第3話 狐里霧中


 山は、もはや山ではなかった。

 太陽に照らされ、そびえ立つ大いなるものに対する畏敬。

 漆黒の闇の中で、さらに深い闇を湛える、人知を超えたものに対する畏怖。

 そんなものは、随分昔に消え去ってしまった。

 それはすなわち、やがて我々が存在すること自体が、不可能になってしまうことを意味していた。

 それも仕方がないと言うものもいる。時代が変わり、我々はもはや過去のものと化しているのだと。

 そんな馬鹿な話があるか。

 消えるのがわかっていて、何もせずにおずおずと消えるのを待つなど馬鹿げている。

 だから、山を降りることを決めた。

 何度も止められた。『下』は地獄だ、それこそ自らの死を早めるだけだとしつこく言われたが、むざむざ死ぬよりましだ。

 下に降り、必ず生き残る道を探し出す。

 そう誓って、山と仲間に別れを告げた。




 その日、青川南高校一年六組は、一枚の写真の話題で持切りだった。

 先日行われた文化祭で撮られたクラス全員の集合写真の中の一人の顔が、奇妙に歪んでいる、所謂心霊写真が見つかったのだ。

 川島麻子は件の写真を見て、思わず顔を引きつらせた。

「ね? すごくない?」

 写真の中で顔が曲がっていた張本人、渡辺香は笑顔でそう言った。

「う、うん。そうだね」

 麻子が必死で普通の表情を取り繕って答えると、写真は他のクラスメート達の手へと渡っていった。

「あれぇ? それだけ?」

 口元を歪めながら首を傾げて、鈴木志穂は麻子の肩に手を置いた。

「『あの』麻子ならこういうオカルトっぽいものにもっと興味津々かと思ったんだけどなー」

「え? 麻子ってこういうの好きなタイプだった?」

 驚いて訊く香に、志穂はそういうことじゃないと大げさにジェスチャーをしながら言った。

「香は中学からの付き合いだから知らないかもしれないけど、麻子って小学校の頃は――」

「ちょ、ちょっと志穂!」

 麻子はぎょっとして志穂の口を塞ごうとあたふたしたが、志穂は麻子に構わず話を続けた。

「早い話が、霊感少女だったの」

「えぇ! 何それ、すごいじゃん!」

「そうなの。何もないとこをずーっと見てて指差したり、誰もいない校庭に男の人がいるとか言ってさあ」

「……志穂ぉ」

 麻子は饒舌に語る志穂の名を、涙目になりながら恨めしげに呼んだ。

 麻子の様子に気付いたのか、嬉々として話していた二人がこちらを向いた。

「その話はしないでって、言ってたじゃない……」

「あ、そうだったっけ? ごめん、もう話しちゃった。あはは」

「あははじゃないよ……もう!」

「けどすごいじゃん! 麻子って霊感あるんだ」

 香が目を輝かせながら言った。

「いや、全然そんなことないから!」

 麻子は激しく首を振って否定した。

「何言ってんの。あんたに霊感がなかったら誰に霊感があるのって話じゃない」

 志穂が半ば呆れた顔で言う。

「そういえばあたしもいくつか思い当たる節が……」

「か、香まで何言ってるの……」

 実際のところ、麻子には志穂の言う通り幽霊や妖怪などと呼ばれる類のもの達を見ることが出来る力がある。

昔はそれが当然だと思い、隠すこともしなかったが、やがて自分が異常なのだと気付き、現在ではそのことを隠し続けている。

 当時のことを思い出すと、自分の馬鹿な行動の数々に顔が熱くなる。

 志穂はそんな言動を繰り返し、周囲から気味悪がられていた時代からの数少ない友人なのだが、どうも口が軽い。おかげで出来れば思い出したくない過去を思い出し、今のように必死に自分が普通の人間であることをアピールしなければならない。

「ねえねえ、じゃああの写真の原因とかわかったんじゃないの? あたしの知り合いはよくないものだから専門家に見てもらえって言ってたけど」

 香が目を爛々と輝かせて訊ねた。

「それは――まあ」

 麻子は思わず頷いた。あの写真の当事者である香は当然不安にもなるだろうし、それでテレビ等に出ているインチキ霊能者に頼られるよりは、ここで麻子が嘘でも大丈夫だと言った方がまだましだと思ったからだ。実際、麻子には香の顔が歪んでしまった理由がはっきりとわかっていた。原因は――

「麻子ぉ、お腹空いたー」

 麻子の頭の上からまだ幼い子供のような声がしたが、香と志穂は気付くことはなかった。否、この声に気付くようなら二人は麻子を見た瞬間に悲鳴を上げているだろう。

 麻子の頭の上にはそれはもう巨大でおぞましい姿をした真っ黒な蜘蛛が乗っていた。その大きさといったら、足を窮屈そうに折り畳んでようやく麻子の頭に収まっている程だ。

 この蜘蛛は昔、麻子がタマと名前を与えたことで生まれた妖鬼である。 どういう訳か両者は麻子の身長以上の距離を離れることが出来ず、こうして四六時中一緒にいる。

 タマはいざという時には麻子を守ってくれる非常に頼れる存在なのだが、時々悪戯をしたり、所構わず麻子に話し掛け来たりと厄介な存在でもある。それに一々構っていたら麻子は間違いなくただの奇人である。

 だから麻子はいつも通りタマの言葉を無視して話を続けた。

「うん……別に悪いものじゃないよ。たまたま通りすがりの霊が写っただけ」

「何だあ、よかったー。祟りでもあったらどうしようかと思ったよ」

 香はすっかり安心したように朗らかな笑みを浮かべていたが、麻子の言ったことは嘘だ。

 本当は写真を撮った時に香の前に中腰で立っていた麻子の頭の上に乗っていたもの――タマが写り込んでしまっていたのだ。

 しかし本当のことを言う訳にもいかないし、事実香には悪影響はないのだから適当なことを言って安心させたのだった。

「ほらね、言った通りだったでしょ?」

 志穂がにやにやと笑いながら言ったのを聞いて、麻子はしまったと思った。

 恐らくこれで二人にとって麻子は完全に霊感少女として認識されてしまっただろう。

 何もわからないと言って白を切った方がよかったかと思っても、もう遅い。

「まさかこんな身近に霊能者がいるとは思わなかったー」

「あの――香」

 楽しそうに大声で喋る香に、麻子はおずおずと話し掛けた。

「何? もしかしてあたしに何か憑いてるとか?」

「そうじゃなくて、あんまり他の人にこういうこと言わないでくれない?」

「えー、何で? すごいじゃん」

 首を傾げる香に、麻子は手を合わせて懇願した。

「お願い!」

「う――わかった。そこまで言うなら黙っとく」

 渋々といった感じで香が承諾すると、麻子はほっと胸を撫で下ろした。

「それから志穂! 前々から言ってるけど、そういうことを言いふらさないで。特に小学生の頃の話!」

「はいはい。わかったから」

 と言いつつも志穂は相変わらず笑みを浮かべていた。どれだけきつく言っても、志穂はずっとこの調子だということはわかっていたので、麻子はとりあえず志穂の言葉を信じることにした。

「あ! そうだ麻子、黙ってる変わりにさ、一つあたしのお願い聞いてくれない?」

 香がそう言って麻子の手を握った。

「お願い……?」

 麻子は恐ろしく厭な予感がして恐る恐る香に聞き返した。

「そうそう。あたしずーっと夢だったんだー。あのさ――」




 ぴったりと合わせられた二つの机の上に、五十音や数字が書かれた紙が置かれている。

 放課後、殆どの生徒が家に帰るか部活動へと向かい閑散とした一年六組の教室で、三つの影が紙の置かれた机を囲っていた。

 影の一つ、川島麻子は大きく溜め息を吐いた。

「何溜め息吐いてんのよ麻子ー」

 その隣で楽しみで仕方がないといった様子で顔を綻ばせていた渡辺香が麻子を小突いた。

「香、声大きい。隣で英語の補習やってるみたいだから静かにしないと。はい十円玉」

 財布の中を漁っていた鈴木志穂が、十円玉を紙に書かれた鳥居の上に置くと、香は唾を飲み込んで真剣な面持ちになった。麻子が香にされたお願いとは、一緒にこっくりさんをやってくれというものだった。何でも、霊感のある人間と一緒にこっくりさんを行うのが、香の長年の夢――香に言わせれば全人類共通のロマン――だったらしい。

 当然、麻子は断った。

 そんなことをすれば得体の知れない妖鬼が寄って来るに決まっている。

 しかし面白そうだと香の話に乗った志穂の強引さと、その話を頭に乗って聞いていたタマの食い意地に負けて、麻子は渋々承諾したのだった。

 どうせ寄って来るのは低級な雑鬼ばかりだろうし、それをタマが喰らうのだから、香や志穂に累が及ぶことはないだろう。

「さて――」

 声をひそめて香が言う。

「じゃあ始めますか。まずは十円玉の上に指を置いて」

 香が初めに指を置き、それに倣って二人も指を置く。

「よし。じゃあ呼ぶよ。こっくりさんこっくりさん、おいでください」

 志穂と麻子も香に合わせて呟く。

 ――こっくりさんこっくりさん、おいでください。

 香と志穂は何が起こるのかと十円玉を凝視していたが、麻子は辺り一面に意識を集中させていた。

 ――こっくりさんこっくりさん、おいでください。

 タマは麻子の頭の上で楽しそうに跳ねている。全く呑気なものだと麻子が小さく苦笑したその瞬間、空気が変わった。

「麻子、ちょっとヤバいかも――」

 桁が違う。決して悪い感じではないのだが、その辺りに漂っている雑鬼とは比べものにはならない圧倒的な力がひしひしと伝わって来る。最初はタマがいれば大丈夫だと思っていたが、これでは話が違う。これはタマが手に負える相手ではないかもしれない。その証拠にさっきまで元気に跳ねていたタマは、今ではすっかり萎縮してしまっている。

 今すぐこの場から逃げようかと思った。しかし先程香から聞いた話を思い出し、麻子は自分の指を十円玉から離すことが出来なかった。

 途中で勝手に抜ければ、祟りに会う――。

 ならばどうすればいいのかと麻子が必死に考えている間にも、それはこの場に近付いて来ていた。

 終わりにすれば、この遊びを一回無効にすればここに向かって来ているものはこっくりさんではなくなる。そうすればきっと元いた場所に戻るはずだ。

 終わらせ方――。

 麻子は大いに焦燥した。香から聞いたこっくりさんの終わらせ方をすっかり忘れてしまっていたのだ。

 香の話を最初から順番に思い出している間にも、さらにこちらに近付いて来るのがわかった。

 麻子の額を冷や汗が伝う。

「麻子」

 それまで縮こまっていたタマが、麻子の後ろに飛び降りた。

「もしもの時は、ボクが麻子を守るから。安心してよ」

 こんな場合なのに、麻子はタマの言葉が嬉しくて思わず泣きそうになってしまった。

 ふと、麻子の頭に単純明快なフレーズが浮かんで来た。何故こんな簡単な言葉を今まで思い出せなかったのかと、麻子は自分を呪った。

「こっくりさんこっくりさん、お帰りください」

 麻子が呟くと、香と志穂がぎょっとして麻子を怪訝そうに見つめた。

「ちょっと麻子、何言ってんの? まだ十円玉だって動いてないのに」

 香が訊ねて来たが、今は答えている暇はない。

 既に校舎の中には入って来ている。時間がない。

「こっくりさんこっくりさん、お帰りください」

 さっきよりも強い口調で言う。しかし止まる気配はない。

「こっくりさんこっくりさん、お帰りください。こっくりさんこっくりさん、お帰りください」

 もうこの教室の前の廊下まで来ている。

「こっくりさんこっくりさん、お帰りください!」

 入って来る――。

「帰れ!」

「ふにゃあ!」

 思わず麻子は叫んだ。

 と同時に珍妙な叫び声が廊下から聞こえて来た。

 止まったのか。否、違う。これは――。

「やばい!」

 麻子は十円玉から指を離して席を立った。

 香が呼び止めたような気がしたが、耳に入って来なかった。

 扉を開けて廊下を隅から隅まで見渡すと、麻子の足下に一人の男がうつ伏せに倒れているのに気が付いた。

 麻子はその姿に見覚えがあった。

「阿瀬……くん?」

 阿瀬直人は先月起こった――元はといえば麻子が原因を作った――騒動に巻き込まれた非運な少年であり、麻子とはそれ以来言葉を交わすようになった。

 麻子は熱を計るかのように阿瀬の額に手を当てた。

「やっぱり……」

 麻子の予想通り、阿瀬は「憑かれて」いた。

 本人は気付いていないが、阿瀬は他人に比べて霊的抵抗力が著しく低い。恐らく居場所を失った『こっくりさん』がとっさに取り憑いたのだろう。

「ねえ麻子、一体どうなってる訳ーって誰それ?」

 後ろから心底困惑した顔で現れた香が、阿瀬を見てさらに困惑した表情になった。

「あ、英語が絶望的に出来ない阿瀬直人じゃん。そういえば南高入ったんだったっけ。って、何で倒れてるの?」

「え? 志穂、知り合い?」

「ああ、中学の時同じ塾だったの。ねえ麻子」

「あ、うん。二人共、とりあえず誰か先生呼んで来てくれない? 事情は後で話すから」

 麻子がそう言うと、二人は顔を見合わせ、香は首を傾げて、志穂は肩を竦めた。




 ただでさえ強面の顔をさらに恐ろしくしかめて風雲寺の住職は、

「そりゃあ麻子ちゃんが悪いよ」

 と言った。

「……やっぱり、そうですか」

 麻子は予想していた通りの言葉を言われ、ただただうなだれた。

「そうそう。タマがついているからって、今回は些か軽率だったんじゃないかね」

 全くそれでも僕の弟子かい――と住職は珍しく語気を強めてこぼした。因みに麻子は住職の弟子になった覚えは全くない。

「で、その阿瀬――だったっけ? 彼は今どうなっているんだい?」

「はい。確か市民病院に運ばれたはずです」

 あの後、事態は思ったよりもまずいことになった。

 麻子が香と志穂に何とか言い訳をして保健室へと阿瀬の様子を見に行った時には既に、阿瀬は救急車で病院に運ばれていた。何でも、何をしても阿瀬が目を覚まさず、これはまずいと思った教師達が救急車を要請したのだそうだ。

 そしてどうすればいいのかさっぱりわからなくなってしまった麻子は、自称麻子の師匠であり、麻子が自分以外に唯一知る「見える」人間である風雲寺の住職の許に泣きついた訳である。

「市民病院か……そうだ、彼に取り憑いた奴っていうのはどんな感じだった?」

「えっと、よくはわかりませんでしたけど、その辺の雑鬼なんかとは比べものにならない位でした。タマでも勝てるかどうか……」

「でも弱ってたよ」

 頭の上からタマが眠そうな声を漏らした。

「それはどういうことだい?」

「うん。麻子の言う通りすんごく強そうだったけど、何か傷を負ってるみたいだったよ」

 麻子はそんなことにはまるで気が付かなかったが、タマの方が麻子よりも霊や妖怪の気配には敏感なので、タマの言うことに間違いはないだろう。

「それは――まずいね」

 住職が唸った。

 麻子には何がどうまずいのかわからず、住職に訊ねると住職は再びそれでも僕の弟子かい――と苦笑した。

「その阿瀬って子は霊的抵抗力が弱いんだろう? つまり取り憑く側からしたら居心地の良い入れ物って訳だ。で、今回彼に取り憑いた奴は弱っている。そんな奴が簡単に彼から離れるかね? もしかすると延々彼の中に居座り続けるかもしれない」

「それって――まずいじゃないですか!」

 だからまずいって言ってるんじゃないか――と住職は呆れたように言った。

「で、麻子ちゃんは一体どうするつもりなんだい?」

「どうするって、阿瀬くんを助けないと――」

 麻子がそう言うと住職は毛の無い頭を掻いた。

「それはつまり、『落とす』ってことかね」

 麻子は黙って頷いた。

「君に出来るのかね?」

 住職の容赦のない言葉が突き刺さる。

「それは――」

 麻子は言葉に詰まってしまった。

 生まれてこの方、麻子にはそんな経験はない。

「でも住職なら――」

 麻子は祈るような気持ちで住職に訊いた。一応は宗教者なのだし、対処の仕方を心得ているかもしれない。

 しかし麻子の望みは無惨に砕け散った。

「ああ、無理無理。僕も麻子ちゃんと同じでただ『見える』だけだし、この寺も家業を継いだだけだし」

「そんな――」

 うなだれる麻子に住職は優しく声を掛けた。

「まあ、けどやるだけのことはやろうじゃないか。勿論、麻子ちゃんの力も借りることになるだろうけど、最悪のケースだけは避けられるかもしれないし」

「それじゃあ――」

 麻子が顔を上げると、恐ろしい顔に微笑を浮かべた住職が目に入って来た。

「仕方がないから僕も協力するよ。弟子の頼みとあっちゃあ断る訳にもいかないだろう? って言っても今日はもう遅い。明日は土曜日だから、朝の九時に泗泉駅に集合ってことでいいね?」

 麻子は部活動には所属していないので、一も二もなく承諾した。

 その後暫く世間話をして、麻子がそろそろ帰ろうかと立ち上がった時、住職が思い出したかのように口を開いた。

「あ、そうだ。麻子ちゃん、火清会かせいかいって知ってるかい?」

「ああ、あの塾みたいなとこですよね?」

 麻子は具体的に何をやっているのかはよく知らないが、火清会と聞いて真っ先に思い浮かぶのはやはり塾という言葉だった。

 行ったことはないので詳しいことはわからないが、話によると青川市の中心にある建物で学生達に自習室を解放しており、冷暖房完備でおまけに飲み物やチョコレートや飴なども自由に頂けるとあってすこぶる評判が良く、麻子のクラスにも利用している者は多いのだそうだ。

 そういうことから麻子が導き出した言葉が『塾』だったのだが、住職はそれを聞くと溜め息のような乾いた笑みをこぼして、

「やっぱり――今はそういうことになってるのか」

 と何処か投げやりに言った。

「あの――何か関係あるんですか?」

「あ、呼び止めて悪かったね。気をつけて帰りなさい」

 麻子が気になって訊ねても、住職は笑ってそう返しただけだった。

 これ以上訊いても無駄だろうと思い、麻子は会釈をして外に出た。

 陽は、とうに暮れていた。




 泗泉駅は、その名の通り麻子の住む泗泉町の中心にある私鉄駅である。

 平日は青川南高校への通学者で賑わうこの駅の一帯は、年中シャッターを降ろしっぱなしの商店が溢れている。

 そのシャッター街のただ中を、麻子は自転車で必死に駆けていた。

 ――あのオンボロ時計。

 昨夜朝の八時に鳴るように合わせておいた目覚まし時計が、例によってその一時間程前に、完全に動かなくなってしまっていたのだ。

 その結果、本来起きるはずだった三十分以上後にタマによって叩き起こされる羽目になった。

 急いで諸々の準備をした時には、時計はすでに九時を回っていた。

 麻子の家から泗泉駅までは急げば三分程で着く。もしかすればまだ間に合うかもしれないと、麻子は僅かな望みを胸に、駅の自転車置き場に滑り込んだ。

 大急ぎで鍵をかけ切符売り場の周囲を見渡す。それらしい人影は見当たらない。ホームにいるかもしれないと思い、切符を買おうと券売機に向かった時、麻子に向かって手を振っている人物がいることに気付いた。

 麻子はその姿を見た瞬間、そのままUターンして帰ってしまおうかと思った。

 麻子に手を振っているのは紛れもなく住職だった。住職だったのだが――

「な、何なんですかその格好!」

 思わず麻子は叫んだ。住職は真っ黒なスーツに真っ黒なサングラスと、ただでさえ恐い顔をさらに際立たせるような出で立ちをしていた。

 どう見ても堅気には見えない。その証拠に明らかに周囲の人達は住職を避けている。

「何って言われてもなあ。僕はこれ以外にろくな服持ってないし、袈裟着て電車乗ったら流石に目立つだろう」

 そう言って住職は頭を掻いた。坊主なのだから頭に毛がないのは普通といえば普通なのだが、この場合は坊主頭というよりスキンヘッドと呼んだ方がしっくり来る。それ程恐い。

「じゃ、じゃあせめてサングラスだけでも取ってくださいよ」

 その格好の方がよっぽど目立ちますよ――と言う気力は、すっかり削がれてしまった。

 住職はぶつぶつと文句を言いながらもサングラスを外して上着の内ポケットにしまった。

 麻子はさっき言ったことを後悔した。素顔の方が数段恐い。

「それにしても遅かったね。何かあったのかい?」

 切符を買いながら住職が麻子に訊ねた。

「いや、それはその――」

「寝坊したの。寝坊」

 麻子の代わりにタマが明瞭かつ簡潔に答えると、住職は苦笑して、

「また目覚ましが壊れたのかね?」

 と言った。

 麻子は顔を赤くしながら頷いた。

「昔から霊能者と電子機器は相性が悪いっていうしね。僕はそんなことはないけど」

 住職の言う通り、麻子はどうも電化製品と相性が悪かった。今持っている携帯電話も何回修理に出したかわからない。

 自動改札を通らずに駅員に直接切符を渡してホームに入り、次に来る電車を確認すると五分後に到着することがわかった。

「すいません、私のせいで遅れちゃって……」

「ああ、気にすることはないよ。元々この電車に乗るつもりだったから」

 どういうことかと訊くと、住職は呆れたように笑った。

「時刻表くらい確認しときなさいよ。この時間帯、青川行きの急行は八時五十五分と九時十八分の二本だけだよ」

 住職がもたれかかっている時刻表を見ると、確かにその通りだった。

「じゃあ何で九時に集合なんて言ったんですか?」

「一応今日のことについて色々と言っておきたいことがあってね。後で考えたら電車の中で言えば良かったんだけど」

 お、来たみたいだね、という住職の声に釣られて線路を見ると、言葉通り赤い車体を挟むように上下に白いラインが入った電車が、速度を落としながらホームに入って来た。

「良かった。空いてるみたいだね」

 住職は満足げに言って座席に腰掛けたが、正確には違う。

 住職が車両に入ると、それまで乗っていた人達の多くが血相を変えて外に出て行った。恐らく違う車両に移ったのだろう。

 出来ることなら麻子も住職とは違う車両に乗りたかった。僅かに残った他の乗客達からの視線が痛い。

「そうそう、麻子ちゃんに言っておかなきゃいけないことがあるんだ」

「何ですか?」

 麻子は小声で訊いた。

「これから僕がすることに何があっても話を合わせること」

「何があっても――ですか?」

「そう。例え僕の行動が君の目から見たらただの奇行にしか映らなくてもだ」

 麻子は少し逡巡した後、頷いた。

「それからもう一つ。僕のことは『住職』じゃなくて『師匠』と呼ぶこと」

「……どうしてもですか?」

「どうしても、だ」

「――わかりました」

 言った後、ぎろりと睨まれたような気がしたので、

「師匠」

 と小さく付け加えた。




 青川駅はその名が示す通り、青川市街地にそびえ立つ青川市内唯一の特急停車駅である。

 その周囲には五六階建ての、およそ高層と呼ぶには頼りないビルが建ち並んでいる。所々頭一つ抜けた建造物もあるが、殆どがマンションだ。

 しかしその中に一つだけ、明らかに場違いで、荘厳な馬鹿でかい建物があった。

 火清会のビルだ。

「あの、住職」

 市民病院に向かうバスの中、麻子は隣に座る住職におずおずと声をかけた。住職はバスに乗ってからずっと、窓の外に見える火清会のビルを何処か憂いを含んだ目で眺めていた。

「師匠」

「あ、すいません。師匠、やっぱり今回のことは火清会と何か関係あるんですか?」

「――あるかもしれないし、ないかもしれない」

 それっきり、住職は押し黙ってしまった。

 他の乗客からの視線に閉口しつつバスに暫く揺られていると、くすんだ色の外壁をした建物が目に入って来た。

 それが、目指す市民病院だった。

 麻子と住職は運賃を支払い、薄汚れた病院の中へと入った。

 受付で病室を訊ね、教えられた部屋にたどり着くまで、住職は終始無言だった。

 部屋の前で暫し立ち止まり、深く息を吸い込んだと思うと勢い良く扉を開け、

「おお! まずい、まずいぞ。この部屋からは死臭がする!」

 と叫んだ。

 中にいた二人の男女――恐らく阿瀬の両親だろう――は、呆気に取られたように口を開けていた。しかしそれよりも、後ろに控えていた麻子の方がその何倍も困惑していた。

 そんな三人の様子を意に介することなく、住職は真顔でも十分恐ろしい顔にこれでもかと険を作って奥のベッドにゆっくりと近付いて行った。

「あ、あなた一体誰ですか? いきなり部屋に入って来て――」

「喝!」

 阿瀬の父親が慌てて住職を止めようと声を発したが、住職の一声で一蹴されてしまった。

「私はさすらいのスピリチュアルカウンセラー、名を風間かざま成明なりあきと申します。後ろにいるのは弟子の絡新婦じょろうぐもタマ子くん」

「じょ、じょろ?」

 急に胡散臭い偽名で紹介され、麻子はただでさえ訳がわからないというのに余計に困惑したが、住職が脅すような目つきで自分を見ていることに気付き、大人しく、

「――絡新婦です」

 と言って頭を下げた。

 ――何やってんだろ、私。

 突然自己紹介をされて戸惑ったのか、二人は気の抜けた返事をした。

「私が見たところ、あなた方のお子さんはどうやら原因不明の昏睡状態にある。違いますかな?」

「そ、そうですが、どうしてそれを?」

「私程の者になれば、その程度のことは簡単にわかるのです! そうだね、絡新婦くん」

「え?」

 急に話を振られて麻子は小さく間の抜けた声を漏らしたが、住職のただならぬ雰囲気を感じ、

「は、はいッ! 住――師匠は、その――えっと、とにかく凄いお方ですっ!」

 と言った。

「とまあ、そういう訳です。そして、ズバリ言いましょう。このまま放っておけば、お子さんは間違いなく」

 住職はそこで一旦口を噤んで、二人をじっと見つめた。

「死にます」

 二人はその言葉を聞くと、はっと息を呑んだ。

 ――否、信じるか?

「全ては彼に取り憑いた悪霊のせいです。しかしご安心ください。霊験灼かな私の力があれば、悪霊も瞬く間に昇天します。そうだね、絡新婦くん」

「は、はい! 師匠」

 頭の上ではタマが笑い転げている。

「その、しかし家には金が……」

 ――否、どうして真に受ける。

「私をそこらのインチキ霊能者と一緒にしないでいただきたい! 私は金など貰わん! 何故ならば、悪霊に憑かれた罪のない者達を救うのが、私の使命だからだ! そうだね、絡新婦くん」

「はいッ!」

 麻子自身、住職の言葉に圧倒されて反論する暇もなかった。住職の見るだけで相手を震え上がらせる面相と、よく通る声には、有無を言わさず相手を納得させる力があった。

「という訳で、今から彼に憑いた悪霊を祓います。しかしこの悪霊は質が悪くてですね、近くに普通の人間がいると今度はそっちに取り憑いてしまう。お二人には暫く外に出ていていただきたい」

 よくもまあそんな出任せが口を吐いて出てくるものだと麻子は半ば感心してしまっていた。

 例によって住職の言葉に素直従った阿瀬の両親は不安そうな面持ちで部屋を出て行った。

 部屋の扉が閉まると、麻子は真っ先に口を開いた。

「住職! 一体どういうつもりなんですか!」

「だから師匠だって。いいじゃないかうまくいったんだから」

「よくないですよ! だいたい何なんですか、絡新婦って無茶苦茶な名前は」

「ああ、あれかい。とっさに考えた割にはいい名前だろう? 君と彼は同じ高校だから、本名を言ったら後々拙いことになりかねないし」

 確かにそれはそうだが、もう少しマシな偽名は思いつかなかったのだろうか。

「さあて、絡新婦くん、こっちに来たまえ」

「だから誰が絡新婦ですか!」

 そう言いつつも、麻子は言われた通りに住職の許へ駆け寄った。

「彼が件の阿瀬直人で間違いないね?」

 そう言って住職はベッドに横たわる少年に目をやった。

 そこには確かに阿瀬直人が、死人のように転がっていた。

 麻子が頷くと、住職は阿瀬の額に指を当てて唸った。

「確かに悪いものじゃあなさそうだが――よくわからないな」

 肩を竦める住職に促され、麻子も同じように額に手を当てる。

「――私にもよくわかりません。住職、何とか出来ないんですか?」

「しーしょーうー。無理だよ、僕にはそんな力なんてないんだから。何とか彼に取り憑いた奴と話が出来ればどうにかなるかもしれないけど――」

 言いながら住職は阿瀬を激しく揺さぶった。しかし阿瀬は相変わらず死んだように動かない。

「この調子だからねえ」

「何かいい方法を知らないんですか?」

「そうだな……一番メジャーなのは何か呪文をぶつぶつ唱えるってのがあるけど――」

「あるけど?」

「ああいうのは唱える人の信仰心が強くないと意味がないんだよなあ。知っての通り僕は信仰心の欠片も持ってない」

 それは麻子も重々承知している。しかし――

「でも、可能性があるならやってみた方が――」

「ええー。しょうがないな」

 住職は仰々しく咳払いをしてから、両手を大きく上げた。

「神と子と聖霊の――」

「ス、ストーップ! 何でキリスト教なんですか!」

 麻子が慌てて止めると、住職は頭を掻きながら笑った。

「なんだ、てっきり気付かないと思ったんだけどな」

「いくら私でも気付きますよ! 真面目にやってください」

「真面目ってね、僕は元々不真面目なんだよ? だから何を唱えても無駄」

 そこまで言われると、麻子はもう言い返すことは出来なかった。

「心配しなくてもちゃんと他の方法も考えてあるよ。さて絡新婦くん、人間に憑いたものを落とす方法に共通することは何だと思う?」

「もったいぶらないで早く教えてくださいよ。それにいい加減その呼び方やめてください」

「まあ簡単に言うとだね、取り憑いた奴が厭がることをすればいいんだよ。そこで少し、タマに力を貸して欲しいんだ」

「ボクに?」

 それまで麻子の頭の上で二人のやり取りを笑いながら見ていたタマが、興味深げに身をもたげた。

「うん。タマには彼の全身を這いずり回ってもらいたい。これは絶対誰でも厭がる。うん」

「……住職、それはつまりタマが気持ち悪いって言いたいんですか?」

 麻子が眉根を寄せて訊ねると、住職は慌てて手を横に振って否定した。

「いやいや! そういう意味で言った訳じゃないよ。その――ほら、タマみたいな強い力を持った奴に自分の身体を這われたら、彼に憑いてる奴も慌てて飛び出すかもしれないだろう?」

「まあ……そういうことなら。タマ、やってくれる?」

 麻子は怪訝そうに住職を睨んでいた目を上に向けた。

「別にいいよー」

 よいしょとタマは阿瀬の顔面に飛び降りた。

 住職に言われた通り、タマは阿瀬の身体を縦横無尽に駆けずり回った。それでも、何も起きない。

 タマは疲れたのか、阿瀬の顔の上で伸びていた。

「タマ、もう少しがんばって」

「しょうがないなー。うりゃ、起きろ」

 器用に足を使って顔をぺしりと叩く。気に入ったのか、その後何度も叩いていた時だった。

「ぐえ」

 タマの身体が掴まれ、麻子の方に投げ飛ばされた。

「タマ! 大丈夫?」

「うん、まあ」

「それどころじゃないだろう君達。どうやらタマのビンタが癇に障ったようだ」

 言われてベッドの方をを見ると、それまで何をしても動かなかった阿瀬が目を見開いてこちらを睨んでいた。

「誰――だ」

 声は確かに阿瀬のものだが、全く雰囲気が違う。阿瀬はこんな棘のある話し方はしない。

「君の味方。少し話がしたいんだけど、いいかね?」

「悪いが……無理だ」

「何故」

「熱くて――意識を保っていられない。言われた通りの――地獄だな、ここは」

 再び、阿瀬の瞼が閉じた。

「ど、どうするんですか住職、また倒れちゃいましたよ……って住職?」

 住職は麻子の言葉には耳を貸さず、すぐさま阿瀬を背負って扉の方へと向かった。

「ちょっと住職! 何処行くんですか?」

「師匠だと言ってるだろう。もしやとは思っていたが、思った通りまずいことになった。場所を変える」

「場所を変えるって……どういうことですか?」

「説明は後だ。早いとこここを離れないと」

 そう言うと住職は部屋の戸を勢い良く開けた。

 外では阿瀬の両親が固まっている。

「いや、参りました。この部屋には以前ここで死んだ質の悪い地縛霊がいましてねえ。そうだね、絡新婦くん」

「へ? そんなの――」

 見えませんでしたけど、と続けるつもりだったのだが、一瞬振り向いた住職の剣幕に圧され、慌てて住職に話を合わせた。

「そ、そうです。それはもう質の悪い霊で……」

「そういう訳で場所を変えさせていただきます。なあに、彼に憑いた霊を祓ったらすぐにこの部屋の霊も祓いますからご心配なく」

 すぐ戻りますと言って、住職はその場を足早に離れた。麻子は駆け足で後について行く。

「住職、一体何処に行くんですか」

「一旦風雲寺に戻る」

「な、何でわざわざ風雲寺まで戻るんですか? だいたい、あの部屋には何もいなかったっていうのに」

 麻子がそう言うと、住職は深々と溜め息を吐いて、

「問題は部屋じゃなくて、街なんだよ」

 と、よくわからないことを呟いた。

「でも、風雲寺まで戻るってここからじゃ結構時間かかりますよ?」

 泗泉駅からここまで、電車で十分、バスで五分程だから、往復するとなると少なくとも三十分はかかる計算になる。

「それなら大丈夫。出来ればあまり使いたくなかったが、そうも言ってられないしね。スズカ、出て来てくれ」

 病院の外に出たところで、住職がそう声を上げると、何処からともなく薄汚れた格好をした女性が現れた。生きた人間ではないことはすぐにわかる。

「家まで、頼むよ」

 女は住職の言葉に黙って頷き、ふらふらと歩き出した。

「置いてかれると洒落にならないからね。行くよ」

 背負った阿瀬を持ち上げて位置を直し、住職は女の後を追った。麻子も小走りでそれに続く。

「住職、この道って……」

 十字路を曲がったところで、麻子は異変に気付いた。周囲に全く人の気配がないばかりか、アスファルトで舗装された道はいつの間にか草に覆われた荒涼な道に変わっている。

「流石にわかったか。まあ早い話が裏道だね。この道は異界になってて、それこそ滅茶苦茶に人間の道と繋がっている。迷い込んでしまうと十分で済むような道を延々何時間も歩かされたりするけど、ちゃんと道を把握していれば――」

 麻子はそこで再び異変に気付いた。何度も見慣れた通りを歩いている。

「ほら着いた。ありがとうスズカ、またすぐに世話になると思うから、よろしく頼むよ」

 女は無言で頷くと、何処かへと消えて行った。

「すごい……病院を出て一分ちょっとしか経ってないのに」

「まあ魔の領域に長い間いる訳だから使いすぎると魔にひかれるからね。便利だが出来ればあまり使いたくない」

 麻子はそれよりも、先程の女と住職の間柄が気になっていた。住職は常々麻子に「向こう側」と関わらないように説いている。その住職が、どうも「向こう側」の者と関わっている。

 どういうことなのだと麻子が訊ねても、住職はお茶を濁すだけだった。

 釈然としないまま、麻子は住職と共に講堂へと入った。何故本堂ではないのかと訊いたが、こちらの方が都合がいいのだそうだ。

 講堂の真ん中に阿瀬を寝かせ、その隣に座った住職が口を開いた。

「どうだい? 少しは楽になっただろう」

「そうだな。随分楽になった」

 声と共に、阿瀬がゆっくりと身を起こした。

 息も絶え絶えだった先程とは違い、すらすらと淀みなく言葉を繋いでいる。

 まるで訳がわからず、麻子は口を開こうとしたが、住職によって遮られてしまった。

「これでゆっくり話が出来るね。まずはお互い自己紹介だ。僕はこの寺の住職、風間成明。で、こっちが――」

「川島麻子です」

 余計なことを言われる前に、麻子は名前を言って頭を下げた。

「で、頭の上に乗ってるのがタマだ。君は?」

「私に名はない。お前達は普通の人間とは違うようだな」

 阿瀬は目を細めて麻子と住職を睨んだ。

「まあ確かに僕達は人には見えないものが見えるし、こっちの麻子ちゃんはさらに不思議な力を持ってる」

「私を、祓うつもりか」

 阿瀬が身構える。

「いやいや、僕達にそんな力はない。ただ、出来ればその子の身体から離れて欲しいんだ」

 阿瀬は身構えたまま、小さく笑った。

「お前、本当は私にそれが出来ないことくらい、わかっているんだろう?」

 参ったな――と住職は笑った。

「僕の考えでは、君は恐らく高等な自然霊だ。青川市から離れた山の中にでも住んでいたんだろうが、つい最近、下に降りて来た。そのせいで――否、以前からか? まあとにかく君は酷く傷を負った。で、君としては傷が治るまで彼から離れる気はない」

「そこまでわかっていながら、何故そんなことを言う」

「放っておけば、その子が本当に衰弱して死んでしまう。それに、君は人々の自然に対する畏敬の念によって生まれた存在だ。どれだけ足掻いても、君はやがて消える」

 阿瀬はふらつきながらも立ち上がり、住職に詰め寄って胸倉を掴んだ。

「黙れ」

「黙らない」

 住職は笑ってそう返す。

「君がいくら逃げ回ったところで、人の心は変わらない。君は消えるんだ」

「黙れ!」

 叫ぶと同時に、阿瀬の身体は崩れるように床に倒れた。

「やっぱり狐だったか」

 阿瀬の身体の上で、銀色の毛に覆われた狐が鋭い眼光でこちらを睨んでいた。本来は美しかったであろう毛並みは、あちこちが焦げたように抜け落ち、身体の至るところに痛々しい無数の傷が付いている。

「まあそういきり立たないの。一つ提案があるんだ」

「提案だと?」

 阿瀬の声とは違う、透明感のある声が響く。

「そう。君は消えたくはないんだろう? そこで提案だ。今からこの麻子ちゃんが君に名前を付ける。その代わりに君は彼から離れる」

「ふざけるのも大概にしておけ」

 狐が凄むが、住職は一歩も退かずに笑顔を浮かべている。

「ふざけてなどいないさ。さっきも言った通り、麻子ちゃんには特殊な力がある。名前のない存在に名前を与えることで、そのものの存在をより強固なものに変質させるんだ。彼女の頭の上にいるタマもその力によって生まれた存在だから、嘘だと思うなら確かめてみるといい」

 住職は麻子を手招きして、狐の前に立たせた。

「あの……住職、私の意見は聞かないんですか?」

「意見も何も、最初から君の力を借りるって言ってたじゃないか」

「あ、そういうことだったんですか――」

 麻子自身、自分の力は好きではないのだが、目の前に倒れている阿瀬を助けるのに必要ならば、やむを得ないだろう。

「タマ、暴れないでよ」

「わかってるよー」

 麻子はタマを頭から持ち上げると、そっと狐の前に降ろした。

 狐はタマに顔を近づけると、鼻をひくつかせて匂いを確かめた。

 ――あ、ちょっと可愛い。

 何だか微笑ましい光景に頬を緩めていると、狐がこちらを見た。

「確かに、変わった力を持っているようだな。しかし私はこいつのようにその女の言いなりになるのは御免だ」

 むっとしてタマが言い返す。

「僕は麻子の言いなりなんかじゃない! 僕は友達だから麻子と一緒にいるんだ」

「お前の言い分がそうだとしても、見たところお前達はあまり離れることが出来ないのだろう。私は誰よりも自由になりたい。自由こそ私の全てだ。自由まで失うのなら、消えた方がましだ」

「それには訳がある」

 言い争いを続ける狐とタマの間に住職が割って入り、タマを麻子の頭の上に戻した。

「タマは生まれる時に麻子ちゃんの感情に強く共鳴した。そのせいで二人は魂が結び付き、離れることが出来なくなった。でも、感情が共鳴しなければそんなことは起こらない」

「本当だな?」

「ああ、僕はこの目で見てるからね。君が麻子ちゃんに縛られることはない。けど、これだけは言っておく。今の君はある意味神聖な存在だが、麻子ちゃんの力は魔を生み出す力だ。君からすれば名前を与えられた後の君は穢れた存在ということになる」

「構わない」

「よし承知だな。じゃあ麻子ちゃん、名前をよろしく」

 突然名前を呼ばれ、麻子は暫し固まった。

「名前って……急に言われても……」

 住職は麻子の耳元で囁いた。

「そんなもん適当でいいからさ、誰も麻子ちゃんのネーミングセンスに期待なんかしてないんだから」

 そこまで言うと、住職は急に神妙な面持ちになり、

「あ、でも相手が相手だから、流石に変な名前付けたら祟られるかも」

 と呟いた。

「一体どっちなんですか!」

「まあ、あれだよ。がんばりなさい」

 いい加減にも程がある。

 麻子は忌々しげに住職を睨みつけてやったが、住職は何処吹く風だ。

 ――名前、か。

 狐だからコン吉、は流石に自分でもどうかと思う。じゃあコン太。却下だ。

 いっそのことポチというのはどうかと思ったが、どう見てもポチという顔ではない。

 駄目だ、思いつかない。

 麻子は唸りながら、悶々と今まで得た狐の情報を整理していた。

 まず、住職によればこの狐、なかなか神聖な存在らしい。ならばやはりさっき考えたような名前を付けるのは無礼だろう。

 そしてどうも存在が消滅することを恐れているくせに、自らの自由を重んじている気があるようだ。

 自由――。

 芋蔓式に単語が浮かび上がって来る。二つの単語を組み合わせると、あることに気付いて麻子は顔を綻ばせた。我ながら、結構良い感じだ。洒落も利いている。

「はい、決まりました」

 麻子が手を挙げると、住職は不安そうに麻子に訊いた。

「まさかコン太だとかコン吉だとかいう安易なネーミングじゃないだろうね。もしそうなら――」

「い、いくら私でもそんな名前付けませんよ」

「あ、そう? もしかしてポチとか? 流石にないよね」

「違います!」

 悉く住職に読まれてしまう自分が何だか情けなくなり、麻子は思わず声を荒げた。

 狐と向かい合い、一度深く息を吸った。そういえば、自分の意志でこの力を使うのは初めてだ。

「〝カザクモ〟。今からこれが、何よりも自由なあなたの名前です」

「カザクモ……?」

 異変は、何の前触れもなく起こった。

小首を傾げる狐――カザクモの身体中の傷が、瞬く間に塞がっていったのだ。毛並みも、本来の美しい銀色に戻っている。

「すごいな……」

 後ろで住職が呆けたように呟くのが聞こえた。

「良い名を貰った」

 カザクモが麻子の足下で頭を垂れた。

「身体も軽くなったし、見ての通り傷もなくなった」

 よく見ると、尾が二本に裂けている。

「約束通り、その男からは離れよう。色々迷惑をかけてすまなかった」

 そう言うと、カザクモは軽快な足取りで出口まで駆けて行った。

「お前達には感謝している。それと、川島麻子。老婆心から忠告しておくが、お前の力は厄を呼ぶかもしれない。気をつけることだ」

 そう言い残すと、カザクモは何処かへと姿を消した。

 住職はカザクモの姿が消えたのを確認すると、大きく伸びをした。

「とりあえず一段落だな。それにしても麻子ちゃんにしては良い名前を付けたじゃないか。風雲寺の『風雲』の部分を訓読みしただけっていうのは、まああれだが」

「あ、やっぱり気付きました?」

 適わないなあと麻子は苦笑した。

「また会えるでしょうか?」

「なんだい、また会いたいのかね」

 住職が呆れたように笑う。

「自分が名前を付けたんですから、少しは愛着がありますよ」

「えー、ボクよりもー?」

 タマが拗ねたように麻子の前髪をくしゃくしゃにする。

「君達の間にはある種の縁が出来たんだ。そのうち会えるさ。まあ、君とタマの絆に比べればちっぽけなもんだけどね」

 住職が微笑を浮かべながらそう言うと、タマは無言で麻子の前髪を直した。

「さて、彼が起きる前に病院に戻らないと。あんまり遅くなると、ただでさえ胡散臭いんだから警察に通報されかねないしね」

 あれでも自覚していたのかと、麻子はほとほと呆れてしまった。




 風雲寺の講堂で、麻子は住職の出してくれた茶をすすりながら、住職の次の言葉を待っていた。

 再びあの異界と繋がった道を通り、病院に阿瀬を戻して、住職がとっさに口走った病室の地縛霊とやらを祓う真似をした後は、住職が往来でぶつかった人に真っ青になりながら謝られたことと、麻子が青川駅の自動改札を一つ故障させたこと以外は特に何事もなく、無事泗泉町に戻って来れた。

 そして風雲寺に着き、一息入れた後で麻子は住職に自らの疑問をぶつけた。

 まず、あの女は何者なのか。

 麻子達を異界へと誘ったあの女、元は人間だろうということは麻子にもわかったが、それ以外はまるでわからない。

 それに、向こう側のもの達と関わることを厭うはずの住職が、彼女を使役していたのも気になる。

 好奇心のままに質問を浴びせた麻子に対する住職の返答は少なかった。

 麻子の言う通り、彼女は元は人間であるということと、住職は彼女を使役している訳ではないということ以外は何も語らなかった。

 その話をする時の住職の表情が、麻子にもはっきりわかる程憂いを含んでいたので、それ以上訊くことは出来なかった。

 そこで話題を変え、何故カザクモはあの病室で苦しんでいたのかを訊ねた。

 すると住職は何やら思案するように顎に手を添え、そのまま押し黙ってしまったのだ。

 麻子はもう一度茶を啜り、もう湯呑みが空になったことに気付く。

「知らない方がいいこともあるんだよね」

 漸く、住職が口を開いた。

「そのことを知っても、むしろ毎日が送りにくくなるだけだし、個人がどうこう出来る話でもないんだよ。それでも――」

 知りたいかい――酷く脱力したような声。

 麻子は唾を飲み込み、頷く。仮令どうしようもないことだとしても、やはり知っておきたい。もしかすると、他人事ではないかもしれないのだ。

「火清会は、昭和二十一年に生まれた火神カグツチを祀る新興宗教だ」

 住職はあくまでも単調に口を動かす。

「現在ではかなり姿を変え、今では全国規模の巨大団体だ。そして本部は誕生時から一切移さず、青川市の中心に座している。そのせいか、青川の、特に市街地に暮らす人々は殆どが火清会の信者だ。早い話が、あの土地ではもはや原始的な信仰は廃れ、代わりに火清会という新たな信仰が土着のものになっている。カザクモのような自然崇拝から生まれたようなもの達にとっては、息苦しいなんてものじゃないだろうね」

「全部、火清会のせいっていうことですか?」

「その言い方はあまり良くないな。カザクモはたぶん、元々滅びかけだったんだと思うよ。生き残る道を探して下に降りて来たのはいいが、そこは青川でしたって訳だ。火清会なんかなくても、ああいう類の奴らはそのうち滅びる。時代の流れだから、仕方ない」

 そう言われても、麻子はなかなか得心がいかなかった。

 宗教など関係なく、ありがたければ何でも手を合わせる。神社、寺、日の出に山、あるいは人であっても手を合わせ、頭を垂れる。麻子の知る日本人はそういうものだったはずだ。

 麻子は拙い言葉でそれを住職に伝えた。

「じゃあ訊くが、麻子ちゃんは――否、麻子ちゃんの周りにそんな信仰心を持った奴がいるかね?」

「それは――でも、それはきっと火清会の――」

「確かに、火清会は他の宗教に関しては排他的だ。そのせいで人々の自然に対する信仰が薄れているのは間違いない。だが、そんなものは全体から見れば微々たるものだよ。そんなものがなくても、ちゃんと皆信仰なんか忘れているのさ」

 吐き捨てるように言って、住職は自嘲気味に笑った。

 どうも住職の様子がいつもと違う。麻子はおずおずと訊いた。

「住職は、何で火清会を庇うような言い方をするんです?」

 一瞬、呆気に取られたように顔を弛緩させた後、住職は笑った。

 笑い声も、普段と違う。

 住職はもっと快活に、朗らかに笑うはずだ。

 今の住職の笑顔には、影がある。

「僕が、火清会を庇う? アハハハハハハハ。そう――見えちゃうか」

 笑い止んだ住職の顔には、やはり影が差していた。

「僕はね、弟子に自分の考えを押しつけるようなことはしたくなかったんだ。あくまで第三者の目で語ったつもりだったんだが――まさか庇うような口振りになっていたとはね」

 気のせいか、住職の身体が小刻みに震えている。

「本音を言うとね」

 ――手だ。

 よく見れば、住職は自分の拳をこれでもかと握りしめている。その震えが全身に伝わっているのだ。

「僕は、火清会が、大っ嫌いだ」

 麻子は初めて、顔ではなく、住職の声が怖いと思った。

 嫌い、などというレベルではないだろう。

 麻子が慄然としていると、住職はふっと表情を緩めた。

 ――いつもの笑顔。

 いくら笑みを浮かべても、恐い顔はやっぱり恐い。それでも麻子は、酷く安堵した。

「まあでも、あんまり火清会の悪口を表で言うのは避けた方がいいよ。信者の中には過激な輩もいるし、暮らしにくくなるかもしれないしね。まあこの泗泉町や、隣の四門とか、西の辺りはまだ信者が少ないけど、油断は禁物」

「悪口って、私はそんな――」

「ああ、失礼失礼。麻子ちゃんはそんな子じゃないか」

 住職は笑いながらそう言うと、大きく伸びをした。

「流石にあのテンションで喋るのは疲れる。一眠りしようかな」

 住職は欠伸をすると、派手な音を立てて床に倒れ込んだ。

「あ、じゃあ私そろそろ帰ります」

 立ち上がり、会釈をして外へ出る。

 靴を履いたところで、住職の声が聞こえて来た。

「またいつでもおいでよー、絡新婦くん」

 だから――

「誰が絡新婦ですか!」




「穢れたな」

 冷酷に、声は告げる。

 それでも不適に笑い、その声に言葉を投げかける。

「何もせず、ただ滅んでいくしかないお前達よりマシだ」

「誇りも失ったか」

 別の声が嘆く。

「そんな姿に成り果てて」

「よりにもよって、人間などに」

「呪いをかけられて」

「何とでも言え。私は私だ。何者にも縛られぬ」

 悲痛そうに、声は呟く。

「もう――ここには戻って来るな」

「私もそのつもりだ。元々別れを告げに来たのだから」

 背を向け、下界へと一歩踏み出す。

「それと、最後に教えてやる。カザクモ。それが私の名だ」

 声は、それ以上何も言わなかった。

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