第5話 月に住む男


「月って、どうやったら行けるでしょうか……?」

 川島麻子が真剣な面持ちで言うと、風雲寺の住職はその恐ろしい顔を呆けたように弛緩させて首を傾げた。それでも顔は怖いのだから堂に入っている。

「月っていうと、あの月かい?」

「月です。ムーン」

「そりゃあ――無理だよ。アポロ計画以降、月に行った人はいないんだから。今の技術でも行けるかどうか怪しいなんて言われてるくらいだ。まあ麻子ちゃんが今から必死になって目指せば将来的には可能かもしれないが――」

「それじゃ駄目です。今すぐ、次の満月までに」

「そりゃあ――無理だよ」

 無理ですよね――と麻子はうなだれる。

 住職は思い悩む様子の麻子を見兼ねて、視線を麻子の頭の上に移動させる。

 そこには、それはもう巨大な蜘蛛が、足を窮屈そうに折り畳んで乗っていた。

「どういうことなんだい? タマ」

「うんとね、月に男がいるんだってー」

 子供のような無邪気な蜘蛛――タマの声を聞き、住職は得心したような腑に落ちないような声を上げた。

「月に男がいるっていうのは、例えば月の陰がウサギが餅をついているように見えるっていう類の話かな? となると、桂男かつらおとこか」

 悄然としていた麻子は住職の言葉を聞いて思わず身を乗り出す。

「そういう妖怪がいるんですか?」

「ああ、いることはいるよ。でもその前に、なんだって月に行きたいなんて話を始めたのか、最初から詳しく話してくれないかな」

 麻子は思わず顔を赤くして居住まいを正す。気が逸っていきなり意味不明な話を始めていたのだと気付いたのだった。

「この前の大晦日、半月でしたよね」

 麻子はそう言って、一週間前の夜の記憶を手繰り寄せる。




 除夜の鐘がどこか遠くから聞こえてくる中、麻子は公園のグラウンドの中央で盛大に燃える焚火に手を翳していた。

 北雲きたぐも公園はこの一帯で一番の敷地を持ち、正月のどんど焼きもここで行われる。大晦日に注連縄などを燃やす訳ではないが、隣接する神社に初詣に訪れる人々の暖のため、どんど焼きのために掘られた穴に火が入れられているのである。

 麻子もこの神社に初詣に来た口だ。大の宗教嫌いの父親は毎年いい顔をしないが、麻子はもう別段気にならなくなっていた。父も口に出して麻子の人並みの信心を糾弾はしないし、麻子も父に食ってかかるようなことはしない。

 ただしそれで家に一人残されるとまた別の理由で機嫌が悪くなるので、家には母も残っている。二人でテレビを見て年明けを迎えるのだろう。夜中に若い娘が一人で外を出歩くという点は、大晦日という人が多い特殊な夜だというのと、元来麻子の自由に任せているということもあって何も言われることはない。麻子は夜遊びなどやったこともないが、メールで連絡を入れておけばきっと二人共何の心配もしないだろう。

 携帯電話をポケットから取り出して時刻を見る。午後十一時五十分すぎ。そろそろ年が明ける。

 ふと、焚火から離れた光の殆ど届かないところを妙な体勢で歩いている人影が見えた。目を凝らしていると、ふっと上から光がその人物を照らした。上空を口を半開きにしながら呆けたように見つめ、そのままふらふらと歩いているのだ。

 空を見ると、先程雲から顔を出した下弦の月が煌々と輝いていた。

「阿瀬君……?」

 もう一度その夢遊病者のような足取りの男に目を向けると、どうも麻子の知っている顔だ。

 阿瀬直人は月を見上げたまま、公園の端の方を酔っぱらったように歩いていく。

 その様子がどうも妙だったので、麻子は焚火から離れてそちらに向かった。

 低木の茂みの辺りで姿を見失い、どうしたものかと頭を悩ませていると、ほう、と嘆息が聞こえた。

「月が綺麗だなあ」

 うっとりとしたその声は、すぐ足元から聞こえた。暗い茂みに目を凝らすと、阿瀬が低木に寄りかかるように腰を下ろし、やはり空を見上げていた。

「あ、阿瀬君?」

 麻子が声をかけても、目をこちらに寄越さない。

「月が綺麗だなあ」

 もう一度、夢の中にいるようなふわふわした口調で言う。遠くで歓声が上がった。年が明けたのだ。

「月に、男がいる」

 今度の言葉は地に足の着いたしっかりとしたものだった。

 麻子はこんな場面を誰かに見咎められたら絶対に誤解されるとひやひやしながら、阿瀬の言葉に訊き返す。

「男?」

「迎えに来るんだ。次の満月に」

 阿瀬はそう言って、抑揚のない顔の中で悪目立ちする大きな目を見開いて月をずっと見つめ続けた。

 麻子は阿瀬をどうにか別の場所に連れていこうと引っ張ったが、どこへ連れていっても月を見上げたままだった。結局そのままずっと一緒にいる訳にもいかず、神社の前で別れることにした。阿瀬は空を見上げたままのおぼつかない足取りだったが、何とか歩いて帰っていった。

 一月四日、麻子の通う青川南高校は進学校ということもあり、この日から自習室が開放される。麻子はそこまで勉強に熱心という訳ではないのだが、友人の渡辺香に誘われたこともあって、午後から自習室に顔を出すことにした。当然自習室の中は私語厳禁だが、息抜きのために自習室になっている教室を出て渡り廊下などで雑談をすることもある。そんなことを繰り返していると、いつの間にか陽が暮れていた。

 麻子はきりの悪いところで小休止を挟んでいた課題を終わらせてから帰ろうと決め、他の友人達に先に帰ってくれて構わないと言って自習室にこもった。しかしこの課題になかなか手こずり、終わった頃にはもう自習室に麻子以外の人間はいなかった。

 何とか片付いた課題を鞄に入れ、自習室を出る。校舎の裏の自転車置き場に出て、自転車に跨り校門を抜ける。

 外灯も少ない暗い道を走っていくと、前方に人の影を自転車のライトが照らした。慌ててブレーキをかけるが、前輪がその人物にぶつかる。その相手は力なく地面にへたり込んだ。

「すみません! 大丈夫ですか?」

 相手は立ち上がらない。呆けたようにただ上空を見ている。

 ――あれ?

「月が綺麗だなあ」

「阿瀬君……?」

 阿瀬が地面にへたり込んでいる。麻子はその顔を見てぎょっとする。

 生気が、まるでない。

 死人のような顔をしている。虚ろな目が空を見上げるばかりで、その身体からは全く生きた人間の感じがしないのだ。

「阿瀬君!」

 麻子が思わず大きな声で名前を呼ぶも、阿瀬は反応を見せない。

「迎えに来るんだ。次の満月に」

 そう言って、ぼんやりと月を眺めるのだった。




 住職はただでさえ怖い顔を凶悪に顰める。

「また彼か――」

 麻子は頷き、真剣な面持ちで言う。

「このままだと、阿瀬君は――」

「ううむ、大丈夫だとは思うんだがね」

 住職はそう言って、桂男――と妖怪の名をそらんじた。

「元々はインドの伝承で、月の陰が男に見えたんだね。それが中国を通じて日本にも入ってきた。満月でない時に月を長く見ていると桂男に招かれると言われている」

「招かれると……どうなるんですか」

「寿命が縮まる」

 麻子は驚いた声を上げる。

「それって、大変じゃないですか!」

 住職は軽く笑って慌てる麻子を制した。

「多分大丈夫だよ。寿命なんてそう易々と奪われるものでもないし、そもそも自分の寿命なんて端からわからないんだ。縮んだところで気にならないさ」

「でも、それじゃあ阿瀬君が――」

 あのねえ――と住職は怖い顔をする。いや、普段から怖い顔なのだが、今は自分から怖い顔を作っているのだとわかった。それでも普段が怖すぎるだけに、慣れている麻子には思ったよりは効果がないようだった。

「麻子ちゃんはどうしてそうも他の子を心配するんだい。麻子ちゃんはただでさえ『見える』んだから災いを呼び寄せやすいんだ。他人の災厄まで背負いこんでたら、それこそ身が持たないよ」

「でも、私は――」

「恐らく次の満月に阿瀬君は解放されるだろう。それまでは夜中にふらふら出歩いて月を見続けるちょっと素行不良な子になるというだけだ。この辺りは治安もいいし、最悪警察に補導されるだけじゃないか」

「寿命は?」

 住職は大きく溜め息を吐く。

「だから寿命なんて傍から見ても自分自身にもわかるもんじゃないんだって。そんなあやふやなもののために麻子ちゃんが頭を悩ます必要もないだろうに」

 それとも――と住職は真面目な顔になる。どんな顔をしてもやっぱり怖いことに変わりはない。

「その阿瀬君というのは、麻子ちゃんにとってよっぽど大切な人なのかい?」

「はぇっ?」

 思ってもみない質問に、麻子は奇声を上げた後で何か言おうとするが咳き込んでしまう。

 阿瀬は中学の時三年間同じ塾に通っていたが、当時言葉を交わしたことはなかった。きちんと話をするようになったのは、去年――もう去年になるのだ――の九月に帰り道で出会ってからだ。その時阿瀬は妖怪に襲われ、麻子が何とか食い止めた。

 その後も阿瀬はちょくちょく厄介事を持ってくる。阿瀬は普通の人間に比べて霊的抵抗力が著しく低く、妖怪を呼び寄せやすいのだ。以前一回妖怪に完全に取り憑かれ、麻子と住職で苦心して落としたこともある。

 そういった訳で、麻子は阿瀬に妙な親近感のようなものを覚えている。阿瀬は麻子と違ってそういったものを見ることはないし、麻子からそのことを話すこともないだろうが、なんとなく近しい感覚がある。

 そうしたことを理路整然と住職に伝えられればよかったのだろうが、住職の思わぬ言葉に完全に混乱した麻子はただ違う違うと激しく首を振った。

「そ、そういうことじゃないんです!」

 麻子は恋愛というものがまだよくわからない。恋をしたと自覚したこともないし、恋に恋したこともない。勿論阿瀬に対する感情はそういった類のものではないと断言出来る――と思う。

「と、とにかく、私が何もしないせいで阿瀬君の寿命が縮んじゃ後味が悪いですよ」

「ううむ、麻子ちゃんがそんなに懸想しているなら師匠の僕が黙っている訳にもいかないか」

「弟子になった覚えはないんですけど……。あと懸想って、そういうのじゃないですから本当に」

 住職は笑って一度立ち上がり、茶を淹れて戻ってきた。

「しかしねえ、僕はご存知の通り見えるだけで何も出来ないんだよね。相手が月にいるんじゃ尚更だ」

「次の満月までに何とかしないと駄目なんです。何とかなりませんか?」

「何とかと言ってもねえ。あ、そうだ、今日から学校だったんだろう?」

 麻子の制服姿を見ての発言だろう。確かに今日が始業式で、通常の授業はなかったので午前中に帰り、そのまま風雲寺に寄ったのだ。

「阿瀬君の様子はどうだったんだい?」

「普通でした。びっくりするくらい」

 遠目に確認すると、阿瀬はいつも通り酷い猫背だったがしっかりと意識を保っていた。冬休み中に麻子が見かけたあの呆けたような様子は微塵も感じさせず、至極まともに行動していた。

「多分、月を見てる時だけあんな感じになるんだと思います」

「そうか。じゃあ今日はどうなんだろう」

 どういう意味かわからずに麻子は首を傾げる。

「明日が新月だから、今日なんか月は見えないよ」

「そうなんですか?」

 住職は頷き、一つ溜め息を吐いた。




 これはきっと、夜遊びとは呼ばない。

 住職に相談してから三日後。三日月が沈んでいこうとする日暮れ後すぐに、麻子は泗泉町から北雲町の辺りを歩いて回っていた。

 月を見上げている阿瀬を見つけたのは、最初に異変に気付いたのと同じ北雲公園でだった。

 グラウンドの真ん中で、呆けたように立っている。

 麻子が声をかけても反応を示さない。ただ月を魂が抜けたが如く見つめている。

 麻子も同じように月を見上げてみる。それは今にも潰れそうな細い三日月で、その中に男など見出すことは出来ない。

「阿瀬君、何が見えるの?」

 一応訊いてみると、阿瀬は意外にも返答を寄越した。

「月に、男がいる」

 ただ、それは以前と同じ気の抜けた返事でしかない。そしてやはり、こう続ける。

「迎えに来るんだ。次の満月に」

 そして寿命を奪っていくのだろう。それは絶対に避けなければならない。

 それから毎夜、麻子は外に出て阿瀬の様子を窺っていた。阿瀬は毎回北雲公園にいて、麻子が声をかけてもろくな言葉を発しない。

 夜に家を出る言い訳は考えていなかったが、両親とも何も言わなかった。どうやら麻子の普段の素行を鑑みて完全に安心し切っているらしい。これで麻子が毎夜男子に会いに行っているのだと、ある意味では本当のことを知ったら目をひん剥いて驚くだろうなと少し良心が痛む。

 だが、これは決して遊んでいる訳ではないのだ。阿瀬の寿命が懸かった、重大な問題である。その問題をどうにか解決しようと苦心しているのであるが、結局毎晩何の打開策も浮かばずに悄然と家路に着く。

 そこで麻子はもう腹を括り、直接対決に持ち込もうと考えていた。

 満月の夜、桂男は阿瀬の許に降りてくる――はずだ。ならばその時を狙い、タマの力で桂男を撃退し、阿瀬を呪縛から解き放つ――というのが麻子の最終プランだった。

「月に男なんていないよ。ファンタジーやメルヘンじゃないんだから」

 今夜がいよいよ満月だというその日、麻子は学校で当事者その人からこう言われた。

「は?」

 真昼間の学校。当然月は出ていないし、阿瀬は顔色こそ悪いものの平常通りの様子である。

 麻子は最後の確認にと、阿瀬が一人になった時を見計らって近付き、

「月には男がいるんだよね?」

 と訊いてみた。

 阿瀬にはどうやら月を見上げている自失状態の間の記憶はないらしく、麻子の質問に怪訝な顔をしたが、すぐに愛想よく笑みを作ってこう言ったのだ。

「え、あの、ごめん」

 麻子が一声発したのを聞いて、阿瀬はすぐに謝る。本来ならば謝るべきは突然訳のわからない質問をした麻子の方なのだが。

「いや――えっと――その、ごめんなさい。変なこと訊いて」

 阿瀬は相好を崩したまま自分の教室に戻っていった。

「月に、男なんていない――」

 麻子は阿瀬の言った言葉を呟いてみる。

 確かにその通り、もっともな意見である。アポロ十一号が月に行って、その乗組員が宇宙服を着て月面歩行をしたその時ならば月に男がいるということになるのだろうが、今現在月に在中の宇宙飛行士も、向かう予定の宇宙飛行士もいない。

 いや、麻子が関わっているのはそんな現実的な話ではない。伝承に受け継がれた妖怪の話である。

 ファンタジーである。

 メルヘンである。

 しかし、そうだとしても阿瀬の言った言葉は重く響く。何せ当事者が自身の言葉を全否定している。物に憑かれたような状態の時とまともな時を比べるのもどうかと思うが。

「あれ……もしかして」

 一人で考え込む麻子を心配したのかただ暇なのか、タマが甘えるような声で麻子を呼ぶ。

「タマ、今夜お願いね」

「任せてー」

 そう。どうやっても今日が最後だ。今更気付いたところでもう遅い。決戦は今夜。それだけは確かだ。




 月は真ん丸。夜道を煌々と照らし、くっきりと影まで出来ている。

 阿瀬は、やはり北雲公園にいた。東の空から昇ってくる満月を呆けたように見ている。

 月から男がやってくる気配は微塵もしない。阿瀬も特に何の反応も起こさず、ただ月に見入っている。

 麻子は阿瀬に近付くと、横からその不相応に大きい瞳を覗き込んだ。

 阿瀬の大きな瞳には、しっかりと満月が映り込んでいた。

 一度実物の満月を見てから、再び阿瀬の目に映る満月を見る。

 阿瀬の中の満月が、波立つように揺らめいた。

「気付いたか」

 阿瀬が口を開く。だがその目は真っ直ぐ満月に固定されたままで、口だけが別の生き物のように動いていた。

「月に男なんていない」

 麻子は阿瀬の目の中の月を見据えたまま言う。目を凝らしていると、阿瀬の目の中に靄のようなものが湧き立ち、それが人の顔のように形を作る。

「最初から、阿瀬君は憑かれていた。阿瀬君が月を見ている時にあんな風になったのも、全ては阿瀬君の中のあなたの仕業――そうでしょう?」

「ああ」

 阿瀬の口から漏れるのは、阿瀬の言葉ではない。この阿瀬の目に映った月の中という、恐ろしく小さな空間に姿を現した男が、阿瀬の口を借りて喋っているのだ。

「しかし、参ったよ。この男には取り上げるべきものが殆ど残っていないのだから」

「阿瀬君を、解放して。でないと」

「ボクが襲うよー」

 麻子の頭の上からタマが脅すも、特に慌てた様子はない。

「何、今日がその日だ。端からそのつもりだよ」

 靄が散っていき、満月がその顔を見せる。すると阿瀬の目に、生きた光が戻った気がした。

「うわっ!」

 阿瀬は仰天したように後ろに飛び退く。正気付いたその時、自分の目を麻子が至近距離で覗き込んでいたのだ。驚くのも当然だろう。麻子の方も、阿瀬が元に戻ったと気付くと急に恥ずかしさが込み上げてきた。

「か、川島さん? って、ここは公園――俺なんでこんなとこに?」

 さて、どうやって言い繕うか。麻子は苦笑しながら必死に思案することにした。




 住職は麻子の話を聞き終えると、難しい顔のまま笑って見せた。

「よかったじゃないか」

「よかった――んですかね……」

 阿瀬はもう夜中に出歩くことはなくなった。

 桂男も追い払った。

 だが――。

「満月でない月を眺めていると、桂男に招かれる。そういう話でしたよね?」

 住職は頷く。

「で、招かれると寿命が縮まる。ということは、阿瀬君はもう寿命を抜き取られた後だったんじゃないかって――」

「あのねえ、麻子ちゃんがそんなに気にすることはないんだよ」

 住職はいつもの怖い顔のまま、茶を一口啜る。

「寿命なんてものはわからないものだ。若くても老いていても、ある日突然死ぬなんてことはよくある話じゃないか。誰がいつ死ぬかなんてことは誰にもわからないんだよ。言ってみれば僕達は常に命の危機に晒されて毎日を生きている。気付かない振りをしてね」

「それは、確かにそうかもしれませんけど……」

 言い返せない。それでも、突然の死はやっぱり驚くし、悲しくもなるんじゃないか。

「もっと早く気付いていれば、無理矢理にでも桂男を祓っておけば、こんなに後悔することもなかったんじゃないかって――」

「いや、桂男の言葉を考えると、そうも言えないんじゃないかね」

 言ってから、住職はおっと、と口を押さえた。

「どういうことですか?」

 決まりが悪そうに、住職は目を逸らす。どうやら麻子を今以上に思い悩ます事実に気付いたらしい。

 麻子は桂男の言葉を思い出す。阿瀬から引き剥がすことばかりに頭がいって、あの妖怪の言葉をろくに取り合わなかった。

「――取り上げるものが殆ど残っていない」

 それはつまり、阿瀬にはもう寿命が殆ど残っていないという意味ではないか。

「まあ、端から寿命がなかったんだ。麻子ちゃんが気に病む必要はないんじゃないかな」

「そんな――」

「寿命は不変のものではないし、人に計れるものでもない。ふとしたことでいくらでも寿命は延びる。だから、麻子ちゃんが悩む必要はないよ」

 麻子は住職の言葉を信じることにした。信じれば、悩まなければ、阿瀬の寿命はあるべき長さになると思った。

 だから、これ以上考えるのは止めにした。仮令阿瀬がある日目の前で死んだとしても、このことは思い出さないと心に決めた。寿命などというあやふやな言葉に惑わされはしない。

 死の気配は、ゆっくりと近付いていた。

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