第23話 プランクトンの幽霊


「プランクトンの幽霊が見えるんだ」

 岡野おかの圭吾けいごが意を決してそう言ったのは果たしていつ頃だっただろうか。確か理科の教科書か何かで本物のプランクトンを見たのがきっかけだったから、遅くとも小学校の頃だ。

 父親は一瞬表情が固まったが、すぐに笑って、

「それはな、飛蚊症というんだよ」

 と言った。

 岡野の知らないことは何でも知っている――とその頃信じていた――父親の言葉はしかし、彼を満足させるものではなかった。

 父親は飛蚊症というのが目の病だと教えた後で、優しく笑って続ける。

「気になるなら、明日にでも眼医者さんにでも行くか?」

 岡野は怒って、もういい、知らない、などと言って自分の部屋へ引っ込んだ。

 我ながら理不尽な怒りだったと思う。そして理由からして子供っぽい。

 何故なら岡野は、自分が特別な人間だと信じていたからだ。他人には見えない何かが、自分の目には映る。

 だが父親は、それをありふれた病気だと切って捨てた。

 そうじゃないだろう。

 息子が自分の異常性を必死の思いで伝えたのに、そんなものは気にするものではないと笑いやがって。

 自分の神秘性を見せびらかそうと思ったのに、それを通俗的なものにおとしめやがって。

 以来、岡野は誰にも自分の見えるものについて話していない。自分の中だけにしまっておくことで、自己陶酔に浸れることがわかったからだ。俺の目にはプランクトンの幽霊が見える。お前達には見えない。俺は特別な存在なのだ――。

 無論、飛蚊症について少しは調べはした。だがざっと目を通すと、もう目を逸らす。それは紛れもなく岡野に見えているものを指し示しているからだ。

 そのまま岡野は大学まで進学した。常に視界に入るプランクトンの幽霊は、意識しなければ邪魔にはならない。長年の付き合いで、無視するのには慣れっこだった。

 プランクトンの幽霊は暗い場所では見えにくくなる。明るく、白系統の背景が視界に入っていると特によく見える。

 また、それを目の真ん中で捉えることはなかなか出来ない。プランクトンの幽霊は動き回り、それを目で追おうとするとそれに合わせて逃げるように飛んでいくからだ。一度意識してしまうと、どうしてもそれを目で追ってしまうから、視界中をプランクトンの幽霊が飛び回ることになる。

 経験則で知っていることだが、多分ネットで調べればそうしたことは一発で出てくる――飛蚊症の名でだ。

 岡野はそれでも、この見る力を誰にも話さない。これは墓まで持っていこうと――思っていた。

 梅雨が明けて、残酷なまでに強い日差しが襲うある日だった。

 日差しのせいで町はどこか白く染め上げられたような感じさえする。そうなれば、岡野の目にはプランクトンの幽霊が鮮明に映る。

 いくつか視界に入るプランクトンの幽霊の中で、一つ、細長いものが視界の中央に漂ってきた。

 岡野はそれを見ようとはしなかった。見ようとすれば目で追う。目で追えば逃げる。視線を固めておくことが、それをきちんと見る最良の方法なのだ。

 ただ、それを見ようと思った訳ではない。目で追えばどうしても気になるので、余計なことに気を取られないために見ないことにしたからだ。

 どうせ気付かぬ内に視界の外へ飛んでいくだろう。そう思って歩道を歩いていると、そのプランクトンの幽霊が、動いた。

 何を今更、目で追えば動くのだろう――などと一蹴はしないでほしい。

 確かに、岡野の目に映るプランクトンの幽霊は動く。だがそれは、平面上を水平に移動するようにだけだ。

 言い方を変えよう。プランクトンの幽霊を、図形に置き換えて考えればわかりやすい。平面上に置いた図形を移動させる――それが岡野の見え方だ。この時、辺――即ち輪郭線は全く動かない。三次元を見る視界の中に、極めて二次元的なものが映るのが岡野の見る世界なのだ。

 ところが、このプランクトンの幽霊は動いた。身をよじったと言った方がいいかもしれない。絶対に動かないはずの輪郭線がうねり出し、蛇のように身体を捻ったのである。

 その時岡野の視界には、一人の老人が映っていた。とぼとぼと散歩しているらしいその老人を目の真ん中で捉えると、そのプランクトンの幽霊はゆらゆらと老人の首に纏わり付き、身体を輪にしてその首を絞め上げたのだ。

 そしてあろうことか、その老人は息が出来ずに首を掻き毟り、顔を真っ赤にし、失禁して道端に倒れ込んでしまった。

 岡野ははっと目を逸らした。視界にはもうあのプランクトンの幽霊の姿はない。他に見えるいくつかのプランクトンの幽霊も、普段通りの動きしかしない。

 とにかく、岡野はその場から逃げ出した。

 訳がわからなかった。




 連続絞殺魔――なんだか古臭いが、その言葉が適当だろうか。

 川島茂は自分のデスクで資料を見ながら、大きく溜め息を吐く。

「係長がそんなんじゃ士気が上がりませんよ」

 ああと生返事をして、川島は羽鳥はとりたもつをあしらう。

 だがそれで引っ込む程、羽鳥は出来た人間ではない。

「連続絞殺魔、どうなるでしょうね?」

「どうなるでしょうねってな――俺達がどうにかしなきゃならんのだろうが」

 自分で士気がどうのこうのと言っておきながらこれだ。呆れ返って川島はもう一度溜め息を吐く。

 川島は青川南警察署刑事課強行犯係の係長である。羽鳥は今年からその下で働く新米刑事ということになる。

 泗泉町絞殺事件――現在はD県内連続絞殺事件特別捜査本部は青川南署内に設置された。これは最初に起きた事件が泗泉町内――つまり青川南署の所轄であったためだ。その後、大正町内でも同様の事件が起こり、そちらは県警本部の所轄だったが、最初の事件と同様のものと判断され、「戒名」を変えて引き続き青川南署に特捜は居座った。

 被害者は全員、首を索状物で絞められて殺害されている。現場は全て自分で首を吊れるようなもののない、開けた場所である。凶器と思われる物は見つかっておらず、犯人の目撃証言もない。白昼の犯行であるにも係わらずである。

「はーあ、また火清会様がお出ましになって闇に葬ってくれないもんですかねえ」

 羽鳥は川島に意味ありげな視線を送ってよこす。

 またか――川島は三度目の溜め息を吐く。

「あの事件について、お前に話すことは何もないぞ」

「そんなつれないこと言わないでくださいよー。せっかく南署に来たんですから、青川三十八人殺し――」

「おい」

 川島が厳しく止めると、羽鳥は反省の色の全くない顔ですみませんと謝った。

「正確には三十九人殺しでしたっけ」

「ネットの呼称を気軽に使うもんじゃない。そんな警察官は破滅するだけだ」

「だから自分の目と耳で情報を集めようとしてるんじゃないですか。当時の現場主任が目の前にいるんだ。根掘り葉掘り訊きたくなるのが人情でしょう?」

「もうお前に話すことは何もないと言ってるだろうが。俺の知ってることは全部教えてやったんだ」

「教えてもらったのは、大人の事情で変えられたバージョンでしょう。食中毒なんて、納得するような奴はいないですよ」

 わかったわかったと川島はひとまずこの押し問答を落ち着かせる。

「今は目の前の事件に集中しろ。いつまでも南署に特捜が居座られたんじゃ落ち着かない。事件が綺麗に片付いて特捜が解散していつもの平和な南署に戻ったら、昔話の一つでもしてやる」

 羽鳥は薄笑いを浮かべて両手を掲げた。

「体よく逃げましたね。やっぱり川島さんには敵わない。今日までずっと逃げられっ放しですからね」

 そういえば――と羽鳥は思いもよらない方向へと話題を変えた。

「娘さんはお元気ですか?」

「娘? 元気は元気だが……お前、何を考えてる」

 いやだなあと羽鳥は笑う。

「そりゃあ川島さんの娘さんが可愛いってことは有名ですけど、そんなよこしまなことなんか考えちゃいませんって。ただ、ちょっと耳にしたことがあって」

 川島が眉を顰めると、羽鳥は大したことじゃないですよと前置きをしてから話し始めた。

「娘さん――麻子さんでしたっけ? 彼女がその筋の人と繋がりがあるという噂です」

 その筋――警察内でこんな言い方をすれば、まず暴力団と思われる。だが羽鳥はそれを察したのかすぐに否定する。

「いや、やくざじゃないですよ。なんて言うかな……裏は裏でも」

 そこで川島はおおよその事情を悟った。

「心霊――と言いたいんだろう」

 羽鳥は意外そうに目を見開いたが、すぐに元の薄笑いに戻った。

「流石に親御さんはご存知でしたか」

「いや――」

 知らない。

 川島の娘――麻子に、見えないものを見る力があることは親である川島も知っている。知ってはいるが、それに積極的に関わろうとはしていない。幸い近所に同類であるという信用の置ける人物がいるので、そうした話は麻子は家ではせず、そちらに持ち込むことにしている。

 だが、今年から大学に進学した麻子が、別の人脈を持つようになったとは薄々感付いていた。それでもどんな人物かは訊いていないし、麻子が家でそちらの話をすることもない。

 羽鳥がそんな事情を知っている訳はないし、わざわざ話すことでもないので川島が沈黙していると、羽鳥は一人で話を続けた。

「裏では結構名の知れた霊能者がいるそうで、その人の下請けのようなことをやっているとか。そんな話でしたよ」

「で、何が言いたい」

 羽鳥はおどけたように肩を竦める。

「いやあ、そんなに優秀な霊能者さんなら、捜査に協力してもらえないかなーなんて」

「馬鹿馬鹿しい」

 川島はネクタイを緩めながら立ち上がると、特捜が置かれている会議室に向かおうとした。

「待ってくださいよー。冗談ですって冗談」

 相変わらず反省の色の全くない羽鳥を無視し、川島は刑事課の置かれた部屋を出る。

「あっ、川島さん」

 警務課の吉野よしのしずかが川島を見つけるとにっこりと笑う。受付を務めているだけあって如才ない。

「何か?」

「あ、はい。娘さんがいらっしゃってますよ」

 川島が顔を顰めると、いつの間にか隣に立っていた羽鳥がにやりと笑った。




「困るんですよ、こういうの」

 川島麻子はそう言って眉間に皺を寄せた。

 一体どこから広まったのか――麻子は最近己に付き纏う噂に、いい加減辟易としていた。

 曰く、川島麻子には霊感がある。

 いや、それはもう限りなく本当なのだけど、こうした噂が広まって、麻子に有益に働くことはまずありえない。

 興味本位で近寄ってくる者。自分も霊感があると言い出し擦り寄ってくる者。虚言癖だと見下した目で見てくる者。

 どれもこれも迷惑でしかない。麻子としてはこの力は隠して学生生活を送りたいのだが、大学という今までよりも広い世間の中にはどこからかもたらされた情報が錯綜し、麻子の印象を当人の願いとは別方向に決定付けたのだった。

 ――三条さんと関わったせいかな。

 麻子は大学に進学してから、三条という男の肝煎りでいくつかの依頼を受けている。それはどれも霊的な問題だった。大学内とは関係のない相手ばかりだったが、案外そこから噂が広まっているのかもしれない。

 なので今キャンパス内のベンチの横に神妙な面持ちで腰かける男――岡野圭吾と話をするのも、本来ならば避けたいところだった。

 だが、岡野の様子がどうにも切羽詰まったものだったので、興味本位でも霊感仲間でもないと判断し、そこに加えて、

「人が、死んでる」

 という一言にただならぬものを感じた麻子は仕方なく話を聞くことにした。

 岡野の話は麻子にもよくわからないものだった。なんでもプランクトンの幽霊が動き出し、目に入った人を絞め殺したのだという。

「えっとですね、私は本当に何の力もないですし、こういう噂が広まるのも困るんです」

「だから、現に人が死んでるんだよ! あんた『見える』んだろ? ならこのプランクトンの幽霊も見えるんじゃねえのかよ!」

 岡野は明後日の方向を指差し、その指先は落ち着きなく動き回る。

 そこで岡野ははっと息を呑み、麻子の顔を凝視した。

 麻子は息が出来ないことに気付いた。首に圧迫感がのしかかっている。視線を首に向けるが、麻子の目には何も映らない。

「うぐ――」

 麻子を意識を集中させ、岡野の目を覗き込む。何かに取り憑かれたように麻子の顔を凝視するその目は完全に据わっていた。

 岡野にしか見えないプランクトンの幽霊。それは岡野の目にしか映らない。ならば――。

 麻子は手で岡野の目を覆い、視界を奪う。そのまま残った手で頭を下に向けさせると、首の圧迫感はなくなっていた。

 息が出来る。安堵しながらも警戒心は解かず、岡野の目は塞いだままだ。

「岡野さん、私の方は向かないでください。視線をこっちに向けたら、またこうやって目を塞がせてもらいます」

 岡野が呻き声のような返答をしたので、麻子は両手を離す。

 顔を上げた岡野は言われた通りにこちらを向かず、前だけを見て麻子の言葉を待っている。

「見えたか?」

「見えませんでした。困りますよ、本当に――」

 麻子は参ったとばかりに肩を落とす。

 麻子には見えないのに、岡野には見える。

 他人には見えないものが見えるというのは日常茶飯事なのに、他人には見えるものが見えないというのは珍しい。

 他人に見えるものが全て麻子にも見えるという考えはしていない。麻子のような人間が見るものなど、不確かで曖昧で、見る人によって姿を変えているのかもしれない――そんなあやふやな中で話を合わせている。

 だが、岡野の場合はまた立場が違う。

 何故なら、麻子の頭の上の存在に気付いていないからだ。

 麻子の頭の上には、それはもう巨大極まる蜘蛛の化け物が乗っていた。これが見えないということは、少なくとも麻子がこれまで出会ってきた『見える』人間とはまた種を別にするということになる。

 岡野だけに見えるプランクトンの幽霊。それが現実の人間に牙を剥いている。

 正直言って、麻子には手に負えない。麻子に見えないのだから当然と言えば当然である。

「いいですか、もしそのプランクトンの幽霊が人を絞め殺しそうになったら、目を逸らすか瞑るかしてください。それで多分最悪の事態は避けられます。私から言えることは、今はこれだけです」

「もう――駄目だ」

 岡野はこちらを見ることなく、頭を抱えて膝の間に埋めた。

「無理なんだよ。一度見ちまったら、もう目を逸らせねえんだ。なあ、これってやっぱ殺人だよな……?」

 麻子はなんとも返事をしかねた。警察が岡野の話を信じるとは到底思えないが、現に麻子はその身を以て体験している。

「じゃあ、行きましょうか。警察」

 思わず岡野は麻子の顔を見たが、麻子はすかさずその目を塞いだ。




 岡野圭吾の話を聞いた川島は、完全にお手上げ状態となった。

 麻子がやってきたと聞いて川島は厭な予感がしたが、それは見事に的中したことになる。

 麻子と一緒に警察署に姿を見せた岡野は、どうしたものかと悩んでいるようだったが、何を思ったのか両手を前に差し出した。

 手錠をかけろ――そう言っている仕草である。

「とりあえず岡野さんの話を聞いてあげて」

 麻子に言われ、釈然としないまま刑事課の川島のデスクに連れていくと、岡野はぽつぽつと話し始めた。

 支離滅裂――としか言いようがない。

 岡野が語っているのは飛蚊症のことだろう。それが動き出して通行人の首を絞めた。全く以て意味不明である。

「プランクトンの幽霊ですか」

 羽鳥が苦笑しながら川島の隣の椅子に腰を下ろす。

 岡野は一旦別室に身柄を預けておくことにして、川島が刑事課に戻ってきた時を見計らって話しかけてきたことになる。

「お前、信じるか」

「いや、全く荒唐無稽な話ですよ。でも、こういうのはどうです」

 羽鳥は抱えていいた資料を自分のデスクの上に広げ、三枚の写真を拾い上げた。

「被害者の顔写真を見せて、その自供した殺害現場の相手かどうか確かめさせるっていうのは」

 確かに被害者の顔は報道にも出ていない。だが、それで認められても余計に対応に困るだけではないか。

 川島がどうしたものかと唸っている内に、羽鳥はさっさと岡野を待たせてある別室へ向かった。川島はもうどうにでもなれと全て羽鳥に任せることにした。

「お父さん」

 川島が受付の方まで足を向けると、麻子がまだ残っていた。受付の静がくすくすと笑っているのが目に入るが、気にせず麻子に話しかける。

「厄介な話を持ち込んできたな」

「あはは……ごめんなさい。でも警察なら安全かと思って」

 溜め息を吐いて、麻子とどう話すべきか逡巡する。麻子との会話の距離感は川島の人生の命題であった。

「旦那」

 落ち着いているが、どこか狡猾さを秘めた声が二人の会話を打ち切った。

「お久しぶりです」

 その男は眼鏡をかけているのに細く鋭い目で川島を見、続いて視線を麻子へ移動させた。

「お前――また何かやらかしたのか?」

 川島がきつく訊くと、いやいやと笑いながら否定する。

「甥御さんを預からせていただいているので、一度はご挨拶をと思いましてね。それと、ちょっとしたネタを」

「あの……」

 どちら様と訊きたがっている麻子を見て、川島が答えることにした。

「安中栄一郎。長七が世話になってるライターだ。前に話しただろう?」

 安中はどうもと会釈する。麻子が会釈を返すと、すかさず「娘さんですか?」と訊いてくる。

「まあな。今はD大に通ってる」

 受付の前で三人で話をするのも迷惑だろうと思い、川島は安中を刑事課の中へと案内した。麻子には何も言わなかったが、自然とついてくる形になった。

 空いているデスクの椅子に座るように言って、給湯室で茶を淹れて持ってくる。

「長七は上手くやれてるのか?」

 川島が訊くと、安中は笑って茶を啜る。

「まあまあといったところですかね。あの滅茶苦茶な口振りには最初戸惑いましたが」

 それで――と安中は早々に話を切り替える。

「連続絞殺魔――どうなってます?」

 川島は一瞬岡野のことを感付いてここにやってきたのかと思ったが、すぐにそれはないと判断した。岡野が南署を訪れたのはついさっきのことで、いくら耳が早くとも流石に伝わることはありえない。

「相変わらず進展なしだ」

 なので川島は岡野のことは話さずに返答した。麻子が意味ありげに視線を送ってくるが、無視した。

「実はですね、あることに気付きまして」

「もったいぶらずに話せ」

 情緒の欠片もないですね――と肩を竦めてみせて、安中は急に真剣な面持ちになる。

「被害者に共通点があるんですよ」

「なにィ?」

 そんな話は捜査会議で一度も出ていない。

「まず一人目、泗泉町で殺害されたはやし五郎ごろう七十三歳。彼は私達の間では長老格でした。次に二人目、大正町で殺害された瀬川せがわ和弘かずひろ二十四歳。彼はあるネットの掲示板では有名なコテハンでした。最後に三人目、青川市街地で殺害された大野おおの円心えんしん四十八歳。彼は市街地に残った数少ない寺の住職でした」

「それは、おい、まさか――」

「そのまさかですよ。被害者は全員火清会に敵対していたんです。一人目は裏稼業でアンチ火清会のライター。彼が亡くなったのは我々には大きな損失です。二人目は掲示板で固定ハンドルネームを付けて火清会を誹謗中傷。この掲示板の管理人は最近火清会の息がかかったある会社に変わっています。三人目は火清会が敵と見做している異教徒。市街地では寺の存続が危ぶまれていますが、彼は逆に火清会に攻撃的で、檀家を集めて火清会排撃運動を行っていました」

 そこまで一気に話すと、安中は沈黙した。

 川島は愕然としていた。今まで判明していなかった事実にではなく、事実が表に出てこなかったことにである。

 警察は無能ではない。安中が辿り着いた事実には、捜査を進めれば辿り着けたはずだ。だが、それは一切表には出てこなかった。火清会の影響力は、こと青川市及びD県内では絶大だ。しかし――まさかここまでとは。

「川島さん、取り調べ終わりましたよー」

 羽鳥の能天気な声がしてもなお、川島の驚愕は収まらずにいた。

 そこで、安中の様子がおかしいことに気付く。

 息を詰まらせ、首を掻き毟っている。まるで見えない何かに首を絞められているような――。

 川島ははっとして羽鳥の方へと目を向ける。羽鳥の隣には岡野が何かに憑かれたように一点を凝視していた。

 川島より麻子の方が速かった。立ち上がるやいなや数歩で岡野の前まで辿り着くと、手で目を塞ぎ、顔を下に向けさせる。

 安中が激しく咳き込む。

「おい! 大丈夫か!」

 安中は咳き込みながら頷く。

「狙いは正確――という訳」

 麻子がそう呟き、岡野の目から手を離した。




「これはもう――呪殺だね」

 三条はそう言って、岡野と向き合った。

「流石に僕には呪詛は向かないか。しかし川島さんまで狙われるとなると……」

 麻子は頷く。思い当たる人物が、確かに一人いるからだ。

 南署での騒動を何とか揉み消した後、麻子は岡野と一緒に泗泉駅に向かった。そこで急行に乗り、終点の大太良駅まで向かう。電車に乗る前に電話で駅前から離れた喫茶店を待ち合わせの場所に決めておき、二人でそこに入った。無論道中岡野の目は決して麻子に向けさせなかった。

 そこで待っていたのが、三条だった。

「三条さん、これって罪に問えるんですか?」

 麻子が訊くと、三条は力なく笑う。

「現行の日本の法律では呪殺は取り締まれないよ。明治の頃に出来た法律だったらまだ可能だったんだけど、変わっちゃったからね」

 さて、と三条は麻子に目をやる。

「僕は火清会とは出来れば敵対したくないんだ。勿論こういう裏稼業をやっているからには邪魔に思うことも多いけど、なにせ相手にするには大きすぎる。だから出来れば穏便に済ませたい」

「でも、殺人ですよ?」

「確かにそうだけど、さっきも言った通りこれは罪には問えないんだよ。それに、彼を殺人犯に仕立て上げることにもなりかねないしね」

 ただし――と三条は険のある目顔になる。

「この式を打った相手は別だ。太夫としての知識や技術を、火清会のために使うことは許せない」

 人殺しがどうではなく、論点はそこなのか――麻子は少しだけ寒気を覚えた。

「式を打ち返す――ただしこれはかなりの危険を伴うんだ。打ち返した式を、相手がまた打ち返す恐れだってある。そうなれば延々式の打ち返し合いが続くことになる。だから、川島さんにも手伝ってもらいたいんだ」

「え? でも私、三条さんみたいなことは――」

「川島さんには川島さんにしか出来ないことがあるだろう?」

「名前――ですか」

「うん。でも、今回の相手は名前を付けるにはエキセントリックすぎる。だからその前段階の手段を使う」

 がくん、と岡野の頭が前に倒れた。

「岡野さん?」

 三条はしっと声を潜めるようにジェスチャーをする。

「彼のコーヒーに、ちょっとした薬を入れさせてもらったんだ。大丈夫、少しの間意識が混濁するだけで、害はないから」

 見れば確かに完全に意識を失った訳ではなく、こくりこくりと頭を揺らしている。

「込み入った話になるし、横から口を出されても困るからね。さて、川島さんが初めて請けてくれた依頼は覚えてる?」

 麻子は岡野が心配だったが、ここはもう割り切って三条と話をすることにした。

「はい。津田さん――首だけの女ですよね」

「そう。その首だけの女に、川島さんは舞首という妖怪としての名を付けて落とした。これは川島さんの力が成せる業で、普通は出来ない。首だけの女というのが見えている時点で僕から言わせてもらえばかなりのズルをしてるし、過程を飛ばして結果だけを得たと言えるね。じゃあ、その過程が存在するとしたら実際にはどうなるのか」

「えっと、見えないんだとしたら、まずは何が起きているのかを知る――ってこれは私もやってますけど」

「うん、それは絶対に必要な第一段階だね。そこでどんな怪異かを見定める。今回は僕の視点から話を進めるから、首だけの女は終始見えないし、見立てたりもしないことにするよ」

 頷くと、三条は小さく笑って話を始めた。

「まずさっきも言った通り、怪異を見定める。津田さんの場合は幻聴だった。ここで普通は精神科への通院を進めて終わりだけど、今回はそちらの道は用意しないことにする。次は原因を見つける。ただし、僕達のような立場の場合、原因はでっち上げで構わないんだ。本当の原因を見つけて対処するとなると、それこそ精神科の仕事だからね。川島さんの場合は、この原因が首だけの女として見えていた。必死に原因をでっち上げようと頭を悩ます僕のような人間には、羨ましい限りのショートカットだね」

 褒められているのかよくわからない麻子は力なく笑って返す。

「僕の視点で話を進めるから、原因は、そうだなあ、工場で昔働いていて、自殺した人の霊ということにしておこうか。次に、〈変換〉か〈解体〉を行う」

「変換と解体?」

 三条は指を二本立て、一つを折り畳む。

「〈変換〉からいこうか。これは怪異を別のベクトルに向けさせてしまうことだね。例えば津田さんの場合、幻聴の意味ははっきりと聞き取ることは出来ていなかった。そこを利用し、霊が何を言っているのかという意味を与える。『その霊は善良で、毎日仕事を頑張っているあなたを励まそうとしているんですよ』みたいにね。そう認識してしまえば気味の悪さは薄らぐし、前向きに受け止めることが出来るようになるかもしれない」

 なるほどと麻子は頷く。ズルをして落としてしまった麻子からすれば回りくどく感じるが、そこには麻子には出来なかった利点もある。

「そうすれば原因ごと変換してしまえるから、再発の心配がないんですね」

「その通り。変換を突き詰めていくと、怪異の欠片すら残さないことも出来る。そうすれば原因は原因ではなくなるんだ」

 次に――三条は残ったもう一本の指を折り畳んだ。

「〈解体〉は怪異を分析して、吟味して、仕分けをしてしまう。井上円了風に虚怪だとしてしまう方法もこれに含まれるけど、僕のような呪術者の場合はそれを怪異として認めた上で、でっち上げた原因を解消したように見せかけるんだ。こちらは手続きが面倒だけど、原因を取り除くことが出来るという利点がある」

 三条はすっかり冷めたコーヒーを一口啜り、ほっと息を漏らした。

「他にも人によっては色々な手段があるけど、主だったのはこの二つだね。最後に仕上げとして依頼金を受け取ると。あ、このお金を払うという行為は意外と大事なんだよ。きっちりと仕事をしてもらったという充足感を与えることが出来るからね」

 話を終えると三条は岡野を見て難しい顔をした。

「さて川島さん、彼の場合はどうすればいいと思う?」

 麻子は隣の岡野の朦朧とした姿を見てどうしたものかと唸る。

「これ、津田さんの場合とはまた話が違いませんか? 外部から呪いがかけられているようなものですし、私には何も見えないし」

「確かに今回はかなり難しいね。でもさっき言った方法でのアプローチは可能だと思うよ」

 麻子はそこで三条の話を思い返す。

「まず最初に、何が起きているのかを見定めるんですよね」

「そうだね。今回は岡野さんの目に映る特定の人物が、岡野さんだけに見える飛蚊症の影によって首を絞められて殺されると。うーん、エキセントリックだなあ」

 次は原因だ。

「原因は――呪いでいいんですよね?」

「そうなるね。呪術者によって式を打たれた結果、岡野さんの異常が起きている」

「じゃあ次――〈変換〉か〈解体〉、どっちがいいでしょう?」

「今回は原因が明確にわかっているけど、当人にはまるで身に覚えがないはずだから、〈変換〉は効果が薄いと言えるね」

「じゃあ〈解体〉ですか……。って、これすごく難しい気がするんですけど」

 三条は苦笑する。

「原因を取り除くことになるからね。僕流のやり方なら、式を打ち返すのがこれに当てはまる訳だけど、相手を逆撫ですることにもなりかねない。だから、出来れば落としたい。そのために岡野さんに薬を盛らせてもらったんだ」

 こくりこくりと頭を揺らす岡野を見て、麻子は思わず不安になる。

「大丈夫――なんですよね?」

「それは請け合うよ。太夫の間で長い間伝えられてきた、薬草やちょっと口に出来ないものを配合した生薬だ。安全性は問題ないよ。さて、彼は今薬でトランス状態に入っている訳だ。本来こうしたモノを落としたりする時は巫覡(シャーマン)側がトランスに入るんだけど、今回は彼自身を憑童(よりわら)として使わせてもらう」

 そこで三条は岡野と向き合う。目こそ合わないが、意識が確実に岡野に向けられているとわかる。

「岡野さん、何が見えます?」

 こんな状態でまともな返答など期待出来ないのではないかと危ぶんだが、意外にも岡野は低いがはっきりとした声で、

「プランクトンの幽霊」

 と呟いた。

「それはですね、飛蚊症と言うんですよ」

 岡野の手が強く握られるのを麻子は見た。

「知ってる」

「ほう、では何故頑なにプランクトンの幽霊などと言い張るんですか?」

「俺には見える」

「他の人には見えない?」

 がくんと頭が前に倒れる。麻子は慌てたが、よく見ると頷いたのだとわかった。

「あなたは自分が特別な存在なのだと信じているんですね」

 もう一度がくん。

「しかしながら、飛蚊症というのは割合ありふれた病気です。あなたは別段、特別という訳ではない」

 どん、と岡野がテーブルを叩いた。三条は怯まない。

「ですが、今の状況はまた趣が違う。あなたは正しく特別な存在になった。あなたの目には、何が映ります?」

「プランクトンの幽霊」

「違うはずだ。それは飛蚊症などとはまた別の、もっと高尚な存在であるべきでしょう」

「おおおおお――ああああああ――」

 きっと岡野の目には、目まぐるしく視界を飛んでいく影が映ったはずだ。

「それはただのプランクトンの幽霊ではない。もっと明確な悪意を持った、謂わば殺人鬼」

「あ、ああ――何だよ、これ――」

「あなたには本来それは見えないはずです。あなたに見えるのはただの飛蚊症の影だけ。だが今あなたが見ているのは何か?」

「これは――これは俺の見ているものじゃない!」

「ならばそれを切り捨てることです。あなたに見えるのはあくまでプランクトンの幽霊。その影は、あなたの視界に入ってはならない存在のはずです」

 気付くと岡野はぼろぼろと涙を垂れ流していた。これは悲しみでも感動でもなく、ただの生理現象としての涙のように思われた。

「ゴミが、落ちましたね」

 三条がそう呟いた時には、岡野はすっかり正気付いていた。




「自首してきたよ」

 父が言ったのは岡野のことではなかった。連続絞殺魔として、とある男性が自首してきたという。

 麻子が釈然としないまま、事件は解決に向かった。その男性は全てを自供し、アリバイも存在せず、状況証拠は充分だった。

 父も岡野のことは承知の上だった。それでも特捜はその男性を犯人に仕立て上げることに決めたらしい。所轄の係長の立場で口は出せない――出せたとしても無意味。父がそう考えたかどうかは麻子にはわからない。だが実態である呪殺という方向を指し示すことはなかったはずだ。麻子の父はそうしたことを嫌う。

 しかし実際岡野を突き出したところで、事件は解決に向かうことはなかっただろう。呪殺は現行の法律では裁けない。ならば適当な犯人を見繕った方が穏便にすむ。

 相手もそれは見越していたのだろう。アリバイを成立させるより、アリバイを崩す方が容易い――そんな格言を麻子は勝手に作っていた。

「三条さんは、〈変換〉を使ったんですか?」

 大太良市で再び三条と会った時、麻子はそう訊いた。本来の目的は岡野の始末をつけてくれた礼金を払うつもりだったのだが、三条がきっぱりと断ったので話は自然とそちらに向かった。

「うーん、合わせ技と言った方がいいかな。解体しながら変換したと。まず彼に見えているものを認め、それを別のものと認識させて――変換してから、それを解体した訳だね」

 三条は笑って、参考になったかな――と訊いてきた。

「まあ川島さんは『見える』し、特異な力も持っている。あまりこういった流儀に従わないというのも手だと思うけどね」

「はあ……」

 麻子がどちらとも取れない返事をすると、三条は気を悪くするでもなく話を切り替える。

「今回の呪詛を放った人は、川島さんのことを知っていたはずだよね」

 頷く。岡野の目に映った麻子が首を絞められた。これは即ち、麻子がターゲットに入っていたということになる。

「その人物は、川島さんをそこまで危険視していたのかということが気にかかるんだけど……」

「多分――そうじゃないと思います」

 麻子には、恐らくは呪詛を放ったであろう当人の見当はついている。その人物は麻子を脅威とは見なしていないし、火清会に心からの忠誠を誓っている訳でもない。

「私を、また試したかったんじゃないでしょうか」

 以前にも、その人物は麻子の力量を見極めるためにしち面倒くさい方法を取っている。

 死ねばそこまで。解決すれば上々。場合によっては危険度を引き上げる。それ以上に、麻子に興味を持っているのかもしれない。

「それは悪いことをしたかな。川島さんの力を使わずに落とした訳だから」

 三条には珍しく、皮肉な物言いだった。それだけ相手が許せないのだろう。

 麻子が礼を言って帰ろうとすると、三条はふと思い出したように半分口を開きかけたが、結局は何も言わずに見送った。

 一人になったところで、三条はぽつりと呟く。

「神野悪五郎を――川島さんは知っているのか」

 三条の前に座った男は、柔和な笑みを浮かべた。

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