第18話 ココニサンジョウ
1
安野から連絡が入った。
この安野という男、決して口数が少ないという訳ではないのだが、一度口を開くごとに発する言葉が極端に少ない。殆ど一単語だけで会話を済ませてしまうこともある程である。
川島麻子は察しが悪い方だと自覚している。なので安野との会話はあまり得意ではない。よって此度の連絡も、安野の方が一方的に短い言葉を並び立てるばかりで、麻子は聞き返したり意味が読み取れず声を上げたりしている内に話が終わってしまった。
携帯電話を閉じてから、麻子は会話とも呼べない会話の内容を思い返す。そうしてじっくり時間をかけて、何とか用件を導き出した。
曰く、安野の知り合いが麻子の住む青川市の方に用があるので、その案内を頼みたい――ということらしい。
麻子は仮にも受験生である。いや、本命である国公立大学の前期試験は終わっているが、それでももしもの場合の後期試験のための勉強はしなければならない。
そんな麻子に顔も知らない相手の案内を頼むなど、非常識にも程がある――が、そういうことを平気な顔でするのが安野という男なのだと麻子は知っていた。
その安野のことだから、麻子の家の住所もその男に教えているだろう。なので玄関のチャイムが鳴って、見知らぬ男が姿を現した時も麻子はそこまで驚かなかった。
清潔そうな服装は若者のようだが、顔にはしっかりと歳が刻まれている。安野は見た目から年齢が読み取りにくいので正確なところはわからないが、恐らく同年代だろう。
その男は柔和に笑って挨拶をする。
「こんにちは。川島麻子さん、だよね?」
「あ、はい」
麻子が戸惑ったような声で応えると、男は困ったように笑う。どんな笑い方でも愛想がいい。
「ごめんね、安野君の紹介なんだけど、話は聞いてる?」
「はい、ついさっき電話で……」
今度は呆れたように笑った。
「相変わらずだなあ。じゃあ殆ど突然お邪魔した形になるのか。安野君とは知り合ってどのくらい?」
「去年の四月くらいからです」
「苦労するだろう、彼と付き合うと」
「まあ、はい。えっと――」
男はそこで自分が名乗っていないことに気付いたらしく、これは失敬と頭を掻く。
「僕は
立ち話もあれだね――と三条は周囲を見渡す。
「喫茶店かファミレスなんかが近くにあれば――おっといけない。こんなおじさんと女子高生がそんなところに一緒にいるのを見られたら援交扱いされかねないね」
「あ、じゃあ中にどうぞ」
麻子が言うと、三条は驚いたように目を見開いて、玄関に並んでいる靴に目を走らせた。
「ご家族はいないのかな? そんなところに上げてもらうのもちょっとうしろめたい気もするけど……」
「大丈夫ですよ。妙な気があるようだったら縛り上げて放り出しますから」
普通の人間ならば冗談と受け取るだろうが、三条はそうだそうだと納得したように頷いた。
「蜘蛛の妖鬼を従えているんだったね。それもかなりの大物を」
そう言われて、麻子の方が驚いてしまった。
麻子の頭の上には、巨大な蜘蛛が座り込んでいる。名をタマというこの蜘蛛は麻子の友達で始終離れず一緒にいる。
だが、このタマはその大きさからもわかるようにこの世のものではない。妖怪という区分に当てはまり、普通の人間には見ることが出来ないものだ。
「あの、三条さんって――」
「ああ、僕は『見え』ないよ」
麻子の質問の意図を理解し、すぐさま柔和に答える。
「見えないんだけど、扱う側ではあるんだ」
麻子が首を傾げると、詳しい話は中でと三条は靴を脱ぐ。
三条をダイニングに通し、麻子は茶を淹れる。
「お茶受けはないですけど」
熱い煎茶を出すと三条は会釈して、美味そうに一口啜る。
麻子はその対面する椅子に座り、自分も煎茶を飲む。熱すぎてろくに味がしなかったが、三条はそんな様子はおくびにも出さずに美味そうに飲んでほっと息を吐いている。外が寒かったから熱いくらいがちょうどよかったのかもしれない。無論気を遣ってくれている可能性もあるだろうが。
「さて、何から話せばいいのやら。今回青川市に来たのは、同郷の人間を捜しにという目的があってね。でもこれが多少込み入っていて、さっきの話もあるし、ここは長くなるけれど僕の故郷の話をさせてもらえないかな」
麻子が頷くと、三条は茶を全部飲み干してから話し始めた。
2
僕の故郷というのは、L県の今はもうなくなった小さな町でね。そう、D県とL県はお隣だけど、この町はずっと山の方でね。本当に人の少ない、寂れた町だったよ。
安野君とは中学校からの付き合いで、彼は元々B県の方の生まれだったんだけど、中学からこっちにやってきてね。おっと、あまり話すと安野君が怒るかな。まあとにかく、僕達がその中学の最後の生徒だったこともあって、変な縁があってね。今でも色々と付き合いがあるんだ。
安野君が見鬼――見える人だということは、僕達の間では周知の事実で、そういった関係で彼に相談を持ちかける者もいるんだけど、彼の場合はそれ以上にあの人柄だろう? 正直安野君が見える云々よりも、そっちの方がよっぽど奇妙に映ったよ。
まあ僕の場合は、彼が見鬼ということで興味を持ったタイプだった。それというのも、この話の根本である、僕の家の生業が関わってくるんだけどね。
K県の「いざなぎ流」という民間信仰を聞いたことはあるかな? ないか。その筋では有名なんだけど、一般的にはマニアックだしね。これを知っている女子高生というのは確かにちょっと考え物だね。
まあとにかく、このいざなぎ流というのは日本の色んな宗教をごった煮にしたような、今の目で見れば特異な宗教でね。特に陰陽道の要素を多分に含んでいたから、日の目を見た時には現代に生き残った陰陽道だと――一部で――センセーションを巻き起こしたんだ。
でも実際には、こういった類の民間信仰は江戸時代以前にはそこら中にあっただろうとされているんだ。いざなぎ流が特異なのはそれが現代まで残っていることで、同じようなものは歴史の中で消えていっただけで、実際には盛んに信仰されていただろうというのが今の見方なんだよ。
ああ、もう気付いたね。そう、僕の故郷でも、いざなぎ流と似たような民間宗教が残っていた。土地の人間以外に知られることなく、ひっそりとね。
僕の家は農家だったんだけど、副業というか裏の仕事というか、とにかく代々そうした民間の呪術者としての地位を守り続けてきたんだ。
いざなぎ流でもそうだけど、そうした人達は「太夫」と呼ばれている。家も「三条太夫」なんて呼ばれ方をしてたよ。
でも最初に言ったように、その町は今はもうない。太夫は土地に根付いていなければ無意味だ。本来いるべき土地を失った太夫は、どこに行こうと偽物にしかなれない。
僕はその辺りを弁えた上で仕事を受けている。仕事とは言っても、いかがわしいものも多くてね。まあ落ちぶれた太夫にはこれが妥当だと思っているよ。
安野君とは互いに情報や顧客を交換したりしていてね。殆どが僕の手に負えないような案件を安野君に無理矢理解決してもらうというパターンなんだけど、僕は間口を広くしているから、顧客を増やすという意味では一応は持ちつ持たれつになるのかな。
さっき言ったように、太夫はその土地に根差していなければ意味がない。だから僕は偽物と自負しているけど、この技術だけを用いて商売にしている者がいる――という噂を聞いてね。
ああ、確かに言ってしまえば僕もその中に含まれるんだろうけど、志の違いとでも言うのかな。顧客を受け入れるに当たって、自分の立場をどう説明するか――ここが重要になってくる。
一番悪いのは、陰陽師を自称する者だね。確かにいざなぎ流も僕の故郷の民間呪術も、陰陽道に大きく影響を受けているし、いざなぎ流が世に出た当初は「陰陽師太夫」なんて呼ばれ方もしたんだけど、そもそも陰陽師というのは公職で、明治時代にその制度が廃止されて以降、陰陽師は絶滅したんだよ。だから陰陽師を自称する者は、本来ありえないが一般には効果のあるネームバリューを使って商売をしていることになる。
今回僕が捜しているのは、その最悪の部類に入る人間なんだ。
陰陽師を騙り、なくなったはずの太夫の知識と技術を使って商売にしている。僕は同郷の人間、そして太夫として、この詐術師を糾弾したい――という訳なんだ。
3
話が終わると、三条は麻子が淹れ直した茶を飲んでほっと息を吐く。
「その人は、青川市にいるんですか?」
麻子が訊くと、三条は少し困ったように笑った。
「情報が途絶えたのが青川市なんだ。僕も一応そういった横の繋がりは広くてね。結構な量の情報は入ってくる。それによると僕の故郷の技術を用いた陰陽師を名乗る男がB県内で仕事をしていて、そのまま東に流れてこの辺りで消息を絶ったことになっている」
B県はD県の西に接し、大地方都市である大太良(だいたら)市を擁する。大太良市はB県の東部なので、ここ泗泉町の泗泉駅からは私鉄の急行で四駅と距離もそれ程遠くない。青川市の中心部の青川駅からでも急行で五駅で済む。
「実を言うと僕はその偽陰陽師の後始末をいくつかしているんだ。呪詛を振り撒いたり、式を打ってそのまま放り出していたりしていて、同じ技術を持っている僕が駆り出されたんだよ。それでいくつか後始末をし終えると、その内個人的に頭にきてね。こんな奴を野放しにしてはおけない、と」
どこか自嘲気味に笑って、三条はまた茶に口をつける。
「名前は?」
「それが駄目なんだ。場所によって偽名を使いわけていて、しかもその数は仕事をする場所と同じらしくてね。相当なボキャブラリーだよ。本名もわかっていない。ただ僕の目から見れば同郷の太夫崩れの仕業だとわかる」
「その、太夫っていうのはどんなことをするんですか?」
「殆どは土地の行事の進行役だね。お祭や家の新築祝いなんかでお祓いをしたり。だから太夫は土地にいなければ意味がないんだ。ただし、土地を離れても流用出来る技術があるにはある」
「式を打つ――ですか?」
麻子が言うと、三条は難しい顔をして頷いた。
「陰陽道では式神、修験道では護法童子、いざなぎ流では式王子と呼ぶけど、僕のところでは式姫と呼ばれている。主の命令を実行する霊的存在――と、詳しい説明は必要ないかな?」
「大体はわかってるつもりです」
「うん、そのくらいでいいよ。僕達は見鬼じゃないから視認したりは出来ないけど、交渉手段のようなものは確立されているんだ。それを用いれば、式を打つことは出来る」
「それって、その、そういった人達の間で広まったりしているんですか?」
麻子の質問に何かを読み取ったのか、三条はわずかに身を乗り出す。
「いや、いざなぎ流の儀式や祭文は調査されてはいるけれど、根本的な部分は門外不出だよ。何か心当たりがあるのかい?」
「えっと、知り合いというか、その、知っている人に『式を打つ』っていう言葉を使って、実際に事象を起こせるような人がいて……」
「なんだって! それは誰だい?」
「保科七重――と名乗ってました」
三条はその名前を聞いて暫く思案顔になるが、やがて首を横に振った。
「当然と言えば当然だけど、以前に使っていた偽名の中にその名前はないね。連絡を取れたりはしないかな?」
麻子は無理だと首を振る。保科とは一方的に知り合っただけで、相手は麻子の情報を持っているが、麻子は保科については殆ど何も知らないのだ。
ただ――
「保科さんは、火清会の会長に雇われていると言ってました」
麻子がそう言うと、三条は愕然としたように固まった。
「そんな馬鹿な――いや、青川市と聞いた時には考えたけど、しかし、それはあまりにも――」
三条は暫くぶつぶつと独り言を呟いていたが、やがて我に返ったのか引き攣った笑みを浮かべた。
「いや、ごめん。うん、最も恐れていたことが起きた形になるね。火清会が相手となると、僕のような流れ者の太夫では全く手出しが出来ない」
火清会は青川市に本拠を置く宗教法人である。その規模は全国に及び、あらゆる分野に信者が存在する。その影響力はことこの青川市では絶対的であり、ただの高校生や流れの宗教者が敵うはずもない。
「やっぱり、火清会は敵にするには大きすぎるんでしょうか……」
麻子が言うと、三条は怪訝そうに首を傾げた。
「その言い方、まるで火清会を敵とみなしているように聞こえるけど――」
麻子はぐっと唇を噛み締める。
「そう受け取ってください。私は――火清会を憎んでいます」
三条はくすりともせずに険しい顔つきになると麻子の表情を覗き込んだ。
「穏やかじゃないね。火清会を敵に回すということがどういうことかわかっているかい?」
無言で頷くと、漸く三条は相好を崩す。
「火清会は僕のような太夫にとっても頭の痛い存在でね。新しい偏った信仰は土着の信仰をあっという間に駆逐してしまう。だから僕達のような者と火清会のような組織は本来相容れないはずなんだけど――その保科という男は何故火清会に取り入ることが出来たのか、不思議でならないよ」
「多分、火清会の会長が――変わったからだと思います」
「ん? まだ三代目会長の高山孝明だろう?」
「代替わりじゃなくて、その、なんというか、心変わりです」
三条はそう言った麻子の顔を食い入るように見つめた。
「君は一体何を知っているんだい?」
「それは――言えません」
暫くそのまま見つめ合った後、三条は声を上げて笑った。
「いや、安野君から変わった子だとは聞いていたけど、確かに変わった子だなあ。まるで底が知れない」
三条は上着の内ポケットから携帯電話を取り出し、なにやら操作し始めた。
「ねえ川島さん、僕から仕事を請け負う気はない?」
「仕事?」
「そう、仕事。とは言っても君にとっては難しいことはないと思うよ。僕が受け持った顧客の内、内容面と地理的な面で川島さん向けだと判断した案件を請け負ってほしいんだ」
「いや、でも――」
「勿論僕も相談に乗るし、川島さんの場合大体は力ずくで解決出来ると思う。報酬もきちんと出す。それに、こうしたことに慣れておくのも将来の役に立つと思うんだ」
「将来……?」
「え? こっちの道で食べていく気はない?」
麻子はぶんぶんと手を振って否定する。
「そんな、私じゃとても無理ですよ」
「謙遜しすぎだと思うなあ。実はこの道で一番大変なのは、問題に立ち向かうことより伝手を掴むことなんだ。そこで僕がそこを解決する。前に言った通り僕は間口を広くやっているから、横の繋がりは多いんだ。川島さんはそれを利用してもらえればいい。僕にとっても見鬼は貴重だから、多いに助かるしね」
そこで三条は何かに気付いたらしくおっとと頭を掻いた。
「これは失敬。そういえば川島さんは今受験生か。合格発表はまだ――だよね?」
頷く。三条は決まりが悪そうに笑いながら、携帯電話をこちらに向けた。
「じゃあこの話は合格が決まってからということにしよう。そのためにも、とりあえず連絡先くらいは交換してもらえるかな?」
麻子は少しの間逡巡したが、結局携帯電話を取り出し、赤外線で連絡先を交換した。
「あの、保科さんのことはもういいんですか?」
麻子が訊ねると、三条は苦笑しながら唸った。
「火清会が噛んでるとなると、手の出しようがないからね。相手があまりに大きすぎる。一応周囲を嗅ぎ回ってはみるけど、それで尻尾が掴める程甘い相手だとも思えないんだよね」
麻子はそこである人物を思い出し、携帯電話の電話帳からそのアドレスを表示させる。
「あの、私の従兄なんですけど、火清会を批判する記事を雑誌に書いたりしてるんです」
「アンチ火清会かい」
「まあ、はい」
川島長七は表向きは浪人生だが、実際は進学する気を全くなくしている。そこで麻子の父が色々と考えを巡らせた結果、アンチ火清会のフリーライターを紹介し、今はその安中というライターの下で時々雑誌に記事を書いている。だが、長七が書いた雑誌はその殆どが三号で廃刊するようなものばかりで、まともな仕事になっているとは思えない。
「僕のような人間はマスコミと相性が悪いんだ。こういう仕事は表に出たら意味がないからね」
でも――と三条は携帯電話を開く。
「そのアドレス教えてもらえると嬉しいな。有益な情報がもらえる可能性もあるし、僕からもわずかばかりの情報を流してあげられる」
麻子は長七のアドレスをメールにコピーアンドペーストして三条に送った。
さて、と三条は立ち上がり、
「この辺りで失礼するよ。それと、大学が決まったら連絡してね。仕事の話も考えておいてくれると嬉しい」
玄関まで見送ると、三条は愛想よく笑って帰っていこうとした。
麻子の目は、道路を歩いていく三条の後ろ姿に、凄まじい速さで飛んでいく何かを捉えた。
麻子は思わず駆け出す。その何かから、はっきりと殺気を感じたからだ。
「タマ!」
タマはすぐにでも飛びかかれるように身構えるが、距離がありすぎる。麻子とタマは麻子の身長以上の距離を離れることが出来ない。
「三条さん!」
三条は振り返りもせず、手だけを伸ばしてその何かを掴む。
「
そう唱えてから手を広げると、そこには何もなかった。
「式を打ってきたね。打ち返すと延々打ち返し合いになるから、潰しておいた」
三条は大きく息を吐いて、冷や汗を拭う。
「どうやら相手も僕のことを嗅ぎつけたらしいね。ただ、これはこちらにとっても好都合と言える」
麻子に向き直り、
「どうかな、川島さん。ここから最初のお願いに戻るというのは。つまり、青川市を案内してほしいんだ」
4
泗泉駅から青川駅までは、私鉄の急行で一駅で済む。
青川駅はその名の通り青川市の中心部に座し、市内唯一の特急停車駅である。駅に複合する形で作られたデパートに、そこから延びるアーケード街といったものがあるので、常に人は多い。
だからといって青川市街地が賑やかかと訊かれると、この街の雰囲気は首肯するには些か殺風景だ。
確かに青川駅周辺は常に賑わいを見せているが、そこから少し離れると、背の低いビル群が立ち並ぶ無味乾燥とした街並みへと趣を変える。
麻子と三条が今歩いているのは、そんな味気ないビルの間だった。
案内を頼むとは言われたものの、麻子は青川市街地にそこまで詳しい訳ではない。普段訪れるのは駅の近辺くらいで、この辺りには用もないので来ることもない。
なので麻子は三条にも土地勘はないと断っておいたのだが、三条は駅を降りると麻子の案内も受けずに一人で街中を歩いていった。麻子はそれについていく形になり、これではどちらが案内しているのかわからない。
「あの、三条さん――」
麻子が声をかけると、三条は立ち止まって振り向く。
「いや、ごめんごめん。呪詛の痕跡を捜して一人で歩いていたもので。あっ、僕からお願いしておいてなんだけど、こんなところ誰かに見られたら援交と思われたりしないかな?」
「親戚のおじさんということにしておけば多分大丈夫です」
それでその呪詛ってなんですかと麻子が訊くと、三条は上着の裏から一枚の紙を取り出した。
「なんですか、その黒い紙?」
「ああ、川島さんには黒く見えるのか。すごいな」
三条はその紙をライターで燃やす。
「普通の人間にはこの紙はただの白い紙に見えるんだ。ただ、この紙にはここまで歩いてきた中で見つかった呪詛を取り込ませてあったから、川島さんには違う色に見えたんだろうね。呪詛というのは確かな定義がある訳じゃないけど、僕達の間では怒り憎しみ妬みに嫉み――そうした穏やかならざる感情が外部に溢れ出したものだと捉えている」
「それって――」
麻子はそれを別の言葉として知っている。だが、ここは口を噤んでおく。
「太夫は式姫を使ってそれを操ったり、鎮めたり出来るとされているんだ。僕が追っている相手というのはあくどい手口を使うから、そこら中に呪詛を振り撒いている。駅に着いてからは、その痕跡を追っていたという訳なんだ」
でもここで途絶えているんだよ――と三条は両手を挙げてみせた。
ビルの合間である。
「さて、ここからはいよいよ川島さんの案内が必要になってくるね」
三条はビルの合間からも見える、この街で突出した巨大なビルを見遣る。
「火清会本部に顔を見せに行こうか」
火清会本部ビルは、この街の他の建造物とはまるで規模が違う。雑多なビル群は狭い土地を工面して乱立しているのに対し、火清会本部は広大な土地を悠々と使い、その大きさも高さもまるでそこだけ別の街であるような特異な存在感を放っている。
麻子は一度その中に入ったことがあるが、その時にいざこざを起こしたので出来れば二度と入りたくない。その騒動のせいで麻子は火清会に住所から電話番号まで知られている。
「三条さん、やっぱりやめませんか――」
麻子はビルの外、入口の前で三条に思いとどまらせようと小さく言う。
「うーん、でもその保科と名乗っている人は川島さんのことを知っているんだろう? 川島さんが顔を見せれば、何か反応を起こすかもしれない」
麻子は三条に電車の中でこれまでの保科との接触について話したのを後悔した。その結果餌としていいように使われる羽目になっている。
「でも保科さんが本部ビルにいるとは限らないですし……」
「とりあえず受付で、保科という人はいるかと訊いてくれればいいんだ。それでどんなリアクションを起こすかが気になる」
「三条さん、火清会には迂闊に手を出せなみたいなこと言ってたじゃないですか」
「向こうがこっちに式を打ってきたからね。あまり悠長なことも言ってられなくなったんだ」
恐らくだけど――と三条は苦い顔をする。
「僕がこれまで追っていたことを向こうも気付いたんだろう。火清会の情報網があれば僕よりもはるかに容易く相手の素性を掴めるだろうしね。太夫の方では掴めないだろうけど、表の仕事もあるからなあ」
その時、入口の自動ドアが開いて枯れ木のような生気のない男が外へ出ていった。
麻子ははっとしてその男を目で追う。細いフレームの眼鏡と茶色のニット帽という格好も以前見た時と同じだ。
「三条さん、あの人です」
声を潜めて、気付かれないようにその男を指差す。
「あの人って――」
「保科さんです」
角を曲がる時、三条の目は確かに保科の顔を捉えた。
その時三条の顔に現れたのは、途方もない困惑だった。
「あれが――その保科という男なのかい?」
保科の姿が見えなくなると、三条は震える声で麻子に訊いた。麻子が頷くと、三条はますます困惑しいたように頭を抱えた。
「僕の故郷は狭い。太夫がいるのも、その狭い町の中だけだった。だから、この技術を持っている人間の顔は、僕は全て知っているはずなんだ。僕達の世代で、町は終わったんだから」
なのに。
「誰だ――あれは。あんな顔の人間、僕は見たことがない」
三条が下を向いて必死に考えているのを見計らったかのように、角から保科が引き返してきて顔を見せた。
麻子と目が合うと、保科は嗜虐的な笑みを浮かべ、そのまま今度は本当に去っていった。
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