第10話 当世故事附感妖句


 最近では放課後になると三年一組の教室は閑散とする。

 六月ということもあり、皆最後の大会に向けて部活に励むか、そろそろ受験に備えて自習室で勉強に勤しむかといったところだ。

 川島麻子は部活動には所属していない。所謂帰宅部である。そんな麻子にとって、放課後に自分の教室の人気がなくなるというのは、ありがたいことと言えた。

 元テニス部で、二年生の時に部を辞めた桐谷匠。それと一年生でありながら帰宅部に腰を据えた阿瀬翔。最近はそこに早々に大会が終わってやることがなくなったという鈴木志穂が加わって、適当なことをぼんやりと話し合うというのが麻子の日課になっていた。

 げらげらと笑い合いながらではなく、本当にぼんやりと、取り留めのないことをぽつぽつと話す。のんびりとしたもので、年寄り臭いなどと思うこともあるが、麻子は気に入っている。

 今日も今日とて教室で桐谷と向き合っていると、志穂が半分笑いながら、もう半分は困惑しながら、後ろに誰かを連れて教室に入ってきた。

「麻子、ちょっと相談いい?」

「あれ? 確か放送部の――」

 桐谷が志穂の後ろにいる女子を見て声を上げる。

「誰?」

 麻子が訊くと、志穂が答えた。

桜井さくらいめぐみ。放送部のエース。うちの生徒なら顔は知らなくても声を聞けば一発でわかるはず――なんだけど」

 そこで志穂は例の複雑な表情を見せた。

「あ! 校内放送の人? あの綺麗な声の」

 そこで麻子は恵がまだ一言も声を発していないことに気付く。

「もしかして……声が」

「いやいや、そんなことなら麻子に相談しないって」

 ――りん。

 鈴の音のようなものが聞こえた。

 ――りんりん。

「恵みたいなすごく綺麗な声を、例えるとどうなる?」

 ――りん。

 麻子はしっかりと考える。現代文の成績は普通だ。

 ――りん。

 そこで麻子は気付く。答えはとっくに目の前に転がっていた。

「鈴を転がすような声……?」

「そう。で、恵は今、鈴を転がすような声しか出せなくなったの」

 ――りん。

 見れば恵は口を大きく開けて必死に声を出そうとしている。だが口から出るのは、文字通り鈴を転がすような声だけ。

「もうすぐNコンなのに、昨日突然こうなったらしいの。どうにかしてって――メールは出来るから相談されてさあ。いや、笑いごとじゃないんだろうけど」

 志穂はそこで吹き出した。

 ――りんりんりんりん!

 怒ったように、鈴の音が激しく鳴る。

 恵は携帯電話を取り出して素早く何かを打つと、画面をこちらに向ける。

『笑ってないでどうにかして!』

 メモ帳にそう打たれていた。

「まあ、こういうのは麻子向きかと思ってさ。ぶふっ」

 また笑いを堪え切れずに吹き出して、志穂は麻子の肩を叩いた。

「あいたたたたた!」

 突然頭を押さえて麻子が叫ぶと、全員がびっくりしたように麻子の顔を覗き込む。

「いや、頭が痛いなあって思ったら、本当に頭が痛くなって」

 もう痛みは引いていた。

「これは思ってたよりもヤバいかもね。という訳で麻子、あとはよろしくー」

 じゃあ私先に帰るからと言って、志穂は恵を置いて本当にさっさと帰ってしまった。




 桐谷匠には霊感がない。

 霊感がない、というレベルの人間にも、必ずほんの少しは霊感の欠片が存在する。

 桐谷にはそれすらもない。皆無なのである。麻子の知り合いの妖怪曰く、これは「見える」人間よりも稀有な存在なのだという。

 どんなに条件が整っても妖怪は見えないし、霊が取り憑く島もない。

 なので、桐谷の見聞きしたこと――見聞き出来なかったことは、麻子にとって大きな手助けになることも多い。

 桐谷には、恵の発する「鈴を転がすような声」が、全く聞こえなかったという。

 麻子だけが聞こえる訳ではないのは確かだ。志穂も、後になって教室に顔を見せた阿瀬にもはっきりと鈴の音が聞こえていた。

 これでこの案件が、完全に麻子の側のものだと証明された。

 川島麻子には霊感がある。

 霊感がある、などという生易しいものではない。どんな人間にも霊感は存在するのである。

 麻子には、常にこの世ならざるものを見聞きする力があった。

 見る者が見れば、麻子の頭の上を見た時点で、アッ、こいつは並はずれているな、と瞬時に判断出来るだろう。

 麻子の頭の上には、それはもう巨大な蜘蛛の妖鬼が乗っていた。足を窮屈そうに折り畳んでぎりぎり頭の上のスペースに収まっているというのだからその巨躯は常軌を逸している。

 タマと麻子が名付けたこの妖鬼は、麻子の最初の友達で、もう十年以上一緒にいる。麻子とタマは麻子の身長以上の長さを離れることが出来ず、煩わしいと思ったことがないと言えば嘘になるが、それでも今もこうして良好な関係を続けている。

 タマは強い。並の妖怪ならば牙の一撃であっという間に八つ裂きにして食べてしまう。

 ただ、どうやら今回はタマの出番はなさそうだ。

 相手が、あまりに抽象的すぎる。

 鈴を転がすような声だった恵の声を文字通り鈴を転がすような声に変えてしまう。

 その現象は、匠に聞こえないということで霊的な事象だとわかった。

 だが霊的という言葉は、あまりに多くの方面をカバー出来てしまう。

 妖怪カンヨークーとか、慣用句お化けなどというものは――多分――いない。いないのだが、力か一芸のある妖怪が自身の決めたルールの中で人間を弄んでいるという場合もある。この事象は果たして妖怪の仕業か、像のない悪意が怪異として暴れているのか。その辺りを纏めて霊的と呼んでしまえる。なんなら妖怪という言葉で全てをカバーすることだって出来る。麻子はそういった方面に詳しい訳ではないので、自分が対峙してきたものは大体妖怪という括りに入れている。

「どうしたもんかね」

 桐谷は麻子のこうした話を聞いて、まるで自分のことのように、だが覇気のない声で呟いた。

 三年一組の教室には、麻子と桐谷しかいない。恵にはやれることだけのことはやってみる、と何とも不安な言葉で一旦帰し、阿瀬は自然に察したのか早々に帰っていった。

 今この学校の中で、麻子が本当のことを話せるのは桐谷しかいない。減ったのではない。一年前、あの事件の前までは校内にそんな人間はいなかったので、ゼロが一に増えたことになる。

 麻子は桐谷に自分の考えを話したはいいが、一層混乱することになった。

「これじゃまるで」

 桐谷が言う。

「目の前が真っ暗、だな」

 その途端に、麻子の目の前が真っ暗になった。恐ろしく深い闇の中にいるように、何も見えない。

「目の前が真っ暗! 本当に目の前が真っ暗なの!」

 思わずパニックになり、麻子は悲鳴混じりに叫ぶ。

 桐谷は最初冗談か何かと思ったようだが、麻子の挙動を見て文字通りの事態に陥っているのだと理解した。

「落ち着け。動き回るのは危ねえから、座ってろ」

 上から肩を押さえ付けられ、椅子に押し付けられる。麻子のパニックが収まるまで桐谷はじっとそのままの姿勢を崩さなかった。

「ありがとう。もう、多分、大丈夫」

 大きく息を吐いて麻子が言うと、桐谷は自分の椅子に腰を下ろした。

「タマ、ちゃんと見えてる?」

「ちゃんと見えてるよー」

 子供のような幼い声でタマが返す。

「じゃあちょっと面倒くさいかもしれないけど、私が動いたりする時に指示を出してくれない?」

「指示? 何か難しそう」

「うーん、私の目の代わりになってくれないかってことなの。それを言葉で伝えて。私今目が見えないから」

「えっ、麻子、目が見えないの?」

 頷く。タマは心配そうに身じろぎをして、きょろきょろと辺りを見渡す。

「えっとね、目の前に匠がいるよ。椅子に座ってる」

「その調子。じゃあちょっと教室の中を歩くから、出口まで案内してくれる?」

 麻子は慎重に立ち上がり、ゆっくりと歩いて逐次出されるタマの指示に従い教室を出ることが出来た。反対側の入口から教室に戻り、元の席に座る。

「うぅー、疲れたー」

 麻子も慎重に歩いたので神経をすり減らしたが、指示を出すタマにも重労働だったらしい。

「ごめんねタマ。目が見えるようになるまで何とか頑張って」

 さて、と麻子は居住まいを正す。

 何でもいいから手がかりを掴まないことには、麻子の目の前は真っ暗なままだろう。一筋でいいから光明を見つければこの状態は回復するはずだと麻子は思う。

 それを見つけるまでは、家に帰る訳にもいかない。失明したと言えば大問題になるのは目に見えている。部活動が練習を認められているのは午後八時まで。今は五時半を過ぎたところだから、あと二時間と少しの内に何かヒントを見つけなければならない。

 とりあえず、もう一度恵に話を聞いてみるのが一番だろう。ついさっき教えてもらったばかりのアドレスにメールを送ろうと思ったが、目が見えなければメールを打てないことに気付く。

 仕方なく桐谷に自分の携帯電話を渡し、メールの代筆をしてもらうことにした。

 どうせ顔を合わせても恵は声が出せないので、やり取りは全てメールで済ますことにした。麻子が口でメールの内容を桐谷に伝え、返ってきたメールを桐谷が読み上げ、それを吟味してまた麻子が口述筆記を頼む。

 なんだか恐ろしく手間のかかるやり取りだと悲しくなってくるが、片や声が出せず、片や目が見えないのだから仕方がない。

 この至極面倒なやり取りの結果わかったのは、恵が声を出せなくなったのは正確には昨日の午後六時辺り。それから翌日――つまり今日――の朝に病院に行って検査をしたが、医者は完全にお手上げだったという。午後から放送部のメンバーにこの事態を伝えなければならないと本来ならば休むはずだった学校に向かい、昼休みに部員に説明をした。志穂はその時たまたま近くを通りかかり、元々友達付き合いもあったので相談に乗ったということらしい。

「おーい、まだ残ってるの? 勉強するなら自習室行きなさいよ」

 教室の外から現代文の教師、中山なかやま夏子なつこが声をかけてくる。

「まあまあなっちゃん、そう堅いことは言わずに」

「なっちゃんじゃなくて中山先生でしょ!」

 夏子は大学を出たばかりという新米教師で、生徒からはよく言えば親しまれ、悪く言えばなめられている。

「そうだ、なっちゃん先生、慣用句って受験で必要ですか?」

 訊いた途端、夏子ははっと息を詰まらせ、胸を押さえて崩れ落ちた。

 麻子にはその光景は見えなかったが、苦悶の声と地面に倒れる音でただ事ではないことがわかった。

 桐谷が慌てて駆け寄り、何度も声をかける。首に触れて、はっと声を上げた。

「脈がない!」

「AED!」

 一年生の時に講習で覚えた単語を麻子は叫んだ。この学校には職員室にAEDが設置されている。

 桐谷はそれを聞いて職員室にすっ飛んでいく。

 麻子はその間に何か出来ることをやるべきだと判断し、目が見えないのにも構わず夏子の許に走った。

 だが目が見えない状態で走ったのはまずかった。気持ちばかりが逸り、麻子は夏子の身体に蹴躓いて思い切り転んだ。

 大きく息を吐く声がした。

「なっちゃん先生!」

「川島さん? はっ」

 夏子は胸を押さえて何度も深く息をする。

「し、し、し、心臓が止まるかと思った」




 AEDと数人の教師を連れて桐谷が戻ってきた時には、夏子は完全に落ち着きを取り戻していた。

 この子達の勘違いでした、ちょっと眩暈がして倒れただけなんです――夏子がそう弁明すると、教師達は笑いながら職員室に戻っていった。

「なっちゃん先生」

 麻子は見えない目で夏子を見据え、静かに訊く。

「なんで私が質問した時、あんなに驚いたんですか?」

 心臓が止まるくらいに。

「とぼけてる――訳じゃないわね?」

 夏子から逆に質問され、麻子は首を傾げる。

「じゃあ何も話すことはないわ。ごめんね」

 踵を返してその場を去ろうとする夏子を、麻子は呼び止める。

「先生、心臓が止まったんですよ?」

「ああ、勘違いじゃねえ」

「あなた達――何か知ってるの?」

 そこで麻子は現在起こっていることを説明した。

 夏子はそれを聞くと深く考え込むように目を伏せた。

「あなた達、これから私が話すことは誰にも言わないって約束出来る? ううん、お願いだから黙っててくれる?」

 頷くと、夏子は周囲に誰もいないことを確認してから話し始めた。

「期末試験のテスト問題に、慣用句の問題を入れたの。簡単なものから難しいものまで、出そうと思うとついつい数が増えちゃって。でも慣用句って受験にはそんなに必要じゃないからって他の先生に言われて、全部削ることにしたのね。でも使わないのはなんだか勿体なくて、小テストにでもしようって印刷してしまっておいて――昨日見たらそれが全部なくなってたの」

「その中に、鈴を転がすような声って入ってました?」

 夏子はすっかり蒼褪めた顔で頷いた。麻子はいつの間にかその顔を見ることが出来ていた。視力が戻ったのだ。

「期末の問題じゃないにしても、テスト問題が盗まれたなんてことになったら大問題なの。だからこれは絶対に秘密で、お願い」

「とりあえず、目の前が真っ暗ではなくなったみたい」

 数度まばたきをして見せて、視力が戻ったことをアピールする。

「じゃあそのテスト問題が鍵だな」

「なっちゃん先生、テスト問題をしまっておいたところを見せてもらえませんか?」

「ええ? それはちょっと……いや、でも……」

 暫く逡巡した夏子だったが、結局は周囲に気付かれないように、と念を押してそれを了承した。

 失礼しますと言ってから三年生の担任室に入る。夏子のデスクまで向かい、小テストがしまわれていた引き出しを開ける。

 いくつかの書類が積まれているが、目を通したところテストらしきものは見当たらない。

 夏子によればこの引き出しには普段から鍵がかけてあり、そもそも担任室自体人がいなくなる時は必ず施錠される。

 まあ、相手が妖怪である以上、そんなものは殆ど無意味なのではあるが。

 桐谷は何気なく書類の一番上の一枚を取り上げ、それを眺めた。

「あれ? これってそうじゃねえの?」

 桐谷から手渡された紙を見て、麻子は思わずあっと声を上げる。すぐさま夏子に見せると、夏子は麻子以上に大きな声を上げた。他の教師達の目に気付き、二人共慌てて平静を取り繕う。

「こ、これは確かに、私の作った小テスト! でもなんで――」

 そうかと麻子は納得する。小テストは最初からずっとそこにあった。だが妖怪がそこに書かれた慣用句を使って悪ふざけを始めると、人間の認識から外れてしまった。だが桐谷には霊感が皆無。妖怪のしかけた認識のズレなど無視してしまう。それで桐谷が見つけたことで、初めて麻子達にも認識出来るようになったという訳だ。

「ありがとう! ありがとう! うわあああん!」

 担任室を出ると夏子は訳がわからないままながら何度も頭を下げた。

 危うく大問題に発展するところを桐谷に救われた形になる。緊張から解放されたせいか、夏子は半分嗚咽のように感謝の言葉を続ける。

 暫く経って、麻子は夏子の様子がどうも変だということに気付いた。何度も繰り返し下げていた頭が、持ち上がってこないのだ。

「あ、あ、あ――」

 夏子は全身に力を込めているようだが、頭は下がったままだった。

「頭が上がらない!」

 先程見た小テストにも出ていたな、と麻子はがっくりと肩を落とす。

 まだ、終わった訳ではないらしい。




 桐谷から離れると、夏子は漸く頭を上げることが出来た。

「多分、原因はこの小テストだと思うんだけど……」

 麻子は手に持った小テストに書かれた問題に目を通す。鈴を転がすような声。目の前が真っ暗。心臓が止まる。頭が上がらない。――なるほど、期末試験に出すには微妙なところだ。

「このテストに出された問題そのものが妄念になって障りを引き起こしたのか、あるいは何か他の妖怪が手を出したのか――いずれにしても原因はこの紙にあると考えるのが妥当なんだよね」

「妖怪カンヨークーか」

 桐谷が言って、一人で笑う。

 麻子はそれを聞いてそうだと膝を打つ。

「妖怪カンヨークーだよ!」

 首を傾げる桐谷などほったらかしで、うんうんと麻子は一人頷く。

「きちんとした原因がわからないなら、きちんとした原因を作ればいいんだよ。私なら、この事象に妖怪としての名前を付けることが出来る。それが!」

「妖怪カンヨークー?」

「そう!」

 麻子には名前を付けることで妖怪を生み出したり、より強固な存在へと変質させるという力があった。タマもまた、この力によって麻子が生み出した存在である。

「でも、当然危険も伴うんだよね。新しい妖怪を生み出しちゃう訳だから。いざとなれば――」

「ボクに任せてー」

 タマの言葉を聞き、麻子は頷く。

 夏子の許に戻り、小テストを全部貸して欲しいと頼む。誰もいなくなった三年一組にその小テストの束を運ぶと、麻子は大きく息をして自分を落ち着かせる。

 紙の山に向かい、力を込めた一声。

「妖怪カンヨークー!」

 小テストが風もないのに巻き上がる。

「うへへへへ。わしが世に名高き妖怪カンヨークーじゃ」

 机の上に、小学生くらいの背丈をした老人があぐらを掻いていた。

「妖怪カンヨークー、悪ふざけもいい加減にしなさい」

 桐谷には何も見えていないらしく、麻子が一人で話しているようにしか見えない。ただし、こういうことにはもう慣れていた。

「うへへへへ。じゃあテストを受けるんじゃ」

「テスト?」

 妖怪カンヨークーは自分の下に積まれた小テストを麻子の目の前に突き出す。

「作るだけ作っておいて、受験には不要だからと捨てるのは酷いとは思わんかね。わしは悲しゅうて悲しゅうて、それでこうして出てきたんじゃ」

「慣用句通りの事象を起こしたのは?」

「なあに、ちょっとした親切心じゃよ。テストで出る慣用句を実際に体験させりゃあ、厭でも覚えるじゃろ。それこそ身体で覚える訳じゃ。うへへへへ」

「わかった。なら受けてあげる。厭でも覚えたからね」

 夏子に試験官役を頼み、麻子は一人、夏子の作った小テストを受けた。

 出来は上々だと自分でもわかった。実際に味わったり、目の当たりにした慣用句の事柄は全て間違いなく答えられたし、期末試験から削られただけはあって簡単な問題も多かった。

 採点が終わると、間違いは二つだけという申し分ない結果だった。

 採点されたテストを妖怪カンヨークーの目の前に突き出す。

「どう? これで満足でしょ」

「二つも間違っておるじゃないか。仕方ないのう」

 妖怪カンヨークーは机から飛び下りると、麻子のスカートを思い切りめくり上げた。

 下着が完全に露わになり、麻子は思わずその場に居合わせた桐谷の方を見る。桐谷は顔を背け、見ないふりを通している。それがかえって麻子の羞恥心を刺激する。

 その途端、顔が燃えるように熱くなり、視界を覆うように炎が巻き上がった。

「顔から火が出る――って!」

 妖怪カンヨークーは笑いながら逃げ出した。

「間違えた問題一つ目じゃ」

「待ちなさい!」

 だが廊下に出た途端、他のクラスの担任の教師と鉢合わせしてしまい、廊下を走るなと注意されてしまった。

 妖怪カンヨークーの逃げるスピードは全速力ではなく、麻子の出方を窺ったものだった。早足で歩いても完全に撒かれることはない。

 仕方なく、早足で距離を見計らいながら妖怪カンヨークーを追いかけることにした。妖怪カンヨークーは麻子の方を何度も振り返りながら校内を延々逃げ回る。

 小一時間程追いかけ合いが続いただろうか。麻子はもうへとへとに疲れ、限界だと立ち止まった。

 すると両足から感覚が消えた。長時間正座をした時の痺れだけを抜き取ったような感じだ。

 見ると、麻子の両足は二本の無機質な棒になっていた。

「うわっ!」

 思わず身体を仰け反らせると、そのまま尻餅をつく。

「足が棒になる――」

 麻子が間違えた二つ目の答えを口にすると、足は元に戻っていた。

 妖怪カンヨークーは倒れた麻子を楽しげに覗き込んでいる。

「これでもう満足?」

 身体を起こし、妖怪カンヨークーを睨む。

「うへへへへ。満足満足。実に楽しい時間じゃった」

 そうだ、と麻子はずっと疑問に思っていたことを訊ねる。

「なんで最初に桜井さんが被害を受けたの?」

「ああ、あれはな」

 妖怪カンヨークーはくつくつと笑う。

「現代文の成績がよくないんじゃよ。特に暗記系のな。それで大会で勝ち進んだ時に補習になったら困るというんで、テスト問題を盗もうとしたんじゃ」

 未遂に終わったがな、と付け加える。

「それであの鈴を転がすような声じゃ。テストのヒントを与えてやったんじゃよ。まあこれで慣用句を一つは間違いなく覚えたじゃろう」

 麻子は乾いた笑みをこぼした。

 そうして妖怪カンヨークーは、どこへともなく去っていった。

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