第17話 地獄センター


 目が覚めると、目の前に自分がいた。

 多分夢だろう。川島麻子はそう判断してまた深い眠りに入ろうとする。

 しかしそこで気付く。今日は受験生にとって重大な意味を持つセンター試験当日なのである。目覚まし時計はセットしたが、麻子の使う目覚まし時計は買い換えても買い換えてもしょっちゅう故障するので信用ならない。念のため弁当を作るために麻子より早起きしてくれる母に起こしてくれるようには頼んだが、このまま深い眠りに入るのは考え物だ。

 頭はやけに冴え渡っている。まるで適正な睡眠を取った後のようだ。まるで夢の中とは思えないので、麻子はもしやと思い至る。

 自分の寝ている姿を自分が眺める。この話には聞き覚えがある。

 所謂、幽体離脱というやつである。

 麻子は――本当にあればの話だが――詳しい原理などは知らないが、自分がそれを体験してもおかしくない体質だということは心得ている。

 ただ――いかんせん視点が低い気がする。

 麻子の知っている幽体離脱というものは、視点が宙に浮いて、上から自分の身体を眺めるという話だった。それが今、麻子の視点は身体に覆い被さっているような形で、殆ど水平に胸から顔を望むことが出来る。

 そこで、麻子の目が開いた。視点者の麻子ではない。身体の方の麻子である。

 麻子――身体の方――は上体を起こすと大きく欠伸をして麻子――視点の方――を見て首を傾げる。

「あれ? なんでボクがいるの?」

 両者、互いにゆうに一分は固まった。

 麻子ははっとして目の前に腕を持ってこようとする。麻子の目に映ったのは、黒い毛で覆われた蜘蛛の足だった。

「えっ、えっ――えええええ!」

 麻子は思い切り叫んだ。

「タマ? タマなの?」

 身体に訊くと、こくんと頷く。

 タマは麻子の友達だ。始終離れることのなく、ずっと一緒に生活してきた最初の友達で、一番大切な友達。

 そしてタマは人間ではない。巨大な蜘蛛の化け物であり、普通の人間には見ることすら出来ない存在だ。

 それで、今の麻子の身体は、その蜘蛛のものになっている。

「わー、ボク、麻子になってるー」

 麻子の身体になったタマは、自分の身体をしげしげと監察している。

「ちょ、ちょっと待ってよ……」

 タマの身体になった麻子は八本の足を動かして本来の自分の身体にもたれかかる。身体の構造はまるで違うが、特に意識せずとも自在に蜘蛛の身体を操ることが出来た。

「何とかして戻らないと! よりによって今日センターなのに!」

 タマを何度も叩きながら言うと、タマはまた首を傾げる。

「どうやって戻るのー?」

「そ、それは」

 皆目わからない。

 こうして麻子のセンター試験は、波乱の幕を開けた。




 試せるだけのことは試した。

 とは言っても、麻子もこんな事例はテレビでしか見たことがない。なので試したとは言っても互いに思い切り頭をぶつけるとか、部屋の中を一緒に転がるとか、その程度だった。そしてそのどれも効果はなく、麻子はタマの、タマは麻子のままだった。

 もしやもう一度眠れば元に戻るのではないかとも考えたが、それはあまりにリスクが高かった。

 目を覚ました時間は午前五時過ぎ。目覚ましをセットしておいたのは午前六時。一時間未満の時間眠って、元に戻らなかったら洒落にならない。この頃には麻子はもう最終手段に考えが行きついていた。

 麻子の身体になったタマが、川島麻子として試験を受ける。麻子はタマとして頭の上に乗り、試験になれば麻子が解答を導いてタマに伝える。タマとなった麻子の声は他の人間には聞こえないから、案外上手くいくかもしれない。

 そのためにはこの一時間の猶予を最大限活用しなければならない。

「タマ、字は書ける?」

「多分無理ぃ」

 麻子はタマを勉強机に座らせ、ルーズリーフの場所を教えて広げさせる。

 鉛筆を持たせると、これは上手くいった。麻子がタマの身体を自然に動かせるように、タマも麻子の身体に染み付いた動作は滞りなく出来るようだ。

 机の上に置かれた試験票を見せ、そこに書かれた受験番号と氏名その他を書けるようにタマに教える。最初の数回はまともな字にならなかったが、暫くすると身体の方が感覚を思い出したのかすらすらと書けるようになっていた。

 幸いセンター試験はマークシート式。麻子は使い終わったセンター試験演習用の問題集を取り出させると、その問題集のマークシートになっている部分を塗り潰す練習をさせた。こちらも何回か繰り返す内に自然に出来るようになった。

「ごめんねタマ……でも今日明日だけはどうにか乗り切らないと」

 麻子が言うと、タマは鉛筆を置いて伸びをする。

「うーん、メンドーだけど、頑張る」

「あ、それから、外に出たら私に話しかけちゃ駄目だよ? 私からは指示を出すけど、それに答えちゃ駄目」

「いつも麻子がしてるみたいに?」

「そう。タマ、数字は読める?」

 タマは首を横に振る。時計を見て時刻を知ることは出来るのだが、それはアナログに限られる。

「じゃあ、試験になったら私がマークシートの塗り潰す場所を教えるから、その通りに出来る?」

「うん、頑張る」

「よし、じゃあ制服に着替えて、机の上の物を鞄にしまってね」

 タマは頷いて、たどたどしく服を着替えた。

 時刻は六時を過ぎた頃。そろそろ朝食を取って、脳を活動させておく必要がある――と教師陣に言われたのを思い出すが、試験を考えるのは妖怪の身体になった麻子の方だ。

「タマ、お腹空いてる?」

「うん!」

 麻子の方は空腹を感じていなかったので問題はない。

「じゃあ下に降りて朝ごはん食べようか。あ、お母さんの前でも私に話しかけちゃ駄目だよ」

「わーい」

 タマは意気揚々と階段を駆け降り、台所に駆け込む。

「おはよう麻子。ちゃんと起きられたじゃない」

 母は笑って言って、テーブルの上に朝食を並べる。米飯に具だくさんの味噌汁、寒サバの塩焼きにホウレンソウのおひたしまでついている。普段の朝食でここまで揃うことはまずないので、親の方もセンター試験ということで気合いが入っているのだろう。

「こういうの食べるの初めてだよー」

 タマが呟くと母はそれを聞きつけて笑う。

「そりゃ毎朝手抜きだけど、そんなに感動しなくてもいいじゃない」

「いつもこういうの見てもお腹空かないんだけど」

 箸を持って数度動かし、感触を確かめると、その箸で米飯を掴んで口に運ぶ。

「うん! おいしー!」

 タマは凄まじい勢いで朝食を食べ終えると、今度は急に腹を押さえだした。

「う? 何か変な感じ……」

 麻子はそこで気付き、慌てて声を上げた。

「タマ! トイレトイレ!」

 妖鬼であるタマは排泄をしないが、麻子の身体はそんなに都合よくは出来ていない。

 何とか用を済ませると、いよいよ家を出る準備を始めた。忘れ物がないよう、麻子が頭の上から何度も下りて持ち物を検査した。

「いってきまーす」

 準備が終わるとタマは意気揚々と家を出た。

 自転車に乗るのは危なっかしいので、駅までは徒歩で向かうことにした。試験会場のD大学は最寄り駅の泗泉駅から急行で五駅先の大正町たいしょうまち駅を降りて暫く歩く。

 タマは軽い足取りで駅まで歩いていくが、麻子は緊張で眩暈がしそうだった。

 泗泉駅に着き、麻子は逐一指示を出して大正町駅までの切符を何とかタマに買わせることが出来た。

 改札を抜けてホームで電車が来るのを待っていると、タマがはっと目を光らせる。

「よう、麻子」

 桐谷匠が仏頂面で挨拶をした。

「わー、匠ぃー」

 タマは反射的に桐谷に思い切り抱き着いた。

 これには桐谷は肝を潰したらしい。明らかに周章してタマ――桐谷から見れば麻子――を引き離そうともがく。

「おい! 何の冗談だ」

「ちょっとタマ! 何してるの! 離れて!」

 麻子は他の生徒達や乗客達の刺すような視線に冷や汗をかく思いでタマを諫める。

 タマは唇を尖らせて渋々といった様子で桐谷から離れる。

「何の真似だよ麻子」

「だって匠とお話し出来るなんて初めてなんだもん」

「は?」

 麻子は怪訝を通り越して怒りを滲ませる桐谷を何とか納得させようとタマに指示を出す。

「タマ、私の言ったことをそのまま匠に伝えて」

「オッケー」

 桐谷は麻子の体質のことも、タマの存在も見ることは出来ないが知っている。現在の状態を話しても大丈夫な数少ない相手だ。

「実は今、私とタマが入れ替わってるの」

「実はねー、今麻子とボクが入れ替わってるんだってー」

「入れ替わる? ってことは、お前がタマなのか?」

「うん! そうだよー」

「じゃあ麻子は、お前の頭の上に?」

「うん!」

 桐谷は頭を抱える。

「まるで訳がわからん」

 そのまま苦笑して、

「とりあえず、初めましてだな、タマ」

「ボクはいつも会ってるんだけど」

「それもそうか。で、麻子は?」

 桐谷は見ることが出来ないにも関わらず、麻子のいる位置に視線を合わす。

「本当に困ってる……」

「本当に困ってるってー」

 桐谷は苦笑してから、急に真面目な顔になる。

「今日、大丈夫なのか?」

「何とかする。しないと」

「何とかするってー。ボクも頑張るよー」

「どうやって?」

 そこで麻子はタマに名前と受験番号を書けるように教え込んだこと、問題は麻子が解いてマークシートを指し示し、タマがそれを塗り潰すというプランを話し、タマがそれを緊張感なく桐谷に伝えた。

 桐谷は不安げに眉根を寄せる。

「でも、それじゃ無理があんだろ」

 麻子はぞっとする。今まで忘れていたが、このやり方には一つ、重大な落とし穴があったのだ。

「今日は一日目。英語が――リスニングがある」




 センター試験の英語――厳密には外国語の内の英語を選択した場合――では、筆記試験の後にリスニングテストが行われる。

 リスニングテストには、一人ずつ配られるICプレイヤーを用いる。これに付属するイヤホンを使い、一人一人が別個に同じ音声出題を受けることになる。

 さて、タマと入れ替わった麻子であるが、蜘蛛の身体である以上、耳にイヤホンを入れるという行為は不可能である。

 問題を聞くためには、イヤホンを麻子の近くに持ってきて、そこから漏れる音を聞くしかない。だが実際問題これは不可能と言ってよかった。試験には当然試験官がいるし、その中でイヤホンをきちんと耳に入れず机の上に伸ばしていれば、厭でも目に着く。

 タマがイヤホンで問題を聞いたところでどうしようもない。タマには英語を聞いて問題に答えるだけの能力はないし、その問題を麻子に伝えようにも試験中に口を開くことがいかに非常識かということを考えれば全く不可能である。

「どうしよう……」

「どうしようだって」

 麻子がタマの頭の上で言うと、タマは律義に目の前の桐谷にそれを伝える。

「ICプレーヤーの不調を訴えるしかないだろ」

 リスニングが導入されてから、毎年ICプレーヤーの不調は起きている。確か虚偽の不調を訴えても向こうにそれを確かめる術はないのだと聞いたことがある。かなりあくどい手だとは思うが、この異常事態だ。

「再試験までには戻ってるよね……?」

「わかんなーい」

 桐谷はタマの言葉を聞いて麻子が何かを言ったことを察したらしい。

「なんだって?」

「えっと、サイシケンまでには戻ってるかなーって」

 桐谷は肩を落とす。

「再試験どころか、もっと重要な問題があんだろ。明日、そのままだったらどうするつもりだよ」

「明日って――」

 桐谷には聞こえなかっただろうが、まるでそれを受けてのように続ける。

「明日は数学と理科だ。どうやったって余白に計算を書き込む必要がある」

「あっ!」

 そうだった。複雑な計算式を必要とする数学や理科で、全てを頭の中だけで計算を行うというのはどう考えても無理だ。

 タマに逐一口で言って式を書かせるにしても、それではあまりに時間のロスが多すぎる。第一タマに式を説明して、それを書けるとは限らない。

 そんな会話をしている内に、電車は大正町駅に着いた。

 他の受験生達がうつむき気味で黙々と歩く中、タマはきょろきょろと周囲を見渡しながら、いかにも楽しげな軽い足取りでD大学への道を進んだ。

 試験会場に着き、麻子が指示を出して自分の席へとタマを座らせる。

 いよいよ試験が始まると、麻子はたちまち冷や汗をかいた。

 麻子がマークシートの位置を指し示すと、タマは声を出してそれに応えるのだ。麻子が慌てて声を出してはならないと諫めると、それにも反応して声を上げる。

「タマ、お願い。お願いだから声は出さないで」

 隣や後ろからの視線が痛い。麻子が何度も念を押すと、タマは漸く声を出さないようになった。

 ところが国語の試験の終盤頃になって、また別の問題が発生した。

 タマの集中力が持続しなくなってきたのだ。

 麻子が問題を読んでマークシートの塗り潰す場所を教えるのだが、だんだん反応が悪くなってくる。

「うえー」

 しまいには呻き声を上げて机に倒れ込んでしまう。

 どうしたものかと麻子が頭を悩ませている中、タマは小さく呟く。

「全然楽しくない……」

 それきり、ぴくりとも動かなくなってしまった。

 すると麻子も目の前が真っ暗になり、深い眠りに誘われるように意識を手放した。




 目を開けると、マークシートがあった。鉛筆に消しゴム、問題用紙も身体の下に敷かれている。

 はっとして、勢いよく身体を起こす。手を目の前に持ってくると、それは見慣れた自分の手だった。

「戻っ――」

 思わず声を上げるが、途中で踏み止まる。鉛筆を走らせる音、問題用紙をめくる音以外が聞こえない今の状況から、試験中だとわかったからだ。

「麻子ぉ」

 頭の上からタマの声がする。

「ごめんね、麻子……」

 麻子は小さく頷くと、途中で放り出してあった試験問題と向き合う。

 懸念材料だったリスニングも無事に受けることが出来、地獄のセンター試験一日目は終了した。

 試験が終わると、麻子は真っ先に桐谷の許へ走った。

「匠、今日は色々とごめん」

「ん? お前麻子か?」

 言葉遣いでわかったのだろう。麻子が頷くと、桐谷は笑って大変だったなとねぎらう。

「いつ元に戻った?」

「国語の終わり頃」

「じゃあリスニングも受けられたんだな。なんにせよよかったな」

 桐谷はそこで麻子の頭の上を見ると、

「タマも大変だったな」

「うん、大変だった」

「大変だったって」

 麻子がタマの言葉を伝えると、桐谷は低く笑う。

「まあ、俺もタマと話が出来て楽しかった」

「ボクも楽しかったけど、それよりもっと楽しくなかった」

 タマはそう言って身体を沈める。

「あのね、麻子」

 泗泉駅から自宅へ帰る途中、タマはおずおずと口を開く。

「実はボク、麻子と入れ替わってみたかったの」

「私と?」

「うん……。人間も楽しそうだなーって思って。匠やお母さんとお話ししたかったし、いつも麻子を見てたら、ちょっと面白そーだと思って。それでね、昨日、寝る前に思ったの。麻子と入れ替わりますようにって」

「それで朝、入れ替わってたんだ」

 麻子は思わず笑った。危うく笑い事ですまなくなるところだったが、もはや過ぎたことだと麻子は割り切っていた。

「それでどうだった? 入れ替わってみて」

「うん、やっぱり人間は大変だなーって。今日みたいなことが続いたら、ボクは耐えられないよ。だから途中で厭になって、もういいやって思ったの。そしたら」

「戻ったんだ」

 タマは消え入りそうな声でうんと答えた。

「よりによって大変な時を選んだんだね」

「ごめんね、麻子。大変なことになっちゃって」

 これには麻子も苦笑する。

「また入れ替わりたい?」

 タマはぶんぶんと首を横に振る。

「もうやだ。ボクは妖怪がいい」

「そうだよね。お化けには学校もないし、試験もなんにもないんだから」

 ちょっと羨ましいと思いながら、麻子は鼻歌を口ずさんだ。

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