第7話 彼岸の花嫁


「嘉津間には逃げられたか」

 重苦しい男の声が響く。

「も、申し訳ございません。火の中へ逃げられては手出しが出来ず――結果見失い……」

 こちらは甲高い、落ち着きのない声だ。

「まあいい。嘉津間が見つけられたからには、雲隠れしている訳ではないのだろう」

 そろそろ本腰を入れるとしよう――深く息を吐くような声。

「嘉津間のおかげで居所はある程度絞られた。青川の、火の及ばない範囲。蜘蛛の妖鬼を従えている少女」

「うっ――」

 呻くような声がして、慌ててそれを誤魔化そうとする。

「なんだ――何か知っているのか?」

 男の声が脅すように言うのを聞いて、その声はますます委縮していく。

「ああ、そうだったねえウバリヨン。お前が会ったと話していたのは、正しくその子だ」

 場違いに明るい声が響き、縮こまった声の主を嘲るように笑う。

「ほら、聞いてませんか? このウバリヨンが先頭に立って、一人の人間に乗っかったっていう話ですよ。それでウバリヨン共を追っ払ったっていうのが、その蜘蛛の妖鬼の少女という話だったよねえ」

「ひい! ご勘弁! 俺は何も喋ってねえ!」

「ありゃ、逃げちゃいましたね。まああいつから高校の場所は聞いてますし。捜し出すのは容易いでしょう。高校ってわかります? お古い方々?」

 どこか挑発するような口振りに、甲高い声はきいきいと注意をする。

「よい。ならばお前が向かうか? 報酬は上等のしゃれこうべ一つ出そう」

「まあ行ってもいいですけど、報酬はそれじゃあ足りませんね」

「き、貴様ッ、無礼であるぞ!」

 再び、今度は緊迫した調子で注意する甲高い声を、男の声が遮る。

「よい。理由を聞こう」

「いやね、ウバリヨンの話じゃ、その子の近くにおっかない奴がいるそうなんですよ」

「だ、だから蜘蛛の妖鬼を従えていると――」

「いやいや、そんなちゃちなもんじゃない。それこそ格が違います」

 声はここだけは真剣に、

「神野悪五郎ですよ」

 と言った。




 学校の怪談という名前はよく聞くが、そんなものが確かに存在する学校は果たしていくつあるのだろうか。

 川島麻子はそんなことを思いながら、携帯電話に届いたメールの文面を眺めていた。

 麻子の知る限り、通ってきた小学校、中学校、保育園と幼稚園を加え、そして今通っている高校まで勘定に入れても、そんなものは聞いたことがない。

 いや、麻子は特別事情通という訳ではない――というより疎い部類に入る――から、少数の生徒の間で静かに語られている怪談はあったのかもしれない。それでも麻子の耳に入ってくる程肥大化した話はない。

 例えば学校の七不思議などと言われるような、普遍的な怪談は全くなかった。

 あったとしても、定着はしていないだろう。

 ただし、麻子はそういった話を信じていない訳ではない。

 というよりは、信じざるを得ない状況に常に置かれている。

 麻子の目には、普通の人間には見えないこの世ならざるものが見えた。

 怖い思いも、不思議な体験も、いくらでもしてきた。麻子の見た怪異を学校内だけでも纏めたら、とても七では利かない。

「ねえ麻子ぉ、何が書いてあるのー?」

 麻子の頭の上で、柔らかい子供のような声がした。

 麻子はベッドの上に座った膝の上に、頭に乗ったそれを抱いて下ろした。

 常軌を逸した巨大な蜘蛛が、麻子の膝の上で大きく足を伸ばす。ただでさえ巨大なその身体は、足を伸ばすことで何倍も大きく見えた。

「学校でね、骨格標本ってわかる? タマ」

「わかんなーい」

 タマと呼ばれた蜘蛛は牙を足で撫でながら応える。

 このタマ、麻子が昔生み出した妖鬼である。麻子とタマは友達として、常に行動を共にする。お互いに魂が繋がり離れることが出来ないという事情もあるのだが、そんなことを気にするでもなくいつも仲睦まじく一緒にいる。

「作り物の人間の骨なんだけど、小学校で見たことあるでしょ?」

「うん見たことある! それでそれで、それが何なのー?」

「それが動くんだって」

 メールは中学時代からの友人、渡辺香からだった。骨格標本が学校を歩き回っているという噂がある。一緒に確かめないか――という内容を絵文字で華やかに装飾して書かれている。

 歩く骨格標本――まるで学校の七不思議だ。

 だが――麻子は首を傾げずにはいられない。麻子の通う青川南高校には、骨格標本はないのだ。人体模型は立派なのが一つあるから、本来歩くならそちらだろう。だというのに香からのメールには骨格標本が歩くと書いてある。

 そんな疑問を抱く暇もなく、噂を面白がる者は大勢いる。香もそうだし、タマも同じだ。

「なにそれ面白そう! ねえ麻子見に行こうよー」

 麻子の膝の上できゃっきゃとはしゃぐタマを見て、麻子は苦笑を漏らす。

 今は春休み中なので、帰宅部の麻子が学校に向かう予定はない。だから香はわざわざ麻子にメールを送ってきたのだ。

 断るのも悪いし、実際少しは気になったので、香の誘いには乗るつもりでいた。そしてタマが噂を知ってしまったことで、完全に退路は断たれた訳だ。

 麻子は受信したメール画面から返信ボタンを押してメールを作成する。慣れない感覚を頼りに絵文字を入れて、素っ気なく感じさせないように気を配る。だがやはり、香のメールと比べると味気ない。

 何とか完成させたメールを送信し、携帯電話を枕の横に置いて返信を待つ。と、殆ど間髪を入れずに携帯電話がメールの受信を知らせる着信音を鳴らした。

 メールはやはり香からだった。香の返信が特別速いのではなく、麻子のメールを作成するスピードが遅いのだろう。

 明日の三時、一年六組に集合――内容を抽出するとそれだけだが、絵文字や顔文字で華やかにデコレーションされている。よくもまああれだけの時間でこんな派手な文面が打てるものだと麻子は感心してしまった。

「なんて書いてあるのー?」

「明日の三時に集合だって」

 了解の旨のメールを返信して、もう返信はないだろうと思い携帯電話の電源を切って充電する。

「そろそろ寝よっか」

 既に風呂にも入ったし、寝間着姿だ。香とのメールという一仕事も終えたし、もう布団に包まってもいいだろう。

 麻子はタマを抱きかかえたまま部屋のドアの横にある電灯のスイッチを切って、暗闇の中ベッドまで戻る。あまり物も置いていないし、自然と記憶しているので特に苦労することなく元の場所まで戻ることが出来た。

 麻子が布団に入ると、その胸の辺りにタマが乗る。いつも通りの感覚に安堵している内、麻子は眠りへと落ちていった。


「麻子ぉ、麻子ぉ」

 顔をぺしぺしと叩かれ、深い眠りの中にいた麻子は呻きを漏らす。重い瞼を開けると、まだ暗い。

「どうしたのタマ?」

 麻子を起こしたタマは、長い足で麻子の顔を叩いたのだった。

「三時にシューゴーだっていうから、遅刻しないようにと思って」

 ベッドの横に置かれた目覚まし時計を見ると、二時を過ぎたところだった。ただし、午前だが。

「あのねタマ、三時っていうのは午後なの」

 麻子が言うと、タマはしゅんと萎れてしまった。

「ごめん麻子……ボク、役に立とうと思って……怒ってる?」

 麻子は小さく笑って、タマを愛おしげに撫でた。

「怒ってないよ」

 タマにきちんと説明しなかった麻子にも責任はある。

 もう一度寝ようと布団に潜ったが、妙に目が冴えてしまって眠れない。仕方なくベッドから起きて、窓から見える夜の道を見下ろした。

 丑三つ時。麻子の目に映るのはやはり異形のモノ達だ。

 人の通らない道を我が物顔で跋扈していく。いや、元はこの時間は彼らの物だったのだ。光の溢れた夜を往く魑魅魍魎はどこか物憂げに見えるのは気のせいだろうか。本来、鼻を抓まれてもわからない暗黒だった夜が、無遠慮な光で塗り潰される。

 地平線を眺めた。夜明けにはまだまだ遠いにも関わらず、薄く照らされている。街や工場から出る灯りが、空を染めていた。

 視線を感じ、麻子は目を下の道に落とす。

「人面牛……?」

 得体の知れないもの――即ち麻子の目に映るもの、妖怪。それは小さな牛の身体に、人間の頭がくっついたという姿をしていた。

「近い内に」

 距離は離れていたが、人面牛の言葉はまるで耳元で囁かれているようにはっきりと聞こえた。

「お前の周りで、沢山人が死ぬ」

 そう言い終えると、その妖怪はその場に崩れ落ちてそのままあっという間に腐り果てた。

 麻子は、酷い寒気に襲われた。




 青川南高校の一年六組は、つい先日まで麻子が在籍していたクラスになる。

 来月になれば新入生達が在籍することになる訳だが、一応麻子はまだ二年生に進級していないことになるので、今はまだ自分の教室という扱いでいいだろう。

 香は吹奏楽部の練習が終わった午後四時――つまり約束の時間――に教室に顔を見せた。麻子はそのほんの三分前に学校に着いたので、お互いに待つ時間は殆どなかった。

 久しぶり、という程ではないが、数日ぶりに顔を合わせた二人は暫く話し込んだ。取り留めのない話だが、やはり友人との話は楽しい。麻子はもう少しで今日の目的を忘れてしまうところだったが、香の方が自然な流れで歩く骨格標本に言及した。

 メールでは伝えきれなかった細かい話を香は興奮気味に話した。

「ブラスでも先輩が何人か見たんだって。そこでー、麻子の意見が聞きたいの」

 香は麻子が「見える」ということを知っている。だが正確な状況を把握しているとは言い難く、どうも少し間違った認識を持っている。

「香、私のことは――」

「わかってるわかってる。麻子が霊感少女ってことは内緒でしょ?」

 軽い調子で言うのでつい疑ってしまうが、四箇月程前に知られてしまってから噂が広まっていないところを見るにきちんと言わずにいてくれているのだろう。

 実際にその骨格標本を見つけようということで、二人は教室を出て廊下を歩き回った。

「ねえ香、なんで人体模型じゃなくて骨格標本なの?」

「なんでって、なんで?」

 そんなことを訊くの? と言いたげに香は返す。

「だって、うちの高校に骨格標本なんてないでしょ?」

「え、そうなの?」

 麻子は苦笑する。恐らくこれが校内での一般的な認識なのだ。

 話しながら廊下を歩いていると、どこからか騒がしい音が聞こえてきた。がしゃがしゃというその音は、どうやら麻子の耳にだけ届いているらしい。

 香の顔を覗くと、どうやらその音には気付いていないらしい。

 音の出所を捜そうと耳を澄ますが、すぐにその必要もなくなった。

 音は、確実にこちらに近付いてきているのだ。

「麻子! 後ろ後ろ!」

 タマの声と自らの察知した気配に従い振り向くと、そこには全身が白骨の異形が立っていた。

「全く、漸く見つけましたよ」

 麻子が振り返ったの気付き――どうやら声に反応した訳ではないようだ――、香も後ろを振り向く。

「こ――骨格標本」

 香がそう言うのを合図にしたかのように、その異形はがしゃがしゃとやかましく音を立てながら昇降口の方に去っていった。

「ほ」

 ホントに出たあ――と香は驚嘆の声を上げる。

「やっぱり麻子を誘ったのは正解! 大正解! 流石霊感少女!」

 きゃあきゃあと騒ぐ香を見て、麻子は苦笑を漏らす。

「よっしゃあ! 早速ブラスのみんなに自慢してこよっと。あたし部室戻るけど、いい?」

 手ぶらで教室に来たので、荷物を吹奏楽部の部室に置いてあるからだと予想は出来ていた。そこに残っている部員達に今の出来事を話すつもりなのだろう。

「うん、じゃあ私先に帰るけど、くれぐれも――」

「わかってる。麻子のことは秘密でしょ? じゃあまたねー」

 そう言って猛然と部室の方に駆けていった。

 麻子はそのまま昇降口に向かい、上履きを靴に替えて自転車置き場に出る。

「――尾けるなんて趣味が悪いですよ」

 自転車の鍵を外しながら麻子が言うと、例の騒がしい音を立てながら先程の動く骨格標本――と思われているモノが姿を現した。

「ばれてましたか」

「あなたって、もしかしてガシャ……」

「おお! 知っていてくれましたか! そうです、ガシャドクロです」

 そう言ってガシャドクロは骨だけの手を差し出す。麻子は不審に思いながらも握手で返した。

「女の子が一人で帰るのは危なくていけません。俺がエスコートしますよ」

 おどけた調子で言うガシャドクロを麻子は注意深く睨む。

「まあそんな怖い顔しないでくださいよ。本当、家まで送るだけですから」

「結構です」

 にべもなく言って、麻子は自転車に跨る。さっさと別れようと自転車を漕ぎ出すと、妙な重みを感じて首を傾げる。

「ははは、快適快適」

 耳元で声を感じ、麻子は危うく転びそうになった。自転車の後ろにガシャドクロが二人乗りの要領で腰を据えていたのだ。

「ちょ、ちょっと! 降りて!」

「まあまあそう言わず。二人乗りって青春でいいじゃないですか」

 ガシャドクロは快活に笑って、

「おっと、運転中に脇見は厳禁ですよ」

 そう言われて麻子は慌てて前を向く。この調子では自転車を止めて降りろと言ったところで無駄だろう。仕方なく麻子は何が悲しいのか妖怪と二人乗り――それも女子が運転する側――で家まで帰った。

 言葉通り、ガシャドクロは麻子が家に着くと小粋に手を挙げて帰っていった。

 拍子抜けして、麻子は首を傾げながら家に入った。




 翌日、麻子が自分の部屋で課題を進めていると、玄関のチャイムが鳴った。

 午前十時を過ぎた頃で、父親は勿論のこと母親も買い物に出ていていない。居留守をするのは悪いから、麻子が出るしかあるまい。

 シャーペンを課題のプリントの上に置いて、階段を駆け下りる。

 玄関のドアを開けると、そこには白い和服を着た女性が立っていた。

「――朝っぱらからなんですか」

 麻子は少し棘のある声で言い、タマは牙を剥いて威嚇する。長年の感覚で、目の前の女性が人間ではないことが麻子にはわかっていた。

「川島麻子様に縁談を持って参りました」

 甲高い声で言って、女性は見事な装丁の本のような物を差し出した。

「はい?」

 麻子は女の言っていることがすぐには理解出来ず、差し出されたそれをつい手に取ってしまう。

「確かにお渡しいたしました」

 どこからか風が巻き起こり、女の姿は消えていた。

 麻子は手に持った物をまだ何なのか判別がつかず、とりあえず開いてみることにした。分厚い立派な紙で出来ているそれは見開き一ページだけで、左には国語の資料集などに出てくる裃を着た四十代くらいの恰幅のいい男の写真があり、右には真ん中に「魔王」と小さく二文字だけ書いてある。

「い――いやいやいや」

 女の最初の言葉を思い出し、この紙を見て、麻子は自分の中に出てきた答えを振り払おうと声を上げる。

「おや、どうしたんだい麻子。そんなところに突っ立って」

 聞き慣れた、だが久しぶりに聞く声に反応し、麻子は写真から顔を上げる。

「お、おじさん」

 現れたのは自称大妖怪の神野悪五郎だった。麻子とは古い付き合いで、信頼出来る数少ない妖怪である。

 神野は麻子の持っている物に気付き、怪訝な顔をする。

「それは釣書か?」

「つ、釣書――」

 確か見合いの際に渡す写真とプロフィールのことをそう呼ぶのではなかったか。

「私まだ十六歳――あっ、もう結婚出来る」

「全くどうしたんだい。とりあえず落ち着きなさい。中に入ろうか」

 神野に言われるまま家の中に入り、自分の部屋に上がる。

「さっき、女の姿をした妖怪が来て、え、縁談って」

 ベッドに腰かけたことで少しは落ち着いた麻子だったが、やはり肝心なところを言おうとすると動揺を隠せない。

「どう思います? おじさん」

「そりゃもう、わかり切ってるじゃないか。釣書まで持ってきてるんだ。言葉通り縁談だよ。そうか、麻子ももうそんな年頃か。ははは」

「笑いごとじゃないですよ!」

 笑い出す神野に思わず語気が強くなる。だが当の神野はそんなことに構わずにまだ笑っている。

「どれどれ、麻子を嫁に欲しいというのはどんな御仁かな。その釣書を見せてごらん」

 麻子は半分泣き顔半分怒り顔で釣書を渡す。

 神野はそれを開いた瞬間、何とも言えない表情になった。笑えばいいのか怒ればいいのか迷っているのか、結局何も表情には出さず、小さく唸った。

「これは、まずいな」

 とにかく――神野は釣書を麻子に返し、難しい顔をする。

「この釣書をそのまま返して、丁重にお断りするしかないな」

 麻子はもう一度その釣書を開いて、中の男をよく見てみる。神野がこれを見て急に真剣みを出したのは確かだ。知り合いか、よっぽど名の知れた妖怪なのかもしれない。

「うわっ!」

 写真を眺めていた麻子は急に手に触れていた紙の触感が変わったことに驚いて釣書を床に落とす。床に落ちた釣書は見る間に溶けていって、後には何も残らなかった。

「明日の夜、お迎えに上がります」

 釣書のあった場所から先程の女の甲高い声がする。

「何もご用意は要りません。身一つでお待ちください」

「お、おじさん」

「心配しなくていい。確かに困ったことにはなったが、何とかするさ」

 じゃあまた来るよと言って、神野は麻子に背を向けてその場から掻き消えた。

 気のせいかもしれないが、去り際の神野の表情は、必死に笑いを堪えているように見えた。




 当然だが、麻子にしても得体の知れない妖怪に嫁ぐなど御免だった。

 それはタマも同じようで、麻子が何が起こっているのかを話すと、完全に事情を把握した訳ではなさそうだが、今度来たらやっつけてやると張り切っている。

 そう、タマは強い。並の妖怪などならあっという間に八つ裂きにして食べてしまう。

 それに、神野が心配ないと請け負ってくれた。神野は大妖怪を自称するだけあって、麻子からはとても想像のつかない力を持っている――らしい。

 迎えに来るなら来い、返り討ちにしてやる――というのが麻子の正直な思いだった。我ながら暴力的だとは思うが、対抗する手段がこれしかないのだから仕様がない。

 そう心に決めて布団に入り、思いの外ぐっすりと眠っていると、何かが窓にぶつかる音で目が覚めた。

 目覚まし時計を信用するなら――この時計はとにかくよく壊れる――時刻は午前四時過ぎ。まだ太陽が昇る気配もない。

 また窓がこつこつと音を立てる。半分眠ったまま立ち上がり、窓のカーテンを開けると、巨大ながらんどうの目がこちらを覗き込んでいた。

「どうもどうもこんばんは。やっと起きてくれましたね」

 よく見ればそれは巨大な白骨の異形だった。身を屈めるようにして二階にある麻子の部屋に目を合わせている。

 サイズは違うが、この姿と話し方には覚えがある。

「あなた、ガシャドクロ?」

「そうですそうです。すみませんねこんな夜中に。ちょっと言伝を持ってきまして」

 どういう意味かわからず首を傾げると、ガシャドクロはからからと笑った。

「あれ? 気付きません? 俺ですよ俺。あなたの家を婚約相手に教えたの」

 そこで麻子はこのガシャドクロが家までついてきたことを思い出す。

「な、なんてことしてくれたの!」

「いやあすみません。なにせ仕事なもんで。で、どうもその様子じゃあ嫁入りは厭ですね?」

 強く頷く。

「それでちょっと耳寄りな話を持ってきたんですよ。それを聞けば気が変わるかもしれませんよ」

 ガシャドクロはそのままの格好で話し始めた。

 聞き終えると、麻子は一つの決心をした。


 夜、電灯を消した部屋の中で、麻子は正座をして静かにその時が来るのを待っていた。

 開け放たれた窓から急に生臭い風が吹き込んでくる。

「お迎えに上がりました」

 窓の前に昨日の女が立っている。窓の外には黒い雲に覆われた駕籠が、かき手もいないのに綺麗にこちらを向いていた。

「約束は守ってくれますか?」

「はい。主人は了承いたしました」

 麻子はそれを聞いて立ち上がる。窓の方へと向かって歩いていくと、怒声と共に部屋のドアが開いた。

「手前かあ! 人様の妹を勝手に嫁にしようっていう不届き者(もん)はあ!」

「お、お兄ちゃん?」

 ぎょっとして麻子も女も身を引く。

「そうだ! 俺が麻子のお兄ちゃん、川島新龍だ!」

 言うが早いが麻子の手を引っ掴んで自分の方へ引き寄せる。

「今すぐ失せることだな」

 落ち着いた声がして、気付くと部屋の真ん中に神野が立っていた。女はその姿を見ると目をひん剥いて驚きの声を上げる。

「し、し、し、神野悪五郎!」

 神野は女を睨み、女はひいと声を上げて身を竦める。

「離して、お兄ちゃん」

 静かに、麻子は言う。

 新龍に肩を抱かれていた麻子は腕を使って新龍を押し退け、女の方へと歩いていく。

「お、おい、麻子」

「決めたの。私、お嫁にいきます」

 早く連れていって――怯えた様子の女にそう言って、麻子は新龍と神野に背を向ける。

「貴様、麻子に何を吹き込んだ」

 女は半分腰を抜かしたまま麻子の手を取り、窓から外に出ようとする。

「おい麻子! 待てよ! タマ公も黙ってねえでなんとか言え!」

「ぼ、ボクは、麻子の決めたことだから……」

「早く!」

 麻子が叫ぶと女は今度はそちらに驚いたのかびくりと身体を震わせ、窓の外に止まった駕籠に麻子を乗せる。

「さようなら」

 麻子がそう言うと、黒雲に包まれた駕籠は空高く飛んでいった。




 人が踏み入った様子のまるでない山の中に、荘厳な門が建っていた。

 麻子を乗せた駕籠はその前で止まり、外から女が降りるように声をかけてきた。簡素な草履が駕籠の外に置いてあり、麻子はそれを履いて門を潜る。

 門から延びる道は舗装されていないが綺麗に開けており、遠くを見ると凄まじい山の中だとわかるが、前だけを見て歩いていると時代がかった豪奢な屋敷へと通じる道といった感じだ。

 少し歩くと、巨大な平屋建ての屋敷が見えてくる。麻子の予想は当たっていたらしい。

 玄関に入ると、三和土には一足も靴がなかった。中も高級そうな調度や掃除の行き届いた廊下や部屋が目に着くが、人の気配は全くしない。

 先導する女について複雑に曲がった廊下を歩いていくと、突き当りに襖が見えた。女はこちらを振り向いて麻子が襖の前に来るまで待ち、麻子が立ち止まると襖を開けた。

「ようこそ、川島麻子。私は山本さんもと五郎左衛門ごろうざえもん。まずは座りたまえ」

 中は広い座敷で、一番奥に写真の男が座っていた。その前に座布団が敷かれ、男の言葉通り麻子はそこに腰を下ろす。

「約束は守ってくれますか」

 物怖じせずに麻子が言うと、山本は厳めしい顔のまま頷いた。

「君も薄々気付いているとは思うが、私は人間を娶りたいと思っている訳ではない。目当ては、君の力だ。十一年前の騒乱の原因を君と定めるのに時間を食った。嘉津間という半端者を泳がせて君の居所を探ろうともしたが、上手く撒かれてしまった。今更とやかく言うこともないがな。君は今、こうして私の前にいるのだから」

 口裂け女の元を辿ったのだと山本は言った。

「それが水子霊ということを突き止め、君を迎えるために水子霊を集めさせた。君の力で、水子霊は妖怪へと像を変える。そう思っていたが――」

 麻子はガシャドクロに、山本が水子霊を捕えているということを聞かされた。それをどう運用するつもりかという狂気染みた目的も聞かされた。麻子の力で、善良な水子霊がどんな悲惨な末路を辿ることになるのか――麻子はそれを厭という程知っていた。

 だが、ガシャドクロは麻子が素直に山本に嫁げば、その水子霊達は解放してもいいという提案を伝えた。

「人面牛が、言ったんです」

 お前の周りで沢山人が死ぬ、と。

「それはきっとこのことだと思いました。だから、そんなことはさせない」

「そうだな。約束通り――」

 そこで襖が勢いよく開いた。

「さ、山本様!」

 先程の女が周章狼狽して部屋の中に駆け込んでくる。

「何事だ、騒々しい」

「み、水子霊が」

 全員どこかへ消えました――情けない声で女は叫ぶ。

「何――」

「約束は反故にされた。この婚約は無効だ」

 悠然とした足取りで、神野悪五郎が現れた。

「神野悪五郎――!」

「久しぶりじゃないか山本五郎左衛門。暫く見ない内に随分成り下がったものだ」

「何故だ。あの結界は貴様といえど容易くは破れんはず――」

「水子霊は全部外に逃がしてきたぜー」

 新龍が肩を回しながら部屋に入ってきた。麻子の姿を見止めると慌てて駆け寄ってくる。

「麻子! 大丈夫か? 何も変なことされてないか?」

「う、うん、大丈夫」

「お前は私にばかり目が行きすぎだ」

「その小僧、龍か――。そんなものを手元に隠していたとはな」

 山本は立ち上がり、神野と真正面から向き合う。麻子は新龍に連れられて部屋の隅の方に避難していた。

「惨めなものだな。そうまでして妖怪が欲しいか。稲生平太郎に木槌を与えて私を止めたお前がだ」

「時代が変わったのだ」

 山本は苦々しげに言う。

「夜は夜でなくなり、人の力の及ばぬ地はなくなり、闇は駆逐された。妖怪は消え行くしかない」

「それで麻子の力を使って、消え行く闇のモノ達を無理矢理生み出そうとしたのか」

「私は、厭なのだ――」

 山本は俯きながら呟くように声を発する。

「私の知っているもの達が消えていくのが。時代の流れなどと切って捨てることはとても出来ぬ」

 麻子は何か言いたかった。そうしたもの達は、麻子も知っている。人の心が変わってゆき、消えてしまいそうになるもの達に、麻子は出会っている。

「麻子」

 神野が優しい声で声を発しそうになる麻子を諫める。

「君はそんなことを気にすることはないんだ。山本もこれ以上君を捕まえてはいられない。新龍と一緒に帰りなさい。いいな? 山本」

 山本は頷き、女に目を向ける。それで全てを察したのか、女は麻子と新龍の手を取った。

「私はまだ山本と話したいことがあるからね」

 女の周りに突風が巻き起こり、麻子と新龍はそれに巻き込まれてその場から消えた。


 アスファルトに思い切り背中を打ち付け、麻子は短い悲鳴を上げた。

 上半身を起こすと、麻子の目の前に白い鳥が羽ばたいている。

「すみませぬ! もう陽が昇ってしまったので、私の力ではここまでが限界でございまする」

 女と同じ甲高い声で言い、鳥は空高く飛んでいってしまう。

「ちょ、ちょっと待って! 大体ここどこなの!」

 アスファルトにへたり込んだまま周囲を見渡すが、見覚えのある街並みには見えない。もしや自分の家から県単位で遠く離れた場所に置き去りにされたのではないかと不安になる。

「何やってんの? 川島サン」

 声をかけられ、悲嘆にくれかけていた麻子ははっとして顔を上げる。

 自転車に乗った、ジャージ姿の桐谷匠がへらへらとした笑みを顔に貼り付けてこちらを見下ろしていた。

 麻子は慌てて立ち上がる。公道の上に座り込んでいるのはあまりお行儀のいい姿とはいえまい。

「桐谷君、ここってどこ?」

「ん? 北雲だけど」

 それを聞いて麻子はほっと胸を撫で下ろした。北雲町は麻子の住む泗泉町の隣町だ。

 桐谷の視線が、何故こんなところに座り込んでいたのかという最初の質問の色を残していたので、麻子は何とか取り繕おうと口を開く。

「えっと、散歩してたら迷っちゃって。もうくたくたになるくらい歩いてたから、その。あ、桐谷君はこの近くに住んでるの?」

「まあ近くっちゃあ近くだけど、俺は西日にしび。北雲には阿瀬が住んでる」

 阿瀬といえばさ――と桐谷は続ける。

「あいつこの休みの間ずっとすんげえ熱出して寝込んでるだって」

「え、大丈夫なの?」

 桐谷は笑う。

「もう峠は越えたみたいだよ。春休み殆ど棒に振ったっつって悔しがってた」

 やはり友達のことは心配になるのか。麻子がそう訊くと、桐谷はへらへらと笑みを浮かべたまま表情を歪めた。

「ずっと一緒にいただけの奴を、友達って呼ぶのかな」

 泗泉はさ――桐谷は麻子の方を見ずに続ける。

「保育園から中学校まで、それこそずっと全員同じなんだよ。その間俺達の中で、友達なんて単語は一度だって出てこなかった。俺があいつに『俺達友達だよな?』って訊いたら、あいつは真顔で『違う』って言うかもしれねえ」

 そこで我に返ったのか、桐谷はがばと顔を上げて、自転車のペダルに足を乗せる。

「やっべえこれから部活だった。じゃあまたね。川島サン」

 そう言って桐谷は全速力で自転車を漕いでいく。

 部活ということは、桐谷の向かったのは学校の方角となる。つまりそちらが麻子の家の方角ということで間違いないだろう。迷ったと言っている麻子を置き去りにしていくのは桐谷らしいといえば桐谷らしい。

「麻子、大丈夫か? 道わかるか?」

 麻子の隣で空中に浮いている新龍が聞いてくるが、多分大丈夫だと麻子は言った。

「それより麻子、もう朝だぞ。父さんと母さんは大丈夫か?」

「あ! 大変! 気付かれない内に帰らないと! お兄ちゃんなんでもっと早く言ってくれないの!」

「酷い! お兄ちゃんのガラスのハートは――」

 麻子はぶつぶつ文句を言う新龍を置き去りにして慌てて見知らぬ道を駆け出した。




 笑い転げる神野を山本は怪訝な目で見ていた。

 川島麻子がいなくなった途端、それまで必死に堪えていたかのように、神野の笑声が爆発した。

 それからずっと、山本の声も無視して笑い続けている。

「妖怪か。妖怪――妖怪――うははははは」

「何がそうまでおかしいというのだ」

「ふふ……なに、呪いは十二分に効いているようだと思ってね」

 哀れじゃないか。

 滑稽じゃないか。

 そう言ってまた笑い転げる。

「まあ確かにお前の思考は理解出来る。お前の眷属達の一部は行き場を失っているのも確かだ。それを妖怪などと十把一絡げにすることも、お前の呪いを鑑みれば当然といえば当然だが――やはり、笑いを禁じ得ない」

「何を言っているのか、まるでわからん」

 それがまたおかしいのか、神野は一際大きな声で笑った。

「これが――これが最古の、最大の、根源の、なれの果てか! それを思うと『山本五郎左衛門』というのは実によく出来ている」

 神野は漸く笑いを収め、そうそう件のことだが――とこれまでの話を無視して切り出した。

「麻子が件を見たんだって?」

「ああ、あの娘はそう言っていた。近い内に沢山人が死ぬ――と」

「件の予言は外れない」

「そう。だから奴が現れるのは余程のことが起きる前」

 神野はそこでまた笑う。ただ、今度の笑みは前とは違う。

「麻子が死ぬのではなくてよかったよ」

「お前、随分あの娘に入れ込んでいるようだが、目的はあの力か?」

「なあに、ただ単に気に入ったというだけの話だよ」

 神野は笑みを浮かべたまま、小さく呟く。

「世界が震えた。何が起きるか、楽しみだ」

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