第2.5話 ライドザバック
1
阿瀬直人は常時酷い猫背である。
ぴんと背筋を伸ばして立てば結構な上背があるはずなのだが、その猫背に加えて痩せぎすの身体から、一目見るとどうしてもなよなよとした印象を受ける。
その丸まった背中の上に、何かが乗っていることに川島麻子が気付いたのは、文化祭の最終日、市民会館での閉会式が終わった帰りの電車の中だった。
南高祭――青川南高校文化祭の学年別優秀賞に、麻子達一年六組は残念ながら選ばれなかった。
色々とトラブルがあったが、そのせいではなく単純な出来のよさで判断されたものだと麻子は思う。最大のトラブルは有耶無耶になったし、他のクラスの方が集客は多かったと聞く。
審査員である教師からの講評もそれを裏付けていた。今回は優秀賞に選ばれたクラスがクオリティも集客も抜きん出ていたとわざわざ理由付けした程である。
青川市民会館は、当然だが青川市の中心部――青川駅から広がる市街地エリアに存在する。青川駅は市内唯一の特急停車駅で、地理的にも青川市のちょうど真ん中辺りに位置する。市内でも特に「青川」と呼称する場合は、この市街地を指すのが常だ。
青川駅には隣接するデパートがあり、そこから出て広がるメインストリートには飲食店や雑貨屋などが軒を連ねる。そのため青川市南部の静かな町に建つ青川南高校の生徒達は、市民会館から外に出るとその流れで友人達と市街地へ寄り道をする。
青川南高校の最寄り駅の泗泉駅から青川駅までは急行で一駅と距離はそれ程離れていないのだが、クラス全員が同時に市街地に集まることはなかなかない。それを利用して、二年生や三年生の一部のクラスは事前に飲食店に予約をしておき、そのまま打ち上げに直行するところもあるという。
クラス全員で行動を一緒にする訳でなくとも、友人グループが綺麗に揃うということもこういった場合以外では事前に綿密な打ち合わせを行わなければならないので、またとない好機である。
それで結局は、殆どの生徒が陽が暮れるまで――もっと言えば終電まで市街地に残ることになる。
という訳で、この閉会式が終わって青川駅に着いた時にちょうど発車する急行に乗っている生徒は、言ってしまえば寂しい連中である。
麻子自身それは自覚しているが、無理に付き合っても気疲れしてしまうだけだということはもっと自覚している。
なので
香とは中学校からの付き合いだが、志穂はもっと古い――小学校からの付き合いだ。
小学生の頃の――人間の――友達は、麻子には志穂くらいしかいない。その志穂に言われ、中学からは積極的に友達を作ろうと麻子にしては頑張った――無論志穂の協力のおかげも大きい――ので、香を始め多くの友達を作ることが出来た。
香と志穂と一緒に南高に進み、およそ半年。二人とクラスも一緒になったおかげで、新しい友人関係を築くことにも成功している。
ただし、結局はこの三人で集まるのが一番気が置けないので、自然とこのメンバーに落ち着くことが多い。
その電車の同じ車輛に、桐谷匠も乗っていた。麻子達が立っている反対側で吊革に掴まっている。
桐谷も三人と同じ一年六組である。ただし男女のグループの違いで、話しかけるかどうかは微妙なポジションと言わざるを得ない。
麻子は何故か一対一では何度か会話したことがあるが、香と志穂の手前と、元からの性分で、一人抜け出して声をかける勇気はない。
それに、桐谷は麻子達に丸まった背中を見せている隣の誰かと何事か喋っている。恐らくはこちらに気付いてはいるだろうが、目を向けないということは会話をする気がないという証左ではないか。
微妙な気まずさの中、桐谷の隣で何かがぶるぶると震えたように見えた。
麻子はちらりと振り返り、それを見た。
もう二度と立ち上がれないのではないかと思われる程、四肢を思い切り投げだし、背中に張り付いている。その身体は布団のように平べったく、また全体像も丸い布団のようで、頭と四肢が辛うじて判別出来るような有様だ。
「ああ、寒っ」
そう声がして、平べったい身体を震わせる。
「麻子ぉ、何あれ?」
頭の上から幼子のような声がするが、麻子は返事が出来ない。
「んー? なんだお前」
今度は布団状の何かからそう声がする。その物体は背中に張り付いたまま、頭だけをこちらに向けていた。
麻子は慌てて目を逸らし、車窓を流れる景色に視線を向けた。
「蜘蛛のばけもんか。その下のもどうやら『見える』みたいだな」
「変な格好ー」
「馬鹿野郎。妖怪ってえのは変なもんだ」
「タマ」
あまり話しかけないで――と言おうとしたが、それだけの言葉を口にするのはこの状況では無理だ。
現に限界まで小さく絞った先程の声も、隣の香には聞こえたらしく、怪訝な視線を送ってきている。
そこで麻子はもう一度あの布団状のものに目を向けた。
はっとする。それが張り付いている丸まった背中の主は、麻子も見知った相手だった。
「阿瀬君――」
麻子は思わず名前を呼んでいた。慌てて口を噤んだが、もう遅い。名前を呼ばれた相手は反射的に麻子の方へと振り返っていた。
「あ、川島さん」
阿瀬直人は愛想はいいが、明らかに困惑した笑顔で麻子と向き合った。体勢を変えても背中は丸まったままで、そこには布団状のものがへばり付いている。
隣の香は誰だと訝しむが、もう一つ隣の志穂は阿瀬の顔を知っているので大した反応は見せない。麻子と志穂が中学の時通っていた塾で同じだったのだが、その当時は会話をした記憶はない。ひと月程前に帰り道で出会って以来、何度か言葉を交わしている。
「川島サン? ありゃ、同じ電車だったの」
その時には桐谷も一緒にいた。なのでこの会話に加わらないのは不自然だと判断したのだろう。なかなか二の句が継げずにいた阿瀬に助け舟を出す意味もあったのだろうが、とにかく桐谷も麻子に話しかけてきた。
麻子は阿瀬の背中に乗っかったそれに注意を払いながら、どうやって自然に会話するかに頭を悩ませていた。
「桐谷君も直帰組か。なんか意外」
「確かにね」
だが桐谷が会話に参加したせいで、同じクラスである香と志穂も加わらなければならない状態になっていた。
「そう言う渡辺サンと鈴木サンも直帰組だろ? あ、そういえば三人とも泗泉だったね」
「桐谷君は四門だから、同じ駅か」
「自転車は学校?」
麻子と阿瀬を除いた三人で会話が盛り上がる。最初に言葉を交わした二人が弾き出されるというのも何と言うか皮肉である。
「あの、阿瀬君、背中――」
「ああ、気にしないで。猫背は生まれつきで、直そうと思っても直せなくて」
そうじゃない――というのと、失礼な意味に取られてしまった後悔が湧き上がってくる。
「話がしたいのはそっちじゃねえだろ?」
背中に乗ったそれは笑いながら言う。だがその声は麻子にしか聞こえない。それと会話をすれば麻子はただの奇人である。
結局訊きたいことは訊けないまま、電車は泗泉駅に到着した。麻子は自転車を駅に置いてあったが、香は徒歩、志穂と桐谷と阿瀬は学校――泗泉駅と南高は目と鼻の先だ――に自転車を置いてあったので、その場で解散となった。
三連休が明けた火曜日、学校で目にしたのは、丸まった背中に無数の変なものを乗せた阿瀬の姿だった。
2
「おんぶお化けかな?」
風雲寺の住職は恐ろしい顔を一層恐ろしく歪めて唸った。長年の付き合いの麻子からは思案顔だとわかるが、この顔に慣れていない人間が見れば肝を潰してしまうだろう。
全ての授業が終わり、阿瀬の姿を目にした麻子は真っ先に風雲寺に向かった。
阿瀬の背中に居座るものは、普通の人間には見ることが出来ない。だが、麻子には見える。その麻子と同じものを見ることが出来るのが、この風雲寺の住職なのだ。
「おんぶしてたよねー」
麻子の頭の上のタマも、麻子と住職以外には見えない。
それはあまりに巨大な蜘蛛だった。足を精一杯折り畳んで、何とか麻子の頭の上に収まっている。
タマは麻子の大切な友達で、麻子が生み出した妖鬼でもある。普段人前では会話をする訳にもいかないので、この風雲寺は麻子もタマも安心出来る場所になっている。
阿瀬の現状と、兄の見立てた霊的抵抗力が低いという阿瀬の体質を住職に説明すると、住職はおんぶお化けという妖怪の仕業ではないかと言った後、考え込んでしまったのだった。
「あの、おんぶお化けって、おんぶされる妖怪ってことですか?」
麻子は経験則とタマの力で妖怪に対処しているため、住職のように妖怪に詳しい訳ではない。
「まあそうだね。オバリヨン、ウバリヨン、バロンバロン、バロウ狐とか、地方によって色々呼び名はあるけど、大体は同じパターンだ。夜道を歩いていると背中に何かが負ぶさってくる。それで頭を齧られるとか、どんどん重くなって押し潰されてしまうとかだね。このオバリヨンやバロウというのは方言で『負ぶってくれ』という意味だとされている。そうするとオッパショ石やウブメなんかもこのパターンに入るかな。オッパショ石は『オッパショ、オッパショ』、ウブメは『オバリョウ、オバリョウ』と声を発すると言われている。どちらも意味は『負ぶってくれ』だ」
「それって……危なくないですか?」
「うーん、多分大丈夫だと思うよ。この話の原型は取っ付く引っ付くの昔話とも言われているからね。聞いたことはないかい? 『取っ付こか、引っ付こか』っていうやつだよ」
確か小学生の時に図書館で読んだ記憶がある。
ある村にいい爺さんと悪い爺さんがいた。いい爺さんが山で仕事をしていると、どこからか「取っ付こか、引っ付こか」と声がする。しかもその声は消える気配がなく、しつこく何度も同じ言葉を繰り返す。堪りかねた爺さんが「取っ付くなら取っ付け、引っ付くなら引っ付け」と言うと、不意に両側の林から金銀が飛んできて、爺さんの肩や背中にどっさりと乗った。
それを家に持って帰ると、隣の悪い爺さんは話を聞いて羨ましがった。
翌日悪い爺さんがいい爺さんの真似をして山に入っていくと、「引っ付こか、取っ付こか」と声がする。爺さんはしめたと思い、「引っ付くなら引っ付け、取っ付くなら取っ付け」と言って背中を向けると、何かが飛んできて背中にどんと乗った。悪い爺さんは喜色満面で家に帰ると、婆さんに火をつけて背中のものを検めさせようとする。婆さんが灯を持って近付くと、その火が背中のものに燃え移って悪い爺さんは大火傷をしてしまう。悪い爺さんの背中に乗ったのは、金銀ではなく松脂だったのだった――。
住職の訂正も入りながらだが、麻子が話のあらすじを辿っていくと住職は満足げに頷いた。
「つまり本来は突然の幸運が訪れる話だったんだよ。オバリヨンの場合でも背中でどんどん重くなっていくそれを家まで持ち帰ると、金銀財宝だったというパターンもある」
「いや、でも、阿瀬君家に帰ってるじゃないですか」
そう――麻子が背中の妖怪を見止めた後で、阿瀬はまず間違いなく家に帰っている。それで体育の日のおかげで出来た三連休の後の今日、学校で見た時の阿瀬の背中には、さらに多くの異形が居座っていたのだ。
麻子がそう言うと、住職は悪戯がばれた子供のように笑った。
「その通り。珍しく鋭いじゃないか麻子ちゃん」
「――えっと、じゃあ今までの話は全部無意味っていうことですか?」
麻子が低く言うと、住職は慌ててそういう訳じゃないと釈明した。
「おんぶお化けだということはまず間違いないだろう? その性質を知っておくことは無意味なんかじゃないよ」
「本当ですか?」
麻子が依然低いままの声で訊くと、住職はうんうんと何度も頷いた。
「まず、阿瀬直人君という人物が霊的抵抗力の低い体質だというのは新龍君の見立てだったね」
頷く。
「それなら多分見立て通りだろうね。新龍君なら信用出来る」
若干納得しかねたが、頷く。
「つまり、彼にはおんぶお化けが非常に乗っかりやすいということになるね」
猫背だし――と心の中で付け加え、頷く。
「霊的な抵抗力が低いということは、妖怪からしてみれば居心地がいいということになる。離れたくなくなったんじゃないかな。それに他の妖怪も文字通り乗っかったと」
「でも、あんなに妖怪を乗せて大丈夫なんでしょうか……」
「多分、彼は抵抗力が低い分だけ鈍感なんだと思うよ。取り憑かれたりした場合はまた話が違うだろうが、今回は背中に居座られているという状態だ。向こうが仕掛けてこない限りは背中が重いくらいだろう。霊感が強い訳でもなさそうだから、殆ど感じてもいないんじゃないかな」
しかし――麻子は先程の阿瀬の姿を思い出す。阿瀬の丸まった背中の上は、訳のわからないものですし詰め状態だった。
一番下には前からいた布団状のもので、その上に丸い石が乗って、その石の上には巨大な赤ん坊が、その赤ん坊に纏わり付くように狐のようなものが乗っていた。
あれで何も感じていないというのは、羨ましいを通り越して麻子からしてみれば不気味ですらある。
麻子がそう言うと、住職は麻子の感想よりも麻子が見た阿瀬の背中に乗った妖怪の姿に興味を示した。
「それは――オッパショ石にウブメにバロウ狐じゃないか!」
「へ?」
「いや、さっき言っただろう。おんぶお化けの中に含まれる妖怪の中で、明確に像が推察出来る妖怪なんだよ。オッパショ石はその名の通り石だし、この場合のウブメは赤ん坊を背負ってくれという意味になるから、赤ん坊が乗っている。バロウ狐は、おんぶお化けの正体を狐とした場合の姿だよ」
住職は興奮気味にまくし立てると、すっかり冷めている湯呑みの茶を煽った。
「わかりやすいな。どうもわかりやすい――」
ううむと唸って、住職は思案顔になる。
「あの、それで阿瀬君は大丈夫なんでしょうか?」
「うーん、多分大丈夫だとは思うがね。こういったのは、乗ったら意外と悪さはしないんだ。オッパショ石は重くて落としたら割れて物を言わなくなる。ウブメは赤ん坊を預かると怪力を授かるともいうし。バロウ狐は首に噛み付くけど、末路は捕まえられて殺される」
そこで住職はすっかり陽が暮れていることに気付き、麻子にそろそろ帰るように促す。
「でも――」
阿瀬のことは何も解決していない。麻子が食い下がろうとすると、住職は笑って、
「だから大丈夫だって。これ以上背中に乗ってくる妖怪が増えても、このまま妖怪が彼を押し潰そうとしても、ちょっと気を抜いて背中から降ろせばいいんだから。本当に危険になったら、阿瀬君も気付かないことはないと思うしね」
そう押し切られてしまい、麻子は釈然としないまま家路に着いた。
3
「やあ。お帰り、麻子」
部屋に入り電灯を点けると、麻子の勉強机の椅子にまるで年齢のわからない男が座っていた。
それだけならば麻子はそこまで驚かない。いや、帰宅してから一度部屋で着替えの用意をして風呂に向かい、その間訪問者はいなかったのは確実だったというのに、何故か無人のはずの麻子の部屋に堂々と居座っている――という不意を突かれた形になるので間違いなく驚くのだが、このパターンは過去にも何度かあった。
だが今回はそれよりも、麻子を驚かせるものがあった。部屋の真ん中に、若い女性が神妙に正座していたのである。
そういう訳で麻子は普段より一層驚いて、まず顔と名前を知っている男の方に声をかける。
「あ、悪五郎おじさん、これはその、どういう状況ですか?」
神野悪五郎は苦笑して、麻子にベッドに座るように促す。
麻子は困惑したままだったが、神野に言われるがまま窓際に設置されたベッドに腰かける。途中女の前を横切らなければならなかったが、女はずっと顔を俯けたままだった。構図としては麻子と神野で女を挟んでいるような形になる。
「あの……こちらの方は?」
神野との間に正座している女の素性を訊ねるが、女は俯いたまま口を開かない。
代わりに神野が柔和に笑いながら答える。
「ああ、近くで出会ってね。ちょっと困った事態になっていて麻子の助けがほしいというから、上がってもらったんだ」
ここは麻子の家で、神野自体不法侵入者になると思うのだが、言っても無駄だと麻子は口を噤んでいた。
神野悪五郎は本人曰く大妖怪である。見た目は年齢不詳のおじさんでしかないが、麻子には想像もつかない力を持っているのだと冗談か本気かわからない口調で話している。
神野は自在に己の姿を普通の人間にも見せることが出来るが、今の口振りからしてこの女は生きた人間ではなさそうだ。
まず格好が尋常ではない。ずぶ濡れの襤褸一枚を身に纏ったという姿で、よく見れば腰から下の布は赤く染まっている。
「私は産女でしょうか」
女はか細い声でそう言った。
「あ、そうか。産女ですね」
麻子ははっとしてそう口走った。以前に住職から聞いていた産女という妖怪の姿と、目の前の女は綺麗に合致する。
「ははは、見事に解決だね」
神野が楽しげに笑うのを見て、麻子は自分が何か失態を犯したのではないかと周章する。
「えっ? 私、何か変なこと言いました?」
「いやいや。いいんだ。麻子はそれでいい」
満足げに頷き、神野は女に話を促す。
「私は産女です。さっきまでは少し自信が持てませんでしたが、今は確かに産女です。私共産女は赤ん坊を抱いております。私も例に漏れず赤子を抱いておりました」
そういえば今この産女は赤ん坊を抱いていない。
「ところが昨日、道を歩いている男の背中に、オバリヨンが乗っておりました。それを見て血が騒いだのか、赤ん坊の方が『オバリョウ、オバリョウ』と泣き出しまして、その男の背中に乗っていってしまったのです。かくして私は赤子を抱いていない産女になりました――いえ、それはもはや産女とは呼ばないのではないかとも考えておりましたが――先程あなたが産女と呼んでくれたので、やはり私は産女です」
「は、はあ……」
いまいちよくわからない話だが、とりあえず麻子が役に立ててよかった。
「って、ちょっと待って、それって阿瀬君じゃ?」
麻子がそう言うと、女は首を傾げ、神野は怪訝な顔をする。
「阿瀬――というと、口裂け女の時に巻き込まれた二人の片割れだったかな」
麻子は頷き、阿瀬の現状と体質について駆け足で話した。
「ほう、霊的抵抗力が著しく低い、か。新龍が見立てたなら信用出来るね」
住職と同じく、神野も何故か新龍に信頼を寄せている。麻子はどうも釈然としないが、二人が信頼するということは麻子ももう少し新龍に対する見方を改めた方がいいだろうか――などと考える。
「ちょうどいい。麻子、彼の背中のものを全部落としてやりなさい。それがこの産女のためにもなる」
「え? でもどうやって――」
「なあに。簡単さ」
神野は柔和に笑いながら、麻子に知恵を授けた。
4
阿瀬の背中のものは、昨日よりもさらに増えていた。
どう見ても許容量を超えているような大所帯になっていたが、当の阿瀬はまるで気付かないようで、相変わらず背中を丸めてスペースを明け渡している。
神野から教えられた作戦の決行は、放課後にすることにした。休み時間は人目がありすぎる。だが阿瀬が下校する前に事を済ませなければならない。自転車に乗られては危険すぎるからだ。
放課後、麻子は自転車置き場に続く昇降口で息を潜めていた。青川南高校の生徒の多くは電車通学で、自転車置き場は結構なスペースが空いている。ただし無論一定数は自転車通学の生徒はいるので、麻子は関係のない生徒が渡り廊下を通る度に、人を待っているような態度を装っていた。
実際人を待っているのは事実なのだが、目的があまり褒められたことではないので、態度だけは普通に見えるように下手な芝居を打った――つもりでいた。そんな些細な変化に気付くような生徒はいない訳で、ようは麻子自身の心の持ちようの問題だった。
この西棟の南昇降口は正門から続く中庭に面しており、自転車置き場は中庭から校舎を挟んで反対側にある。自転車置き場に通じるのは正門の方から遠回りするルートを除けばここだけなので、自転車通学の生徒は東棟と西棟全部で四つある昇降口でそれぞれ靴に履き替え、必ずこの昇降口を通らなければならない。
なので阿瀬も必ずここを通るということはわかっていた。
だが、遅い――。
帰りのホームルームが終わってからすぐにここで待ち伏せているというのに、一時間以上経っても阿瀬は一向に姿を見せない。阿瀬は麻子と同じく部活動には所属していないことは知っているので、部活に励んでいる訳ではないのは明白だ。
「川島サン、誰か待ってんの?」
へらへらとした笑みを浮かべ、桐谷が中庭の方から昇降口へと歩いてきた。
この昇降口は麻子達一年六組の下駄箱もあるので、桐谷が部活に向かうために靴を履き替えた時に一度顔を合わせている。それから約一時間ここでこうして固まっているので、桐谷も不審に思ったのだろう。
「うん、その、まあ、ちょっと」
ふーんとあまり興味もなさそうに相槌を打ち、桐谷は自転車置き場の方に向かう。
「あっ、桐谷君、今日は阿瀬君と一緒じゃないの?」
以前に帰り道で出会った時、桐谷は阿瀬と一緒だった。登校するのも一緒だったはずだ。
「あー、今日朝雨だったでしょ?」
うんと頷く。今はもう晴れているが、朝は本降りだった。麻子は合羽を着るのに手間取って危うく遅刻しかけた。
「それであいつ合羽着るのが厭だとかで傘差して歩きで登校したんだよ」
「ええっ!」
麻子は思わず素っ頓狂な声を上げた。
登校した時が徒歩ならば、必然的に下校も徒歩になる。しかも阿瀬のクラスの下駄箱は西棟の北昇降口。ここで自転車置き場へ向かう生徒を見張っていたのでは、見逃した可能性も大いにある。
「え、なに? 阿瀬を待ってたの?」
桐谷はへらへらと笑いながら首を傾げる。
「えっと、その、別に今日じゃなくてもいい――と思う」
何も絶対に今日中に作戦を決行しなければならない訳ではないはずだ。
「阿瀬と言やあ、なんか様子が変なんだよな」
「えっ?」
麻子が聞き返すと、桐谷は別に大したことじゃねえけどと前置きをしてから話す。
「あいついっつも酷ぇ猫背でしょ? それが昨日くらいから、どんどん一層酷くなってんだよ」
麻子はそんな変化に気付かなかったが、保育園からずっと一緒の桐谷の目には妙に映ったおだろう。
「でさ、さりげなく訊いてみたんだよ。『お前背中どうした?』って」
まるでさりげなくない気もするが、余計な口は挟まずに桐谷の話に耳を傾ける。
「そしたらあいつ、『潰れそうだ』って言い出してさ。それがマジで苦しそうで。ならきっちり背筋伸ばせって話だよ」
へらへらと軽薄に笑いながら話す桐谷に対し、麻子はぞっと蒼褪めていった。
――潰れそうだ。
思ったよりも背中に乗った妖怪達の負荷が阿瀬に影響を及ぼしている。
妖怪に気付いているのなら、まだ安全だ。無理矢理振りほどいたり、そっと降ろすことも出来る。
だが阿瀬は気付いていない。だというのに影響は受けている。このままで自覚しないまま、背中への負荷ばかりが増え――潰される。
あまり悠長に構えている余裕はないかもしれない。麻子は全ての教室を見て回り、そこに阿瀬がいなければ通学路になり得る道を虱潰しに捜そうと考え、駆け出そうとしたが、そこに桐谷の呑気な声が割って入った。
「あ、そういやああいつ、今日も補習かな」
走りだそうと構えた麻子は不意を突かれて顔だけを桐谷の方に向けて聞き返す。
「いや、阿瀬。あいつ英語が絶望的に駄目でさ、補習の常連なんだよ。今日英語の補習あるって話だったから、阿瀬もまた参加かと思って」
そこに同じクラスの数人が談笑しながら下駄箱へと歩いてきた。
「よう、補習は終わったか?」
桐谷が相変わらずの軽薄な笑顔で訊くと、相手も親しげに肯定する。
つまりこの面々は補習を終えた生徒。
「桐谷君、ありがとう!」
麻子は中庭に飛び出した。
北昇降口に向かって走っていくと、予想通り数人の生徒が外に出てくる。だがその中に目当ての人物はいない。
渡り廊下まで着くと、校舎の中の廊下を背中をこれでもかと丸めてとぼとぼ歩いてくる阿瀬の姿があった。
――見つけた!
麻子は阿瀬に気取られないように渡り廊下に設置されている自動販売機の陰に身を潜める。
阿瀬が下駄箱で靴に履き替えるのを視認し、人の目がないことを確認すると、麻子は頭の上に声をかける。
「タマ、お願い」
「任せてー」
タマは麻子の身体から飛び降りると、互いの離れられる限界の一六〇センチメートルまで進む。
阿瀬は重い足取りで渡り廊下を進み、麻子の前で、
「どぅっへい!」
思い切りすっ転んだ。
5
「あなたがオバリヨン?」
人気がなくなった学校の、さらに人気のない校舎の陰。麻子はつい先程まで阿瀬の背中に負ぶさっていた妖怪達を解散させていた。
オッパショ石は割れて、気付いたら消えていた。
赤ん坊のウブメは泣き喚いたが、昨日会った産女が現れ、抱き上げて去っていった。
バロウ狐は軽妙な鳴き声を上げ、素早く道路へと逃げていった。
その他諸々の妖怪共も、阿瀬という安住の地を失ったことでさっさと退散していった。
そして最後に残ったのが、最初に阿瀬の背中に負ぶさった布団状の妖怪なのである。
「まあその通り。おいらがオバリヨンってえことにしとけや。しかし全く酷いことしやがんなあ。その蜘蛛の糸か」
オバリヨンはその平べったい身体で直立しているという、見るからに無理のある体勢で麻子と向き合っている。
「そうそう。ボクのおかげだねー」
誇らしげにタマが言うのを聞いて、麻子は苦笑する。
阿瀬が歩くであろう渡り廊下の地面から数センチ上に、タマの糸を伸ばしておいた。結果阿瀬は足を取られて見事に転んだ。
外部から予想外の動きをさせられたことで、阿瀬の背中のものは阿瀬が転ぶと同時に吹き飛ばされた。神野の入れ知恵だったが、麻子は最初上手くいくのか不安だった。だが阿瀬の見事な転びっぷりを見て、猛烈に申し訳なく思うのと同時に酷く安心出来た。阿瀬はそれこそ空中で一回転するのではないかと思われる程、勢いよく転んだ。あれならばどれだけ背中にしがみついても振り落とされてしまう。
妖怪達が再び阿瀬の背中に乗っからないように注意したが、当の阿瀬が素早く起き上がって足早に去っていったので、目を回していた妖怪達はチャンスを逃したことになる。
「まあなあ、おいら達おんぶお化けもこれで色々大変なんだよ。乗っかっても落とされる。まず乗っからしてくれる人間がいねえ」
オバリヨンは腕を組むようなポーズを取って、大きく溜め息を吐く。
「それでちょうどいい人間がいたもんで、乗っかってみるとまたこれがいい塩梅でな。それで同類を呼んでみたら、みんなして乗っかってな。ちょっとしたお祭り気分になった訳よ」
「それで阿瀬君を押し潰すつもりだったの?」
「いやいや。まあ調子乗りすぎちまって乗っかりすぎたとは思うが、そんな危ねえことはしねえよ。あの人間がもう駄目だあ、限界だあってなりゃあおいら達もとっとと退散したぜ。だがなあ、ありゃあまるで意に介さねえのよ。鈍感もあそこまでいくと立派なもんよな」
さてと――オバリヨンは身体を広げ、ふわりと宙に浮かぶ。
「じゃあまた渡世に向かうとするかね。また会ったらそん時ゃ」
「うん、またね」
がくり、とオバリヨンは頭を落とす。
「調子狂っていけねえや。こっちは脅しのつもりで言ったってのによ」
麻子が屈託なく笑うと、オバリヨンは呆れたように笑い返す。
「本当におかしな奴よな。あんた、その気になりゃあその蜘蛛でおいら達を皆殺しに出来ただろうに」
言われてから気付いた。不思議なことに、麻子の頭の中にはその選択肢が最初から抜け落ちていた。麻子とタマがあまり離れられず、阿瀬の背中の妖怪達をタマに襲わせるのにはかなり接近しなければならないという理由があったからかもしれないが、それにしてもあまりに単純な方法を見失っていたことになる。
麻子が困惑しながらそう言うと、オバリヨンはさらに呆れ返って笑う。
「あんた、きっと
麻子が首を傾げると、オバリヨンはおっとと口を手で押さえるようなポーズを取った。先程もそうだったが、布団状の身体の四隅にある手足ではどう頑張っても腕は組めないし、口を押さえることも出来ない。
「名付――って?」
「い、いや、何でもねえ。気にしなさんな」
「やあ麻子。万事上手くいったようだね」
落ち着いた声がして、柔和な笑みを浮かべた神野が背後に立っていた。関係者以外の校内への立ち入りは許可が必要なはずだが、妖怪である神野には関係のない話なのだろう。
「お、おじさん。びっくりするじゃないですか」
「はは、悪いね。さっき産女が礼を言いにきたから、麻子が上手にやったんだろうと思ってね。当たってたかな」
「は、はい」
「うん、それはよかった。それで、オバリヨン」
オバリヨンは神野に名前を呼ばれると、心底怯えたように身体をわななかせた。
「妖怪の領分を踏み外してはならないよ」
「あ、あんた、一体――」
「ああ、私は神野悪五郎さ」
「ししししし神野悪五郎ォ?」
明らかに狼狽するオバリヨンを見て、麻子は神野が本当にすごい妖怪なのだと得心した。
「そう慌てなくてもいい。オバリヨンは名はあるが、まだきちんとした
「おいらは――」
神野は、穏やかに笑う。
「次はないと思え」
「ひっ――ひいいいいい」
絶叫しながら、オバリヨンは空高く舞い上がっていった。
麻子は訳がわからないまま、神野の笑顔をぼんやりと眺めていた。
「うーん、どうも様子が妙だな。妖怪というのはきちんと己の領分を弁えた上で行動するものなんだが。ひょっとすると麻子は魔性の女かもしれないな」
「へ?」
神野は声を立てて笑い、
「つまらない話をしてしまったね。今の話は忘れた方がいい」
すっと右手を前に出そうとする。
「えっと、忘れるもなにも、何のことかさっぱりで――」
「それもそうか」
神野は右手を下ろし、苦笑しながら麻子に背を向ける。気付いた時には神野の姿は掻き消えていた。
麻子は意味がわからないままでも、さっきまでの会話を決して忘れてはならないと心に留め置いた。
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