表示なのではないか。

「成功? ねえ、成功?」

 美樹が興奮して訊くと、麻子はにっこりと笑う。

「多分そうだと思うよ。次は一人で大丈夫?」

 麻子に文句を言いたいことは山ほどあったが、ひとまずこの場は礼を言って、次の機会も同席を願い出た。




「桐谷と話してたんだって?」

 にやにやと嫌らしい笑みを浮かべた男が、そう言って近付いてきた。

 美樹は意識せずともあからさまに嫌悪感を露わにしていたに違いない。こういう手合いは美樹の一番嫌いなタイプだ。桐谷のことを友達がいないだの飲み会に参加しないだのと理由を付けて下に見ている。そんな相手と会話をしている美樹のことも、きっと馬鹿にしているのだろう。自分のような人間が最も軽蔑されるべき存在だということにも気付かずに。

 男は美樹の硬い表情を見て一層にやにや笑いを強める。

「おいおい、俺は桐谷の友達だぜ?」

「え――?」

「高二の時同じクラスだったんだよ。クラスが同じなら、もう友達だろ?」

 馴れ馴れしいのか、フレンドリーなのか。それとも今の桐谷の置かれた状況を鑑みた上でおちょくっているのか。恐らく最後だろうと美樹は男の嫌らしい笑みを見て思った。

 ただ――クラスが同じだったというのは本当だろう。そんな嘘を吐いてまで美樹に近付く理由がない。

「お? 聞きたい? 聞きたい? 桐谷の麗しの高校時代」

 挑発的な言葉だが、何故か美樹の思っていたことを突いている。

 麻子は美樹に桐谷の変遷の一部を話してはくれたが、高校時代やそれ以前の詳しい話は聞いていない。桐谷が昔どんな人物だったのかというのは、無論美樹にも関心がある。

 だが――

「結構です」

 こんなあからさまに桐谷を虚仮にするような相手の話など、聞く価値もない。

「おーい、そりゃないぜ」

 美樹は愛想笑いもせずに男に背を向け、廊下を歩いていく。

「まあ――まだ友達はたくさんいるぜ」

 男の不気味な程に沈んだ声にはっとして振り向いたが、その時にはもう男の姿はなかった。

「うーん、よくないなあ」

 真剣に悩むような表情をしながら、麻子が美樹の後ろから現れた。

 しげしげと美樹の顔を見つめ、思い出したように謝って目を逸らす。

「目を付けられちゃったか――」

「え? 何?」

「あー、えっと、一応確認。さっき話してた人、なんて言ってた?」

 よく事情は飲み込めないが、一応質問には答える。

「桐谷君の友達だって……高二の時同じクラスだったとか……」

 麻子は深々と溜め息を吐いた。

「やっぱりかあ……厄介なことにならないといいけど――」

「え? あの人、そんな危ないの?」

「うーん、大して害はないと思うんだけどね。ただ、ちょっと悪質というか――」

 美樹が不安げな表情をしていることに気付いたらしく、麻子は慌てて謝った。

「いや、本当に実害はないと思うから、そこは大丈夫」

 麻子は困ったように笑って美樹を安心させようと努める。自分で散々不安を煽っておきながら変なものだと美樹はもう何度目かもわからない違和感を麻子に抱いた。

「ただ――これから匠のことで話しかけてくる相手には、気を付けた方がいいと思う」

 それじゃあと言い置いて、麻子は廊下を進んでいった。

 今はまだ昼日中。講義はまだ残っている。美樹も次の講義に向かう途中で先程の男に声をかけられたのだった。

「ねえ、桐谷と話してたんだって?」

 後ろから先程とは違う声をかけられ、美樹ははっとして振り向く。

 先程の男と同様の嫌らしい笑みを浮かべた女が、美樹に近付いてきた。

 どうしたことだろうと美樹は薄ら寒さを覚えていた。昨日桐谷と会話のような何かをして、その翌日に立て続けに桐谷のことで声をかけられるとは。

 美樹が自分の見える範囲では、桐谷のことなど誰も気にかけていないように見えた。馬鹿にされこそすれ、恨みを買っている訳でも極端に嫌われている訳でもない。

 だというのに、こうも積極的に桐谷との接点という理由で美樹に接触してくる者が二人も出てくるというのは、どうも妙だ。

 女はけらけらと笑う。

「そんな怖い顔しなくてもいいじゃない。あたし、桐谷の友達よ?」

 美樹は思わずぎょっとする。

「高二の時同じクラスでさ、楽しかったなあ、あの頃は」

 先程の男と同じだ。学年まで一緒ときている。

「聞きたくない? 桐谷の話」

 女はにやにやと笑みを広げながら美樹に迫る。

「大丈夫です!」

 この女もあの男と同じ手合いに違いない。話すだけ無駄だ。

 美樹が踵を返して廊下を進んでいくと、後ろから笑い混じりの声が響いた。

「まだまだ、友達はいるからね」

 不気味な声に思わず振り返るが、既に女の姿はなかった。

 ――あれ?

 美樹は先程の男女の顔をきちんと覚えて二度と関わらないと心に決めようとしたのだが、何故か二人の顔が全く思い描けない。

 無数の雑多な顔が、記憶の中でごちゃまぜになっている感覚だった。顔を思い出そうとすると、思っていたのと違う顔が浮かんでは消える。奇妙なのは、男の顔を思い出そうとするのに、その中に明らかな女のものらしき顔が浮かんでくる――逆もまた然りだった。

 厭な感じだ。

 何か、例えようもない悪意に晒されているような感覚。明確ではなく、実態がまるで見えない悪意だ。その分一層性質が悪い。

 麻子の言っていた悪質というのはこのことかと、美樹は悪寒を覚えながら確信した。

 高校の時同じだったというのなら、麻子とも同じ学校だったはずだ。だから麻子は彼らの存在と悪質さを知っていた。

 桐谷に直接言う訳にもいかない。自分が原因で誰かが不快な思いをしていると知れば、桐谷の方が不快に思ってしいまう。

 相談するならばやはり麻子の方だろう。

 今日の最後の講義は桐谷とは別の教室だ。麻子は美樹の前に顔を出すだろうから、その時に問い質してみよう。

 そろそろ次の講義が始まる。美樹は教室に駆け込むと、一番後ろの若干混雑した辺りの席に座った。

「桐谷って、あのクソボッチ?」

 ひそひそと隣で数人が話していた。普段ならば耳を貸さないような会話だが、さっきあんなことがあったばかりなので、桐谷の話題ということもあり耳を傾けてしまう。向こうは美樹に気付いていないようなので、先程の男女のような直接的な悪意がある訳ではないだろう。

「そう。あいつが唯一の生き残りなんだって」

「青川三十八人殺しのねぇ……」

 青川三十八人殺し――あるいは三十九人殺し。美樹達の世代でこの事件を知らない者は、間違いなくいない。

 美樹が高校二年生の時、青川南高校のとあるクラスで、二人を除くクラス全員が変死を遂げるという事件が起こっている。結局世間には集団食中毒という発表で済まされたが、これに納得せず、殺人ではないかという疑念が色濃く残った。その結果こんな物騒な呼び方が広まっている。

 何故呼称に一人分の変動があるかというと、その事件の直後に生き残った一人の生徒が死んでいるからだ。つまり、生き残ったのは最終的にただ一人ということになる。

 隣の会話から察するに、桐谷がその唯一の生き残りなのだという。

 ――え?

 何かがおかしい。

 青川南高校で事件が起きたのは、美樹と同じ学年のクラスだった。桐谷は確か現役生だったはずだから、同じく現役生である美樹とは同じ学年である。

 つまり、桐谷が高校二年生の時に、この事件は起こっている。

 だが、先程の男女の言葉――高二の時同じクラスだった――を信じるとするならば、そんなことはありえないのではないか。

 桐谷以外のクラスの全員は死んでいるのだ。だというのに同じクラスだったというのはおかしい。

 ――って、ちょっと短絡的か。

 美樹は恐ろしい考えを払拭するべく自分のそれまでの思考を一蹴する案を思い付く。

 クラス全員が死亡したなら、桐谷は別のクラスに編入されたはずだ。彼らが言っていたのは事件後のクラスメートというだけの話で、何もおかしなところはない。

 だが――美樹はどれだけ楽観的に構えようとしても、背筋が冷えるのを止められなかった。




 予想通り麻子が顔を見せにくると、美樹は真っ先にそれまでの疑念をぶつけた。

 麻子の言う「悪質」という人物達は何者なのか。桐谷は本当に青川三十八人殺しの生き残りなのか。ならば桐谷と高校二年生の時のクラスメートなる人物が何故存在するのか。

 矢継ぎ早に質問を浴びせられた麻子は厭な顔こそしなかったが困ったように笑って、とりあえず落ち着こうと美樹を宥めた。

「えっと、その青川云々殺しとかいう話は、誰から聞いたの?」

 麻子はまずそう訊いてきた。質問攻めにした美樹に対し、質問の整理を求めるという目的だろう。

「さっきの講義中、隣で何人かが話してて……」

「うーん、まあ、仕方ないかあ。噂が広まらない訳はないし」

「じゃあ、本当なの?」

「匠があの事件の生き残りっていう話なら、本当だよ。あっ、本人は話したがらないから聞かないであげて」

 噂が本当だとしたらそれは絶対にそうだろうと確信していたので、強く頷く。

「それで、同じクラスだったっていうのは……?」

「それを言うなら、私も匠と同じクラスだったから」

 一瞬耳を疑ったが、すぐに美樹が辿り着いた簡単な答えの意味だとわかった。

「あの事件が起こったのが五月の終わり頃だったから。匠は私のクラスに編入になったの。二年生の時の匠は新しいクラスの方が長かったことになるよね」

 ただ――と麻子は言葉を濁らせる。

「青川南高校からこの大学に進んだ中に、二年生の時に私と同じクラスだった人は匠しかいない」

「それって――」

「うん、だから悪質なの」

 それは――どういう意味だ。

「岡本さんは、私の噂、どこまで聞いてる?」

 儚げに笑って、麻子は美樹の目を真っ直ぐに見据える。

「それは、その、霊感があるっていう……?」

 麻子は無言で頷いた。

「どこまでって訊かれると困るけど……単に霊感があるっていう話だけ――」

「じゃあ、そうだなあ……電波系の、ちょっとおかしな人のたわ言だと思って、これからの話を聞いてください」

 にっこりと笑って、麻子は話を一気に切り替える。

「匠だけが生き残ったことを恨んだ死者の霊は、隙あらば匠を転落させようと機会を窺っていたの。でも、匠にはそんなものは通用しない。匠は霊からの干渉を一切受け付けない身体なの。だから彼らは匠の周囲に目を向けた。ところが、匠と親しい間柄なのは、今は私くらいしかいない。その私は匠とは逆に、霊からの干渉に対処するだけの力があった。そうして彼らは日に日にやる気を失って、散り散りに消えていった。私はもう全て片付いたと思ってたんだけど、匠に接触した新たな人物が現れたことで、彼らも息を吹き返した。匠が駄目ならその近くの相手をと、彼らは行動を開始した。ただ、彼らも殆ど力を失い、集団としてでしか存在を保てなくなっているの。何か直接的な害を与えることは出来ない。ただ相手を不快にすることくらいしか出来ない」

 話し終えて麻子はほっと息を吐いた。

「頭おかしいと思った?」

 物怖じすることなく笑い、麻子は美樹の目を見た。

「いや、そんなことはないけど……呆気に取られたというか……」

「うん、だから、あんまり真に受けないでね? 頭おかしいのは私であって、匠は真っ当な人だから」

「頭おかしいなんて思わないって」

 美樹が思わず吹き出すと、麻子も楽しげに笑った。

「じゃあ、私は行くから」

 そう言って立ち上がった麻子に、美樹は思わず声をかける。

「えっ、桐谷君と話す時、一緒にいてくれるんじゃ――」

「そのつもりだったんだけど、ちょっと野暮用が出来て。大丈夫、匠には教室に残っとくように言ってあるから」

 じゃあ――と明るく言って、麻子は颯爽と去っていった。

 桐谷が麻子の言うことを素直に聞くのかという疑問はあったが、もしも桐谷が残っているのなら――それは美樹と会話をする意思があるということではないか。

 ならば、今桐谷がいる教室に顔を出すくらいのことは出来るはずだ。それで桐谷がいなければご縁がなかった。もしも桐谷がいれば、その事実が美樹の背中を押してくれる。

 よしと意気込んで、美樹は桐谷が講義を受けていたという教室へと向かった。

 ――いた!

 美樹は一瞬自分の目を疑った。いつもあっという間に帰るはずの桐谷が、相変わらず厳しい表情のままだが、確かに席に残っている。

 美樹を待っていてくれたのか――あるいは単に麻子の説得を聞いただけなのか。いずれにせよ、麻子が野暮用とやらに出ている以上は、美樹が声をかけなければならないだろう。

 いきなり声をかけるのもどうかと思い、美樹は音を立てないように気を付けながら桐谷の隣の席まで移動する。

「あ、あの……」

「ああ、岡本さん」

 くすりともせずに桐谷は美樹の顔を見る。険のある目顔に気圧されそうになるが、ぐっと堪えて笑顔で返す。

「ご、ごめんね。なんか待っててくれたみたいで……」

「ああ」

 鬱陶しげに眉間に皺を寄せ、一層険しい顔になる。

「麻子の奴が待ってろって言うから」

 ――ああ。

 やっぱり麻子の言葉を承っただけなのだ。美樹がそう断じてしまおうとした寸前、

「それに、岡本さんと話すのも悪くないと思ったし」

 ――え?

「えええええ?」

 素っ頓狂な声を上げた美樹を、桐谷は気怠げな目で見つめる。

「なに騒いでんの」

「あ、はい、ごめんなさいッ」

 桐谷は笑わない。むしろ表情はますます険しくなっていく。

 だが――敵意は感じない。

 それはあのにやにや笑いを浮かべた者達とは対照的だった。笑顔を浮かべた者と、相手を寄せ付けない雰囲気を漂わせた桐谷。

 あの笑顔からは溢れ出んばかりの悪意を感じるのに、桐谷からはむしろ穏やかさを覚える。

 桐谷のこの雰囲気は、恐らく単に純粋なだけなのだ。近寄るものを皆嫌悪するが如き冷たい感触も、全てを嫌悪しているからにすぎない。桐谷の全ては大きな嫌悪の中に含まれている。

 その夥しい嫌悪の中で、桐谷はほんの少しでも美樹に興味を持ってくれた。

 それを実感したことで、美樹は大きな前進を果たした気分になった。

 だから、美樹は気付くと自分から口を開いていた。

 楽しい会話――という訳ではない。ただ美樹がぽつりぽつりと言葉を漏らし、桐谷が適当に相槌を打つ。

 それでも美樹には、それが例えようもない程満ち足りた時間だった。

 どれだけ話していただろうか。多分時間としてはそれ程経っていなかった。ただ、二人にとっては充分すぎる時間だった。

「じゃあ、俺そろそろ帰るわ」

 だから桐谷がそう言って立ち上がった時も、美樹は名残惜しいとは思わなかった。

 桐谷を見送った後で、美樹もゆっくりと立ち上がる。

 途端に、教室に男女の集団が入り込んできた。

 その顔はどれも、美樹が思い出そうとした日中に出会った男女の顔の候補と同じものだった。

「なあ」

「桐谷と話してたんだろ?」

「楽しかった?」

「面白かった?」

「なんで」

「あいつだけが」

「俺達は友達だろ?」

「そうだろ?」

「なあ」

「桐谷ァアアア!」

 無数の怨嗟の声を受け止め、美樹ははっきりと宣言する。

「桐谷君は、やっぱり遠くから眺めているのが一番なんだと思う」

 集団の顔が呆気に取られたように固まる。

「私は、桐谷君が一人でいるのが好きなの。ただ一人、誰にも構われず、誰にも構わず、孤高の賢人である姿が好きなの。だから――私が入っちゃ駄目だった。私なんかと関わったら、それはもう、私の好きな桐谷君じゃないから」

 一人、笑う。

「桐谷君と話せて、本当によかったと思う。それで、よくわかったから。私は、桐谷君と関わっちゃいけない」

 ――おおおおお。

 何かが崩れ落ちるような音を立てながら、その集団は霧が晴れるように散っていった。

「匠、振られちゃったか」

 苦笑しながら、麻子が教室に入ってくる。

「ごめんね。仕留めようと思ったんだけど、逃げられちゃって」

「よくわかんないけど」

 美樹は嘘のように人気がなくなった教室を見渡す。

「なんとか、なったみたい」

 美樹はもう桐谷と言葉を交わすことはないだろう。また元のように、離れた場所から桐谷をそっと見ているくらいがちょうどいい。

「岡本さんも、なかなかのものだよね」

 どういう意味だろうか。まあ、察しはつくが。

「っていうか――なんで二人は付き合わないの?」

 美樹がお返しとばかりに訊くと、麻子は余裕を持った笑みを浮かべた。

「私達はなんていうか、戦友みたいなものなの」

「なにそれ」

 美樹が吹き出すと、麻子は少しだけ儚げな表情を見せた。

 ――敵わないな。

 麻子と桐谷は、きっと何か深いところで繋がっている。それはあまりに自然で、だから美樹はこの二人がこのままの関係を続けても、本当に付き合ったとしてもなんとも思わないだろうと確信出来た。

 ――遠くから、だ。

 美樹は憧憬の眼差しで、ずっと桐谷を見ていくだろう。

 桐谷が、美樹にとっての桐谷でいる限り。

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