軟禁教室。

 2時間目の数学の時間。

 授業を受けているのは、間違いなくボクである。

 過ごし飽きた教室に、黒板と教卓――その間に立つ教師。

 自分の机には無数の落書きが書いてあり、それはどれも自分がつけたものではない。それも、ボールペンやマジックペンならまだいい。彫ってあるのだ。消しても、消してもまた上書きされる。だから、ボクは諦めた。戒めのために残すことにした。

 うちの学校では1年間自分机と椅子は変わらない。だから席替えは無意味だ。

 確かにボクはここにいる。

 それなのに、それなのに。

 どうして、ボクの意志とは無関係に、ノートをとり続けているんだろう。

『ふふ、気が付いたみたいだね?』

 またあの少女の声がした。しかし、ボクはキョロキョロすることができない。頭が動かない。そこにいて、そこにいない感覚。今まで味わったことのない不思議な感覚だった。

『あなたの身体、そこら中、傷だらけなのね』

『………………まじかよ。ボクの身体……乗っ取ったのか!』

『だから、頂くって言ったじゃないの』

『………………そんなことが……。でも、なんで喋れるんだ?』

『いわゆる、今は心の中に喋っている状態。あなたがいくら叫んでも、誰にも届かないから好きなだけ声を出してもいいよ』

『……………………キミは………………一体………………?』

『だから、言ってるじゃない。神様だって』

『神様がこんなことするかよ』

『神様だから、こういうことするのよ』

『…………これから、ボクの身体どうするつもり?』

『煮るなり焼くなり、好きにさせてもらうわ!』

『酷いな……』

『だって、もういらないんでしょ?』

『…………そんなことは……』

『私が声かけなかったらバッラバラになってたよ?』

『……………………』

『あんな人目に付かない屋上じゃ誰も発見できないし、最初から死ぬつもりだったんでしょ?』

『もういい、好きにしてくれ』

『そうやって逃げ出すところ、思春期って感じだよねぇ~』

『黙ってよ』

『さっきから黙って授業受けているんですけど』

 ボクとこの少女の会話が延々と続いているが、教室の中もちろん言葉には一切発していない。黒板にぶつかるチョークだけが定期的に音を立てて、授業は黙々と進むのである。

「それじゃ、この問題がわかる人?」

 数学の教師が教室をぐるりと見渡しながら挙手を煽るが、皆一斉に目をそらす。教室の後ろから2番目の座席だからよく目に入ってくる。

 逢恵祇が見る世界が脳に直結しているようで、視覚はハッキリとしているが身体を動かせる感覚はない。だから、逢恵祇がノートを取っているのも客観的。これまでにない感覚だ。

 そして次の瞬間、自分の手が上がった。

 教室内がざわめく。ボクは教室で挙手をしたことなんてこれまでに一度も無い。

 いや、小学生の頃まで遡ればあるかもしれないが、教室で挙手とはエッチな本をコンビニで買うくらい自分にとって勇気ある行動なのだ。

「あ、えっと、じゃあ……キミ」

 数学の教師はボクの名前を覚えちゃいない。ボクもそうだ。このヨボヨボの爺さんは恐らく自分より4倍は生きているだろう。お年寄りに高校生の名前なんていちいち覚えていられない、些細なことだ。ましてやボクであれば、覚える価値は無に等しい。

 自分の意志とは無勝手に身体はどんどん黒板のある教卓の方に向かっていく。

 授業中に席を立ち、たった一人で最前列に向かう行為。

 三十人全員の視線を感じているようで痛い。

 目の前には難解な方程式が書いてある。

 見たことのない記号も書いてある。

 あれ、高校の数学ってこんなに難しいって。

「これは、今年の瀧川高校の入試問題なのだが、分かるかな」

 数学のおじいちゃんは、そう鼻息を立てる。瀧川高校と言えば都内でも最高レベルの私立高校で有名だ。噂によると、その下の瀧川中学ではすでに大学レベルの数学を教えているらしい。ほら見ろ、これまで見たことない記号がならんでいる。

 X=A+θ/α XはAと最大公約数の仲である…………。まったくもって意味不明だ。

「一見難解な問題だが、あることに気が付けば……」

 と、じいさんがいいかけたところで、チョークに手を伸ばし解答をはじめようとする。教室内のざわつきが一層強くなる。背中が熱く感じるのは気のせいだろうか。どれだけ狼狽しようとも、ボクの手はチョークを軽快に動かし続ける。黒板との衝突で粉が手に付くのもお構いなし。頭を動かすことができないボクは逢恵祇が書き続ける解答をただ目で追うしかできなかった。

「お見事……正解だ」

 そこに書かれていた答えは、「1」。一見難しいが答えは簡単。よくあるオチである。

『ふふ、見た? 先生の顔』

『初めて見たよ。っていうか、よく分かるな。キミは頭がいいんだな』

『こんなの余裕だよ、昔からあるひっかけ問題、なぞなぞ見たいなものだよ』

『そうか』

 眉が上がりっぱなしの数学の教師に背を向けて自席に戻る途中で逢恵祇が話しかけてきた。逢恵祇は見た目、自分と同じくらいの少女である。にも関わらず、自分に憑依して身体を動かし、難しい数学の問題を難なく解いて見せた。一体何物なのだ。

 席に着いたところでまだざわつきは収まらなかった。こうやって自分が注目を集めるのは久しぶりである。正確には半年前ぶりだろうか、思い出したくもない。

 その後も授業は進み、休み時間のチャイムが鳴る。


 話し相手がないボクにとって、休み時間は憂鬱だ。自分がひとりぼっちであることを再認識する。トイレにいくか、本を読むか、寝ているか。十分あるいは十五分間ただ過ぎ去るのを耐えるのだ。

『私がいるじゃん』

『…………そうだったな』

『うーん。座っているのも退屈だなぁ……。あなた、本当に友達がいないのね。身体に入ると、その人の記憶を全部分かるんだけど、友達ゼロなんだね』

『ほっといてよ』

『これまでの、人生、ろくなもんじゃないねw』

『人の身体を盗っておいて何様だよ』

『だって、この身体いらなかったんでしょ?』

『………………』

『ほら、リサイクル? いらないモノは、必要とする誰かが利用しなきゃ』

『キミはそうやって、色んな人の身体に乗り移っているのかい?』

『まぁね……』

『じゃあ、その乗り移ってきた人は今、どうなってるんだい?』

『………………』

 質問を投げかける。だってそうだろ。逢恵祇が人に乗り移れる神様だとしてもだ。そうやって移ってきた人はどうなったのだろうか。死ぬまで人生を全うしたら、また初めに屋上で出会ったみたいに、金髪の少女に戻るのだろうか。

『そんなの、色々だよ。まだ生きている人も入れば、死んでいる人もいる』

『一体、どれだけの人に乗り移ったんだ?』

『あのさぁ……乗り移ったという言い方止めてくれる? まるで私が無理矢理身体を盗った感じになっちゃうじゃん』

『…………じゃあ何て言えば』

『私たちはね、チューブって呼んでるよ』

『チューブ?』っていうか、私たちってことは逢恵祇の他にもいるのか。

『そう、チューブ。チューして身体に入るからかな。俗語だから意味なんてないんよ』

『結構適当なんだな、神様って』

『そうよ、神様ってそういうものよ』

 独り言ならぬ、心の中での独り言。端から見ればただの苦悩する人だ。

 あっという間に休み時間を終えるチャイムが鳴る。

 この後3時間目、4時間目の授業を難なくこなし、昼食タイムが始まるのであった。

 この時間もボクにとっては憂鬱だった。逢恵祇は鞄から弁当を取り出すと、うわ! 美味しそうと良いながら母の手作り弁当を食べるのであった。

『お母さん、お弁当美味しいね』

 逢恵祇に乗り移られてからも、資格はもちろん、聴覚味覚、触覚はあるようで、逢恵祇が口にした卵焼きの味が口いっぱいに広ってきた。

『そうだね』と返事した後で、なんとも言えない気持ちがこみあげてくる。涙がこぼれそうだ。

『あなたはいつも、1人でお弁当食べているの?』

『そうだよ』

『便所飯したことある?』

『ないよ、さすがに』

『でもさ、1人で食べていても面白くないでしょ?』

『慣れるとそうでもないよ。さっさと食べて寝たり、本を読めば……』

『時間の使い方が後ろ向きだなぁ……。しょうがない』

 と言うやいなや逢恵祇は弁当箱をもって席を移動する。ターゲットとなったのが3人で机を並べていたグループ。

「ねぇ、僕も混ぜてよ」と逢恵祇は言うのである。

 その瞬間、ボクを含めたクラスの時間が止まったかのような空気に包まれる。話しかけられた三人もどう対応したらいいか分からないといった顔をしている。

「……………………」

「ほら、ちょうど三人だから一人余るからちょうどいいでしょ?」

 逢恵祇が話しかけた三人はクラスの中でも大人しいグループで、それに目を付けたのかもしれない。

「ごめん、うちら三人で食べたいから」

「いいじゃん、減るもんじゃあるまいし」

「よくないよ、一緒に食べてるとこ見られたくないし」

「けちんぼ」

 分かっていたことだ。ボクと一緒に食べているなんてことが、あいつらに見られたらきっとこの三人もいじめの対象になるだろう。何もしらない逢恵祇は食い下がるがやはりダメ。他のクラスメイトから「嫌がってんだから止めなよ」とヤジが飛ぶ。

 それに、逢恵祇はボクが普段言わないような口調で話しかけるものだから、違和感しかない。「なんだコイツ」というざわざわ感が後ろを振り返らなくても伝わってくる。もっとも、自分で首を動かすことはできないんだけれども


『もう止めてよ、無理矢理仲良くしなくてもいいよ』

『私の勝手でしょ、もう私の身体なんだから』

『はぁ……こんなことならあっさり死ぬんだった』


 結局、逢恵祇は三人グループのところに椅子を持ってきてお弁当を食べ始めたが、他の三人が移動した。一人残された逢恵祇は元の席で食事を再開する。

『相当な嫌われっぷりね』

『こんなの序の口だよ』

『確かにそうだね』

『…………キミもいじめられた経験があるの?』

『まぁね~、もちろん人の身体でだから痛くもなんともないけど』

 と言って逢恵祇は一人で笑い出す。

 端から見れば、お弁当を食べながらひとりで笑い出す危ない人。それが自分の姿であることがすごく恥ずかしい。恥ずかしいのだが、どうすることもできない。

『ボクの身体でキミはいったいどうしたいの?』

『別に~、好きなように使わせてもらうよ』

『ずっとこのままなのかな?』

『何がぁ~?』

『ボクは、ずっとキミの中に居続けるの?』

 その質問に逢恵祇は答えず、お弁当をムシャムシャと食べ続ける。

 そして、全て食べ終えてからこう言ったのだ。

『お手洗い行ってくる』

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