番外編 名付の魔女

 その日、川島麻子は風邪をひいた。

 喉が腫れ、鼻水が止まらず、熱は三十八度を超えた。

 昨夜は何の異変もなかったのに、妙なものだと麻子は朦朧とする頭で思った。

 学校は休むことにして、母の車でかかりつけの内科に向かい、予想通り風邪と診断された。薬をもらって家に戻り、自分の部屋のベッドで大人しく寝ることにした。

「麻子ぉ、大丈夫?」

 仰向けになった胸の上辺りに乗った、常軌を逸した巨大な蜘蛛が子供のような柔らかい声で訊いてくる。

「大丈夫だよ。タマは? 苦しくない?」

「うん、平気」

 麻子は優しくタマの身体を撫で、力を抜いて眠りに落ちていこうとする。

 タマは麻子の友達で、九年前に麻子が生み出した妖鬼である。麻子はこうしたこの世ならざるモノを見る力を持っていた。

 麻子の目には、いつだって変なものが映り込む。それを一様に表現することは出来ない。時には友人のように話すこともあるし、時には心底震え上がらされることだってある。

 だが――麻子は目を瞑ったまま撫でているタマの身体を確かに感じながら、ぼんやりと思う。きっと麻子が妖怪に抱いている根本の感情は、愛情のようなものなのだ。


「寝たかな」

 落ち着いた男の声がすると、突如麻子の部屋の中に、まるで年齢のわからない男が現れた。

 麻子の寝顔を見て微笑むと、勉強机の椅子に腰かける。

「悪いね。麻子の顔を見たいという奴がいるんだが、直接顔を合わせるのは麻子に悪影響だと思ったんだ」

 部屋の中に、もう一つの人影があった。県内のどの学校のものとも違う制服を着た、高校生くらいの男だった。

「彼女が――」

「そう。名付の魔女とでも呼ぼうか」

「神野悪五郎という名も?」

「おいおい、少し考えなさい。それはないよ。私は麻子が生まれるずっと前からこの名を気に入って使っているんだから」

 神野悪五郎は静かに笑って、もう一人の男を諫めた。

「口裂け女――あれはどういう訳でございましょう」

 男は今度は逆に神野を諫めるように睨んだ。

「ふふ、気付いたか」

「少し考えればわかる話でございます。口裂け女の情報は、十年前でも絶えた訳ではございません。確かに今になって、インターネットや携帯電話向けのサイトで都市伝説が盛り上がっているのは事実でございますが、それにしたところで今になって漸く口裂け女が現れる道理はございません。現れるのならもっと早い時期か、そもそも現れないか――」

「麻子の力は、つい最近まで未完成だったんだよ。力が萌芽した時は完全な暴走状態。口にする意味もない言葉が名前となって妖怪を生み出した。だが、意味のある言葉はどうか。そこはまだ出来上がっていなかった。麻子自身が言葉の意味を理解出来ていなかったからね」

「それで――あなたは彼女に近付いたのですか」

 いやいやと神野は手を横に振る。

「私が干渉しなくとも、麻子は『見える』んだ。自分で学び、自分なりに意味を知っていく。私が干渉したのは、口裂け女の方だよ」

「細工を――したのでございますか」

「今回の口裂け女は『化ける』。こんな噂が広まっていただろう? しかも噂の出所は皆目わからない。さあて、誰が広めたのかな?」

 男は一つ溜め息を吐いて、神野をきっと睨む。

 神野の力を以てすれば、変質を始めたその性質を捻じ曲げる、あるいは留めておくことなど造作もないのだろう。そして時を見計らって『化ける』口裂け女の噂を流し、性質を変えた口裂け女を野に放つ。

「そして口裂け女を自ら葬ったことで、麻子の力は完成を見た」

「手を出さなかったのは、そういう訳でしたか」

 男は神野から目を逸らし、ベッドで寝息を立てている麻子をちらりと見て、すぐにまた目を逸らした。

「妖怪というのは名前が全てと言ってしまうことも出来るのでございます」

 ほう、と神野は興味深げに男の言葉を待った。

「名前さえあれば、そこからいくらでも想像の広まりを見ることが出来ます。元は名だけだった妖怪が、像を与えられて今でも生き残っている。こうした事例は多くございます。――現代になり、当時は周知の事実だった性質が抜け落ちて像だけ残ったという場合もありますが、この場合も名と像は残っております。故に、名付と称すものが現代の妖怪の主流なのです」

「名があり、画があり、性質があり、像を想う者が大勢いる」

「逆に言えば、名前がないものは正確には狭義の妖怪ではないとすることも出来るのでございます。ただ、彼女に見えるものは、名付だけではないことは確かでございます。今この世の中で、妖怪という単語はさらに広義までカバー出来てしまいます」

「『妖怪っぽい』、『あの人は妖怪だ』。まるで形容詞のように使えてしまうからね」

「流れ出す思念。明確な像を持たないそれらが妖怪という形容詞の中で像を得る――見鬼がその目で認識することで生まれる――雑鬼や自然霊などと彼らが呼称するモノを手前は流出と称します」

「本来像はないが、認識することで存在するようになる――十年前麻子が生み出した大量の妖怪は、こちらに入るのかな」

「そうでございますね。意味を成さない言葉を名として与えられた存在。『見える』者がいることで生かされる。このままならば――よかったのでございますが」

 男はにやりと口元を歪めたかと思うと、急に肩を落とした。

「名付は、長い間積み重ねられてきた妖怪としての性質という思念が、やっとのことで実を結んだ存在なのでございます。今のご時世に妖怪と呼ばれている概念は、実のところつい最近出来たものなのでございます。妖怪という単語は元は大してメジャーな言葉でもなかったのです。それが意味するところも、あやしい物事全般でしかなく、今のようにキャラクター化された存在を指すものではありませんでした」

 妖怪――それは現代においては専らキャラクターを指し示す。非存在の世界のモノでありながら、視覚化される時はキャラが出来ている。

「『妖怪』という言葉が一つの完成した概念となり、一つの巨大な世間となったこの国の中でそれが大きな齟齬なく広まったことで、妖怪はやっとのことで活き始めたのでございます。名付はその名、像、性質が世間に一元化されて広まったことで、定まった名、像、性質を成してはるか昔より存在するが如き顔をして跳梁跋扈するのでございます」

「だが、妖怪の情報を一元化など出来るのかい?」

「言葉足らずでございましたね。妖怪は一見浅いように見えて、足を突っ込むとどこまでも深みにはまっていってしまうものでございます。知れば知る程、その正体が掴めなくなっていく。なので一元化という言葉は本来なら使えません。ですが、世間一般に広まる妖怪の像というものは、ある程度定まったものになっていくのでございます。簡略化され、普遍化されていきます。ですが、その裏側まで見ようとする方達がおられるのも事実」

「妖怪が好きなどという酔狂な者は、喜んで深みにはまっていくか」

「左様でございます。深みにはまると、より一層妖怪を想っていきます。想うことで、像を成す。一般化とは逆の道を行くようで、その実そうした方達が現代の妖怪の基盤を支えておられるのです。彼らとしても一般化された妖怪の知識は念頭に置かれております。いるいないは関係ない――むしろそうした方達程信じていないのでございますが、それが結果的に見鬼の方の目に映る妖怪を生み出しているのでございますから、なんともおかしな話でございます」

 話を名付に戻しまして――男はまたちらりと麻子の寝顔を見る。

「名付は根付くまでに長い年月を必要とします。その名が広く知られ、像を思い浮かべることが容易に出来るようになり、性質がわかるようになっていなければなりません。ですが、彼女は――」

 男は今度は麻子の顔を見ずに続ける。

「彼女が名前を付ければ、その必要な年月も過程もすっ飛ばして、名付を生み出してしまうのです」

 神野は小さく笑い、椅子にもたれかかる。

「そうだ。だからお前は麻子に会いたがった」

「あなたは――あなたはこれが何を意味するのかわかっておられるのですか? もしも彼女が自ら力のない流出に片っ端から名を付け始めたり、悪意あるものに利用されたりすれば、妖怪という概念が、せっかくここまで出来上がった妖怪が、根底から破壊し尽くされる可能性だってあるのでございますよ」

「生憎私はそうしたことに興味がないんだ」

「仮にも今は妖怪の名を使っているのにでございますか」

「妖怪は便利だ。神野悪五郎という設定のまるでない――それでいて魔王の一角に数えられる妖怪に身を置くのはなかなかに居心地がいいよ」

 神野悪五郎――。稲生物怪録いのうもののけろくという、広島の武士稲生武太夫ぶだゆう、幼名平太郎へいたろうが一箇月の間体験したという怪異を纏めた実録記。その最後の怪異として登場する三千世界の大魔王と自らを称する山本五郎左衛門の口から語られる、自身と同列の魔王の名こそが、神野悪五郎なのである。

 神野――と今は名乗っている何か――は、麻子の寝顔を見て小さく微笑む。

「麻子は、大丈夫だと思うよ。長年の付き合いだ。私にはよくわかる。麻子は妖怪を愛している。この馬鹿馬鹿しく妖しく怪しい阿呆共を、麻子は愛しているんだよ。名付も流出も関係ない。麻子は己に見えるモノ全てに愛情を持って接している」

「随分、お褒めになるのでございますね」

「けなしていると取ってくれてもいいんだがね。麻子は道を踏み外さない。それはある意味では、とてもつまらないことなんだ」

 神野は椅子から立ち上がると、麻子の枕元まで数歩で近寄ると、その額に手を押し当てた。

「さて、そろそろお開きとしようか。悪かったね、麻子。こんなことのために学校を休ませてしまった」

 その手を優しく離すと、神野も男も最初からそこにいなかったかのように消え去っていた。


 目が覚めると、嘘のように体調がよくなっていた。

 まるで風邪を引いていた時が夢だったような、不思議な感じがした。だが今日は平日で、時間もまだ昼過ぎだ。学校を休んでいるのは確かだから、やはり風邪は引いていたのだろう。

「麻子ぉ、もう大丈夫なのー?」

 パジャマのまま立ち上がると、頭の上に飛び乗ったタマが訊いてくる。

「うん、なんか平気みたい」

 大きく伸びをして、壁にかけてある制服を見て苦笑する。午前の授業を丸々潰してなお、午後から学校に向かう程麻子はクソ真面目な生徒ではない。

 今日はこのまま休んでしまおう。そう思うと急に空腹を感じた。

「あ、そうだ、おじさんが来てたよ」

 自分の部屋を出て階下に向かおうとしていた時、タマが思い出したようにそう言った。

「悪五郎おじさん? 寝てたからなぁ……悪いことしたなぁ。何か言ってた?」

「うーん、難しくてよくわかんなかった」

 でも――とタマは嬉しそうに続ける。

「よくわかんないけどとにかく、麻子のこと褒めてたよー」

「あはは……寝ててよかったかも」

 麻子は苦笑しながらゆっくりと、階段を下りていった。

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