第11話 四つの門


 町がおかしいんですと阿瀬翔は言った。

 現在学校は夏休みで、川島麻子は帰宅部――そうでなくとも三年生は部活を引退した時期――なので学校に行くのは時々自習室を使うくらいだった。一年生ながら同じく帰宅部である阿瀬とは、なので顔を合わせる機会は殆ど生まれないと言ってよかった。

 それが今日、阿瀬が三年生の教室及び自習室のある棟にわざわざ出向き、麻子を見つけて相談があると声をかけてきたのだった。

「うーん、それは自治体に話した方がいいんじゃないかな?」

 麻子は思わず突っ撥ねるような言い方をしてしまう。

 阿瀬は十中八九、麻子の異常さに気付いている。

 麻子には普通の人間には見えない、魑魅魍魎の類を見ることが出来る力があった。阿瀬に面と向かって話したことはないが、一度その現場に一緒にいたこともあるし、麻子の力を知っている友人は阿瀬とも親しいので、話を聞いているかもしれない。

「川島先輩って泗泉ですよね。なら北雲の話は耳に入ってませんか?」

 北雲町は麻子の住む泗泉町の隣で、阿瀬はそこに住んでいる。なので阿瀬がおかしいと言っているのは北雲のことなのだろうと察しはついた。

 だが、麻子はそうした話は聞いていない。

 麻子がそう言うと、阿瀬は難しい顔をして唸った。

「まあ、確かに何か大事件が起こったとかいう訳じゃないんですよ。なんて言うか……人心が荒廃してる――みたいな」

「難しい言い回しだね……」

「すみません、なんかこれくらいしか言い表す言葉がなくて」

「でも、なんで私に相談しようと思ったの?」

 阿瀬は気まずそうに目を逸らしてから、再び麻子と目を合わせた。

「川島先輩は、なんていうか、その、ちょっと特殊ですよね」

 言いたいことはわかった。ただ、阿瀬は直接的な言い方は失礼と思っているのか、曖昧な口振りで訊いているのだ。

 この辺りの距離感は大切だと麻子は思う。正確に麻子の力について話すのではなく、適当にぼかして話す。それが阿瀬との間では必要だった。

「まあ、そうかな」

 なので麻子は否定はせずに阿瀬の話を促す。

「なんて言うか、町がおかしいんです」

 最初に戻ってしまった。阿瀬はなかなか言葉が見つからないらしく、申し訳なさそうに頭を掻いている。

「言い表すのは難しいんですけど、まず喧嘩が多いんです。北雲ってヤンキーとかは少ないんですけど、いい大人同士がどうでもいいような理由で殴り合ったり、一方的に因縁つけて殴ったり。それに、ちょっと変な言い方かもしれないですけど……空気が歪んでるような感じがするんです」

「空気が――歪む? 淀むじゃなくて?」

 慣用句は成り行きで得意になった麻子は、阿瀬の表現に首を傾げる。

「はい、どうも淀むっていうのとは違う気がするんですよね」

 とりあえず北雲に来てくれませんか――阿瀬はそう言って、顔の前で両手を合わせた。




 青川南高校は泗泉町に建っているので、自転車を使えば北雲町まではあっという間だ。

 ただし、麻子はどうも気が進まず、重い足の動きで自転車を漕いだ。

 そういえばここ二箇月程北雲町には足を踏み入れていない。すぐ近所で大きな公園があり、夏休みの始まる頃には祭りが行われていたのにである。小さな頃はそこの出店目当てに毎年行ったが、最近ではめっきり出かけなくなった。

 北雲町に近付いてくると、どんどん足が重くなるような感じがしてきた。ひょっとして自分はずっと無意識にこの町を避けていたのではないかと麻子は思うに至った。

「川島先輩?」

 阿瀬の声で麻子は我に返った。気付くと自転車を完全に止め、両足を地面に下ろしているという状態だった。

 阿瀬はゆっくりとした麻子のペースに合わせて後ろをついてきていたが、立ち止まったことを流石に怪訝に思ったのか、自分も自転車を止めて声をかける。

「大丈夫ですか? 涼しいところに行きます?」

「ああ――うん、大丈夫。っていうか――」

 ここはもう北雲町の中だ。

 麻子は思わず天を仰いだ。梅雨明けしたての空にはいくつかの白い雲が浮かび、太陽は凶悪な日差しを投げかけている。

 だが、麻子の目にはそれらが捻じ曲がって見えた。くしゃくしゃに握り潰したか、乱暴に引き伸ばしたかのように、いびつな形に曲がっている。

「うーん、なるほど、歪んでるなあ」

 ずっと見上げていると目が回りそうだったので、麻子は足元に視線を落とす。

「わかりますか」

「まあ、ね。翔君の言いたいことはよくわかるよ」

 この町は歪んでいる。

 そこでポケットに入れてあった麻子の形態電話が鳴った。取り出して画面を見ると、同じクラスの桐谷匠からだった。

「もしもしどうしたの? 電話なんて珍しい」

「あー、なんつうか一大事ってやつ――なのかね」

 麻子が首を傾げると電話越しでも伝わったのか、桐谷は悪いと謝る。

「今日さ、西日の祭なんだよ。でも雲行きが怪しいっつうか、おかしいんだよ。今どこだ?」

「北雲だけど」

 麻子が言うと、桐谷は驚いたような声を上げる。

「そう、北雲なんだよ」

 もう一度悪いと謝って、桐谷は話を整理する。

「四門の祭は四つの町でワンセットの山車を使うんだ」

 四門とは北雲町、西日町、南永町、東色町の四つの町で構成される地区の名前だ。学校の名前も四門小学校、四門中学校となっている。

「まず最初、七月の第三土日が北雲。で、次は七月第四土日――つまり今日からが西日。で、今日になっても北雲の実行委員会から山車がこっちに回ってきてないんだ」

「ええっ?」

「文句を言いに行くと、難癖つけられて喧嘩が始まるんだと。どっちもいい大人だってのに」

「ちょっと待って。今隣に翔君がいるから」

「翔が? なんで?」

「北雲がおかしいから来てくれって言われて。それで実際、その通りだった」

「おかしいっていうのか? 電話じゃあれだ。今からそっち行くから、北雲公園で」

「オッケー。わかった」

 電話を切り、もう一度空を見上げる。上空は風が強いのか、雲が目に見える速さで流れていく。その雲もまた、歪んでいたのだけれど。




 北雲公園に着くと、麻子と阿瀬はグラウンドの端に置かれたベンチに並んで腰かけた。

 桐谷が来るまでの間に、麻子は聞いた話をそのまま阿瀬に伝えた。それを聞くと阿瀬はそういえばと公園を見渡した。

「なんかおかしいなって思い始めたのは、北雲の祭の後からだった気がします」

 それから――と阿瀬が続けようとすると、そこに自転車に乗ったジャージ姿の桐谷が現れた。

「そこの倉庫だよ」

 桐谷は北雲公園に面する形で建っている神社の隣の、シャッターが降りた倉庫を指差した。

「山車がしまってあるとこですよね」

 阿瀬が言うと、桐谷はなんだいたのかとからかう。

「しまいにゃ西日の連中が襲撃に来んぜ。何の理由で渋ってんのかね」

「桐谷センパイ、小学校の時の地域研究覚えてます?」

「地域研究? 総合授業のあれか。かったるくて適当に周りの奴らにやってもらった記憶しかねえな」

「不良ですね」

「不真面目と言え」

「地域研究ってことは、ひょっとして祭のことを調べたの?」

 麻子が口を挟むと、阿瀬はこくんと頷いた。

「それくらいしか歴史のあるものはないですからね。で、この祭には言い伝えみたいなものがあるんです」

「あ、思い出した。『祭囃子は一度も絶やしてはならない』だろ?」

 阿瀬はがっくりと肩を落とす。

「なんで一番いいとこ取ってくんですか……」

 とにかく――と阿瀬は奮然とする。

「祭の始めから終わりまで、祭囃子は絶やしてはならないという決まりがある訳です。だけど――」

「あ、思い出した。先週の祭で一回、祭囃子が止まったんだったな」

 阿瀬は再び肩を落とす。

「だから俺の台詞取らないでくださいよ……」

「もしかして、それが今の状態の原因なんじゃないかってこと?」

 麻子が訊くと、阿瀬は肩を落としたまま頷いた。

「喧嘩です。青年団は血の気が多いですし、酒も入ってますから。その次の日から、なんかおかしいと思うようになったんです」

「でもよ、おかしくねえか?」

 桐谷が言うと、阿瀬はむっと顰め面をする。

「言い伝えを守るのは大事ってことにしとこう。だけど祭をやんのは血の気が多くて酒も入った青年団だぜ? 今まで一回も祭囃子が止まったことがないなんて思えねえけどな」

 それは――確かにそうだ。

 祭囃子の言い伝えと、今北雲を覆う不穏な空気が果たして関係あるのか。

「おいおい、厭な予感は中るもんだな」

 桐谷の声で麻子ははっと顔を上げる。

 神社の隣の倉庫に、揃いの法被を着た男達が集まっている。そこから伝わってくる空気は、どう考えてもただ事ではないとわかる。

「あれ、青年団ですよね?」

「西日の、な」

「それってつまり――」

「爺さん達の話し合いじゃあ解決しないとぶち切れたんだな。無理矢理にでも、山車を持ってく気だなありゃ」

「と、止めないと!」

 麻子が立ち上がろうとするのを、桐谷と阿瀬は揃って止めた。

「馬鹿か。部外者が一人行って何になるんだよ」

「で、でも」

「危ないですって。北雲の奴らが聞きつけてきたら下手すりゃ乱闘ですよ」

「ら、乱闘って――」

「まあシャッターには鍵がかかってるけどあの人数ならすぐにこじ開けられる。それで奪っていけるなら別にいいじゃねえか。祭を日取り通りに進めるのは大事だぜ」

 お、ぶっ壊しやがった――と桐谷は完全に他人事の体で見物している。

 見ると、シャッターが大きく陥没していた。複数の男達がシャッターの下を掴み、力任せに引き上げる。

 麻子も小さな頃には北雲の祭に何度も来ている。それはもっぱら夜店目当てだったのだが、町内を練り歩く山車も確かに何度かは目にしている。

 だからシャッターの内側には、麻子の記憶通りの山車があると思っていた。

 ところが、そんなものはどこにもなかった。

 倉庫の中には、山車の影も形もなかったのである。




 危うく暴動が起こるところだった――らしい。

 山車の引き渡しを行わない理由が山車が所在不明になったからとなれば、それはもう怒り心頭に発するというものだろう。

 事実、その実情を突き止めた形になった西日町の青年団は荒れた。麻子もそれは間近で見ている。怒声が飛び交い、今にも殴り合いが始まるのではないかと肝が冷えた。

 ところが、話は別の場所で動いていた。

 西日の青年団が北雲の倉庫を襲撃にきた時点で既に、北雲町の祭の実行委員会は西日だけではなく南永と東色の実行委員会を集め、事態の説明を行っていた。

 つまり、山車が所在不明になったということをきちんと説明したのである。

 説明というよりは開き直りのようなものだ――とその場にいた者は思ったという。今までそのことを黙っていたのは、恐らくは露見して問題化するのを避けたかったからだと思われる。

 そして結局西日町の祭の当日になり、隠し通すのは限界だと見て、開き直った。

 こうなってはもう争う気も起きない。粛々と山車の行方を捜すということに決まり、そこから北雲の倉庫に向かった役員によって青年団も抑え込まれた。

 若者達は口々に止めに入った大人に文句を言った。青年団は怒り狂っている。熱し切った怒りはどこかで爆発させなければ収まりがつかないという勢いだった。

 しかし、無駄だった。暖簾に腕押し、糠に釘である。役員は疲れていた。脱力していた。くたびれていた。若い怒りをいくらぶつけたところで、こうなった大人には無意味である。結果的にその冷めた空気が伝染していき、全員が釈然としないまま何事もなく解散になった。

 その一部始終を公園から眺めていた麻子は、ひとまず安堵した。だが、その二日後、阿瀬からメールが入ってきた時は頭を抱えた。

 西日町も、何かがおかしくなっている――という内容だった。西日に住んでいる桐谷は何も言わないのに、隣町の阿瀬が助けを求めてくるというのも妙な話だが、こういう時に桐谷の感覚はあてに出来ないと麻子は知っていた。

 西日町に出向くと北雲町と同じように――阿瀬の言葉を借りるならば空気が歪んでいた。

 目が回りそうになって、少しよろけた。今日は阿瀬が一緒ではない。

「どう思う? タマ」

 周りに誰もいないことを確認してから、小さな声で訊ねる。

 麻子の頭の上には、異様な大きさの蜘蛛が乗っていた。タマというこの妖鬼は麻子よりも感覚が鋭い。

「うーん、気持ち悪ーい」

 麻子が眩暈を起こしそうになる程の歪みだ。タマにとっては一層不快に感じるのだろう。

「こんにちは」

 後ろからそう声がして、麻子は思わず飛び上がりそうになる。

 四十代くらいの、枯れ木のように生気のない男だった。細いフレームの眼鏡をかけ、暑いだろうに茶色のニット帽を目深に被っている。薄笑いを浮かべたその表情から敵意は感じられないが、同時に親しみは一切感じられない。

「この町の人ですか?」

 男は例の薄笑いのまま麻子に訊ねる。

「いえ、私は泗泉の――」

「ああ、泗泉町ですか。あそこは水際ですね」

 おっと失礼と男はニット帽で覆われた頭をぽんと叩く。

「僕は郷土史家のようなもので、今この地区の祭を追っているんです」

「祭ですか……。でも」

「そう。西日町の祭は山車が所在不明でやむなく中止になってしまった。僕はですね、そもそもの原因は先週の北雲の祭にあると思うんですよ。この地区の祭にとある言い伝えがあることはご存知ですか?」

「祭囃子を止めてはならない――ですか?」

「そうですそうです。先週の北雲で、その禁を破ってしまった。それで神様が怒ってしまったんじゃないかと」

「それで山車がなくなったりするんですか?」

 おや、と男は驚いたように眉を上げる。

「あなたのような人はすんなりと受け入れるとばかり思っていましたよ。意外と醒めているんですね」

「どういう意味ですか」

「なに、同類が同類を見破るばかりではないということです。見えずとも、見鬼の挙動は独特ですからね。案外簡単にわかります」

 見えるんでしょう――男は薄笑いのまま、あっさりと言った。

「いや、答えていただかなくても結構ですよ。ちなみに僕は見えません。しかし、この町の異変を感じ取れない程鈍感でもない。この地区の祭は実に面白くて、まず一揃いの山車を一週間ごとに使い回します。しかも祭神となるのは、神社と寺が半分ずつ。神仏習合は明治より前はごく当たり前のことでしたが、無理矢理分離させられることになってややこしい事態に陥ってしまいました。この地区ではまだ江戸以前のごった煮が残っているという訳です。ところが、これを快く思わない人達もいるんですよね。寺院の敷地に入ることさえ厭う――そんな人達にとってはこの状態は気持ちのいいものではない」

 男はもう一度頭を叩いて、これは失敬と謝った。

「ついつい無駄話をしてしまいました。そうですね、神罰だとか仏罰というものは起こり得るものだとは思いませんか?」

「私には、よくわかりません」

 男は軽い笑い声を上げた。

「正直な人ですね。ですが、『見える』あなたは忘れてはいけない。この世の想念の根本は、殆どがごくごく普通の人間から流れ出したものだということです。他愛もない言い伝えだって、年月を経れば実になるでしょう」

 何を言っているのか、麻子にはまるでわからない。男もそれを承知で話しているように思えた。

「いいですか、今この地区は祭の禁を破り、平衡が崩れ始めています。さらには祭具さえもなくなり、祭というバランサーを行使することも出来ない。一年に一度行われる祭というものは平衡を保つ上で非常に重要なものです。現に祭が失敗に終わった北雲と西日では、異変が起きている。このまま南永と東色の祭も行われないまま終われば、四門地区はどうなるか……」

 男はそこで、すっと指を遠くへ向けた。

 白い生地の中央に、赤に近いオレンジ色の三角形が入った旗が風にはためいている。

「火清会――」

 大きな国道沿いに、文化会館が建っている。それは火清会の所有するこの町には似つかわしくない立派な建物だった。

 火清会は戦後に生まれた神道系の新興宗教である。ここ青川市を拠点に、全国規模の信者を持つ巨大な組織だ。学生の間では宗教団体というよりは自習スペースを提供してくれている塾のようなものと言った方が通りがいい。だが、麻子は一年前の出来事でこの組織の深い闇を垣間見た。

「信仰による崩壊を止められるのは、新たな信仰だとは思いませんか」

「あなたは――火清会の……?」

「半分正解といったところですかね。僕は今、高山たかやま先生に雇われている身です。生憎僕にはカリスマ性というものがわからないので、高山先生も脂ぎった親爺くらいにしか思えないんですがね」

「私は火清会を認めません。絶対に」

 強く言うと、男はそれを嘲るように軽く笑った。

 火清会の信仰は、それ以外を決して認めない。それが広まった青川市の中心部は、妖怪からすれば地獄だという。火の海だとも言った。日本人が本来持つ――自覚すらない信仰を、徹底的に排除すれば、アソビの入る余地はない。

「泗泉町から南は、青川市内では極端に火清会の会員が少ないんです。まるで四泉川が広がる炎を食い止めているかのように。ですが会員は確実にこの地区にもいます。集まれば、巨大な力になるくらいにはね」

 火清会は神道系ということもあり、特に仏教施設を拒絶する。男の話によれば、四門の祭は半分が寺院によるものだという。それを――さらに言えば古くから続くこの祭自体を――排除しようと考える者は一定数はいるということになる。

「火清会が関わっていると、受け取っていいんですね?」

「あと二週間です」

 男はピースサインをして見せた。「二」を表しているのだとはわかるが、どうしてもふざけているように見える。

「信仰を強制させるのに、心が弱っている時に付け入るというのは常套手段です。このままこの地区の人心が荒廃し切れば、火清会が取り入るのは容易いでしょう。面白くなってきましたね、川島麻子さん」

 麻子は突然名前を呼ばれてぎょっとする。

「あなたと桐谷匠君のことは、火清会はきちんと記憶しているようですよ。去年少し本部で暴れたそうですからね」

「阿瀬君は――」

 男はそれには答えず、含み笑いをするだけだった。

「四門地区の町は東西南北の名が付くからといって、綺麗に分割されている訳ではありません。ただ、この地区の謂わば重心には、それぞれに対応した四つの門があります。そこはある種の霊場と呼べるかもしれません」

 男は温和に見えるが寒気のする笑みを浮かべる。

「郷土史家を名乗る以上、このくらいは話しても問題ないでしょう。あまり往来で女子高生とおっさんが立ち話をするのも感心しませんし、僕はこれでおいとまします」

「お礼は言いませんよ」

「結構結構」

 男はそのまま去っていった。

「四つの門――」




「そりゃ小学校だろ」

 気怠そうに頬杖をついているが、桐谷は麻子の話をきちんと聞いていた。

「小学校って、四門小学校?」

 麻子と桐谷はたまたま自習室で顔を合わせた。麻子は家に帰ったらメールか電話で相談しようと思っていたので、これ幸いと桐谷に先程の男との会話を伝えた。

 勿論、自習室での私語は禁止なので空いている教室に移動してからだ。

 麻子は男と火清会の繋がりを話した後で、去り際に残していった言葉の意味がわからないと訊ねた。泗泉町の麻子にはわからないことでも、四門地区の桐谷ならばわかるかもしれない。

 結果、桐谷は即答した。

「それ以外にどこがあるんだよ。確かに四門小学校には敷地内に入るための門が四つある。それぞれが四つの町に対応していて、基本的にみんな自分の町の門を通って学校に入る」

 で、と桐谷は頬杖を止めて両手を頭の後ろに回す。

「それが一体何だってんだ?」

「それは――わからない、けど」

 多分、ヒントなのだ。

 男は火清会会長の名を口にした。その男――高山孝明(たかあき)に雇われていると。それはつまり、男が根っからの火清会信者ではないということだ。

 決して味方という訳ではない。だが、真っ向から対立しようとは思っていないようにも見えた。

 むしろどこか楽しんでいるようにさえ、麻子には思えた。

 あのピースサインを思い出す。あれはまるで二週間という制限時間を提示している――。

「じゃあ、山車を隠したのは火清会で決まりか?」

 桐谷はそう言って、眉間に皺を寄せる。桐谷にとっても、火清会は許せない相手だ。

「確証はないけど、あの言い方からすると多分そうだと思う。でも、隠したとは限らないんじゃ――」

 跡形も残らないように破壊した可能性もある。それこそ、火清会の根本教義である炎による「お焚き上げ」で、灰にしてしまったかもしれないではないか。

「いや、山車は全部で四台あるんだけど、一台でウン千万するって話だ。もし露見した場合に弁償なんてことになったらそれこそ億超えるぞ。だから多分、祭の時期が終わるまで隠しといて時期が来れば元の場所に戻すっていうのが連中の考えだ」

 桐谷の言葉に納得する一方、麻子は別のアプローチでその説に得心がいった。あの男を今回の騒動のブレインと考えれば、その言葉から山車を破壊する必要性がないことがわかる。狙いは、禁を破ることを引き金に祭を中止させることによって、四門地区の精神的基盤を揺るがすことにあるのだ。そこに付け入って火清会という信仰を一気に広める。だから山車を壊すという危ない橋を渡らずとも、隠しておくだけでこの企みは成功する。

 麻子は頷いて、しかしどうしたものかと頭を悩ませた。

「隠すとするなら、近場だろうな。山車はデカいし重いから重機でも持ってこなきゃ運ぶのは難しい。多分、祭と同じで手で引いて運んだんだろうな。人数はいるらしいし」

「となると、西日の文化会館?」

「だろうな。四門にはあそこくらいしか火清会の施設はない。あの敷地の広さだから、倉庫くらいあるだろうしな」

 しかし、もしその通りだったとしても手の打ちようがない。二人で敷地内に忍び込むというのがまず危ないし、忍び込んで山車を見つけたとしても運び出すのは不可能である。仮令山車を発見してそのことを実行委員会に報告したとしても、まともに取り合ってくれるとは思えない。

 男の言った通り、この辺りでは火清会はまだ勢力を充分に広げてはいない。それでもまともな大人ならば火清会に楯突くような真似は絶対にしないものなのだ。麻子は一年前に火清会と関わった時に、警察官で大の宗教嫌いの父から重々警告を受けていた。宗教に格別の敵愾心を持つ父ですら、火清会に逆らうようなことは絶対にしないと言い切った。それ程までに、火清会は巨大で強大で、圧倒的だ。

 結局結論が出ないまま桐谷と別れ、そのまま家に帰った。

 二階の部屋に入って大きく溜め息を吐く。ベッドに腰かけて、タマが頭から膝の上に乗ったの確かめてから枕に頭を投げ出す。

 やはり、麻子では歯が立たないのか。

 一年前も、麻子は何も出来なかった。火清会の本部で小さな騒ぎを起こしただけだ。

 窓を何かが叩く音がした。

 麻子は頭を上げて、窓ガラスの向こうの影を見止める。

 後ろ足で立った猫が前足で窓をノックしていた。尾は二本に分かれている。

「お久しぶりですねえ」

 麻子もこの猫又は知っている。一年前のあの事件の時に、麻子に厄介事を持ち込んできたのだ。その代わり麻子も厄介事を引き受けてくれるように頼んだのだが。

「とりあえず中に入れてくれませんか。今回も変なことはしないと約束いたしますよう」

 タマが起きていることを確かめてから、麻子は窓を開けた。猫又はしなやかな動きで部屋の中に入ると、ベッドの前に座り込んだ。

「その節は、ありがとう」

 麻子が言うと、猫又はいえいえと手を振った。

「お礼を言うのはあたしどもですよ。それに、あんな結果になってしまいましたしねえ」

 麻子が沈んだ表情になったのを見て、猫又は困ったように頭を後ろ足で掻いた。

「まあ、今回こうしてお邪魔したのも、ご相談があってのことなんですが。聞いていただけます?」

「うん、あんまり無理な話なら無理だけど」

 猫又は笑って、すぐに真顔に戻る。

「前にもお話した通り、あたしは北雲の近辺を住処にしています。ですがねえ、その北雲の様子がどうもおかしいんですよう」

 空気が歪んでるとでも申しましょうかと猫又はどこかで聞いたようなことを言う。

「多分原因はお祭の時のあれだと思うんですがね、それが今度は西日もおかしくなったって話ですよ。どうやらちゃんとお祭をしなかったせいじゃないかというんですが、なんでも山車がなくなってるそうじゃありませんか」

「あ、うん、その話なら知ってる」

「そうですか。このまま四門全部がおかしくなったら、あたしどもはよそに引っ越さなけりゃなりません。それか小学校に籠城ですかねえ」

「四門小学校?」

「ええ、あそこはよく出来た霊場ですよ。四つの町の気が流れ込んできて、それを他の町の気と混ぜることで浄化して循環してるんです。あそこなら、当分は安心でしょうねえ」

 猫又の言葉をよく考える。あの男は何故ヒントとして四門小学校を出したのか、それと合わせて。

「そうだ!」

 麻子はそこで猫又の前足を二つとも掴む。

「ねえ、妖怪を集められない? 出来るだけたくさん」

「へ? な、なんでいきなり」

「あなたの相談って、北雲や西日の異常をどうにかしてほしいって話でしょ?」

「そ、そうですけど……」

「なら、どうにか出来るかもしれない。そのために力を貸してほしいの」

 麻子も、伊達に今まで妖怪達と関わってきた訳ではない。情報を吟味して、仮説を立てるくらいのことは出来る。

「力を貸すって、一体何をなさるおつもりで?」

 麻子は至極真面目な顔で、

「襲撃」

 と言った。




 見知った顔を見つけて、麻子は思わず駆け寄った。

「嘉津間」

 この場にいるものの中で、麻子と嘉津間は明らかに浮いている。それでも嘉津間も多分人間ではないので、この場に人間は麻子一人ということになる。その麻子も頭の上にタマを乗せているので、恐らく周囲から人間とは思われていない。

「おう麻子。一年振りくらいか?」

「そうだね。元気だった?」

「うははは。元気じゃなきゃこんな馬鹿騒ぎに乗らねえよ」

 なるほど、馬鹿騒ぎか。

 それは確かにそうだろう。きっかけを作ったのは麻子だが、もう勝手に話が独り歩きしている。

 麻子は猫又に、妖怪を集めて火清会の文化会館を襲わせるように仕向けたのだ。

 それで今、深夜二時過ぎ、国道に面した文化会館の前に、無数の妖怪共が溢れている。

「で、どういうつもりだ」

 嘉津間は麻子を引っ張り、妖怪達から少し離れた場所へと移動する。

「火清会を襲撃たあ、本気で戦争でもおっ始める気かよ」

「あれ? 嘉津間にはそう伝わったの?」

「いや、違うけど、でもこりゃ襲撃だろ?」

 麻子は最初は襲撃と言った。だが猫又に話を広めてもらうに当たり、話を少し脚色した。

 火清会の文化会館という名は出さずに場所だけを伝え、そこに四門の祭の山車が隠されている、それを引っ張ってきて妖怪達で祭をやろう――ということにした。

 こうなるともう、文字通りお祭り騒ぎである。

 嘉津間のように麻子の真意に気付くような妖怪は、こんな馬鹿話を聞いたりはしない。

「大丈夫。山車を取ってくるだけだから。嘉津間はどうして来たの?」

 麻子の狙いに気付いた嘉津間である。ただ単に踊らにゃ損だと思って集まった阿呆ではない。

 嘉津間は決まりが悪そうに笑う。

「いや、半分は面白そうだったからだ。もう半分は、無謀な戦いが始まるんなら止めようと思ってな」

「戦いなんて物騒なことはしないよ。盗む――取り返すだけ」

 嘉津間は声を上げて笑う。

「暫く見ねえ間に随分なワルになったじゃねえの」

「はは……。まあ、色々あったからね」

 さて、と麻子は文化会館の前に広がる広大な駐車場の中へと足を踏み出す。公的な施設ということをアピールするためか、駐車場は開け放たれている。無論利用出来るのはここに用がある者だけに限られるが、そんなことは皆言わずともわかっている。

 麻子が進んでいくのにつられて無数の妖怪が後に続くが、その多くが敷地内に入ると苦悶の声を上げだした。

「熱っちい!」

「燃えてるじゃねえか!」

 麻子は思わず足を止めて振り返る。妖怪の多くはひいひい言いながら退散していく。

 火清会の信仰が根を下ろした土地は、力のない妖怪達にとっては地獄のようになるという。それはさながら大地が燃えているよう。

 この町には火清会はまだ完全に信仰を広めてはいない。だが、ここは火清会の領地。青川市街地と同じ霊的環境になっているということか。

「なんでお前ら、だらしねえな」

 笑いながら嘉津間がふわりと駐車場に降り立つ。そういえば以前にも嘉津間は青川市街地に平気な顔で立っていた。

「ええと、ここにいるので使えそうなのはっと――野寺坊のでらぼう火消婆ひけしばば泥田坊どろたぼう赤舌あかした! お前らこっちへ来やがれ」

 嘉津間に呼ばれて四人の妖怪が駐車場の中に入ってくる。

 まずはぼろぼろの僧衣を纏い、無精髭と剃り残したような薄い髪がわずかに残っている野寺坊は歯を剥き出して卑屈そうに笑っている。

 次は見事な総白髪にそれと同じような色の薄手の着物を着た火消婆は溜め息と呼ぶには大きな吐息を吹いて見せた。

 全身黒い泥で出来た身体を持つ一つ目の泥田坊は両手を前に突き出しながら歩いてくる。

 獣のような顔と手をした赤舌は大きく口を開けて舌を見せ、顔と手一本以外はどこから湧いたのか知れない黒雲の中に隠して空を飛んでくる。

「こいつらは結構名のある妖怪共だ。火の影響も受けない」

「嘉津間さんよう、随分ぞんざいに扱うじゃないの」

 野寺坊が言うと、火消婆も着物を翻して奮然とする。

「あたしらだってか弱いとこもあるんだよ。それを顎で使おうなんて心外だわね」

 ふっと息を吐くと駐車場を照らす外灯から光が消えた。

「まあまあご両人、俺達何しに集まったかってことを忘れちゃいるめえ」

 泥田坊が仲裁に入ると、上から左様と厳粛な赤舌の声がした。

「例大祭の山車を奪取し、我らで絢爛たる祭礼を取り行い、捲土重来を期する」

「赤舌の旦那は堅ッ苦しくていけねえや」

「それでもこの馬鹿騒ぎに乗ったんだから、お祭り好きの馬鹿仲間だな」

「然り」

 どっと麻子を除いた五人が笑う。

 それで緊張は解けたようで、全員が麻子と向き合って指示を待つ形になった。

「えっと、皆さん、この敷地内のどこかに山車が隠されていると思います。それを見つけて、みんなで引っ張って――どんちゃん騒ぎといきましょう!」

 また笑いが巻き起こった。麻子は照れ笑いだ。

 生身の人間である麻子が建物の中に入るのは色々とまずいので、山車捜しは嘉津間と四人の妖怪に任せることにした。

 十分と経たない内に、嘉津間の声が響いた。

「見つけた! ちゃんと四つあるぞ」

 声のした方へ向かうと、文化会館の裏に巨大なシャッターの降りた倉庫があった。嘉津間はどうやったのかそのシャッターを上げていて、中には確かに山車が四台見える。

 その声で他の妖怪達も集まってきて、ようしと腕まくりをする。取り敢えず敷地の外へということで、六人がかりで一台の山車を運んだ。普通の人間ではまず不可能だが、そこは流石に妖怪といったところか。

 四台の山車を文化会館の外へと運び終えると、待っていたとばかりに他の妖怪達がながえを掴んで引いていく。そして山車に取り付けられた太鼓と鉦を、祭と同じ調子で打ち鳴らし始める。

 さあ、ここからが勝負――麻子は先頭の山車の前に出て先導する形をとった。

 止まることなく鳴り響く祭囃子。これは絶対に止めてはならない。今のところその心配は不要だろう。妖怪達は我先にと太鼓と鉦の順番を奪い合っている。

 現在が深夜零時。本来の祭では午後六時から午後十時まで山車を引いて祭囃子を掻き鳴らす。だから今から四時間、午前四時まで祭囃子を絶やしてはならない。

 この言い伝えは恐らく今までも何度か破られてきたのだろう。それによって起こる異変は実際は小さなことで、他の町の祭が滞りなく行われれば元に戻ったはずだ。阿瀬は麻子が思った以上にそういったことに敏感な体質だから、異変を感じ取ったのだと麻子は判断した。

 それが西日町の祭自体が中止となったことで、異変は加速した。

 今は妖怪変化による、祭のもどきだ。ならば言い伝え通りに事を運ぶことこそが大事になってくる。何事もまずは形から入るのが重要なのである。まず時間が違うが、そこは妖怪の領域内で行うということで無理矢理理由付けをした。

 麻子はゆっくりと後ろを進む山車の進行方向を導いていく。

「どこに行く気だ?」

 嘉津間が空中を飛びながら麻子に話かけてくる。

「手伝ってくれる?」

 麻子一人では見失われるかもしれない。空を飛べる嘉津間なら道標としては適任だ。

「四門小学校に向かおうとしてるの」

「小学校ねえ。俺はこの土地のモンじゃねえからわからねえが、そこに何か意味はあんのか?」

「私もこの地区の人間じゃないんだけどね」

 小さく笑ってから、麻子は組み立てた考えを話していく。

 四門小学校は四つの町の霊的重心であり、町を流れる気はこの霊場を経由してそれぞれの町へと巡っていく。

 ならばその場所で直接祭を取り行えば、全ての町に清められた気を送ることが出来るはずだ。

 中止になった西日の分も取り返せる。北雲の異変も戻すことが出来る。

 無論、西日町内で通常通りに祭を行えればよかったのだが、人目に着いた場合のことを考えると、そんな危ない橋は渡れなかった。それに決められた日取りと違う時点で、「西日町の祭」という機能は失われていると麻子は判断した。そうなると全てを包括した霊場での祭礼という結論に至る。

「なるほどねえ。乗ってみる価値はありそうだな。で、どっちだ」

 麻子が指示を出すと、嘉津間は上空に飛び上がり、後ろに続く百鬼夜行に方向を示す。

 四門小学校の四つの門の一つ、西日門には門扉というもの自体がなかった。両脇に門柱が建っているだけだが、広さは充分ある。

 入るとすぐに運動場で、砂の上に轍を残しながら山車は中心部に向かう。

 グラウンドの殆ど真ん中で嘉津間が止まるように合図を出し、それを契機に祭囃子がさらに高まりを見せる。

 気付くと妖怪の数がどんどん増えている。お祭り騒ぎを聞きつけて続々と集まってきたようだ。

「うははは! これがホントの天狗囃子ってなあ!」

「祭の場所はここかァ!」

「ええい、祭はまだまだこれからだ! 者共もっと騒げ!」

 その夜、四門地区の住人の中にはどこからか響く祭囃子を聞いた者が何人かいた。朝になると四門小学校のグラウンドの真ん中に四台の山車が置かれていて、皆不思議に思ったが、無事南永町の実行委員会に引き渡されることになった。




 実は四門地区の祭は、北雲町のもの以外はあまり人が集まらない。

 理由は単純明快、夜店が出るか出ないかである。

 夜店が軒を連ねることが出来、かつ祭の本分である寺社に面した広いスペースは、北雲公園しかない。

 そういう訳で麻子が幼い頃に来たのも北雲の祭――の夜店だけだったし、他の町の者も自分の町で行われる祭など眼中になく北雲の祭にわざわざ出向くのだった。

 なので、麻子が南永町の祭を見るのはこれが初めてだった。

 一日目は町練りと呼ばれ、町内をくまなく山車が練り歩いてそれぞれの家を訪ねる。

 麻子が来たのは二日目の本練りで、前日よりシンプルなルートで町内を練り歩き、早い段階で神社の前に戻って、そこで延々太鼓と鉦を打ち鳴らす。山車は同じだが、太鼓と鉦のリズムは微妙に違う。

 とにかく、無事に祭が行われてよかった。

「やあ、また会いましたね」

 少ない見物人の中に、あの男がいた。麻子を見止めるとそう声を上げて歩み寄ってくる。

「山車が見つかってよかったですね。なんでも小学校の真ん中に忽然と現れたそうじゃないですか」

 薄笑いを浮かべて男はまるで他人事のように言う。

「――あなたが隠したんじゃないんですか?」

 麻子が低く言うと、男は声を立てて笑った。

「僕一人でどうにか出来る代物じゃないでしょう。やったとするならどこぞのカルト教団の信者。差し詰め僕はプランナーでしょうか」

 おっとと男は言葉を続ける。

「あくまで仮定のお話ですよ」

「でも、私は見ました」

 火清会の倉庫に山車が隠されているのを。

 麻子が言うと、男は笑いながら頷いた。

「そうですかそうですか。でもおかしいですね。山車は小学校で見つかったそうじゃないですか。あなたは恐らく、僕の言葉からきちんと答えを見出したんでしょう。あの状況の四門を正常な状態に戻すには、霊場で祭を取り行うのがベストだった。ですが、大きなミスを犯しましたね」

 火清会の倉庫に山車が隠されていることを露見させれば、火清会を追い詰めるチャンスだった――男の言葉は、麻子も考えたことだった。

「あなたは事を急いたために、貴重なチャンスを棒に振った訳です。無論あなたの言葉が持つ説得力は紙きれのように軽いでしょう。それでもこの好機を上手く利用すれば、四門地区内の火清会の評判を地に落とすことも可能だったかもしれない」

「それでも、この町の状態は放っておけなかったんです。そこを火清会に付け込まれたら元も子もない」

「その判断は正しいでしょう。しかし二週間という猶予があった。それだけではなく、火清会がこの地区を手中に収めるまでにはいずれにせよ結構な時間がかかる。少し急ぎすぎましたね」

 まあ今回はこちらの負けですと言って、男はまた他人事のように笑う。

「この地区を落とすのは難儀しそうですね。四泉川以南はどうしても勢力が拡大出来ないそうですよ。でも市を跨ぐと途端に信者数が増えるそうです。この一帯だけが何故か極端に信者が少ない。何とか踏ん張ってほしいものですね」

「あなたは、火清会に雇われているんですよね?」

「正確には高山先生個人にね」

「元々火清会側の人間だったんですか? それとも火清会に魂を売ったんですか?」

 男はそこで思い切り吹き出した。見れば腹を抱えて笑っている。

「酷い言い方をしますね。答えは――前者はノー。後者は半分正解ですかね。魂を売ったとは全く気の利いた台詞ですよ」

 金です金――自嘲気味に笑いながら男は肩を竦めて見せる。

「文字通り金で買われたんですよ。僕は別に火清会が勢力を広めたところで困らないし、それで金がもらえるなら喜んで手伝います。でも、そうですね、もし僕を買ってくれる他の人間がいるなら、そちらに靡いてもいいかもしいれませんね」

 男はそこで、麻子の顔を見て小さく笑った。

保科ほしなです。保科七重ななしげといいます。もしよければ、覚えておいてください」

 麻子はそれ以上何も言わず、保科と二人祭をじっと眺めていた。

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