第6話 戦境異聞
1
『今夜決闘を申し込む』と書かれた紙が、勉強机の上に置かれていた。
川島麻子はさっぱり訳がわからず、紙を裏返してみたり、他に何か書かれているのではないかと隅々まで目を走らせたが、本当にその一文だけしか書かれていなかった。
「ねえ麻子ぉ、それなあに?」
頭の上から子供のような柔らかい声がする。
「なんだろうね?」
麻子の頭の上には、それはもう巨大な蜘蛛が乗っていた。足を綺麗に折り畳んで漸く麻子の頭の上に収まっているという化け物じみた巨大さであり、実際化け物――妖鬼の類である。
今はもう夜である。学校から帰ってきて机の上を見るとこの紙が置かれていたのであり、するともうその決闘の時刻ということになる。だが麻子にとっては寝耳に水であり、そもそも決闘を申し込まれる謂われもない。
取り敢えず着替えてゆっくり風呂にでも入ろうと制服を脱ごうとする。
「タマ、服脱ぐから」
麻子が言うと、蜘蛛――タマは身を縮こませて麻子がブレザーとブラウスの間に着ているセーターがつっかえないように気を配る。この辺りは長年の付き合いで阿吽の呼吸というやつである。
「おい、無視すんじゃねえええ!」
部屋の中に男の声が響き、麻子はびくりと身体を震わせる。誰かがいる。
「麻子、窓、窓!」
脱ぎかけのブレザーにもう一度袖を通し、麻子はタマが指し示す窓の方に近付いていく。
麻子より年下だと思われる少年が、窓に思い切り顔を張り付けていた。
麻子はぎょっとして一歩後ずさる。この部屋は二階であり、普通に考えてそこの窓に顔を押し付けるのは無理がある。
「な、何?」
「その紙! 読んだんだろ」
顔全体を窓に押し付けているせいで、不自然に歪んだ表情になっている。
「あなたが置いていったの?」
「そうだよ! もし気付かなかったらと思って、それを置いてからずっとこうやって見張ってたんだ」
それでは置き手紙の意味がまるでないではないか。
「変な人ー」
「俺は元から変なんだよ」
そう言ってまたぐっと顔を近付ける。ガラスに潰されて、一層変な顔になる。
「読んだんだよな。なんて書いてあった!」
「こ、『今夜決闘を申し込む』――」
「そうだ! だから決闘だ決闘」
「いや、そんな急に言われても……」
「急だあ? こちとら昼間っからずっとここに張り付いてんだぞ! 散々待たせた挙げ句にその言い草はなんだってんだ畜生め!」
「えっと、まずあなた人間じゃないよね?」
タマの言葉を聞き取ったし、そもそも今こうして窓に張り付いている時点で人間とは思えない。
「仙童とでも天狗小僧とでも呼べ」
「天狗なんだ」
「ちょっと違ぇし、元は人間だ」
なるほど、だから姿形が普通の人間と変わらないのだ。だが人間ではないのは事実。
「私は妖怪から決闘を申し込まれて受ける程危機感がない子じゃないよ……」
「俺の苦労は!」
「いや、あの、お疲れ様でした、とだけ」
少年は両手を窓に当てて、ぐっと力を込めようとする。麻子ははっと窓の鍵が開いていることに気付き、即座に施錠する。
「おい! 開けろ! 開けろよう!」
朝部屋を出た時は確かに鍵をかけておいたから、この少年は部屋の中に置き手紙をして、窓から外に出たのだろう。それでそのままこうして窓に張り付いている訳だ。それならずっと部屋の中にいればよかっただろうに。
――悪い人じゃない……かも。
単に浅はかなだけなのかもしれないが。
「そもそもなんで決闘なんて申し込もうと思ったのか、話だけなら聞いてもいい……かな」
「それならここを開けろ!」
どうせ元は開いていたのだから、別に構わないだろう。危機感がないとは思うが、話は伝わるようだし、いざとなればタマがいる。
窓の鍵を外してやると、少年は漸く窓から顔を離して中に入ってきた。
背は麻子と同じくらいだから、男子としては低い部類に入るだろう。ただ、あどけなさの残る顔を見ると中学生くらいと判断出来るので、これから伸び盛りがやってくるのかもしれない。
服装は柔らかそうな茶色のセーターに黒のチノパンというごく普通なもので、一目では人間でないとは見抜けないだろう。
ふん、と大きく鼻を鳴らし、少年は部屋の真ん中に胡坐をかく。
麻子は勉強机の椅子に腰かけ、少年に話を促す。
「俺ははぐれ者だ」
少年はそのあどけない顔からは想像も出来ない程に深い憂いを含んだ声で切り出した。
「仙童だとか天狗小僧だとか呼ばれたが、要はこっちとあっちの狭間に漂う浮草だ。最初こそ周りから持て囃されたが、その内みんな興味をなくして離れていった。そして気付いた時はもう人間には戻れねえとこまで来て、幽冥界で生きていくしかなくなった。俺は仙人にも天狗にもなり切れず、半端者のまま漂ってる」
そこで少年は口を閉じ、麻子の言葉を待っているようだった。
麻子には正直、少年の話がよく理解出来ない。
元々察しが悪いことは自覚もしている麻子ではあるが、それを差し引いても少年の話は不明瞭だ。
「は、はあ、大変だね」
だからこんな間抜けな返答しか出来ない。
それを聞くと、少年はぐっと身を乗り出し、一気にまくし立てる。
「そうなんだよ。だから俺は俺と同じように異界に触れている人間に決闘を申し込むんだ。これは俺の存在証明、唯一の生きがい、魂の戦いなんだよ! さあ決闘だ、いざ決闘だ、今決闘だ」
「近い近い!」
立ち上がりこちらに迫ってくる少年から逃れるように麻子は後ろに身を引くが、これ以上迫られたら後ろにすっ転ぶというところでタマに助けを求めた。
「こらー、麻子をいじめるなー」
タマが少年の顔に飛びついてしがみつく。それで少年は仰け反り、麻子は体勢を元に戻すことが出来た。
「ぐふっ――いい加減離れろよ!」
八本の足でがっちりと顔面に固定されたタマはちょっとやそっとではビクともしない。少年が溺れるように手を掻くので、麻子はこれ以上は危険だと判断する。
「タマ、もういいよ」
「はーい」
明るく言ってタマは麻子の頭の上に飛び乗る。
「っふあ! 何してくれてやがんだ! 危うく死ぬとこだったじゃねえか!」
「じゃあこれで終わりでいい? 私の勝ちでも引き分けでもどっちでもいいから」
「馬鹿野郎! こんな決闘があるか!」
麻子は思わず溜め息を吐く。
「そろそろ帰ってくれないかな……。私は決闘する気なんてないよ」
少年はきっと麻子を睨む。
「その気にさせといてこの仕打ちはあんまりだ!」
「いや、私最初からその気はないって言ってるよ……」
そこで少年ははっと顔を上げ、
「嗅ぎつけたな!」
と声を上げ、麻子の手を掴んで立ち上がる。
「ちょ、ちょっと! 私はやだって――」
「今は黙ってろ。〝天狗攫い〟!」
少年がそう言うと、途端に景色が捻じ曲がり、空を飛ぶような浮遊感が麻子を襲った。
2
「ここは――青川?」
背の低いビル群が並び立ち、どこか乾いた印象を与える。それは夜でも変わらない。駅の近くの小さな繁華街ならば湿っぽい灯りが漏れ出るのだろうが、この辺りは無味乾燥なビルからの灯りが遠くに見えるだけだった。
「ここならひとまずは安心だ。火のおかげで近付ける奴は少ねえ」
少年はそう言って麻子の手を放す。
というか――
「私を攫ったの?」
麻子は少年を睨み、ぐっときつい顔をする。
「仕方なかったんだよ。尾けられたらやばかったんだ。あ、そうだ。せっかくだからここで決闘しようぜ」
少年は途端にはしゃぎ出す。前半に何か臭わせるようなことを言っておいて、この切り替えの速さである。
麻子は部屋からこの街中へと飛ばされた。なので靴も履いていない。ポケットに財布は入っているから電車で帰ることは出来るが、靴下のまま電車に乗るのは気が退けた。恥ずかしさを殺してどこかの店で靴を買うという手もあるが、それには財布の中身があまりに心許ない。バイトもしていない高校生のお財布事情は厳しいのだ。
困った。溜め息を吐く。
「ねえ、家に帰してくれない? ほら、さっきみたいに」
少年に頼むが駄目だと一蹴される。
「暫くはこの火の海の中に身を潜めておかなきゃやばい。完全に撒けるまでは駄目だ」
何を言っているのかいまいちわからない。ただ、わかることはある。
「もしかして、私はあなたのごたごたに巻き込まれたの?」
「半分合ってる」
「半分?」
少年は無理矢理話を打ち切って、それより決闘だ――と気炎を上げる。
「何で勝負する? 殴り合いか? 化かし合いか?」
「いや、決闘するなんて一言も言ってないし……」
「ボクねーボクねー、追いかけっこってしてみたい」
タマが嬉々として言い出すと、少年はにやりと笑う。
「そっちはやる気みたいだな」
「ちょっと待って! タマ! 何言ってるの!」
麻子は慌ててタマの発言を取り消そうとするが、当のタマは麻子の頭の上で飛び跳ね、いかにもやる気満々だった。
「いいじゃん麻子ぉ。暫くは帰れないんでしょ? その間ヒマだから、遊びたいの」
「遊びじゃねえぞ。やるからには真剣勝負だ」
「いいよー。シンケンショウブだー」
何故か麻子を除け者にして両者の間で話が纏まりつつある。
「じゃあ俺は今からこの街を逃げ回る。時間はそうだな――三十分だ。その間に俺を捕まえられたらお前らの勝ち。逃げ切れば俺の勝ちだ」
いいな、と少年が言って、
「いいよー」
とタマが了承する。
「十秒経ったら追いかけてこい。まあ――」
少年はにやりと笑い、宙に浮き上がる。
「追いかけられたらな!」
そのまま風のようにビルの間を飛んでいく。
麻子は、もう開き直っていた。
タマが勝手に話を進めて始まった決闘――という名の鬼ごっこである。麻子にはもはや関係のない話だ。それに、決闘の勝敗にこだわる意味もない。三十分間、ここでじっとして負けを認め、家に帰してもらえばいい。
「麻子ぉ、もう十秒経ったよね?」
タマが訊いてくるのを、麻子は息を吐いて返す。この勝手気ままな麻子の最初の友達に、もう少し分別を持ってもらうように頼まなければならない。
「経ったよね? よーし、じゃあ追いかけるぞー」
「え?」
思わず声が出る。
少年は空を飛んで逃げている。それを追いかけて捕まえるなど、到底不可能だ。
まず、麻子とタマは麻子の身長以上の距離を離れることが出来ない。つまり追いかけるのならば麻子がやる気を出さなければ話にならない。だが当の麻子はげんなりと脱力している。
「ふふふ、麻子、口を閉じておかないと危ない――よっ!」
タマの言葉と同時に、麻子の身体は宙を舞った。
「うひえええええ」
何が何だかわからず、麻子は絶叫する。
気付くと麻子の身体はビルに張り付くように宙ぶらりんになっている。肝が冷える思いをしながら上を見ると、タマが張り付いていた。
「ちょ、ちょっとタマ! 何がどうなってうひえええええ」
また宙を舞う。だがタマの姿を見上げていて何とか状況を理解することは出来た。
タマは尻から糸を飛ばし、それが付着したビルの上層階の外壁へと糸を吸い込むことで飛んでいるのだ。
昔に見た、今でも時々テレビで放映する映画のスーパーヒーローが如く、ビルの間を飛んでいく。
麻子とタマは一六〇センチメートル以上離れることが出来ない。それは麻子が主体にあると思っていたが、どうも違うらしい。タマが動けば、それに合わせて麻子の身体が引っ張られる。その結果通常ではありえない動きを体験している訳だ。
ビルからビルへ、次々に飛び渡っていくタマだが、麻子はとてもじゃないが平静を保っていられない。
「た、たしゅけて……」
3
慣れというものは恐ろしいもので、寿命が縮むのではないかという程の恐怖の連続でさえ、長い間味わっていればその身に落とし込むことが出来る。人間というものはよく出来ているなあ――などと麻子は感慨にふけっている。
タマは何度もビルの間を飛び回り、それに付き合う形で麻子も宙を何度も舞った。それが何度も何度も続く内に、とうとう麻子は慣れてしまった。
勿論、怖いことに変わりはない。命綱があることがわかり切っていようと、バンジージャンプは怖いものだ。麻子はバンジージャンプをやったことはないが、今の状況はそれより何倍も怖いだろうと思う。
だが、麻子はもう慣れている。タマが飛び回っても、前のように情けない悲鳴を上げることはない。楽しい訳はなく、ただただ怖いだけだが、それでもその中で平静を保つことは出来るようになった。
なので今、タマが夢中で興じるこの追いかけっこについても冷静に分析出来る。
少年は自在に宙を飛び回り、対するタマ――と麻子――は高いところを飛ぶにはその分高いビルに糸を垂らさなければならない。ビルがなければ空中戦を行うことは出来ないのだ。
ただ、青川市街地にはそれ程高いビルはない。どれも中くらいの高さの半端なビルで、もし少年が高く舞い上がればとても手出しが出来ない。
だが、少年の方もそれではつまらないのだろう。飛行する高度は常にビルの頂点よりも下に保っている。
「ははは! どうした! 全然追いつけてねえぞ!」
身体をこちらに向けて飛びながら、少年は挑発をかけてくる。タマはむうと唸り、少年が非行する先にあるビルに糸を貼り付ける。
「もう十分くらい経ったよね?」
タマの一六〇センチ下で麻子が言うと、タマはわかんないと声を上げる。ブレザーの内ポケットに携帯電話が入っているが、この状況で取り出して時間を確認する気にはならなかった。落としでもしたら即お釈迦になる。
麻子の体内時計を信用するなら、タマが少年を捕まえない限り、あと二十分この空中散歩が続くことになる。いくら慣れたとはいえ、こんな絶叫マシーン顔負けの恐怖の連続を長引かせるのは辛い。
麻子は全身に風を受けながら、目を凝らして前方を浮遊する少年を見据える。
今まではタマが自分で考えて少年を追っていたが、それは拙い狩猟本能に任せた直線的な動きしか生み出さない。
ならば――麻子はタマがビルの壁に張り付いたところで、声を張り上げた。
「タマ! 右のビルに回り込んで!」
タマは麻子の言葉に従い、少年が飛んでいく方向からは逸れたビルに糸を飛ばす。
麻子達の方を向いて飛んでいた少年は、麻子とタマが視界から消えたことで戦意を喪失したのかと疑った。これまでは愚直に少年を追ってきていたのが、急に方向を変えるというのも妙だ。もう追いつけないからさっさと地面に降りて降参した――そんな疑念が湧き上がり、少年は麻子とタマが消えたビルの方へと飛んだ。
「来ると――思ってた!」
麻子は少年が飛んできたのを見て、そう声を上げる。打ち合わせ通り、タマは少年が旋回出来ない内にその身体に糸を飛ばす。直接糸が付着した少年の許まで飛び、麻子とタマはその身体に触れる。
――捕まえた!
麻子とタマが同時に声を上げると、少年はその重さに耐えかねたように落下していく。
麻子は少年の身体に掴まったまま、地面へとまっさかさまに落ちていくのを感じ、思い出したかのように情けない悲鳴を上げた。
4
「とんでもない無茶するな」
呆れたというより、もう怒っていた。
麻子は叱られた子供のようにしゅんとうなだれて、はいすみませんと呟いた。
地面に落ちていき、直撃しようかという直前で、少年は身体を立て直した。何とか空中で一旦停止し、凶悪な位置エネルギーの縛めから解き放たれ、着地した。
一歩間違えれば全員墜落死である。
少年は決闘の勝敗云々より、麻子とタマの向こう見ずが過ぎた行動に文句を言わねば気が済まないようであった。
麻子にしても、自分の行動が軽率であったと今は真剣に反省している。少年を捕まえなければあの恐怖の連続から解放されないという状況で、どうにか早く終わらせるようにと知恵を絞った結果があれだった。少年が落下を始めた時になって漸くその危険性に気付いたが、もう遅かった。
少年は一頻り麻子に文句を言い終えると、大きく息を吐いて腰に手を当てた。
「まあ、手段は酷いが、結果は結果だ。決闘はお前らの勝ち。負けちまったから、何でもお前らの言うことを一つ聞いてやるよ」
そんな褒賞が出るとは初耳だ。
「じゃあ、家に帰して」
「は? そんなんでいいのか?」
「いいの。妖怪相手の取引はロクなことにならないから。いいよね、タマ?」
「うん。ボクはどうでもいいよー。楽しかったし」
少年は目を閉じ、思案顔になっている。ぱっと目を開けて、よしと頷く。
「撒いたみたいだ。もう安全だな」
「ねえ、あなた何かに追われてるの? さっきも何かそんなこと言ってたし」
ああ――と苦い顔をして、少年は頭を掻く。
「まあ、追われてるのは俺。狙われてるのはお前――だな」
「え?」
少年は麻子がそれ以上の疑問を口にしない内に手を取る。風景が捻じ曲がり、あの浮遊感が再び麻子を襲った。
気付くと麻子は自分の部屋に立っていた。少年は麻子など無視したかのように窓を開けて、今にもそこから飛び立っていきそうだった。
「あの――」
「気を付けろよ」
少年はこちらを見ずに言う。
「あんまり口走ると俺もやばいからな。言えるのはこれだけだ」
「名前――」
麻子が呟くと、少年は怪訝な顔をしてこちらを向いた。
「あなたの名前、聞いてないから。知っときたいなーって」
少年は小さく笑って、照れるようにしながら口を開いた。
「
それだけ言い置くと、闇の中へと飛び去っていった。
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