第13話 酒上不埒


 夏休み明けの実力テストの結果を見て、川島麻子はほっと胸を撫で下ろす。

「麻子ー。どうだった?」

 にやにやと笑う鈴木志穂に訊かれ、麻子は苦笑する。

「いつも通りかな」

「流石、ミス平均点」

 中学では成績上位組の中にいたが、ここ青川南高校に入学してからというもの、麻子は常にテストの点数が平均点の近似値になるという習慣がついてしまった。

「でも羨ましいよ。南高で平均点なら、D大くらいは余裕でしょ?」

 青川南高校はそれなりの進学校だ。トップレベルになるとそれこそトップクラスの大学に進学する者が現れ始める。

 D大学はその名の通りD県にある国公立大学で、国公立の中でのレベルはかなり下の方になる。

「そんなこと言って、志穂は平均以上でしょ?」

「いやー、日本史は大分まずかったんだけどね」

 勝負の夏が終わった進学校の三年生ともなると、すぐにセンター試験へと目をぎらつかせる頃だ。それでもこの二人はどこかのんびりとしていて、周りの空気からは浮いている。

「でもすごいよ麻子は。塾にも通わず夏期講習も受けずに成績をキープしてるんだからさー」

 志穂の言う通り、麻子は学習塾の類には通っていない。中学の時は近所の私塾に通っていたが、高校進学を期に縁を切った。高校でも自習室開放以外に休日に教師が補講をしてくれていたし、自宅学習メインでも麻子は授業についていくことが出来た。

「褒めても何も出ないよ」

 真顔で言うと、志穂は声を上げて笑った。

「まあ、麻子にあやかりたい人はいっぱいいるだろうしね」

「全くだ」

 険のある目付きをして、桐谷匠が麻子の座っている机の上に腰を下ろす。

「お、桐谷君。どうだった?」

 桐谷は乾いた笑みをこぼした。

「言わなくてもわかってんだろ」

 嫌気が差した――と桐谷は言っていた。

 勉強にではない。

 生きることにだ。

 あの事件以来、桐谷の顔からは笑顔が消えた。それまではいつもへらへらと笑みを浮かべていた桐谷は、その処世術を捨てた。笑顔という仮面が剥がれ落ちた桐谷は、日に日に険しい顔つきになっていった。

 それでも学校を辞める訳でもないし、授業を受けない訳でもない。抗うことにさえ嫌気が差したのか、桐谷は流されるままに生きている。

 無論、そんな状態で成績が上がる訳がない。元々下から数えた方が早かった桐谷は、すぐに下から数える手間もかからない程になった。

「ああ、そういえば聞いた? 理数科の話」

 志穂が言って、麻子は首を傾げる。

 青川南高校には、普通科以外に理数科というコースがある。これは受験の時に選ぶことが出来、理数科は普通科よりも偏差値が高い。一学年に二クラスだけで、授業の内容と時間割も普通科とは異なるということからも、選りすぐられた生徒が集められたという様相だ。

「理数科の成績が落ちてるって、噂になってるじゃんか」

「え、そうなの?」

 麻子はあまり耳が速い方ではない。それに加えて察しも悪いので、大体最新の噂は志穂から聞かされることになる。

「ああ、俺も聞いた。理数科全体ががっくり落ちてるって話だろ」

「それって――」

「まあ、笑い話でしょ」

「笑えるよな」

 と言いつつ桐谷はくすりともせず興味もなさそうだ。

「笑い話じゃないよぉ」

 教室の外から悲痛な声がした。

「げ、なっちゃん」

 現代文担当の中山夏子は半泣きになりながらふらふらと教室に入ってきた。

「そういえばなっちゃんって八組の担任だったっけ」

 志穂が言うと、夏子は倒れ込むように空いていた席に座り込んだ。

「なっちゃんじゃなくて中山先生でしょ」

 いつもと同じように渾名を訂正するが、その言葉には覇気がない。

 夏子はまだ二十代で、生徒と年齢が近いこともあってよく言えば親しまれ、悪く言えばなめられている。

 それが八組――理数科の担任ともなれば、その心労は相当なものだろう。

 夏子と麻子はつい三箇月程前にちょっとした厄介事を共有したことがあって、主に夏子の方が麻子に親しみを寄せている。それは他の教師に漏れるとまずい話なので、麻子に頭が上がらない状態になっているとも言える。それでもこうして目の前で弱音を吐いているのは、麻子への信頼の表れなのかもしれない。

「ボイコットだったりしてな。なっちゃんの授業なんて受けてられっかーって」

 桐谷が皮肉な笑みを浮かべて言うと、夏子はがっくりと肩を落とす。

「本当にそうだったらどうしよう……」

「いや、冗談だったんだけど……。あ、笑い話じゃなかったんだったな」

 激しく落ち込む夏子を見て、志穂が素早くフォローを入れる。

「でも、成績下がってんのは理数科全体って話でしょ? だったらなっちゃんが担任してない七組も入ってるんじゃないの? そもそもなっちゃんが授業で教えてるのは現文だけでしょ。それなら現文だけをボイコットするはずじゃない」

「まあ、そうだとしても笑い話じゃないんだけどね……」

 泣き笑いのような顔になって、夏子は大きく溜め息を吐く。

 こうなるともう言葉のかけようがない。

「なら当人に聞いてみるか」

 桐谷が言うと、麻子は首を傾げた。

「理数科に知り合いいるの?」

 理数科と普通科の間には、思ったよりも深い溝がある。一年ごとのクラス替えでも、理数科は理数科だけで生徒を替えるので、普通科とはどうしても接点が少なくなるのだ。

「知り合いか。まあ、幼馴染ではあるな」

 それを聞いて麻子は膝を打った。保育園から中学校まで、殆ど同じという桐谷の出身地区。

「四門の奴だよ」




 苛立ったように指で机を小刻みに叩き、新谷しんたに愛美まなみは桐谷を睨んだ。

「何の用だよ」

「用って程のことじゃねえんだけど」

「なら話しかけるな」

 きつい言葉遣いで愛美は桐谷を突っ撥ねる。

 桐谷は三年八組で愛美を見つけ、一組の教室まで引っ張ってきた。このあからさまに厭そうな態度を見るに、よっぽど酷い誘われ方をされたのだろう。

 一組の教室には桐谷と愛美の他に麻子もいた。志穂は先に帰り、夏子は職員室に戻っている。

「いやな、理数科の成績が落ち込んでるって、普通科で噂になってんだよ」

「だからなんだよ」

「実際のところはどうなのかと思ってな。お前は成績落ちてんのか?」

 どん、と机を叩く音が響く。愛美が苛立ちを爆発させたらしい。

「桐谷、あんたがあたしの成績に口を出そうなんて十年早いんだよ。聞いたとこじゃあんた今最底辺にいるそうじゃない。中学の時から、あたしはあんたなんて眼中になかったんだよ。それがあたしと対等に口利けると思うなよ」

「相変わらずだな新谷」

「あんたは変わった。見る影もない程にな」

 これで話は終わりと言わんばかりに立ち上がった愛美を見て、麻子はぽつりと呟く。

「お酒……?」

 雷に打たれたように愛美の身体が硬直する。

「あんた、今なんて――」

 麻子ははっと我に返り、慌てて取り繕う。

「いや、その、なんかお酒みたいな匂いがした気がして……」

 愛美は肩を怒らせながら、しかし逃げるように教室を後にした。

「なんか見えたのか?」

 桐谷が小声で訊いてくる。麻子は頷き、しかしなんと形容すればいいのかわからずに小さく唸った。

「憑いてるって感じじゃないんだけど、一番は匂いかな。お酒の匂いがするの。匠は感じなかったよね?」

「ああ、何にも」

 麻子の目には、愛美の周囲に白い靄のようなものが見えた。麻子にはこういった普通の人間には見えないものを見る力がある。周囲には秘密にしているが、桐谷には知られている。

「あの、新谷さんって昔からあんな感じなの?」

 桐谷はくつくつと笑った。

「厭な感じだろ。エリート意識っつうの? でも南高の理数科は難関だけどトップじゃない。本当は青高の特進科狙ってたみたいだけど、そこまでは行けなくてここに来た訳だ。それでも理数科でトップ走ってるんだからすげえよ」

 青高というのは県内トップの進学校、青川高校のことだ。そこにも普通科の他に特進科というコースがあり、偏差値は頭一つ抜けている。青川高校の普通科と青川南高校の理数科の偏差値が殆ど同じということからも、ずば抜けた進学校だとわかる。

「ちょっと七組と八組を覗いてみる。あれが新谷さんだけなのかどうか確かめたいし」

 麻子は椅子から立ち上がり、廊下に出て階段に向かって歩いていく。三年生の教室と特別教室で占められるこの棟は、一階ごとに三クラスの教室がある。麻子のクラス――三年一組は一階で、目当ての七組と八組は三階だ。

「うわー、これはすごい」

 二つの教室を見回って、麻子は思わず呟く。

 七組と八組には、愛美に纏わり付いていた靄のようなものが渦を巻いていた。それはアルコールのものと思わしき匂いを放ち、教室に充満している。

 念のため他の教室も覗いてみたが、あの靄が立ち込めているのは理数科の教室だけだった。

 麻子は得られた情報から何とか理論を組み立てようと試みる。こういった物事に解を与えるのはずっと人任せにしてきたが、麻子も自分で考えるべきだと自覚していた。なので最近は出来る限り自力で答えを導き出そうと頭を使うようになっていた。

 靄は視界を鈍らせる。だが何かを隠すには薄すぎる。靄の中の者達には、すっかりわかってしまっている。それをぼかして有耶無耶にしてしまいのか。

 それに加えてこのアルコールの匂い。愛美のあの反応を見るに、酒が絡んでいるのは間違いなさそうだ。

「あ、わかった」

 桐谷の声で麻子の思考は中断された。

 桐谷はそれまで見ていた携帯電話の画面を麻子に向けた。

「七組の奴らのホムペだ。そこの日記に書いてる馬鹿がいた」

 ホムペ――携帯電話向けレンタルホームページ。同じクラスや部活の者が共通のパスワードを共有し、一つのホームページ内でそれぞれ日記を書いたり掲示板に書き込んだりする。麻子も存在は知っていたが、正直興味がなく一度も見たことがない。

 絵文字が多用されて麻子には読みにくかったが、日記の内容は七組と八組の生徒が夏休みに――その日記が書かれたのも夏休み中だった――合同で合宿を行ったというものだった。

 そこに、ぼかされてはいるが明らかに飲酒を臭わせる文章があった。

 インターネットで公開する以上、あらゆる人間が目にする恐れがあるのは当然のことだが、ことこういった個人ホームページにはそういった認識がないらしい。勿論実際目にするのは殆どが同じ学校同じ学年同じ部活の生徒だけなのだが、危機感が薄すぎやしないかと麻子は心配になってしまった。

「文明の利器には勝てないかぁ……」

 麻子の必死の思索も殆ど徒労に終わったことになる。桐谷に携帯電話を返し、しかしどうしたものかと小さく唸る。

「先生に告げ口は流石にまずいよね。これが成績の落ちてる理由にはならないし……」

「ああ。それともう一つ気になることがある」

 桐谷はまた携帯電話を麻子に手渡した。画面に映っているのは先程とは違う生徒の日記らしい。

 それを読んでいくと、麻子は思わずあっと声を上げた。

 合宿を行った場所は、火清会の所有する文化会館だったというのだ。

 火清会はここ青川市を拠点とする新興宗教だ。だが学生の間では宗教団体というより、学習塾のようなものだという認識が一般的になっている。所有している施設の一部を学生の学習スペースとして提供しており、なおかつその環境が驚く程快適だからだ。

 思わず声を上げてしまったが、その辺りのことを念頭に置くとそう驚く程のことではないかもしれない。実際麻子も高校に入学して暫くは火清会を塾のようなものだと認識していた。

 麻子は火清会を恨んでいる。それはどれだけ誤魔化そうとしても絶対に消えない感情だし、だから火清会を色眼鏡で見るのもいたしかたないだろう。

 それでも、普通の生徒にとってみれば火清会は親切な塾のようなものでしかない。その認識が一般的というのが一層麻子の感情を逆撫でするが、それが事実としてあるのだから認めないのは逃げているだけだ。

 だから本来ならそれを妙だと思うのは筋違いだ。

「ん、また他の奴の日記」

 だが再度桐谷から渡された携帯電話の画面を見て、麻子は確信した。




 酩酊だ。

 麻子の思索は決して徒労に終わった訳ではなかった。その先へ理論を進めるのに、麻子の目で見て考えることは必要だったのだ。

 理数科の生徒の団結は固い。八十人弱の生徒達は、普通科とは交わることなく三年間授業を受け続けてきた。だから夏休み中に全員参加の合宿という行事を催すことが出来た。

 青川南高校には不良の類はいない。いないが、教師の目の届かない範囲ならば好き勝手にやるような者も多い。それは学力には殆ど関係しないということを麻子はこの三年で学んだ。当然、理数科も例外ではない。

 合宿に誰かか、あるいは複数人が酒を持ち込んだことはあの日記から読み取ることが出来る。夏休みの魔力というやつで、飲酒という行為を犯す者は相当数いたはずだ。勿論根っからのクソ真面目な者もいて、その行為に参加しなかった者もいただろうが、秘密は守った。団結は固いのである。

 内部だけの秘密となった飲酒だが、今回はその内部の数が多かった。八十人弱という二クラスの生徒が同じ秘密を共有したことで、内部に渦巻く空気が醸成された。それは麻子が感じた、酒気を帯びた靄という形で。

 麻子が感じたあの酒気は、当人達には大きな影響を与えたはずだ。同じ場所にいる限りアルコール漬けになるのだから、常に酩酊したような――あるいは二日酔いのような感覚に陥ったのだろう。そんな状態が続けば頭などまともに回らない。

 ならば――麻子は七組と八組の教室の入り口で、小さく何かを呟いた。

 見る間に教室の靄はなくなり、廊下に古びた瓶が現れた。

瓶長かめおさ、あなたのお酒はもういらない」

 瓶に目が開き、割れ目が出来てそこからべろんと舌を出した。

 麻子はこの醸成された空気に、名前を与えた。それが瓶長。像のないモノが相手ならば、名前を付け、妖怪としてしまえばいい。麻子には、その力があった。

「あー、気持ち悪っ」

 瓶長は横から生えた腕で壁にもたれかかった。

「災いは吉事のふくするところと言うけど」

 麻子は相好を崩して瓶長の背中をさすった。

「酌めども尽きず、飲めども変わらぬめでたきことは――ないんじゃないかな」

「俺はそういう妖怪だよ」

 瓶長が前屈みになると、頭の口から酒が溢れ出す。

「ほら、しゃんとして」

 背中をぽんと叩くと、瓶長はふらふらと立ち上がる。

「酒の精と書いて酒精アルコールだけど、私達にはやっぱりまだ早いみたい。お酒は二十歳になってからって言うし、今のところはご退散願えないかな」

「確かに、ここは俺のいるべき場所じゃねえよなあ」

 覚束ない足取りで、瓶長は去っていった。

 さて――実は本番はここからだ。

 陽が暮れるのはまだまだ遅い。薄暗くはなってきたが、遠くまで目は届く。

 待つこと一時間程だろうか。校門に佇む男の姿を麻子の目は捉えた。

 ニット帽に眼鏡という姿で、校内を窺っているらしい。不審者として通報される前に接触を図ろうと、麻子は校門まで走った。

「保科さん」

「やあ、川島麻子さん。名前、覚えておいてくれたんですね」

 保科は薄笑いを浮かべて会釈した。

「こんなところに立っていたら不審者扱いされますよ」

「いやなに、僕はそもそもが不審者のようなものですから、その辺りは心得ていますよ」

「でも、保科さんが関わっているのは意外でした。だって」

 麻子の頭の上で巨大な蜘蛛が身をよじり、牙を剥き出しにして保科を威嚇する。だが保科はそちらには全く目を向けず、麻子の目をじっと見ている。

「見えないん――ですよね」

 麻子の頭の上のものはタマと名付けた妖鬼で、普通の人間には見ることが出来ない。

「見えませんが、使うことは出来ますよ。術者が皆、見鬼ばかりではないんです」

 保科は上着の内ポケットからいくつかの小さい紙を切って組み合わせたものを取り出した。

「打っておいた式が消えました。打ち返された訳でもない。あなたが何かをしたんですね」

「明言はしません」

 保科は声を上げて笑った。

「結構です。ならばこちらも明言は避けましょうか」

 待ってくださいと麻子は手を突き出す。

「私の考えが合っているかどうか、教えてくれませんか」

「考え? 推察したということですか?」

「まあ、はい。聞いてくれますか?」

「いいでしょう」

「まず、七組と八組の合宿に火清会の文化会館が使われたことは、自然な流れだったんだと思います」

 学生の持つ火清会の印象から考えて、これは当然だ。恐らくというより間違いなく、七組と八組の生徒の中に火清会の信者――の二世三世――はいたはずだから、そこから場所を提供してくれと申し入れたのだろう。

 その合宿で起こった飲酒行為を、火清会側が何らかの手段で知った。これを利用しようとしたのが、この保科という男だ。

「最初は保科さんだとは思わなかったんですけどね。さっきの話で特定出来ただけで」

 保科は空気を醸成するために何か――保科は式と言っていた――を使い、七組と八組にアルコールを帯びた靄を立ち込めさせた。勿論そこにはその空気が生み出される条件が整っていたからこそ成功した。

 そして夏休み明けの実力テストで、理数科は軒並み成績を落とした。

「それで、火清会に行って『お焚き上げ』をしてもらったら本調子に戻ったと喧伝させるつもりだったんじゃないですか?」

「おや、何故そこまで」

「すでにそう言ってる生徒がいるからですよ」

 桐谷の見つけた日記で、最新の方を見ると麻子の言った通りのことが書かれていた。

 火清会は宗教としては学生達に思われていない。それは不信感を抱かせずに擦り寄るには好都合だが、信仰の根を下ろすには不都合になる。そこで火清会の宗教としての正当性を広める嚆矢として理数科の生徒を陥れた。

「どうですか? 合ってます?」

 保科は笑いながらニット帽を被った頭をぽんと叩いた。

「そうですね、半分――いや、三割くらいは合ってます」

「三割?」

「だって、考えてもみてくださいよ。火清会は全国規模の巨大組織です。会員はごまんといますし、これからも高山先生がお得意のカリスマ性というやつで増やしていくでしょう。それがたかが高校生八十人弱を回りくどいやり方で陥れて、そこから会員獲得を狙うなんて、これ、どう考えても採算が合わないですよ」

「でも、なら、どうして――」

 麻子の肩に、保科の手が置かれた。

「あなたですよ。川島麻子さん」

 麻子は暫く固まったままだったが、はっと我に返り、慌てて保科の手を払い除けた。

「どういう意味ですか……?」

「僕は高山先生個人に雇われていて、火清会の中でも自由に動くことが出来ます。そこで今回の青川南高校理数科の合宿を記録していたデータに触れることが出来た」

「データ?」

「ああ、火清会の施設には大体どこにでも盗聴器や隠しカメラが仕掛けられているんですよ。どっかの国みたいでしょう? そのデータを見させてもらいましてね、あなたの言ったようなことを仕組んだ訳です。ですが僕がいくらフリーでも、会員獲得のためにそんなしち面倒臭い真似はしません。ここ、青川南高校の生徒ということに意味があった。何故ならここには、あなたがいますからね」

「私を――試したんですか?」

「そうなりますね。あなたが高山先生にとってどこまで脅威になるか。その辺りを確かめておきたかった」

「結果は……?」

「全くお話にならない、ですね。まあ無論、高山先生――火清会の脅威になる人物などこの世に全くいないと言ってもいいくらいなんですが。あなたは見鬼で、何か特別な力を持っている」

 麻子は思わず身構えた。麻子の隠された力は欠片も保科には見せていない。それでもこの男は何かに感付いている。

「それでも、それが脅威となる可能性はないでしょう。いや、ひょっとすると高山先生側に欲しい力なのかもしれません」

 それは――

「死を超えるということですか」

 おや、と保科が眉根を寄せる。

「あなたは一体どこまで知っているんですか? ひょっとして僕よりも深いところまで知っているんじゃないですか? 高山先生は確かに死というものを非常に恐れている。いい歳をしたおっさんがですよ。いや、いい歳をしているからなのかもしれませんが。あなたはどこまで?」

「それには答えられません」

「はは、これは参った。これだけ話させておいて最後がこれとは。いいでしょう。あなたは脅威ではありません。ですが、注意すべき人物として報告させてもらいますよ」

 おやもう真っ暗だ――保科は天を仰いですぐに視線を戻す。

「では僕はこれで失礼します。不審者と話をさせてしまって申し訳なかったですね。咎められた時の言い訳はそちらで考えてください」




 教室に戻ると、桐谷が座っている席の前に愛美が後ろを向いて座っていた。

「お、麻子。用は済んだのか?」

「ああ、うん。一応ね」

 愛美の方に自然と視線が寄ってしまう。桐谷はそれを察して、軽い笑みを浮かべた。

「堕落させてやろうと思ってな」

 愛美は素早く桐谷の頭を叩いた。

「調子に乗るな。あたしがあんたを更生させてやろうとしてんだろうが」

「まあそう言うな。たまには上ばかりじゃなく下を見てみろってアドバイスしてやったのは俺だろ」

 愛美は不満げに鼻を鳴らす。

「俺なりにアプローチをかけてみたんだよ。落ちるならとことんまで落ちてみねえかってな。それで吹っ切れることもあるだろうと思って」

 桐谷はそんなことを言って、また愛美にぶたれた。

「確かに、下は果てしないな」

 愛美は呆れ返ったように溜め息を吐く。

「だからそんな軽口が利けないように、桐谷を上に引きずり上げてやる」

 桐谷の机の上には、問題集が広げられている。どうやらずっとこれを教えていたらしい。

 桐谷は肩を竦めて見せる。

「逆効果だったか?」

「さあ?」

 麻子は苦笑するしかなかった。

 麻子が苦心せずとも、こういう解決方法もあった。火清会に縋るのも、他人に縋るのも同じだ。

 桐谷はその辺り、成績が最底辺ということで逆に超然とした心境になっていた。上だけを求めてもがく愛美には、それは軽蔑すべきものであったし、羨ましいものでもあったはずだ。

 桐谷は麻子とは反対だ。麻子が魔の道を行くのなら、桐谷はどこまでも人の道を行く。

「匠はすごいよ」

 愛美に無理矢理向き合わされた問題集に頭を抱える桐谷を見て、麻子は小さく呟いた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る