第12話 タマゆらの日々


 川島麻子の頭の上は、ずっとタマの定位置だ。

 タマというのは常軌を逸した巨大な蜘蛛の妖鬼で、最初は掌の収まるアシダカグモサイズだったのが、年月を経るごとにどんどん巨大化し、今ではどう見ても蜘蛛のサイズではない。

 まだ小さく、言葉を話せなかった頃から麻子の頭の上はいつもタマがいた。ベッドで横になる時や、大きくなってからは着替える時には膝や肩に移動するが、麻子が立っている時座っている時はタマは基本的に頭の上だ。

 ところが、夏休みも後半となったある日のことである。

 朝になり麻子がベッドから起き上がると、麻子の腹の上辺りで寝ていたタマも目を覚まし、麻子の身体を這い上がって頭の上に身体を落ち着かせようとする。

「うえっ」

 ところが、どうやってもタマの八本の足は麻子の頭の上に収まらない。あまつさえバランスを崩して麻子の頭の上から落下し、床に身体をぶつけて情けない声を上げた。

「タマ! どうしたの?」

 麻子は慌ててタマを抱き起こす。

「乗れない……」

「え?」

「麻子の頭の上に乗れないの。なんでだろう」

 麻子は唸って、少し距離を取って――麻子とタマは麻子の身長以上の距離を離れられない――タマの身体をよく観察してみる。

「タマ、もしかして大きくなった?」

 タマはこれまでも、足を窮屈そうに折り畳んで何とか麻子の頭の上に収まっていた。だが、タマの成長が止まったとは断言出来ない。さらに巨大化し、どうやっても麻子の頭の上には収まらない大きさになってしまったのではないか。

「とにかくもう一回挑戦してみる」

 そう言ってタマはまた麻子の頭の上へと登っていく。だが、何回やってもタマの巨躯は頭の上という狭いスペースには収まらない。その度にタマは床に落下して、麻子がそれをおろおろと助け起こすという繰り返しだった。

「一旦落ち着こう? ね?」

 麻子は両手でタマを抱えてベッドの上に腰かけた。この体勢の時はいつもタマは麻子の膝の上に来る。

 膝の上で憮然とするタマを愛おしげに撫で、麻子はそういえばと口を開く。

「タマはなんでいつも私の頭の上に乗るの?」

「だって、そこだと麻子と同じ景色が見えるでしょ?」

 麻子は頷く。

「それに、麻子の頭の上、すごく落ち着くから」

 なんだか照れ臭くなって、麻子は笑ってごまかした。

 ここまで言われては、麻子も黙っている訳にはいかない。何とかしてタマの定位置を守る努力をしなければ。

「とりあえず、住職に相談してみようか」

 麻子は普段着に着替え、タマを胸の前に抱いて玄関を出た。

 駐車場に置かれた自転車に跨り、タマは自転車の籠に入ってもらった。少し不満げに身体をよじったが、我慢はしてくれるようだった。

 麻子の家から目指す風雲寺は目と鼻の先だ。自転車を漕いで数分もしない内に緑色の金網で囲われた墓地が見えてくる。そこはもう風雲寺の管轄する墓地で、すぐに古びた山門まで辿り着く。

「こんにちはー」

 境内に入って声を上げると、すぐに本堂から作務衣姿の恐ろしく人相の悪い男が現れた。

「やあ麻子ちゃん。相変わらず――おや?」

 その凶悪な面相の男――風雲寺の住職は麻子の胸元に抱かれたタマを見て首を傾げる。

 普段、麻子が顔を見せると住職はまず「変な髪型」だと口にする。それは麻子の頭の上にタマが乗っていることで、遠目では見ようによっては異様なアフロヘアに見えるからだ。

 だが、今日の麻子はタマを抱いている。いつも通りのからかいが出来ず、住職は出鼻を挫かれた形になった。

「今日は何かな、漸く正式に弟子入りかい?」

 とは言ってもすぐにいつもの調子に戻る。

「弟子になった覚えはありませんよ。実はタマのことで――」

 住職はそこで待ったをかける。

「立ち話するには今日は暑すぎる。冷房の利いた本堂に入ろうじゃないか」

 麻子は素直にそれに従い、住職と一緒に本堂に上がり込む。

 住職は一旦奥に引っ込み、暫くすると盆に冷たい麦茶を乗せて戻ってきた。麻子はありがたくごくりと飲む。ほんの少しの距離を自転車で来ただけなのに、冷房の利いた室内に入ると思い出したかのように汗が噴き出してきた。

「それで、タマがどうしたのかね」

 住職はもうコップに入った麦茶を飲み干し、ポットからなみなみと注ぎ足した。

「あのね、麻子の頭の上に乗れなくなったの」

 正座した麻子の膝の上に乗ったタマが答える。

「多分、タマがまた大きくなったからだと思うんですけど……」

 麻子が言うと、住職は低い声で笑った。

「中学の終わり頃からはもうぎりぎりといった感じだったからね。よく持ったものだよ」

「馬鹿げた話だとは思いますけど、タマにとっては笑いごとじゃないんです」

 タマは奮然と息を吐いた。

「これは失敬。しかし麻子ちゃん、君はタマが何故大きくなっていくのか、理由を知っている――いや、教えられたんじゃないのかい」

「それは――はい」

 タマは――麻子の影だ。

 麻子の魂を核として生み出されたタマは、麻子の溜め込んだ邪念を糧に肥大化していく。

 麻子は決して聖人君子ではない。怒りもすれば妬みもするし、悲しみだろうが憎しみだろうが、負の感情は一通りきちんと持っている。

 身体の中に溜まっていくそれらはタマへと流れ出し、タマはそれを受けてどんどん大きくなっていく。

 だが、仮令タマがどんなものであろうと、麻子のタマに対する愛情は変わらない。それが一目で化け物とわかる外見だろうと、麻子はずっとタマと友達だと思っている。思っているし、思ってきた。

 だからこそ、タマが落ち着くことの出来る場所を取り戻してやりたい。

「もし私の魂を清めることが必要なら、修行でも何でもします。滝行とか、山登りとか」

「うちは曹洞宗だから修験道はお門違いだよ。うちでやるなら坐禅くらいだけど、やってみるかい?」

「それでタマを小さく出来ますか?」

「さあ、それはわからない。曹洞宗では坐禅は手段ではなく目的なんだよ。ひたすら坐禅に打ち込むことが大事っていうのが本分なんだ。まあ僕みたいな家業を継いだだけの生臭坊主が教義を語るのも批判するのも褒められたことではないだろうね。とにかく六根清浄だとかそういったものとは縁がない。多分麻子ちゃんが求めているものとは違うと思うよ」

「そうですか……」

 麻子が肩を落とすと、住職は笑って、

「まあ、そういう方面に伝手がない訳じゃないがね」

 真面目な顔になり、その強面が一層強さを増す。

「やる気はあるね?」

「はい」

「ちょっとした小旅行になるが、まあちょうど夏休みだから問題はあるまい。ご家族に上手く言い訳をするんだよ」

 そう言って住職は、どこかへと電話をした。




「気を抜くと死にますんで」

 山伏装束の男は縁起でもないことを言って一人で笑った。年はまだ若い。三十の手前辺りに見える。

 住職に相談を持ちかけた翌日、麻子は泗泉駅から始発に乗った。

 行き先と地図は前日に住職にもらっていたが、その行き先を見て麻子は心が折れそうになった。

 泗泉駅から急行で青川駅まで行き、そこから特急に乗り換え。そのまま延々四時間近く電車に揺られ、終点まで。この場合の終点とはターミナル駅への到着ではなく、即ち線路が届く限界の意味である。

 D県の北部は陸の孤島だ。山は深く当然交通の便も悪い。台風や大雨の際には深刻なレベルで孤立することもある。

 麻子の住む青川市はD県の南部に位置し、隣の割合大きな地方都市のあるB県に近いので田舎と呼ぶには発展しすぎている。

 ところが同じD県内でも北部となると完全に田舎という様相を呈している。

 麻子は終点の賢ヶ岳かしこがたけ駅で降り、目当ての人物をすぐに見つけた。山伏装束をしているので目立つが、人自体が少ないので気にする人はいない。

「川島さん? 聞いてます?」

「あ、はい。気を抜くと死ぬん――ですよね?」

 麻子は男の運転する車に乗っていた。通る道は完全に山の中で、駅で降りた時からずっと同じような風景が続いている。

 男は東郷とうごうと名乗った。住職とは古い知り合いのようで、無理を言って今回の修行に付き合ってくれることになったという。

「はい死にます。今回の山岳修験体験コース――体験コースですから比較的安全ですが、あくまで比較的ですので当然危険な場所も多いです。きちんと私の言う通りに動いてくださいね。さ、着きましたよ」

 車で十分程だろうか。乗り物に嫌気が差してきたところだったので、早く着いて助かったという思いだった。

 小さな駐車場が設けられている前に辛うじて道だとわかる登山道が延びている。車から降り、大きく息を吸う。瑞々しい空気が気持ちいい。

「ここ賢ヶ岳は古来より修験者の修行の場とされてきました。女人禁制という訳ではないので川島さんも入山いただけます。服装はこちらに着替えてください」

 住職から山歩きの格好をするようにと言われていたので、長袖長ズボン。靴もきちんとした運動靴を履いてきた。それでもこの格好で山を登るのは流石に駄目なようだ。

 東郷は車の中から白い服を取り出した。略袈裟(りゃくけさ)というらしい。車の中で着替えてみると、思った以上に動きやすい。

「はいオッケーですね。何度も言いますが山は当然危険がいっぱいですので気を抜くと死にます。それで、その手はどうしたんです? 立ってる時はずっとそうですけど」

 麻子はタマを胸元で抱いていた。東郷からすれば何もないところに手を出しているようにしか見えないのだ。

「あ、気にしないでください」

「しかし山に入ってからもその格好は駄目ですよ」

「う――わかりました。ちょっと待っててください」

 麻子は車の後ろに周り、タマに小声で事情を話す。

「だから厭かもしれないけどリュックの上に乗ってくれない?」

「うん、わかった」

 タマがリュックの上に落ち着いたのを確認し、麻子は東郷の前に戻る。

「では入山しますね。ここは大きな山ではありませんし、あまりメジャーでもないですから人も少ないです。でも無人という訳ではないですから、人とすれ違った時は『ようお参り』という挨拶が習慣です。まずは山頂を目指して登ります。登山の経験はありますか?」

 麻子は首を横に振る。

「そうですか。では絶対に私から離れないでくださいね。はぐれて遭難なんてことになったらそれこそ死にますんで。勿論危険なのはそこだけではないですけど」

 東郷はそう言って登山道に向き合い、悠然と一歩を踏み出した。

 麻子はその後に必死についていった。登山道は殆ど整備されておらず、獣道と呼んだ方がしっくりくる。傾斜もどんどん増してきて、這いつくばるような形で何とか登っていく。

「さあ、ここを登りますよ」

 東郷は岩が剥き出しになった崖の前で足を止めた。

「これって、崖じゃないですか!」

「修行の場ですからね。ただの登山とは訳が違います」

 見れば一応上から鎖が垂れている。

「指示を出しますから大丈夫ですよ。言われた通りに手足を動かしてくださいね」

 まず右手を出して、出っ張った岩を掴む。そこから窪んだところに足を入れて、左手で鎖を掴み――

「はい、そこで左足を少し上の岩にかけて。そのまま右足を思い切り上げて腕の力で身体を持ち上げて」

 東郷の指示は的確だった。この指示がなければとても登れたものではない。

「ふわーっ!」

 何とか上まで登り切り、麻子は情けない声を上げた。東郷は麻子のすぐ後ろを指示を出しながら悠々と登ってきており、麻子が登り切るとすぐに自分も登り終えた。

「すぐ近くに湧き水があります。そこで少し休憩しましょう」

 と言いながら東郷は息一つ切らしていない。

 寺社の手水舎を二回り程小さくしたようなものがあって、そこから水が湧いている。水道の類は見当たらないので、東郷の言う通り湧き水なのだろう。

 柄杓で水を掬って飲む。夏場の水道水よりはるかに冷えている。生き返る思いだった。

「雨が降ってきたらすぐ中止にしますんで」

 また道なき道を登った先に、岩肌が露出した岩壁が横に延びていた。

「ちょっとでも滑ると落ちます。一応命綱は着けてもらいますけど、一人だと助けるのも命がけなんで落ちないようにしてください」

 麻子は目が回り出していた。ここを渡るというのが今回の修行のメインなのだ。

「指示は出しますんで」

 と言って東郷は後ろから麻子を急かす。もう数百メートルは登っているし、ここは山肌から突き出したような形になっているから、落ちればまず助からない。

 震える手で岩壁を掴む。思った以上に滑りやすい。

「はい左足をそこに置いて」

「どこですか!」

「そこです」

 などという危なっかしいやり取りを数回挟んだが、東郷の指示はやはり頼りになった。それでも足元を見てしまった時はその場で卒倒しそうになったが。

「どぅわーっ!」

 岩壁をどうにかこうにか渡り切ると、麻子は久方ぶりのきちんとした地面にへたり込んだ。半分腰が抜けたような状態だ。それでよく渡り切れたものだと自分でも驚いていた。

 また山を登り、いよいよ山頂が見えてくるかという頃になって、東郷が笑いながら口を開いた。

「じゃあ最後に、一度死んでもらいます」




 真っ暗だった。

 ここに光は届かない。音すらもなくなっていた。

 いや、何かが歩く、かすかな足音。息がつらいのか、荒く吐き出される呼吸音。それが本来音のない世界に割って入っている。

 音の主、麻子は手で触れることの出来る壁の感触だけを頼りに、この闇の中を歩いていた。

 擬死再生ぎしさいせい。東郷はそう言った。

 山に出来た洞窟の中を、ひたすらに歩く。

「山とは女体です。この洞窟は謂わば子宮。胎内潜りと呼ばれる行ですよ」

 その子宮の中に入ることで、麻子は一度生まれる前に戻る――即ち死に、出てくることで新しく生まれ出る。

 ――寂しい。

 ――悲しい。

 走馬灯のように、麻子の記憶が駆け巡る。

 タマと出会った時。それよりも前、誰にも理解されず、ただ悩み苦しんだ頃。

 一年前。大切な人達を失ったあの事件。

 時代も順序もばらばらに、記憶の奔流が麻子を混乱させた。

 そう、いつだって麻子の心には負の感情が巣食っていた。

 麻子が死んでいく。それでも麻子の邪念はこの世に残る。あの男が教えてくれたことだ。

 麻子の感情が流れていく。それは魂で繋がった己の影へと。

「うっ、うぅ――」

「ごめんねタマ。少し我慢して」

 今やタマは、麻子の全身の数倍もの大きさに膨れ上がっていた。麻子に寄りかかるタマの重さに潰されそうになりながら、麻子は胎内を巡っていく。

 ――ああ、死ぬんだな。

 それでも麻子の足は止まらない。出口を求め、幽鬼の如く歩いていく。

 光が見えた。麻子は鉛のように重い身体を引きずるようにそこへ向かう。

 ――生まれるのかな。

 タマに預けた思いが、一気に麻子へと逆流する。

「ごめんね。タマにばかり背負わせて。私も、背負うから」

 溢れ出した感情を全て呑み込む。そんな所業を行って、どうなるのかはわからない。それでもきっと大丈夫なはずだ。麻子は一度死んで、そして――

 外に出ると眩しさに思わず目を覆った。

 擬死再生、ここになる。

 生まれ落ちた赤ん坊が産声を上げるように、麻子は泣いた。




「無茶なことをしたものだなあ」

 住職は麦茶を一口で飲み干し、その凶悪な顔をさらに凶悪なものへと見せる真剣な表情をして見せた。

「捨てるのではなく取り込むとは。一歩間違えれば精神が崩壊してもおかしくない」

「あはは……そんな危険なことをやったつもりはなかったんですけど。山を登る方がよっぽど危険って感じでしたよ」

 胎内潜りを終えた麻子は東郷と共に登ったのとは反対側の安全な登山道を使って下山した。そしてまた電車に長々と揺られ、家に帰ったのは終電でだった。

「それで麻子ちゃん、身体の方は大丈夫なんだろうね?」

「全身筋肉痛です」

 そう言って笑うが、住職の方は笑っていない。

「そういうことじゃないんだ。普通の人間の場合、溜め込んだ負の感情は何らかの形で吐き出すか忘れることが出来る。ところが麻子ちゃんの場合はそれがタマの中へと溜まっていく。それを今度は自分の中に取り込んだんだ。行き場のない負の感情がずっと身体の中を巡ることになる。それで正常な精神を保っていることがまず驚くべきことなんだよ」

「いやあ、そんなに褒めないでくださいよ」

「冗談を言っている訳じゃない」

 麻子は苦笑して、ふっと全身から力を抜く。

 住職は、全身が粟立ったようにぶるりと震えた。

「麻子ちゃん、君は――」

 大丈夫ですと麻子は笑顔で言った。

「元は私の感情ですから。折り合いはつけられるはずでしょう? それに、私にはタマがいます」

 住職は冷や汗を拭った。麦茶をまた飲み干して、笑っている麻子をじっと見つめる。

 笑みを浮かべた今の麻子からは邪気は感じられない。

「住職?」

「僕はね、一度道を間違えた。麻子ちゃんにはそうなってほしくないんだ。弟子を導くのは師匠の務めなんだが――」

「だから弟子になった覚えはないですって」

 麻子がいつも通りの返答をするのを見て、住職は漸く笑った。それで、多分麻子は大丈夫だと納得出来た。

「それで、なんでタマはそんなに窮屈そうなんだい?」

 住職に言われ、麻子は苦笑する。

「このくらいの方が落ち着くそうなんです」

 擬死再生を終えた後、タマはアシダカグモサイズまで小さくなった。しかし暫くすると自在に自分の身体の大きさを変えられるようになっていた。

 今のタマは最近の、足を折り畳んでぎりぎり収まるサイズで麻子の頭の上に乗っているのだった。

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