番外編 信じる者は馬鹿を見る

 娘は、少し変だ。

 川島茂は小学二年生の娘をぼんやりと見ながら欠伸をする。

 川島の娘――麻子はよく、何もいないところに目を向け、指を差したり声をかけたりする。

 何かいるのかと訊くと、いると答える。川島にも妻にも、さらには麻子より八つ上の息子にも何も見えないし、聞こえない。

 しかし麻子はそこには確かに変なものがいるのだと言う。

 さらに最近は、一人でしきりに話しかけている。

 タマという友達が出来たのだという。昔家で飼っていた猫の名前なので、猫なのかと訊くと蜘蛛だと答えた。自分が名前を付けたとも。

 妻は変わった子だと笑って、話を合わせて接している。息子は年の離れた妹が可愛くて堪らないようで、そんな言動などお構いなしに一緒に遊んでいる。

 川島は――ぼんやりとしている。

 勿論、娘は可愛い。親としての愛情もしっかりと持っているつもりだ。

 だが、その変わった言動に対してのリアクションを決めあぐねているのである。

 川島は、大の宗教嫌いだった。信仰だとか伝統だとか、そういうものも大嫌いだ。

 虚言云々という可能性は一旦置いておいて、麻子には普通の人間には見えないものが見えているのだとしよう。そういったものは川島の毛嫌いする領域なのではないか――と思ってしまう。

 だから川島としては、娘の言動はただの妄想だとしてしまいたい。しかし、川島の親としての心が、娘を信じてやりたいという思いを起こさせるのである。

 川島の宗教嫌いは頑ななものである。一体いつからそういったものが嫌いになったのかは思い出せないが、とにもかくにも嫌いなのである。

 宗教や信仰というものが、過去の人が考え出したものであることは明白である。本当に神や仏がいて何かをする訳では当然ないし、神や仏に祈るという行為自体いないものに何を言っても無駄だと割り切っている。

 さらに腹立たしいのがそれが高尚なものだと扱われていることだ。妄想に妄想を重ねた行為に何の意味があるのか。

 伝統があれば偉いのか。そんなことを言えば、今から何かを始めて百年後まで続ければそれが偉くなることになる。続いただけで偉くなるということが川島には理解出来ない。

 麻子の目に見えているものはそうしたものなのか。いや、そうでなくともそうした方向に向かってしまうものなのではないか。川島は何となくだが危惧しているのである。

「お父さん?」

 ぼんやりと見下ろしていたのに気付いたのか、麻子が川島を見上げて首を傾げる。

 今は学校は夏休みで、川島は休みが取れたこともあって娘と一緒に近所の四泉川に向かっているところだった。

「ああ、どうした?」

「お父さんがどうしたの? ずっと私見てるんだもん」

 川島は笑って謝った。麻子もおかしいのか声を上げて笑う。

 本当に、ただの無邪気な子供だ。

「ねえタマ、お父さん変だよねー」

 頭頂部の方を見上げながら麻子がそう言う。

 川島は困ってしまった。こういった時のリアクションをどうすればいいのかが自分の中で定まっていないのである。

「おや、変わってるねぇお嬢ちゃん」

 柔らかいが力強い声がした。カーブになった道の先から、恐ろしく人相の悪い男がこちらに向かって歩いてきていた。

 着ている服と剃り上がった頭で、僧侶だとわかる。その男は興味深げに麻子の頭の上を見ている。

「それは君の式かい?」

「しきってなあに?」

「ううん、質問が悪かったね。その蜘蛛は何だい、お嬢ちゃん?」

 蜘蛛――と言った。

 ――見えている?

「タマ! 私の友達!」

「ほう、やっぱり変わってるねぇ」

「あの――」

 いつの間にか立ち止まって話している男に声をかける。男は困ったように笑って、申し訳ないと謝った。

「僕はそこの風雲寺で住職をしている風間と申します。お嬢さんがどうやら僕の同類なようなので、思わず声をかけてしまいました」

「同類――」

「ああ、早い話、僕は『見える』んですよ。と言っても普通ならこんなこと他の人には話さないんですけどね。まあこの子がそうなので、つい口が弛んでしまったというところです」

 そうだ、と風間は笑う。笑っても相変わらずの凶相である。

「よければ少し話をしませんか。うちの寺はすぐそこです」

 寺、と聞いて川島は思わず顔を顰める。他人の信仰心とやらは馬鹿げたことだと思うし軽蔑もする。ただし一応それは個人の自由だと言い聞かせるようにはしている。しかし本音を言えば僧侶などと話をするのも苛立たしいし、宗教施設である寺に行くというのも反吐が出る。

 しかし麻子の方が完全に乗り気になっており、仕方なく川島は風間の後に続いた。

 緑色の柵で囲われた墓地に隣接するのが風雲寺だった。古びた山門に寺の名が書かれてはいるが、かなり摩耗して読みづらい。だが敷地は広く。本堂の他にもいくつかの建物が見えた。

 川島は講堂に招かれた。冷房が利いており、真夏のうだるような暑さの外にいた川島はほっと人心地つく。だが慌てて臨戦態勢を取った。ここはあの忌むべき宗教施設の中なのである。

 敷かれていた座布団に腰かけると、風間は冷たい麦茶を三人分持ってきた。川島は礼を言って一口飲む。

「この子のお父さんでよろしかったですね」

 風間はそう言って微笑みながら川島を見る。どんなに笑顔を浮かべたところで、結局怖い顔のままというのだから恐ろしい。

「ええ、そうですね」

「このくらいのお年ですと、扱いも難しいでしょう」

「まあ、そうですね」

 風間はそこで目を麻子の頭の上に向ける。

「その蜘蛛は君の友達だったね、お嬢ちゃん」

「うん! ね、タマ」

 川島はそこで咳払いをする。風間はそれに気付いていや失敬と笑った。

「お父さんは見えないようですね。そうなるとますます扱いが難しい」

「川島です。この子は娘の麻子」

 川島が言って麻子に目配せをすると、麻子は心得た様子でぺこりと頭を下げた。

「川島さんというと、うちの檀家さんですね。この辺りに川島さんは一軒だけだ」

 そう言われて、川島は素直に知りませんと言った。そういったことは両親に任せてあるので――。

「失礼を承知でまず言っておきたいんですが、俺――私は宗教の類が死ぬ程嫌いです」

 風間は気を悪くするでもなく豪快に笑った。

「いや、実に結構です。僕も今住職をやっているのは家業を継いだだけで、信仰心なんてものは持ち合わせちゃいません。仏教と僕が見えるというのは何の関係もないことです。それに勿論、それを利用して信者を集めようとか、商売をしようというのでもありません。ただ、娘さん――麻子ちゃんのことが気になるので、一人の同類としてお話がしたかっただけなんです」

 それを聞いて川島は若干肩の力を抜いた。こうもぶっちゃけた話をする辺り、案外川島と同じ側の人間なのかもしれない。

 川島さん――風間は凶悪な笑顔で訊ねる。

「娘さんに見えるものについてどうお考えですか?」

「そう――ですね。私はそういったものは信じない性質なのは確かです。だが、娘の言うことだから信じてやりたいという気持ちも勿論あります」

 風間は深く頷いた。

「なら、そのままでいいと思いますね」

「え?」

「川島さんは、半信半疑で、だけど鷹揚に構えて麻子ちゃんに接してあげればいいと思いますよ。別に川島さんが無理をして僕達に見えるものを信じようとする必要はないんです。何故って――」

 見えないんですから。

 風間はよく通る声で笑った。

「その代わり、麻子ちゃんに見えるものについては僕が話し相手になりましょう。自分に見えるものが自分にだけしか見えないと気付いた後、この宿業を背負った人間は非常に脆くなります。僕はあまり、そうした子を増やしたくない」

 いつの間にか麻子は川島にもたれかかるように眠りに落ちていた。川島は麻子を背中に負ぶって帰ることにした。

 外に出ると山門まで風間が見送りに出てきた。

「怪しいと思われたでしょう」

「いや、まあ、少しは」

 ですが――川島は風間が言うより早く自分の言葉をねじ込む。

「仰ることは仰る通りだと思います。あとどうするかは、麻子の判断に任せますよ」

 目礼し、川島は歩き出す。

 なんとなくだが、自分のスタンスがわかった気がした。あとは麻子次第か。

 男親が娘に干渉出来るのもそう長くはないだろう。その程度の距離感があった方が気が楽なものだ。

 我ながら気が早い。思わず苦笑すると、背中で麻子が身をよじった。

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