第22話 死ぬまで生きる
*
ぽんっ。
いや――。
するっ。
または――。
ふわっ。
まあ、どうでもいい。その事象に音は伴わないはずなので、気持ちの問題だ。
上から見て、ああ、こいつはもう駄目だとわかる。
動くことも出来ない。
喋ることも出来ない。
死んだように横たわるそれは、『ように』などという生易しい表現ではなく、もう死んだも同然だった。
淀んだ意識はあった。だが、それは苦痛でしかない。
今は違う。
自在に動ける。
どこへでも行ける。
さあどこへ行こう。ひとまずこの薬品の臭いの染み付いた陰気な建物から出て――思うままに意識が飛んでいく。
広い。
全身――いや、全霊か――に空を感じて、思い切り飛び上がる。
世界を一人占めにしたような充足感。こんなに気分がいいのはいつ以来だろう。
ふと、何かの気配を感じてはるか下に見えるマンションの方へと飛んでいく。
三階の一室に入り、気配を頼りに風呂場まで向かう。
湯船から水が溢れている。蛇口が開きっ放しで、水がどんどん流れていくのだ。
その中に右手を突っ込み、湯船の縁に身体を倒した若い女。
右手の手首からは赤い染みが湯船の水に吐き出されて溶けていく。
そうか、死ぬんだな。
勿体ないことをしたものだ。まだ若いだろうに。未来はあるだろうに。満足に動かすことの出来る身体もあるだろうに。
抜けていくのがわかる。
――ちょっとだけ。
どうせもう時間はあまりない。少しくらいのわがままは許されるだろう。
死なないで――。
そして――。
すう……。
いや――。
じわ……。
あるいは――。
にゅう……。
それにも音は伴わないから、どうでもいいのだけれど。
1
安野は携帯電話を耳に当てながら、電話越しの相手の話を静かに聞いていた。
D県緑山市の山の中にある、広いが古い屋敷。安野はそこに一人で暮らしている。
元々この屋敷は化け物屋敷として有名で、不動産屋も扱いあぐねていたのを安野が二束三文で買い叩いたのだった。
電話の相手は、その辺りの事情をよく知っている。この家を安野に紹介した当人だから当然だ。
安野は一通り話を聞いてから、一言、
「行く」
とだけ言って電話を切った。
自転車で山道を越えて緑山駅まで向かうと、そこから急行に乗って隣のB県へ向かう。緑山市はD県の最南端で、そのままB県に面しているので目的地まではすぐだ。
B県の大地方都市大太良(だいたら)市。ターミナル駅であり終点である大太良駅で電車を降り、地下鉄の駅に向かう。
市営地下鉄で四駅を通り過ぎ、五つ目の駅で降りる。
そこからバスで十分程で、目的の大太良中央医療センターに着く。市内で最も大規模な病院で、悪い風聞では金持ち相手の商売だと言われている。
電話の相手は事前に申し合わせた通り待合室で待っていた。
「安野君、早いね。僕もさっき来たところなんだよ」
三十を越したことを考えると、若作りと取られても仕方がない若者風の格好をして、三条は安野の許に歩み寄る。
安野の格好はと言うと、上は洗いざらしの薄いTシャツ一枚だけで、下はジャージというものだった。何より目を引くのは髪の毛が半分程白くなっているところだろう。そのせいで必ず老けて見られるが、この男はそんなことを気にするような玉ではない。
「で」
一文字だけで意思を伝えると、三条は頷く。
「二号棟の402号室。見に?」
「行く」
三条と並んで渡り廊下を進む安野は、先程の電話の内容を吟味していた。
2
次にその身を着飾る派手な服やブランド品を片っ端から売り払い、ある程度の現金を手元に残した。
ホストクラブ通いもきっぱり止めた。今まで貢いできた金は、ただただ無駄にしたと割り切った。
長く伸ばしてパーマをかけた髪もばっさりと切って、自然なショートにした。
さてこれからどうするか。まるで決まっていなかったが、胸は高鳴る。
暫くはよく食べよく動きよく寝て、身体を健康体に戻すことに努めた。ホストに貢ぐ金を捻出するために夜は風俗店で働いていた智美の身体は、短い入院だけで全快するようなレベルではなかった。
退院してから一週間程で、携帯電話に贔屓にしていたホストから電話が入った。
「智美ちゃん、入院したって聞いたけど大丈夫? 最近店にも顔見せてくれないしさあ」
「平気よ。それともうお店には行かないから、二度と電話してこないでね」
智美はにっこり笑いながらそう言って電話を切った。どうせ相手は金だけの上辺の付き合いだ。こちらが靡く素振りを見せなければ一瞬で忘れるに決まっている。本当に、馬鹿な子――。
もう、ごちゃごちゃした人間関係に悩まされることも、それを忘れるために男に貢ぐこともない。
さあ、楽しむぞ。生きることを。右手首の傷跡は消えていないが、そんなことは小さな問題だ。
面白そうな仕事を考えてみて、そうだと思い至ったのは記者だった。智美が前に勤めていたのは雑誌のデザイン会社だった。その請負先の出版社の編集者の名刺を取ってある。
電話して、熱意を伝えると冷たくあしらわれたが、あるライターに紹介はしてもらえることになった。
教えられたのは隣のD県の青川市にある雑居ビルだった。
「香山智美さん――あなたみたいな綺麗な方に会いに来られるのは初めてですね」
安中栄一郎は眼鏡をかけてもなお細く鋭い目で智美をじっと見つめた。
雑居ビルの二階にある事務所は奥に大きな机が置かれ、取って付けたように事務机が一つ壁際に置かれていた。あとは大きな複合機が隅にあるくらいで、空間は狭いのだが空いているスペースは大きく感じる。
安中は奥の机に腰かけ、智美の挨拶を軽く受け流した。
「私がどういう記事を書いているかはご存知で?」
「いえ……出版社の方に紹介していただいて」
「
騒々しくドアが開いて、痩せた若い男が入ってきた。
「そういえば一反木綿もタカ派らしいですよ。しかしバックベアードってなんなんですかね。アメリカにもあんなのはいないみたいですし、バグベアというのから発想されたともいうらしいですけど、あんまり類似性はないという話じゃないですか」
智美が呆気に取られていると、安中がその男の代わりに謝った。
「いや、すみません。彼は川島君といって、最近私の下で書くようになった駆け出しライターです。余計なことばかり言いますが、あまり気になさらず」
「は、はあ……」
「では師匠、その人はライター希望者でしょうか。となると余程酷い人脈を持っているようですね。俺は警察から師匠に行き着いた訳です。師匠はブタ箱にぶち込まれるような危険人物ですからね。まあ作家は社会の落伍者の行き着く先だなんて言いますし、あまり気になさらず」
「川島君、少し黙っていてくれないか?」
「わかりました。では不貞寝の寝たふりで急場をしのぎます」
そう言うと川島は壁際の事務机の椅子に座り、机の上に突っ伏して沈黙した。
「あの……アンチ火清会って……」
智美が訊くと、安中は自嘲気味に笑った。
「ええ、私の書いてる記事は大抵が火清会を批判するものです。昔は普通の仕事もあったんですが、今じゃ殆ど火清会関係の記事しか依頼が来ない」
智美はそれを聞くと、暫く考えた後で、こう切り出した。
「
「沼倉――B県の知事ですね。こちら側の人間なら大体は知っているでしょう。政治家に火清会の信者が送り込まれているのは周知の事実ですし、信者でなくとも強力な後ろ盾になる団体を味方につけている者はごまんといます。一人一人糾弾していればネタに困ることもないでしょうが、それなら農協や日教組を支持団体に持つ政治家は糾弾しないのかという話になる」
「つまり――」
「ネタとしては微妙と言わざるを得ない。もしやそのネタ一本を記事にしたいだけですか? それはライターの仕事ではないですよ。ネタは持ち込むのではなく自分で掴むものです」
「なら、自分で取材して、情報を掴んできたら記事を書かせてもらえますか?」
「まあ、火清会関係以外でもネタが面白ければ載せてくれる場所を仲介することは出来ますよ。一応顔は広いですから」
智美はよしと腕まくりをすると、すぐにでも目的地に向かおうと意気込んだ。
「ああちょっと、取材の経験はないんでしょう? 素人が突っ走ると色々危なっかしくていけない。川島君」
「なんでしょう」
いつの間にやら顔を上げて椅子にもたれかかっていた川島がくるりと椅子を回転させて安中と向き合う。
「君、彼女の補助をしてあげて。ああ、大丈夫。彼もまだペーペーですが、一応基本は教えてあります。香山さん一人よりは安心です」
川島は目を合わせずに笑って、どうもぺーぺーですと言った。
「ではどこに?」
「大太良中央医療センターに」
3
三条は病院の待合室でその男を見つけると、意外さに驚いたような顔をした後、しくじったと後悔するような顔になった。
「やあ、三条さん」
「どうも、川島君」
「しかし三条さんがなんでここに? 誰か病院送りにしたんですか?」
「はは、それは違うけど……川島君の方こそ何故ここに?」
安野は一歩引いたところで二人の会話を眺めていた。川島と聞いて安野はある少女を思い出す。彼女は三条とも繋がりがあったから、この川島という男とも繋がっているのかもしれない。
川島は手招きをして、一人の女性を呼び寄せた。
――おや。
安野の目で見ると、その女性はどうも様子がおかしい。
「師匠のところに来たライター志望の方で、確か名前は沼倉さんでしたっけ」
川島が訊くと、女は一度頷きかけたが、慌てて首を横に振った。
「か、香山智美です」
「そうそう、蔵屋敷さん。彼女がですね、この病院に特ダネがあると言うので」
三条は内心冷や汗を流していたはずだ。安野の方は我関せずといった体で、一歩引いた姿勢を崩さない。
「三条さん、二号棟の402号室に誰が入院しているか知っていますか?」
これを言われて流石の三条も表情を変えた。
「ど、どこでそれを?」
「だから吉祥寺さんが特ダネがあると言っているんですよ。そこには――」
「うわあ! 待った待った! ここじゃまずい」
三条は周囲を見渡し、何とか川島を黙らせようと苦心していた。
「い、一旦出よう。外に喫茶店があったから、そこで内密に」
川島は底意地の悪そうな笑みを見せると、三条と並んで病院を出ていく。智美もついていくのを見て、安野も後に続いた。
喫茶店に入り四人で四人掛けのテーブルに座ると、三条がそれまで一言も口を利いていない安野を紹介した。それを受けて安野は一言、
「安野」
と言うだけで自己紹介をすませた。
安野は一度口を開く度に多くの単語を口にしないが、決して無口という訳ではない。それが今まで黙っていたのは、相手が何者かを見定めるためだった。
「で、どこまで知ってるんだい?」
「さあ? 俺は城之内さんに言われてついてきただけですよ」
漸く川島とは話すだけ無駄だと判断した三条は智美と向き合った。
「香山さん、何を知っているのか、出来ればそれをどこで知ったのかも教えてください。402号室の患者について、僕は全てを知っています」
「沼倉誠一の妻が、植物状態で眠っている。原因は夫による暴力。情報源は、お答え出来ません」
三条はそれを聞いて少しだけほっとしたようだった。川島は頭を後ろに倒したままで何も言わない。
安野は――。
「死ぬ」
安野が智美を真っ直ぐ見てそう言ったのを聞いて驚いたのは、智美だけだった。三条は真剣に考えるような顔で安野の言葉を待っていたし、川島は椅子に仰け反って座ったまま反応を示さない。
「長く」
ない。
そこで三条の携帯電話が鳴った。
智美は血相を変えて立ち上がり、慌てて店を出ていった。
三条は智美を止めようとしたが、安野に遮られ、不承不承席に直った。携帯電話を見て着信が中央医療センターの医師からだと知り、厭な予感がしながら耳に押し当てる。
「はい。ええっ!」
その場にがばと立ち上がり、今すぐにでも駆け出したいように周囲を見渡すが、最後まで相手の話を聞いてそれを安野に伝える方が賢明だと判断したようだった。
「夫人が、消えた」
「あっ」
安野はそこで全てが繋がった。
「まだ時間は経ってない。式を打つよりも自分で動いた方が早いかな」
「さっきの」
「え?」
「あれが」
そうだ。
「そうか――抜けたんだね」
「お急ぎのようですね。コーヒー代なら俺が払っときますんで、お先にどうぞ」
「ごめん川島君。また後で」
三条と安野は駆け出した。
沼倉夫人が植物状態になったのは、一年以上前になる。だが三条に中央医療センターから相談が入ったのは、それを治せという無理難題ではない。
沼倉夫人が、声を発するようになったのだ。
夫人は確実に衰弱しており、この時にはもう殆ど危篤状態だったという。それが声を発した。
だがこれは決して喜ばしい結果とは言えなかった。
声と言っても、地獄の底から響くような呻き声なのだ。聞いたものを震え上がらせる、おぞましい声だった。
しかも、夫人はまるで快復していない。危篤状態の中、まるで断末魔の悲鳴のように、昼夜問わず叫び声が上がる。
医学ではまるで見当がつかない。それで話が回ってきたのが三条だった。
三条は霊能者、あるいは陰陽師という肩書で名が知れている。三条自身はそれらを標榜することはないし、むしろ自分から否定している。
三条は今はなくなったとある集落の民間呪術者の生き残りである。その技術を用い、三条はある程度呪術者の真似事は出来るが、やはりそれでは限界がある。
そこで三条は安野のような人間を相手に仲介する。
安野は本物だ。
今回も相談を受けた三条はまず自分で夫人の様子を見たが、自分ではどうにもならないことから安野に依頼した。
安野の見立てでは、夫人の身体は空っぽだった。
本来あるはずのものがない。それは簡単に言えば魂のことだ。ならば死んでいるのかと言えばそれは違う。死んだのなら医者にも判断はつく。
生きたまま魂だけが抜ける。現代風に言えば幽体離脱、昔風に言えば離魂病だ。
その中身がなくなった身体に、別のモノが入った。
それによって今まで閉じられていた回路が開いたといったところか。
通夜や葬式の時、死者に猫を近付けてはならないとされている。猫が死体を操って動かしてしまうからだという。また、死者の傍らに刃物を置いておく風習もある。これも死体に別の何かが侵入することを防ぐためだ。
死体でさえ動かしてしまうのだから、植物状態の人間の口を使って声を出すくらいのことは訳ないのだろう。
そして恐らくは、身体を操って動かすことも。
402号室から夫人が消えたのは、つまりそういうことだ。
目指すのは――香山智美。
「近くにいたのがまずかったのかな」
息を切らしながら三条が言うと、安野はうんと頷いた。こちらは息一つ乱していない。
「どうせ」
もう長くはない。
異物が入って奇跡が起きたところで、身体はどうしようもなく衰弱している。
夫人の魂は外に出ている。身体の方はその魂を嗅ぎつけて行動を開始した。
「本人」
安野は呟く。
安野には見えた。智美の若い身体には見合わない、弱り切った魂が。
香山智美の中の魂は今、沼倉夫人のものになっている。
「まだ」
智美の魂が完全にこの世を離れた訳ではない。
「難しい判断を迫られるなあ――」
夫人の身体が果てた時、果たしてその魂はどうなるのか。もしや智美の中に居座って、第二の人生を歩むのか。しかしそうなると身体を乗っ取られた智美はどうなる。
「いた」
安野が智美を見つけて声を上げる。気付かれないように息を潜め、一気に近付いてその手を取る。
場所は大きな公園の角の突き当たりで、人目はない。
「沼倉さん、ですね?」
三条が智美の顔を覗き込んで訊ねる。
「何もかもご存知なのね」
智美は力なくうなだれ、年齢を感じさせる素振りで頷いた。
「僕はどうすべきか、迷っています」
「いやよ」
智美は途端に激情に駆られたように首を激しく振る。
「いや。いや。いやいやいや。親の決めた好きでもない金で汚れた男と結婚させられて、奴隷のように家の仕事を押し付けられて、逆らえば殴られた。何もしなくても、気に食わなければ殴られた。そんな地獄のような日々がずっと続いて、ある日頭をやられて、それからずっとベッドの上。どんどん死が近付いてくるのがわかった。そんな人生なんてもうまっぴら」
安野がはっと身構える。
こちらに向かって、沼倉夫人の身体が歩いてきていた。老いと衰弱で、見るも無残な姿になっている。
智美はそれを見てぐっと唇を噛み締める。
「お、おおおおお」
呻き声を上げ、沼倉夫人は手を突き出し迫る。
「沼倉さん、あなたが身体を離れたことで、身体の中に別のモノが入ってしまった。僕ではどうしようもないんです。元の魂が元の身体に戻れば、あるいは全てが元に戻るかもしれない」
「でも」
「――わかっています。私の身体はもう持たない。私が戻れば――もう死ぬしかない」
「はい。だから僕は迷っています。あなたがもし望むのなら、そのまま――」
智美はすっと手で三条の言葉を制した。
「いえ、結構です。今、自分の姿を見てよくわかりました。私は何も言えず、ただ内に溜め込みすぎた。私の中に入っているのはきっと、私の邪な気持ちです。でも、最後に、愚痴を聞いてもらえてよかった」
にっこりと笑う智美を見て、三条は小さく嘆息を漏らした。
安野がきっと沼倉夫人の身体を睨む。邪視(じゃし)。安野程の者になると、その視線だけで魔を払う力を持つ。
沼倉夫人の身体から力が抜けていく。
同時に智美もくずおれていく。
三条は携帯電話を取り出し、先程の相手に電話を入れる。
「もしもし、沼倉夫人を見つけました。ええ、はい。御臨終です」
公園の隅で息絶えている沼倉夫人を見つめ、
「いい顔ですよ」
とだけ付け加えた。
4
「貢いだホストに彼女がいたとわかって、自殺未遂。いやあ、馬鹿だね。しかも方法はリストカットなんていう死ににくいやつだったっていうじゃないか。やっぱり死ぬならベタだけど首を縊るのが一番だと思わない? 一番楽で、一番確実だよ」
川島麻子は久しぶりに会った従兄の川島長七に開口一番そう言われ、なんと返せばいいのかわからなくなった。
とりあえず一旦落ち着いてから、相変わらず支離滅裂な話を辛抱強く聞いていると、大体の話は掴めてきた。
長七の師事するライターである安中の許に、ライター志望の女性がやってきた。それが一日取材に出ると、その日の終わりにはもうどこかへ消えていた。
連絡先は控えてあったので電話を入れると、全く記憶がないのだという。記憶があるのは長七が最初に言った理由で自殺を試みた時までで、それ以降は何も覚えていない。
しかしどうも長七が憤っているのは記憶がないという無茶苦茶な話ではなく、自殺の理由、あるいはその方法らしい。
「ああ、そういえば三条さんに会ったよ。千賀さんと一緒の時にね。その後だったかな、彼女がどっか行っちゃったのは」
「三条さんに? う、うーん」
なんとなく厭な予感がして、麻子は唸った。三条が絡んで奇怪な現象が起きているとなると、考えられる範囲がかなり狭まってしまうのだ。
「そうそう、沼倉知事のスキャンダルは知ってる?」
頷く。B県知事の妻が一年以上植物状態で入院し、先日亡くなった。その入院の原因は、夫の暴力によるものだと報道されている。報道されるやいなや沼倉知事には凄まじいバッシングが起こり、このまま辞職に追い込まれるのではないかというのが大方の見方だ。
「ドメスティックバイオレンスなんて言われる昨今だしね。何せバイオレンスはいけない。暴力と殺戮は最高のショーだと思わんかねってムスカ大佐も言ってるしね」
「えっと、つまり……?」
長七にまともな会話を求めるのは無謀だ。これならまだ言いたいことだけを凄まじく短く告げる安野の方がやりやすい。
「蒲郡さんがそのネタを師匠のとこに持ってきたんだよ」
一瞬誰のことかわからなかったが、先程から長七が口にする度名前が変わるそのライター志望だったという女性のことだろう。長七が人の名前をまともに覚えないせいで、結局麻子はその女性の正確な名前がわからない。
「えっ、じゃあその人が最初に記事書いたの?」
「いんや。後で聞いたら郡山さんはそんな情報に覚えがないって言うし。ああ、でも三条さんは知ってたみたいだったなあ。とにかくそれだけじゃ記事には出来ないし俺もそんな乗り気じゃなかったんでそのまま帰ったんだ。そしたら他のとこで報道されてたんだよね。早い者勝ちなら山田島さんの勝ちだったろうに、覚えてないなら仕方がない」
「って、長七君がやる気になってさえいればスクープ出来たんじゃないの?」
そこで長七はくつくつと笑う。
「やる気ってなんだろうね。俺はともかく、あの人には実際にやる気はあったのか。それを糾弾することで一体何が得られるというんだろう。自分の名誉。憎い相手に汚名を着せる。今更そんなことをしても何にもならないことはわかってるだろうに。そうだなあ、きっと浮かれすぎたんじゃないかな。それかただ、誰かに愚痴を聞いてほしかったんだろう」
後に三条からわかりやすく話を聞いた麻子は、実は長七は何もかもお見通しなのではないかと勘ぐってしまった。だが、そもそもが支離滅裂な長七の言葉が、たまさか意味を持つように聞こえただけなような気もして、結局はわからず仕舞いで通すことにした。
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