第2話 千鬼厄万来


 雨は容赦なく少年の身体を叩いた。

 大粒の雫が絶え間なく降り注ぎ、辺りは轟音に包まれている。

 少年はその中で、狂ったように声を張り上げる。

 その日、朝から空は異様な雰囲気に包まれていた。どす黒い雲が空を覆い、少年が学校に着く頃にはいよいよ雨が降り始めた。

 まるで空が割れたかのように雨は降り続き、気象庁からは大雨洪水警報が発令された。一部では避難勧告が出された地域もあったという。

 少年の通う学校も授業を中断し、速やかに下校するよう生徒達に告げた。

 午後の授業が丸々潰れたと、少年はずぶ濡れになりながらも上機嫌で家に帰ったのだった。

 だが、家に着いて少年は大いに慌てた。

 家に帰っていたはずの妹が、川を見て来ると言って外に出て行ったのだと少年の母親はあたふたと語った。

 少年はそれを聞くと、荷物を放り出して再び外へ飛び出した。

 そして今、自転車を漕いで、半ば川と化した道を必死に妹の名前を叫びながら走っているのである。

 八つ年の離れた妹は、少し変わっていた。そのせいか友達も少ないようで、いつも少年が彼女の相手をしていた。

 もう一度、声を張り上げて妹の名前を叫ぶ。だが少年の叫びは、虚しく雨の音にかき消された。

 やがて川が見えて来た。普段は緩やかに流れているはずの川も、今では低い唸りを上げる濁流へと姿を変えている。

 少年は川沿いにペダルを漕ぐ。

 雨のせいで視界が悪いが、今のところ人影はない。こんな雨の中、外に出る奇特な人間などまずいない。彼の妹は、その奇特な人間な訳だが。

 暫くその道を進んで行くと、黄色い合羽に青い傘をさした小柄な影が見えた。少年が妹の名前を叫ぶと、その影は楽しそうに傘をぶんぶんと左右に振った。

 少年はほっとして安堵の息を漏らした。

 だがそのせいで、少年は前方から流れて来る物に気が付かなかった。

 少年がペダルに力を込めようとすると、急に前輪に何かがぶつかった。自転車はバランスを崩し、少年はあっけなく空中に放り出された。

 少年の身体はそのまま土手を転がり、濁流に呑まれ――

「お兄ちゃん!」

 何処か遠くで、妹が自分を呼んでいるのが聞こえた気がした。

 しかし少年の耳に聞こえるのは水の音だけだったので、きっと気のせいだろうと少年は思った。

 少年――川島新龍しんりゅうの水死体が見つかったのは、その翌日のことである。




「ということで、今年の南高祭なんこうさい我ら一年六組の出し物は、お化け屋敷に決定!」

 周りのクラスメートが拍手をする中で、川島麻子は半ばやけくそになって手を叩いた。

 麻子の通う青川南高校――通称南高は一ヵ月後に文化祭を控えている。

 通例で一年生はお化け屋敷等のイベント、二年生は模擬店、三年生はステージでのパフォーマンスと決まっている。

 麻子のクラスはお化け屋敷を希望し、他のクラスとの兼ね合いを色々と話し合った結果、希望通りになった訳であるが――。

 ――何でよりによって。

 麻子は大きく溜め息を吐いた。

「ふふふふふ」

 頭の上から、子供のような楽しそうな笑い声が響く。

 麻子の頭の上には、足を精一杯折り畳んで、ようやく頭のスペースに収まる程の巨大な蜘蛛が乗っていた。

「楽しみだなあ」

「タマ」

 麻子は小さく声を発してそれを制した。

「玉?」

 隣の席で、だらしなく机に突っ伏していた桐谷匠が首をこちらに向ける。麻子は慌てて手を横に振り、何でもないと告げた。

 麻子は普通の人間には見えない、所謂幽霊や妖怪が見える特異な能力を持っている。

 しかし麻子はただ単に見えるだけで、対処する術は持ち合わせていない。

 その麻子がそれでも一応平穏無事に毎日を過ごせるのは、現在麻子の頭の上で膨れているタマのおかげと言える。

 タマは、麻子の『友達』で、麻子の強い霊力に引き寄せられてやって来る雑鬼達を食らい、麻子を守ってくれている。

 しかしタマは、暇となると所構わず麻子に話し掛けて来るので、迷惑といえば迷惑である。

 しかもタマは雑鬼を喰らうのを何よりの娯楽として考えているため、雑鬼の多い場所に麻子を連れていこうとする。

 そして一箇月後に行われるお化け屋敷こそ、タマの絶好の狩場――即ち麻子にとって気苦労の絶えない場所なのである。

 暗くした教室に何人もの人間が押し寄せ、恐怖の悲鳴を上げる。こんな場所に妖怪達が集まらない方がおかしい。

 お化け屋敷の係は多い。外での受付、中での脅かし役。麻子は妖怪達から逃れるために、何としてでも教室の外での受付役を勝ち取る必要があった。

 そして今、それぞれの係を決めるためのじゃんけんが始まろうとしていた。

 他のクラスメート達が楽しそうに笑い合う中、麻子は一人真剣な面持ちで立ち上がった。




 四泉川しせんかわは青川市の南に位置する泗泉町を流れる緩やかな川である。

 四泉川とは、読んで字の如く四つの泉を源流として流れているからであって、かつては町の至るところで地面を掘れば泉が湧き出た、ということから地名が付いた泗泉町とは漢字が違うのだということを麻子が知ったのは高校に入ってからだった。

 その何だかややこしい名前の川の薄暗い橋の下で、麻子は愚痴をこぼしていた。

「何で、よりによって私が脅かし役なの……」

 あの後、麻子はことごとくじゃんけんに負け続け、気付いた時には外での係は全て埋まっていた。そして麻子はどういう訳か、中で客を脅かすという係に当たってしまったのだった。

「そう落ち込むなよ麻子。なかなか面白そうじゃないか」

 長袖の白いカッターシャツに黒いズボン――麻子の高校の制服を着た男が笑いながら言った。

「お兄ちゃんの馬鹿。人事だと思って」

「酷い! 祥月命日に可愛い妹が来てくれたと思ったらお兄ちゃんを馬鹿呼ばわりなんて! お兄ちゃんのガラスのハートは粉々に――」

「わかった、わかったから落ち着いて」

 そう言って麻子はげんなりと肩を落とした。

 麻子の兄――川島新龍は七年前の今日、九月十一日に四泉川で水死した。

 それがよほどこの世に未練があったのか、こうしてまだ幽霊として元気に暮らしているのである。

「おい、それより麻子聞いたぞ。この間また危険な目に会ったんだって?」

「う、うん」

 数日前、麻子は新龍の言う通りかなり危うい目に会った。元はといえば原因は麻子が作ったのだが。

「な、ん、で、お兄ちゃんに相談しないんだ! 麻子はお兄ちゃんよりあのハゲとか神野何とかっていうオヤジの方が信頼出来るっていうのか?」

 ハゲ、というのは恐らく自称麻子の師匠である風雲寺の住職のことで、神野というのは自称大妖怪の神野悪五郎のことであろう。

「いや、それは――その――」

 新龍のことだから、そんなことを知ったら四六時中騒ぎに騒ぎ、落ち着かないに決まっている。だから麻子には新龍に相談するという選択肢は考えられなかった。

「うう、何だか年々麻子が冷たくなってる気がする……お兄ちゃんのガラスのハートは――」

「ご、ごめんって」

 新龍はそれでもまだぶつぶつと文句を垂れたが、やがて静かになった。初めは麻子が愚痴を垂れていたのに、今ではまるで逆になっている。

「そういえばお兄ちゃんは南高祭で何やったの?」

 新龍も死ぬ前は麻子と同じ高校に通っていた。

「一年の時は麻子達と同じお化け屋敷。二年の時は海の家みたいなのをやる予定だった」

 そう言って一瞬新龍の顔が暗くなった。

 麻子は慌てて話題を変えた。

「お、お兄ちゃんはどんな役だったの?」

「ん? ああ、麻子と同じ脅かし役さ」

「同じだったんだ……」

「ああ、なかなか面白かったぞ。そうだ、お兄ちゃんも久しぶりに南高祭に行ってみようか」

「でもお兄ちゃんはここから離れられないんじゃないの?」

 麻子は新龍がこの四泉川流域を離れたところを見たことがない。

「いや、別に一日や二日くらいなら大丈夫だろ。よし! 麻子、南高祭は何日だ?」

「へ? 来月の三、四、五だけど――」

「その内お化け屋敷をやるのは三日と四日だな?」

 最初の二日間が校内での発表、最終日が市の文化会館を借りての演劇部や吹奏楽部の発表だ。

「う、うん」

「よっしゃあ! じゃあちょっと休みが貰えるかどうか訊いてくるわ」

 そう言うと新龍は、猛烈な勢いで川の上流へと飛んでいった。

「相変わらず元気だよねー」

「うん。ちょっと迷惑なくらいね」




「随分と――変わった小僧だ」

 頭の中に声が響く。

「中途半端な未練と、得体の知れない呪いでこの世に留まっておる」

 そういえば、自分にはもう頭などなかったのだ。だから、正確に言えば自分の中に、その声は響いている。

「小僧、名は何という?」

 自分の名前を言った。しかし自分には口などない。口があったとしても、ごぼごぼという音しか出なかったに違いない。

 それでも声の主には伝わったようで、その声は楽しそうに笑った。

「気に入った。良い名だ。お前、まだこの世に未練があるのだろう?」

 妹――あの後妹は無事だったのか。

「ちょうど私も使い走りが欲しかったところだ。さあ、これを飲め」

 口――否、自分の中に小さな固いガラスのようなものが入って来る。

「誇りに思え、川島新龍。お前は今から我が眷属だ」

 声は、高らかに笑った。




「で、結局新龍くんは文化祭に来るのかね?」

 鬼瓦の如き凶相に笑顔を浮かべて、風雲寺の住職は訊いた。

 麻子はあの後、新龍の墓参りも兼ねて風雲寺を訪れた。さっき会ったばかりの人物の墓参りをするのは何とも奇妙な感覚だったが、一応きちんと手を合わせて来た。

 そして住職に中に招き入れられ、お茶を飲みながら愚痴をこぼしていたのだった。

「さあ、よくわかりません。それより住職、口裂け女の一件のことをお兄ちゃんに話しました?」

 住職は麻子が自分以外で唯一知る「見える」人物である。当然新龍のことも知っている。

「ああ、ちょうど今朝散歩がてらに報告しといたよ。彼は君のことが心配でたまらなかったようだったよ」

 麻子は溜め息を吐いて、

「いい加減妹離れして欲しいんですけどね」

 とぼやいた。

「まあまあそう言わないの。彼は麻子ちゃんが心配でこの世に残ってるんだよ? 妹離れする時っていうのはつまり、彼がこの世を離れる時ってことになる」

「それは――」

 麻子は思わず顔を曇らせた。

「君もまだまだ、お兄さん離れが出来ないみたいだね」

 そう言って住職は笑った。頭の上ではタマもくすくすと笑っている。

「もう、タマまで笑うことないでしょ」

 麻子は自分の顔が赤くなるのを感じた。

「しかし麻子ちゃん、そんなに厭ならいっそのこと当日サボっちゃえばいいじゃないか」

「それは私も少し考えたんですが――」

 麻子の頭からタマが飛び降りる。

「ダメだよ麻子! そんなことしたらボク怒るからね!」

 そう言ってタマは牙を剥いて威嚇した。

「――と、タマがずっとこの調子なんで……。それに、クラスのみんなに迷惑かけることになっちゃいますから」

「君も大変だね」

 住職は呆れたように笑った。

 麻子も少し笑い、そろそろ帰ることを告げて立ち上がる。

「ちょっと訊いていいかな? 麻子ちゃん」

 住職が麻子を呼び止める。

「何ですか?」

「お兄さんは、大事かい?」

 麻子は即座に、

「大事です」

 と答えた。

「そうか、よかった。もう暗いから気を付けて帰りなさいよ」

 麻子は頭を下げて、その場を後にした。

 風雲寺と書かれた山門の裏に停めておいた自転車に跨り通りに出る。

 麻子の家と風雲寺は目と鼻の先だ。

 一分程度で自分の家に着いた。どこにでもありそうな、ごくごく普通の二階建ての中流住宅だ。

「ただいま」

 家の中に入ると、母親が台所で料理をしているところだった。

「あらお帰り。遅かったわね」

「うん。風雲寺に寄って来たから」

 母は化粧気のない顔で小さく笑った。

「麻子ってホント信心深いのね。お父さんとは大違い」

 麻子は苦笑した。

 麻子の父は神社で十字を切り、寺で手を打ち鳴らす何というか天の邪鬼な人物である。新龍が死んだ時も、葬式など金の無駄だと言って親戚一同に説得されるまで葬式を上げることを拒否し続けたらしい。

「お父さんは?」

「今お風呂。今日はお兄ちゃんの命日だからご馳走よ」

 川島家では、毎年新龍の命日に豪勢な食事を作りケーキを食べる。何だかおかしいような気もするが、それでも毎年欠かさず行っている。麻子は以前このことを新龍に話したが、新龍はやはりそれは馬鹿だと言って笑い転げていた。

 麻子はこれも一応、この行事の発案者である父なりの、息子への愛情なのだろうと思っている。

 麻子は両親が新龍のことで悲しんでいる姿を見た記憶がない。

 新龍が死んだのが、まだ麻子が幼かった時だったからかもしれないが、両親は毎年この日に新龍を偲ぶことはない。

 二人は、麻子に気を使っているのかもしれない。

 麻子はその日のことはよく覚えていた。

 泗泉町がかつてない豪雨に襲われた七年前、麻子は一人で四泉川を見に行った。理由は、小学校からの帰り道に妖怪達が四泉川で河童が流されているという話をしていたのを聞いたからだった。河童の川流れということわざを覚えたてだった当時の麻子は、どうしても本物の河童の川流れが見たかった。

 そんなくだらない理由で、麻子は川を見に行ったのだ。

 それを聞いた学校から帰って来た新龍が、麻子を探しに外へと飛び出した。そして麻子を見つけたその時、道に転がっていた何かにつまづき、そのまま川へと呑み込まれた。

 麻子は必死に新龍を呼んだが、新龍はそのまま帰らぬ人となった。

 今でも時々当時を思い出し、麻子は激しい自責の念にかられる。

 だから、両親もきっと辛いはずなのに、それでも明るく新龍の命日を過ごすのは、麻子に気を使ってのことなのだろう。

「ああ、いいお湯だった。お、麻子お帰り」

「ただいま。今日は何かあった?」

「いや、何も。まあ事件がないのは平和でいいんだが、流石にずっとデスクワークは疲れるよ」

 麻子の父は、近くの警察署の刑事課に勤めている。とは言っても、やることは殆どが退屈なデスクワークらしいが。

 父が風呂から出て来たところで、母はテーブルに料理を並べた。

「はい。じゃあ座って座って」

 母が自分のグラスにビールを、父と麻子のグラスにジュースを注ぐ。父は下戸なのだ。

 父が咳払いをしてグラスを持つ。

「えー、それじゃあ――乾杯!」

 乾杯――と言って三人でグラスを触れ合わせる。

 新龍の姿を思い返しながら、麻子はグラスを煽った。




 ステージの上では三年生達が麻子にはよくわからない洋楽に合わせて踊っている。

 文化祭の開会式が終わるとすぐに、三年生のステージ発表が始まった。

 周りのみんなは盛り上がって手拍子をしているが、麻子はこれから始まる自分達の発表のことを考えると、気が気でなかった。

 ふと誰かが麻子の肩を、つんつんと触った。

 後ろの席に座っているのは、違うクラスの知らない人だったはずだと思いながらも、麻子は後ろを向いた。

 麻子は驚いて、あんぐりと口を開けた。恐らく麻子の後ろに座っていた生徒は、麻子の行動に眉を顰めただろう。

 麻子は慌ててステージへと視線を戻した。

「酷い! わざわざやって来たのにシカトなんて! お兄ちゃんのガラスのハートは粉々に砕け散ったぞ!」

 そう、麻子の後ろには誰あろう新龍が立っていた。

 新龍はそれから一人でさんざん喚き散らしたが、周りに人がいる手前、話しかける訳にもいかない。

 麻子はそれから三十分近く、新龍の嘆きを聞き続けなければならなかった。よくもまあこれだけの間ぎゃあぎゃあ騒ぎ続けられたものだ。当然、ステージのことなど頭に入って来ない。

 漸く全ての発表が終わり、自分の席から立てるようになると、麻子は新龍を引っ張って誰よりも早く体育館を出た。

 麻子は猛然と廊下を突き進み、一年六組の教室へと辿り着いた。

 文化祭当日、この教室はただの荷物置き場になっているので、人が来ることはないだろうと思ってのことである。

「何しに来たの」

 麻子は新龍を睨み付ける。

「遊びに」

 新龍は真顔でそう答えた。

 麻子は深く溜め息を吐いた。

「あのね――」

 麻子が新龍に文句を垂れようと口を開いたその時、教室に向かって駆けて来る足音が麻子の耳に入った。

「あ、川島サン」

 教室に入って来たのは桐谷匠であった。

「何だコイツは」

 新龍が顔を顰める。

 桐谷には当然新龍の姿は見えていない。

「そろそろ始めるみたいだよ。急いだ方がいいんじゃない?」

 自分の鞄を漁りながら、桐谷はへらへらと言った。

「あ、うん。わかった」

 麻子はそう言って笑顔を取り繕う。

 桐谷が鞄の中から目当ての物を見つけ出して外へ出て行くと、麻子はほっと安堵の息を漏らした。

「何か変な奴だったな、アイツ」

「気付いた?」

 桐谷匠は霊感の欠片もない、ある意味麻子と正反対の極めて稀有な人間である。

 麻子がそう説明すると、新龍はそういうことを言ったんじゃない――と言った。

「何か気に食わないっていうことだよ」

 麻子は力なく笑った。

「それより急がないと。お兄ちゃんはついてこないでよ」

「そりゃあないだろう。わざわざ来てやったのに」

「誰も来てくれなんて頼んでません! ああもう――」

 麻子はちらりと壁にかかった時計に目をやった。もうあまり時間はない。

「とにかくついてこないで!」

 そう言って麻子は廊下に飛び出した。

 発表は麻子達の教室がある棟の向かいの、主に三年生の教室がある棟の一階で、教室を二つ借りて行われる。

 遅れては申し訳ないと、麻子は廊下を早足で歩いた。

「置いてくなんて酷いじゃないか!」

 麻子の隣で、新龍が空中を漂いながら言った。

 麻子は大きく溜め息を吐いた。

 人目がある以上、麻子から新龍に話し掛けることは出来ない。ああ言っても大人しく聞くはずはないだろうとは思っていたが、こうなってしまったら、もう新龍を止める手立てはない。

 麻子は肩を落としながら三年生の教室に辿り着いた。

 見ると、スタッフはほぼ全員が集まっていた。

 麻子は頭を下げながら自分の持ち場につく。暗幕で窓を覆った教室の中は暗く、自分達で作ったのだとわかっていても不気味である。

 そして、いよいよお化け屋敷が始まった。

 中に入った客は、暗い教室の中を、段ボールや机を並べて作られた通路に沿って進んで行く。その間、様々な仕掛けや異形に扮した者達が襲う。教室と教室の間は、雰囲気を壊さないように段ボールで作られた狭く暗い通路で繋がっている。その通路を出て、暫く進んだ所が、麻子の担当する場所である。

 麻子の役目は、通路を通っている客の頭上に、マネキンの手を降らすことである。

「何だか退屈そうな係だな」

 麻子の隣で、新龍が空中に浮きながら言った。

「お願いだから静かにしててよ」

 麻子が小声で呟く。

「あ! 麻子来たよ!」

 タマが嬉々として頭の上で跳ねた。

 見ると、確かに三人の影が見えた。

「幸先いいな麻子。どっさり雑鬼を憑けてやがる」

 新龍がにやにや笑いながら言った。新龍の言う通り、三人の周りには『本物』がうようよと漂っている。

 ――あれが全く見えないとは羨ましい。

 麻子はあまり音を出さないようにマネキンの腕が入ったたらいを持ち上げ、中身を下にぶちまける。麻子の立っているこの場所は、客が歩く通路よりも高い位置になるように机が敷かれている。

 マネキンの手がばらまかれ、客達は悲鳴を上げる。

 それと同時にタマが麻子の頭から飛び降りた。もし客達にタマが見えたなら、先程とは比べものにならない悲鳴を上げただろう。

 タマは下で客達の連れて来た雑鬼達を捕まえて喰らっていた。だが多くはタマの存在に気付くと蜘蛛の子を散らしたようにあちこちへと逃げて行った。

 タマは不服そうに捕まえた獲物を牙で真っ二つに裂いた。麻子とタマはあまり離れることが出来ないのだ。

「おいタマ公、まだ喰い足んねえか?」

 新龍がふわりと下に降りてタマに訊いた。

「うん。全然足りないよ」

「よし、じゃあちょっと待ってろ」

 そう言うと新龍は暗闇の中に消えていった。

 これで少しは静かになると、麻子はほっとしてタマに小声でマネキンの手を上まで運んでくれないかと頼んだ。

「えーやだよー面倒くさーい」

 タマはそう言って麻子の頭の上に戻った。

 麻子は深く溜め息を吐くと、下に降りてマネキンの手をたらいに集めた。

「あ! また来たよ麻子」

 思っていたよりも早い。麻子は大急ぎで残った手を集めると裏へと下がった。

 今度は二人組のようだ。奇妙なことに、雑鬼を全く憑けていない。タマは不満げに息を漏らした。

 麻子はさっきと同じようにマネキンの手を撒いた。二人組が驚いたように声を上げる。

 二人が先に進んだのを確認すると、麻子は下に降りて再び手を拾い集め始めた。

「どぅわい!」

 声と共に、誰かが派手に床に転ぶ音が響いた。

「何だよ全く――って、手?」

「あ、阿瀬くん?」

 麻子が声のした方に目をやると、阿瀬直人がマネキンの手を物珍しそうに弄くっていた。

「ん? あ、川島さん」

 阿瀬は麻子に気付くと、ぎこちなく笑って、手に持っていたマネキンの手を振った。

「全く厭んなっちゃうよ。一緒に入った奴らとかなり初めの方ではぐれちゃって。あ、はいこれ」

 阿瀬がマネキンの手を差し出す。だが麻子は阿瀬を呆然と見つめて固まっていた。

「あの……川島さん?」

「あ! ごめんなさい。ちょっと――その――」

 麻子はしどろもどろになりながら、阿瀬からマネキンの手を受け取った。

「じゃ、頑張ってね」

 そう言って阿瀬は背中を丸めて去っていった。

「――タマ、見た?」

「うん。見た」

 阿瀬の周りには、夥しい数の雑鬼達が渦巻いていた。

「何か――圧巻だったね」

「うん。ボクもびっくりしすぎて食べ損ねた」

「麻子、さっきの奴と知り合いか?」

 背後で声がしたので振り向くと、新龍が両手に雑鬼を山程抱えて立っていた。

「お兄ちゃん――何それ?」

「ん? タマ公の餌だ。ほれ」

 新龍が雑鬼達を床にばらまく。タマは嬉々としてそれらをがつがつと喰らい始めた。

「それよりさっきの奴と知り合いか?」

「うん。まあ」

 阿瀬と麻子は中学の三年間、同じ塾に通っていた。そして先日の一件で、阿瀬は危うく命を落とすところだった。麻子がそう説明すると、新龍は不機嫌そうに、

「アイツとはあんま付き合うなよ」

 と言った。

「どういうこと?」

「ありゃあ憑かれやすい質だ。霊的抵抗力が低いんだろうな。さしずめマラリアを運ぶ蚊かペストを運ぶ鼠ってとこだ。あんまり関わらない方がいい」

 阿瀬は――少なくとも人間性は――悪い男ではない。それを頭ごなしに関わるなとは酷くはないか――麻子はそう言おうとして半分口を開いたが、新龍に変な勘違いをされたら大変だと仕方なく開きかけた口を閉じた。

「麻子」

 新龍の持って来た雑鬼をあらかた喰い尽くしたタマが声を発した。

「何?」

「もう次の人来てるよ」

「嘘っ!」

 麻子は大慌てでマネキンの手を拾い集め、裏へと下がった。

 それから麻子は一時間ごとにもう一人の係と交代しながら、黙々と仕事をこなしていった。

 そして三度目の交代をして、本日最後の客にマネキンの手を撒いた後、クラス全員で片付けに取りかかった。

「はあ……やっと終わった」

 麻子はそう言ってマネキンの手を一つ一つ丁寧に拾い集めた。

「麻子ぉ、食べ過ぎて眠くなっちゃった」

 タマが麻子の足下でだらしなく八本の足を伸ばした。

「はいはい。寝てていいよ」

 麻子は苦笑してタマを頭の上に乗せてやった。

 麻子が仕事をしている間、タマは次々にやって来る雑鬼を手当たり次第に喰らっていた。流石のタマも食べ過ぎたようだ。

「しっかし思ってたよりも大物は来なかったな。雑鬼の他には人間霊が二三くらいだったもんなあ」

 新龍が退屈そうに欠伸をした。新龍は結局最後まで麻子の近くで雑鬼を捕まえたり、タマと戯れていた。

「まあ……それが何よりの救いだったけど」

 雑鬼達でも手一杯だというのに、そこにさらに厄介なもの達がやって来たら、到底麻子では太刀打ち出来ない。

 麻子は最後の一本を拾ってたらいの中に入れると、暗い部屋を出て一年六組へと向かった。

 教室に入るとすでに麻子以外のクラスメートは全員揃っていた。

「これで全員だな」

 担任の鮎川教諭が教室を見渡して確認を取る。

「はーい皆さん一日目ご苦労さんでした。明日はえーっと――」

 七時半――と教室の何処からか声が上がった。

「そうそう七時半に集合ね。じゃあ今日はこれで解散」

 鮎川教諭がそう言うと、殆どの生徒達は教室で談笑を始めた。

 麻子は自分の荷物を持ち、友人達に別れの挨拶をすると、すぐに教室を出て昇降口へと向かった。

「なあ麻子、もう帰るのか?」

 新龍が麻子の隣を漂いながら訊いた。麻子は声を出さずに首を横に振った。

「ん? じゃあどっか寄るのか?」

 下駄箱から靴を取り出しながら麻子は頷いた。

「風雲寺か?」

 その通りだと麻子は頷く。一応今日の報告と、新龍と話し合うのに一番困らない場所だと思ったからである。

 新龍は珍しく腕を組んで、何やら考えていた。

「悪い麻子。お兄ちゃん先に風雲寺に行ってるわ」

「え?」

 思わず声を出してしまい、慌てて口を閉じる。その時にはもう、新龍は凄まじい速さで飛び去っていた。

 麻子は暫く靴を手に持ったまま固まっていたが、次第に人の気配が増えて来たので、急いで靴を履いて自転車置き場に向かった。

 自分の自転車を探し出して跨り、そのまま校門を抜ける。暫く自転車を漕いで狭い路地に入ると墓地が見えて来る。その先が風雲寺だ。

 麻子はいつも通り自転車を山門の裏に停めると、中へと入っていった。

「住職、川島ですけど――」

「お、早かったな麻子」

 中には住職は居らず、新龍が床に胡座をかいていた。

「おお、来たかね麻子ちゃん。ちょうど今お茶を淹れてたところだ」

 住職が奥から盆に湯呑みを乗せてやって来た。

「住職、お兄ちゃんと何の話をしてたんですか?」

 床に腰を下ろしながら麻子は訝しげに訊いた。

「ん? いや、ただの世間話さ」

 いつもと同じように、恐ろしい顔に不釣り合いな笑顔を浮かべて住職は答えた。麻子は住職が話している間、新龍が住職を睨み付けているのを見逃さなかった。

「それより麻子ちゃん、今日はどうだったんだい?」

「はあ、もうへとへとです。タマは食べ過ぎてこの調子ですし」

 麻子が頭の上を指差すと、住職は苦笑した。

「おまけにお兄ちゃんまでやって来るし――」

「酷い! 可愛い妹が心配でわざわざ来てやったのに、まるでお兄ちゃんが迷惑みたいな言い方をするなんて! お兄ちゃんの――」

「だから実際私は迷惑してるんだけど……」

 新龍は一瞬凍りついたかのように固まったかと思うと、両手に顔を埋めてわんわんと喚き出した。

「酷い! 昔はお兄ちゃんお兄ちゃんっていっつも甘えて来たのに! 麻子はいつからそんな冷血漢になってしまったんだ!」

「冷血漢って……私男じゃないんだけど……」

 麻子が呟くと新龍はさらに激しく泣き喚いた。麻子はどうしたものかと頭を抱えた。

「まあまあ新龍くん。麻子ちゃんは別に君の存在を煙たがっている訳じゃあないんだから」

 住職が助け舟を出した。

「そ、そうだよお兄ちゃん。私が迷惑っていうのは、その――お兄ちゃんの行動であって、えっと――お兄ちゃんが嫌いってことじゃないよ」

「本当?」

 新龍が顔を上げる。

「う、うん!」

 麻子がそう言うと、新龍は見る間に顔を輝かせた。

「そうか! やっぱり麻子はまだお兄ちゃんのことが好きなんだな!」

 麻子は溜め息を吐いて住職に目配せしたが、住職はただ笑うだけであった。

「それより新龍くん、この後はどうするのかね? 今日と明日は自由なんだろう?」

「ああ、そうだな――麻子と一緒に家に帰ってみるか」

「え?」

 麻子は思わず声を発した。

「久し振りに父さんと母さんの顔も見たいしな」

 そう言って新龍はどこか遠い目をした。麻子は何だか胸が締め付けられるような感じがした。

 新龍が命を落としたのは、元はといえば麻子のせいなのだ。普段麻子の前では明るく振る舞っているが、もしかしたら本当は死んだことを嘆いているのかもしれない。

「よし! そうと決まったら帰るぞ! ほら麻子、早く立て。じゃあまたなハゲ」

 そう言って新龍は外に出ていってしまった。麻子は住職に頭を下げて、急いで新龍を追った。

 外に出ると、自転車の側で新龍がプカプカと空中に浮いていた。

「お兄ちゃん、あの――」

「何だ?」

「う――ううん、何でもない」

 麻子は自転車に跨るとゆっくりペダルを漕いで外に出た。新龍は麻子の横を漂いながらついて来ている。

 終始無言で自転車を漕ぎ、家に着いた。

「おー、七年振りだけどまるで変わってないなあ」

 麻子は下を向いたまま自転車を停めた。何故か新龍の顔を見ることが出来なかった。

「ただいま……」

「たっだいまー」

 玄関で靴を脱ぎ、家の中へ入る。

「あらお帰り。早かったわね」

「おお、母さん老けたなあ。七年経つもんなあ」

 新龍はにやにやと笑っている。

「うん。文化祭だったから」

 麻子は荷物を置きに、二階の自分の部屋へと向かった。

「あれ? 今は麻子がお兄ちゃんの部屋使ってんの?」

 麻子はこくりと頷く。現在麻子が自分の部屋として使っている部屋は、七年前までは新龍の部屋だった。

 扉を開けて中に入り、電灯を点ける。

「……あんま変わってないな。年頃の女の子の部屋がこれじゃあ――」

「余計なお世話です!」

 麻子は可愛らしい人形や、所謂女らしい花柄やらピンク色といったものは好まない方なので、この部屋は新龍が死んだ時から殆ど変わっていない。

「私今から晩御飯だけど、お兄ちゃんはどうする?」

 新龍はベッドに寝転がりながらうーんと唸った。

「そうだな、久し振りの我が家だし暫く徘徊してみるわ」

「わかった。あんまり騒がないでよ」

 そう言って麻子は電気を点けたまま部屋を出た。

 下で夕飯を取り、風呂へ向かう。長い間湯船に浸かりながら、麻子は兄のことを思った。生きていればもう二十四歳だ。立派に働いているのだろうか。ひょっとしたらもう結婚していて、子供もいるかもしれない。そうなれば麻子も叔母だ。

 そんなことを考えて、麻子は無性に悲しくなった。新龍はもう成長しない。いつまでも十七歳のままだ。自分が年を取っても、新龍はあのままでいるのだろうか。自分の方がお姉ちゃん――おばさんになっていくのに、新龍はずっとお兄ちゃんでいてくれるのだろうか。

 頭がこんがらがってきたところで思考を打ち切り、湯船から上がる。洗面所で丁寧に髪と身体を拭き、パジャマを着ようとした瞬間、洗面所の戸が開いた。

 新龍が目を白黒させて麻子を見ている。麻子は一瞬固まった後、瞬時にバスタオルで身体を隠した。

「あー、胸は全く成長してないな」

 麻子は無言で新龍の顔面を殴りつけた。伸びた新龍を外に放り出し、パジャマを着て洗面所を出、新龍を引きずって自分の部屋に向かう。

 新龍を部屋の真ん中に座らせ、仁王立ちで言葉を待つ。

「そんなに怒るなよ。タマ公とは一緒に入ってるじゃないか」

「タマは人間じゃないからです! お兄ちゃんは人間で、しかも男でしょうが!」

 新龍は下を向いたままぼそぼそと何か呟いていた。

「うう……酷い……久し振りに我が家に帰って来たのに覗き扱いされるなんて……お兄ちゃんのガラスのハートは――」

 麻子は新龍の発言に、思わずドキリとしてしまった。

 新龍が死んだのは麻子のせいだ。その新龍がようやく家に帰って来たというのに、麻子のせいで落ち着くことが出来ないのではないか。

 そう思うと、麻子の胸は酷く締め付けられた。

「――ごめん。お兄ちゃん」

 麻子が蚊の鳴くような声で呟くと、新龍は驚いたように顔を上げた。

「私、ちょっと外に出て来るから、お兄ちゃんはゆっくりしててよ」

 そう言って麻子は立ち上がり、ドアに手をかけた。

「おい何言ってるんだ麻子。外はもう暗いんだぞ。用があるならお兄ちゃんも一緒に――」

「いいよそんなの。だって、お兄ちゃん本当は私のこと――恨んでる」

 言ってしまった。今までずっと考えないようにしてきた、麻子の中に巣食う不安。

 新龍は一瞬固まったが、慌てたようにそれを否定した。

「何言ってんだ。お兄ちゃんが麻子のことを恨むなんて――」

「嘘言わないで! 私のせいでお兄ちゃんは死んじゃったんじゃない! 私はお兄ちゃんから何もかも奪ったんだよ!」

 ドアノブから視線を動かせない。自分の言葉が自分に突き刺さる。

「麻子」

 新龍が麻子の肩を掴み、顔を自分の方に向けさせる。

「ずっと、そんな風に考えてたのか?」

「うん……」

 麻子は涙声でそう呟いた。

 新龍は優しく微笑みかけた。

「馬鹿だな、お兄ちゃんが死んだのは全部滑って転んだ間抜けなお兄ちゃん自身のせいだ。麻子は何にも悪くないよ」

「でも……」

「いいんだ。今こうしてお兄ちゃんはここにいる。それでいいじゃないか。だからもう泣かないの」

「泣いてないよ」

 消え入りそうな声でそう返し、麻子は頷いた。

「それに、お兄ちゃんがこうしていられるのも麻子のおかげなんだよ」

「どういうこと?」

 新龍は一瞬しまったと口を押さえたが笑顔を取り繕って、

「いや、その――まあお兄ちゃんは何よりも麻子が大事ってことさ」

 と言った。

「私も。タマの次くらいに」

 何だそりゃ――明るく笑う新龍につられて、麻子も笑った。




 もぞもぞと手を伸ばして、麻子は目覚まし時計を探した。

 昨夜は新龍と色々話し込んで、気付いた時には日付が変わっていた。

 瞼を擦りながら文字盤を見ると、時計は三時を指していた。

「三……時……?」

 まだ布団に入って二時間程度しか経っていないということだろうか。しかしそれにしてはやけに明るい。

「おい、あれ木下さんじゃねえか?」

「うんそうだよー。えっと、確か去年にあの踏切でジサツしたの」

 新龍とタマが窓の外を眺めて何やら話をしている。

「木下――さん?」

「お、麻子起きたか」

「おはよー麻子」

 麻子は恐る恐る訊ねた。

「もしかして……もう木下さんいるの?」

「うん。あ、麻子急がなくていいの?」

 麻子は血相を変えてベッドから跳ね起きると、すぐさま着替えようとしたが、新龍の存在に気付き慌てて半分脱いだ寝間着を元に戻した。

「お兄ちゃんは外に出てて!」

 新龍はぶつくさ文句を言ったが、大人しく部屋から出た。

 麻子は大急ぎで寝間着を脱ぐと制服に着替えた。

 タマが頭の上に乗ったのを確認すると、麻子は部屋を飛び出して階段を駆け降りた。

 目立った寝癖だけを直し、鞄に弁当を詰め込んで家を出る。

「なあ麻子、そんなに急いでも意味ないんじゃないか? さっきテレビ見たらもう八時半過ぎてたぞ」

 そんなことは木下がいるということを聞いた時からわかっていた。木下は自殺した男の霊で、毎朝同じ時間に姿を現す。麻子のよく壊れる目覚まし時計よりも、よっぽど正確な時間でだ。

 その木下が現れていたということは。すでに八時二十五分を回っていたことになる。集合時間はとっくに過ぎていたのだ。

 それでも麻子は、少しでも急がなければ申し訳ないという思いと、もしかしたら八時三十五分に始まるホームルームに間に合わず、本当に遅刻扱いになってしまうかもしれないという思いから、必死に自転車を漕いでいた。

 暫く進むと前方に新龍と同じ制服を着た、二人の男とすれ違った。麻子は二人には目もくれずに突き進んだが、後ろから声をかけられ思わず振り向いた。

「あ、おはよー川島サン」

 目をやると、桐谷がのんびりと自転車を漕ぎながら麻子に手を振っていた。隣では阿瀬が軽く会釈した。

「き、桐谷君、急がなくていいの?」

「急ぐって、何が?」

 桐谷はへらへらと笑みを浮かべながら首を傾げた。

「何って、今日は七時半に集合って言われたじゃない」

「え? そうなの? 知らなかったわー」

 隣で阿瀬が呆れたように溜め息を吐いた。

「だったら急いだ方がいいんじゃないか?」

「馬ー鹿。どうせ遅れるんなら十分も一時間も一緒だろうが。ねえ川島サン」

 急に同意を求められて、麻子はしどろもどろになりながら自分でもよくわからない声を出した。

「な? だからのんびり行こう」

 どうやら桐谷は麻子の声を同意したものと捉えたらしい。

 そう言われると二人を置いて先に行く訳にもいかず、麻子は桐谷の言った通り、二人に合わせてゆっくりと自転車を漕いだ。

 とは言っても、二人に出会ったのは学校のすぐ近くだったので、一分も経たない内に学校に着いた。

 下駄箱の場所が遠い阿瀬は先に小走りで去っていったが、自転車置き場のすぐ近くに下駄箱のある麻子と桐谷は比較的落ち着いて靴を上履きに履き替えた。

「あー面倒くせえなー」

「え?」

 意外だった。桐谷はこういったイベントはむしろ率先して参加するタイプだと思っていた。少なくとも麻子の思う桐谷のクラスでの立ち位置はそうだ。

「何? 『え』って」

「あ、うん。桐谷君ってどっちかっていうとこういうイベントは楽しむキャラだと思ってたから……」

 桐谷はよくわからない笑みを浮かべて階段を昇り始めた。

 麻子は何だか釈然としなかったが、遅れるのはまずいと思い、桐谷の後を追った。

 三階への階段を昇っている途中でチャイムが鳴った。

 麻子は慌てて教室へと駆け込んだが、桐谷は至って落ち着いて後ろをついて来た。

 教室に入ると、クラスメート達が床でだらけていた。

 チャイムが鳴り終わると同時に桐谷が教室に入って来た。

「悪ーい! 完ッ全に忘れてた」

 片手を挙げて、へらへらと笑みを浮かべている。

 教室からはどっと笑いが起こる。

 桐谷が他の者達と楽しげに話している内容によると、何でも早めに集まって昨日壊れたお化け屋敷の修繕に取りかかったのはよかったのだが、予想以上に修繕する箇所が少なく、三十分も経たない内に何もすることがなくなり、それから今までずっと教室でだらけていたのだそうである。

 だからクラスメート達に言わせると、遅れて来て正解なのだそうだ。

 そのせいか、冗談混じりに桐谷を叱る者はいたが、麻子を責める者は誰もいなかった。桐谷が目立ち過ぎて麻子のことに気付く者がいなかったせいかもしれないが。

 もしかすると桐谷は、わざとああやって騒ぐことで、麻子に累が及ばないように仕向けたのかもしれない。

 ――流石にそれはないか。

 何も考えていないかのようにへらへらと笑っている桐谷を見て、麻子は考え過ぎだと苦笑した。




 一年六組のお化け屋敷のタイトルは、「生き人形館の殺人」となっている。なんだか色々混ざってしまっている気がするが、クラスの積極的なメンバーがするすると考え出したストーリーは以下のようなものである。


 昔、ある洋館に住む伯爵が人形のコレクションを始めた。洋館には日に日に人形が増えていくが、ある日伯爵はぱったりとコレクションを止めてしまう。それは伯爵が生涯の伴侶となるべき人形を見つけたからだった。その人形はまるで生きているかのようで、伯爵は完全に心を奪われ、その人形にエリーと名前を付けて愛し続けた。

 だが、エリーだけを愛する伯爵を恨むものが洋館には無数に存在した。それは伯爵の集めてきた人形達。伯爵はその無数の怨念によって生きながら人形へと変えられてしまう。

 以来この「生き人形館」に立ち入る者は、生きては帰れないという――。


 果たしてこの設定が充分に活きているのかと訊かれると、麻子は首を傾げなければならない。麻子がばらまくマネキンの手を始め、仕掛けや細部には人形をモチーフにしたもので固められているが、順番待ちの間に読むことが出来る入口前の文章――設定をきちんと読んでくれる客がいるかは疑問である。

 客からすれば、小難しい設定を頭に叩き込むより、単純にお化け屋敷を楽しみたいだけだろう。だから「生き人形館の殺人」というタイトルだけ知っていれば、それで充分なのだ。人形に関係があるお化け屋敷だということさえ知っていれば、実際過不足なく楽しむことは出来る。

 一応クライマックスは、生きたまま人形となった伯爵――に扮した脅かし役――が叫びながら客を出口まで追いかけるという仕掛けになっている。ただ、これは別に設定を知らなくとも至極単純に怖いので、やはり設定を知っていなければならないという訳ではない。

「流石に飽きたな」

 新龍が大欠伸をして呟く。

 麻子の今日の仕事は昨日と全く同じ。つまりマネキンの手を客の頭の上に降らせることである。

 それを何回も繰り返す麻子自身はそれ程退屈を感じないが、その隣で宙に浮かんだりタマと戯れたり客の連れてくる雑鬼を捕まえて遊んでいるだけの新龍からすればもう退屈の極みなのだろう。

「川島さん、交代」

 バックヤードから持ち場に現れたもう一人の係――陣内じんない明子あきこが小さく言うと、麻子は礼を言って持ち場を離れる。

 恐らく時間的にこれが最後の交代だろう。残った時間でせっかくの文化祭を満喫した方がいいのだろうとは思うが、麻子はどうも乗り気になれない。

 どうしたものかと暫くバックヤードをうろついていると、何やら慌ただしい声が飛んでいた。

「あ、川島サン」

 バックヤードでのんびりと足場になる机の上に腰かけた桐谷が声をかけてくる。

「何かあったの?」

「ああ、あれだよあれ。お化け屋敷のタブーってやつ」

 それを聞いて麻子は暫く考えたが、すぐに桐谷が助け舟を出した。

「客にはノータッチってやつ。でもなんか触られたって文句言ってる人がいるみたい」

 麻子は積極的に会議に参加した訳ではなかったが、そのことは脅かし役全員に伝えられているので承知している。

 お化け屋敷では、脅かし役は客に直接触れてはならない。これは一般に営業している業界のタブーであり、学生が文化祭で行う真似事では徹底されている訳ではないが、青川南高校では長年このルールを守っている。

 これを破ることは、最終日に発表される各学年の最優秀プログラムの審査にマイナスが付けられることになる。

 やるからにはトップを目指す一年六組にとって、それはあってはならないことであった。

 声を潜めてはいるが、明らかに口論とわかる声が入口付近のバックヤードから聞こえてくる。

「触ってないって。本当だっつってんだろ」

「現に触られたって文句言ってる人はいるんだ。お前、ばれないからと思って触りたかったんじゃねえのか」

「何をッ!」

 桐谷は欠伸をしてへらへらとした笑みを浮かべる。

「大変だなあ。つーか、触ったらばれるに決まってんんだから、触りに行く馬鹿はいねえと思うけどな。ねえ川島サン」

「え? ああ、うん、そうだよね」

 そう、確かにその通りなのだ。

 南高祭におけるお化け屋敷では、ノータッチのルールが徹底されていることは周知の事実なのである。それを破ればすぐに露見するのは当然で、わざわざ非難の目を向けられるためにそんな危険を冒す生徒はいない。

 麻子の背筋を冷たいものが走った。自分はとんでもない間違いを犯したのかもしれないという疑念。

「生き人形館の殺人」というタイトルは、麻子が付けたものだった。

 一から十まで麻子が考えた訳ではない。まず、使わないマネキンを貸してもらえる伝手を持っているという生徒がいて、マネキンをモチーフにしたお化け屋敷にしようという案が出来た。そこで積極的な生徒が何人かで設定を固め、最初の仮タイトルは「地獄の生き人形」というものだった。

 麻子はその時、ある推理小説を読んでいた。そこから発想を得たタイトルを中学からの友人である渡辺香にそっと耳打ちすると、香が気に入ってそれをどうかと提案した。

 そして「生き人形館の殺人」というタイトルは好意的に受け入れられ、正式なタイトルへ落ち着いた。香が頼んでもいないのに発案者は麻子だと言いふらしたせいで、普段あまり目立たない麻子は若干居心地の悪い思いをしなければならなかった。

 タイトル――名前。麻子は自分の持つ、つい先日まで知らなかった力を思い出す。

 麻子には、名前を付けることで、力のない霊的存在をより強固なものへと変質させる力があった。

 今回のお化け屋敷は、麻子が名付けたことになる。

 自分の力がどこまで及ぶのか、麻子はまだ知らない。だが、名前のなかったものに名前を与えたという手順は確かに踏んでいる。

 このお化け屋敷そのものが、一つの魔物と化しているのではないか。

 麻子はそれを確かめるため、外に出て入口の前に向かった。

 運のいいことに、現在並んでいる人はいない。

「どうしたの川島さん?」

 受付係の近藤こんどう武雄たけおが訊いてくる。

「ちょっと入ってもいい?」

「調べることでも?」

「ううん、単純に、どんな出来になってるか見てみたくて。リハの時も脅かし役だったから」

 近藤は笑って、素早く中の様子を確認すると、オッケーサインをしてみせた。

「ありがとう」

 軽く礼をしてから、麻子はお化け屋敷の中に踏み込んだ。

「そういやあ麻子と二人でお化け屋敷なんて初めてだな」

 空中を漂いながら、新龍が笑みを浮かべる。

「ボクもいるよー」

 タマが不満げに言うと、新龍は声を立てて笑った。

「悪ぃ悪ぃ」

 麻子は無言で歩を進める。一人で入ったことになっているのだから、会話が聞こえてはまずい。

 最初のポイントは、五体のマネキンが不気味にライトアップされた場所だ。狭い通路を進んでいくと目の前にマネキンが現れるようになっており、通路はそこで折れているので、否応なしに目にしなければならない。

 そのポイントに着くと同時に、マネキンの内の一体が動き出し、こちらに迫ってくるようになっている。通路はちょうどそれから逃れるような角度で曲がっているので、客を誘導する役目も担っているのだ。

 ――お、お、お、おおお。

 地の底から響くような重低音が聞こえ、麻子ははたと立ち止まる。タマは全身を張り詰め、新龍は長い間浮いていた身体を地面に落ち着ける。

 マネキンの全てが一斉に動きだし、先程と同じ呻き声を上げる。その動きはぎこちないものだが、全ての関節部やそれ以外の部分も同時に動いているという、外部で人間が操って再現出来るような代物ではない。

 これは――逃げた方がいいか。

 そのためには引き返すか、通路を進んでいくかになる。まずいことにマネキンが動き出したのはポイントの手前だったので、進むにはマネキンの群れの中に突っ込む必要がある。

 踵を返して入口まで戻るのが最良の手だろう。身体を翻そうと右足を一歩引くと、がくんと何かを踏み外す感覚があった。

 落ちる――そう思った瞬間に足を戻し、体勢を立て直す。

 厭な予感を覚えながら首だけを後ろに向けると、その先は完全な闇だった。

 これはおかしい。確かに雰囲気を出すために通路は暗くしてあるが、完全に照明がない訳ではない。

 だが麻子の振り返った先には、照明の気配すらも感じられない、真っ暗闇が広がるばかり。

 もう一度恐る恐る足を引いて地面に下ろそうとするが、元より低い位置まで下ろしても空を切るだけだった。

 戻ることが出来ない――麻子がそう確信した時には、五体のマネキンがすぐ目の前まで迫ってきていた。

「邪魔だマネキン共ォ!」

 新龍がドスの利いた声を上げて、マネキンの内一体に飛び蹴りを食らわせる。そのまま空中で身を翻すと、回し蹴りで残りの四体も吹き飛ばす。

「お、お兄ちゃん――」

 麻子が思わず声を漏らすと、新龍は綺麗に着地を決めて、倒れたマネキン達の前に立ち塞がる。

「どうもここはもう異界になっちまってるらしいな」

「う、うん……」

 それは麻子にもわかった。麻子という強い霊力を持つ人間に加え、そもそも異形であるタマ、現役幽霊である新龍が客として中に入ったことで、お化け屋敷は異界へと姿を変えたのだろう。

「とりあえず先に行け。お兄ちゃんはこの木偶人形共を片付けておく」

「えっ?」

 麻子は思わず聞き返す。確かに先程見せたプロレスラー顔負けの空中殺法は見事だったが、新龍はあくまで人間霊。とても息を吹き込まれた怪異を退治出来るとは思えない。

「あ――まあその、なんだ。麻子が先に進めるように足止めしとくってことだ。お兄ちゃんは飛べるから心配はいらないぞ」

 麻子はわずかの間悩んだ後で頷いた。退路は断たれている。先に進むしかこの異界から抜け出す方法はないのだ。

「気を付けてね!」

 麻子はそう言うとその場を駆け抜けた。

 幸い、「生き人形館の殺人」に直接的な仕掛けはそれ程多くない。暗い通路を進むだけでも、恐怖の演出は充分に活きる。そこに突如マネキンを登場させるという手法で、係の仕事を減らすのと同時に客を驚かせる。

 麻子はお化け屋敷の構造を把握していたが、流石に通路は暗く狭いので全速力で駆け抜けることは出来ない。

 次の仕掛けは――開けた場所に出た麻子は毎度お馴染みのマネキンと顔を合わせた。

 マネキンはゆっくりと傾き、地面に倒れる。同時にいくつもの爆発音が響いた。

 癇癪玉だ――麻子は仕掛けを思い出しながら、その圧倒的な音の暴力に怯んで這々の体で逃げ出した。

 確かに突然の騒音は一番簡単に人を驚かせる方法の一つだが、今回は助かった。音がするだけでそれ以上の怪異は見込めないからだ。

 次が、麻子の受け持つ仕掛けだ。教室と教室の間の特に狭い通路を這って進み、麻子は意を決して立ち上がった。

 通路を歩きながら上に目を凝らすと、暗幕が天井より低いところに張ってあるのがわかる。麻子はその隙間からたらいを滑り込ませ、中の腕をぶちまけるのだ。

 麻子の意識はその暗幕に向いていたので、突然頭上から降り注ぐマネキンの腕に咄嗟に反応出来なかった。

 マネキンの腕は麻子の身体にぶつかり、乾いた音を立てて地面に転がった。

 ――迂闊だった。

 ここは既に異界なのである。裏で係が仕掛けを動かしているのとは訳が違う。もっと直接的に、怪異は麻子を襲うのだ。

 無数のマネキンの腕は地面に落ちると、蛇のように身体をくねらせ、するすると地を這って麻子を狙う。

 逃げ切れるか――走り出そうとした途端、強く後ろに引っ張っられ、麻子は蹴躓く。

 麻子の右足を、マネキンの手がしっかりと掴んでいた。

「このっ――」

 無理矢理引き剥がそうとするが、万力のような力で握られてびくともしない。その間にも他の腕達が麻子を狙って這い寄ってくる。

「タマ、お願い!」

「任せてー」

 麻子の頭の上から身体を伝って足先までタマが一気に駆け抜ける。タマはそのまま麻子の足を掴んだ手に思い切り牙を突き立てた。マネキンの手は傷を受けた部分から粉々に砕け散る。

 足が自由になった麻子はすかさずタマを抱きかかえて逃げようとするが、既に他の腕達が麻子の身体の至るところを掴んで離さなかった。

 組み伏せられるように地面に押さえ付けられた麻子はタマの名を呼ぶ。タマはまだ自由に動けるが、麻子とタマはあまり離れることが出来ない。タマは麻子を助けようと次々にマネキンの腕を噛み砕いていくが、いかんせん数が多すぎる。

「人様の妹にべたべた触ってんじゃねえ!」

 怒号が響くと同時に、麻子の身体が急に軽くなった。

 新龍が麻子を片手で持ち上げ、そのまま空中に浮いていた。そしてそのまま瞬く間にマネキンの腕を蹴っ飛ばしていく。

「お兄ちゃん!」

「怪我してないか?」

 言いながら、麻子の身体を掴んだマネキンの手を片手で引き剥がしていく。

「う、うん」

「このまま逃げるぞ。タマ公、早いとこ飛び乗れ」

「はーい」

 タマが麻子の頭の上に落ち着くと、新龍は麻子を片手で掲げたまま空中を飛んでいく。

 通路が狭くなったところでこのまま進む訳にはいかなくなり、新龍は麻子を降ろす。

「あ、ありがとうお兄ちゃん」

「気にすんな。で、次はなんだ?」

 新龍に持ち上げられたままかなりの行程を進んだので、残るは最後の大仕掛け、人形と化した伯爵が絶叫しながら出口まで客を追いかけるというものだ。

 出口まで一直線になる最後の行程で、客が背中を見せた時を狙って暗幕の奥に隠れた伯爵役の脅かし役が大音声を上げながら客を追いかける。

 だが、この仕掛けを知っていたとしてもこの状況ではあまり役には立たないだろう。先程のマネキンの腕のように、人間業ではない方法で怪異は襲ってくるはずだからだ。

「俺はあのハゲや神野のおっさんみたいな講釈は出来ないが、少し考えてみようか」

 新龍は立ち止まり、麻子と向き合う。

「このお化け屋敷は、麻子がタイトルを付けたんだったな」

 頷く。

「つまり『生き人形館の殺人』っていう存在は、麻子の力で実存するのと同じだけの力を得たっつーことになる」

「お兄ちゃん、私の力のこと――」

 麻子はまだ自分の隠された力について新龍に話していない。新龍は悪いと笑って、

「ハゲから聞いたんだ」

 そのまま思案顔に戻り、話を続けていく。

「で、このお化け屋敷は実存どころか現にこうして出来上がってる。そこで人為的な恐怖が何度も繰り返され、本物の怪異が動き出すのに充分な栄養が行き渡った。それで通常通りのお化け屋敷を通っても、なんらかの異変が起きるまでに至った」

 麻子はぽかんと口を開けていた。新龍がこんなふうに筋道立てて話をするのを見るのは初めてだったからだ。

 多分それは、新龍が麻子のことを小さな妹だと思っていたからなのだろう。小さい子供相手に難しい話をするのは気が引ける。新龍にとって麻子はいつまでも幼い妹だった。

 だが、あと少しで麻子は新龍の享年を抜く。

 新龍も、本当のところはそれに気付いているのだ。だから今、麻子をきちんと理論立った話の通じる相手として話している。

「どうした? 麻子」

 新龍は口を開いたままだった後、ぐっと唇を噛んだ麻子の表情の変化を察して訊いてくる。

「ううん、なんでもないよ」

 そして、やはり新龍は麻子よりも色々な面で上なのだ。麻子はまだここまで筋道立てて思考を進めることは出来ない。こういう話はいつだって住職頼みだ。

「それで俺達が客として中に入ったことで、ここは完全な異界に姿を変えた」

 頷く。それは麻子も思い至ったことだ。

「ならどうやってここから抜け出す――あるいはこの怪異を鎮めるか。それは多分、この『生き人形館の殺人』を麻子が完遂すればいい」

「私が?」

「ここが異界になったのは、麻子が入ったからというのが一番の理由だと思う。それまでは部分的だったのが、一気に全体が異界と化したからな。麻子を本格的に狙ったと見て間違いねえだろ」

 麻子がなるほどと納得すると、新龍はさらに続ける。

「お化け屋敷っつーのは、客を怖がらせるもんだろ? つまりさんざん怖がって出口まで辿り着けば、その本質は満たされる。それが力を与えた当人だったら、お化け屋敷としても本望だろうよ」

 さて、と新龍は浮かび上がる。

「じゃあ最後の仕掛けといくか。お兄ちゃんが足止めしとくから、麻子は精々怖がって出口に向かうんだぞ」

 通路を曲がり、最後の一直線に足を踏み入れる。麻子は背後を見ながらじりじりと出口まで歩を進めるが、新龍にそれでは駄目だと文句をつけられる。

「仕掛けを機能させねえとお化け屋敷の意味ねえだろ。最悪お兄ちゃんが何とかするから、ほい、前を向く」

 新龍に抱き上げられてくるりと前を向かされた。

 ――あああああああ!

 絶叫とけたたましい足音。振り向くと、燕尾服を身に纏い、顔が真っ白に染まった伯爵が手を前に突き出してこちらに迫ってくる。

 顔を見たが、脅かし役の生徒ではないことは明白だった。メイクを施した後の顔も、麻子はきちんと記憶している。今麻子を襲う伯爵の顔は脅かし役の二人のどちらでもなかった。

 まず質感が違う。本来なら生きた人間が仮装して襲うのでどうしても人間臭さが出るが、目の前の伯爵はまるで人形が動き出したかのようなぎこちないが、生きたまま人形となったという設定を鑑みると自然な挙動なのだ。

 これを逃げ切れば、出口。麻子は全速力で駆け出した。一気に出口まで辿り着こうとしたのだが、どうも様子が変だ。

 息が上がる。おかしい。出口までは絶対に教室のドアから反対側の窓際未満の距離しかないはずなのに。

 振り返る。その先は闇。引き返すことも許されない。だが伯爵は闇の中に浮かび上がり、執拗に麻子を追いかけてくる。

「ああもう! かっこつけて言ったことが大外れかよ! 慣れねえことはするもんじゃねえな」

 はるか後ろから新龍の声。どうやら先程の新龍による考察は間違っていたらしい。いや、それとも麻子を延々怖がらせたいというお化け屋敷の最後の執念なのかもしれない。だがどちらにせよ麻子はまだ抜け出せていない。

「なら……一番単純な方法で抜け出すしかねえよな」

 恐らくは独り言のつもりで呟いたのだろうが、伯爵の絶叫に混じって麻子の耳には届いていた。

「麻子! 前だけ向いてとにかく走れ!」

 言われなくともそれしか出来ない。

「祭は終わりだ。全部――ぶっ壊れろ!」

 ――いぎゃあああああ!

 伯爵が一際大きな叫びを上げる。それは麻子を驚かそうというものよりは、むしろ断末魔の悲鳴のような声だった。

 麻子は身体を思い切り壁にぶつけた。外部から急ブレーキをかけられたことで一瞬たじろぐが、すぐにそれが出口――教室のドアだと気付き、取っ手に指を滑り込ませ思い切り横に引く。

 見慣れた廊下だった。雰囲気作りのために窓には暗幕がかけられているが、間違いない。外だ。

 開け放たれたままのドアから、新龍が弾き出されるように飛び出してきた。重力などお構いなしに勢いよく廊下の天井に身体をぶつけると、急に重力を思い出したかのように床にどしんと落ちた。

「おう、無事出られたな」

 麻子を見た新龍ははっとしたように、右手を身体の後ろに隠した。

「右手……どうしたの?」

「な、なんでもねえよ」

 暫くそのまま固まった後、ほらと右手を出してみせた。特に異変は見当たらない。

「お兄ちゃん、どうやったの?」

 とにかく、外には出られた。だが理由がわからない。

「まあ、その、なんだ。ぶち壊した」

 教室の中から、阿鼻叫喚の悲鳴が響いた。同時にチャイムが鳴り、校内放送が入る。

 ――南高祭二日目はただ今を以て終了しました。生徒の皆さんはそれぞれ片付けを始めてください。




 南高祭二日目――即ち校内発表最終日終了間際、一年六組のお化け屋敷は、見るも無残に崩壊した。

 通路を作るための机は無茶苦茶に倒され、それに従って壁の役割を果たしていた段ボールも崩れていった。通路に置いてあったマネキンは片っ端から床に倒され、取り外しが可能な部分は全て外されているという有様だった。

 だが、その崩壊が知れ渡った時には客はおらず、直後に終了時刻となったことで、被害はなかったと言ってよかった。二日目が終わればアトラクションや模擬店は速やかに解体されるので、ある意味では手間が省けたとも言える。

 麻子は最後の客だったことになるが、意外にも麻子を疑う者はいなかった。

 それどころか、麻子が最後にお化け屋敷に入った客だという認識すらされていなかった。

 何故なら、途中の脅かし役が誰も麻子を認めていなかったのである。

 脅かし役は当然客の位置を把握し、それに合わせて仕掛けを作動させる。だが麻子がお化け屋敷の中にいた――と麻子が記憶している――時間には、脅かし役は誰一人として仕掛けを動かしていなかった。

 スタッフという地の利を使ってバックヤードに忍び込み、内部からお化け屋敷を崩壊させた――などという間怠っこしい考えに至る生徒は一人もいなかった。第一麻子の平時の言動を見ている者であれば、そんな大それたことを行うような人間とは思わない。

 だが――。

「簡単な話だろ? 雰囲気も仕掛けも、何もかも壊しちまえばお化け屋敷はもう機能しなくなる」

 欠伸を噛み殺しながら宙に浮いている新龍は、悪びれる様子もなくそう言った。

 麻子は異界の中に囚われていた。麻子がお化け屋敷の中にいたと思っていた時、実際には麻子は曖昧な壁一枚隔てた異界の中にいた。そこでは仕掛けこそ本物と同じだが、その仕掛けはこちらが本物だった。脅かし役を必要としないので、元のお化け屋敷の係の手を煩わせる必要もない。

 そこから出るため、新龍は麻子にお化け屋敷を完遂しろと言った。だが行けども行けども出口には辿り着けず、新龍は己の考えが間違っていたことを悟る。

 そこで新龍は、もっとも単純な方法を使った。

 文字通り、お化け屋敷をぶち壊す。

 どんな悪逆非道な手を使ったのかは麻子にはわからないが、新龍は全てを破壊し尽くしたのだろう。結果、お化け屋敷という異界は崩壊し、本来のお化け屋敷も道連れに崩壊した。

 風雲寺の本堂で新龍から釈明を受けて、麻子はなんと言えばいいのかわからず、難しい顔で唸った。

「まあ、麻子ちゃんのせいでもないし、実害はなかったんだろう? そんなに気に病む必要はないだろうに」

 住職は苦笑しながら言って、茶を啜る。

「それはそうかもしれませんけど……」

 お化け屋敷が崩壊したことと発表が終わったことで、客に直接触った犯人探しは有耶無耶になったし、そのことが審査員である教師の耳に入ったということもなかった。

 明日の市民会館での最終発表で結果が出るが、麻子は正直そんなことはどうでもよかった。それでも他のクラスメート達が頑張ったのだから、いい結果がもらえればいいとは思う。

 麻子がそんなことをぽつぽつと語ると、新龍と住職は揃って笑った。

「麻子は偉いな。お兄ちゃんとは大違いだ」

「本当に麻子ちゃんはお人好しというかなんというか――」

 二人共笑いながら言ったので、極端に褒められている訳でも、けなされている訳でもないことはわかる。いずれにせよ恥ずかしいのは同じだ。

「もういいです……帰ります!」

 若干奮然と立ち上がると、麻子は住職に軽く会釈をして本堂を出た。

「麻子」

 山門の裏に停めた自転車に跨ろうとすると、新龍が地面に足を着けてこちらを見ていた。

「お兄ちゃんはもう四泉川に戻らないといけねえんだ」

「えっ?」

 麻子が新龍の顔をまじまじと見つめると、新龍は決まりが悪そうに頭を掻いた。

「あんまり長く離れてる訳にもいかなくてな。昨日今日は特別だったんだ」

 足が地面を離れる。

 麻子はその手を掴んだ。

「まだ、言ってなかった。助けてくれてありがとう」

「おう。お兄ちゃんが麻子を助けるのは当然だろ」

「それから、昨日と今日はありがとう。その、すごく、楽しかった」

 新龍は寸の間呆気に取られたように目をしばたたいたが、すぐに照れるように笑った。

「おう。また顔見せにきてくれよ? でないとお兄ちゃんのガラスのハートは――」

「うん、わかってるよ。月命日は必ず行くから。それから時間が空いた時も顔見せるって」

 新龍はにっこりと笑い、空へと浮かび上がると、四泉川の方向に飛び去っていった。

「相変わらず元気だよねー」

「うん」

 それでも麻子は、きっと新龍に救われている。




 そろそろ陽も沈もうかというこの時間、四泉川の薄暗い橋の下に二つの影があった。

「何の用だハゲ」

 影の一つ、川島新龍は不機嫌そうにもう一つの影を睨み付ける。

「君の様子が心配でね。昨日と今日で、また無茶をしたんじゃないか?」

 ケッと新龍はもう一つの影――風雲寺の住職から目を背けた。

「図星だな。見せてごらん」

 新龍は舌打ちをして着ている制服の右肩の部分をはだけた。

 住職は新龍の『それ』を見ると、困ったように溜め息を吐いた。

「――また少し侵食が進んだんじゃないか?」

 新龍の腕は右肩から肘にかけて、びっしりと鱗に覆われていた。

「しょうがねえだろ。麻子を守るためだ」

「しかしこのままだと――」

「んなこたあ最初からわかってる! 龍の鱗を飲んで、龍神様の眷属になった時から――覚悟は出来てる」

 新龍はそう叫ぶと乱暴に制服を羽織った。

 新龍の身体を蝕み、力を与えている龍の鱗。

「……以前にも話したと思うが、君は二つの力によってこの世に留まっている。一つは龍の鱗。そしてもう一つは――」

「麻子の力、だろ」

 住職は無言で頷いた。

「君が死んだ時に麻子ちゃんが叫んだ言葉によって、不完全ながらも君はこの世に留まった。そして龍神が君を自らの眷属にすることで、君は今こうして僕と話していられる」

「テメエ一体何が言いたい?」

「七年前、麻子ちゃんは君を『名前』で呼んだ訳じゃない。そうだね?」

「ああ。俺は麻子が『お兄ちゃん』って叫んでたのを聞いた」

 住職は深く溜め息を吐いた。

「君のその龍化を抑制しているのは、恐らく麻子ちゃんの呪いだ。君が麻子ちゃんにとって『お兄ちゃん』であるならば、麻子ちゃんの呪いで君は君でいられる」

 なる程と新龍は自嘲気味に笑った。

「テメエが言いたいのはつまり、俺が麻子にとっての『お兄ちゃん』でなくなれば、俺は己を失うってことか」

「その通りだ」

 新龍はそれでもまだ笑っていた。

「わかりやすくていいじゃねえか。俺は麻子に必要とされなくなれば消える――それだけだ」

「後悔は」

「してねえよ。俺は龍神様に感謝してる。ちゃんとこの世に残れるようにしてくれたし――」

 新龍の右手が見る間に鱗で覆われ始めた。

「俺に、麻子を守る力を与えてくれた」

 新龍の右手は今や龍のそれであった。龍の力の一端。それを振るえば、脆弱な異界など跡形もなく吹き飛ぶ。

「しかし、流石に麻子ちゃんもそろそろ気付き始めたんじゃないかい? いつかは打ち明けなければいけないだろう?」

「わかってるさ。だが――」

 新龍は完全に龍のそれと化した右手を住職に向けた。

「もしこのことを勝手に麻子に話したら――」

「ぶっ殺す、だろ?」

 新龍はふんと鼻を鳴らすと右手を下げた。ゆっくりと手を覆っていた鱗が消えていく。

「さて、僕はもう帰ろうかね。また何かあったら知らせに来るよ」

 新龍は何も言わず、じっと川を見つめて立ち尽くしていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る