雨降って、地固まる。〈五〉


 とはいえ、そこで困ってしまった。


「だめです、さすがさん。創元だけの棚も見てみましたけど、『空飛ぶ馬』と『配達あかずきん』しかありません」


 雑誌の前に立ち並ぶ人々の背後を抜けて、さすがさんと合流する。わたしの手になんの成果も握られていないのは、それがさすがさんの持つものと同じだからだ。先ほど口にしたとおりである。

 邪魔にならないように一列に並び、手本のように頭上に構える有名作家さま方のサインから視線を一段下げ、端から端まで目を走らせた。けれど、どんなに探しても、ないものはない。せっかく暗号を解くヒントになるかと思ったのに、これではまたふりだしである。


「でも、ないなんておかしいですよね。暗号って、解けるヒントが必ずどこかにあるもんじゃないですか。タがいっぱいある手紙のすみにたぬきのイラストが描いてあるとか、そういうヒントはあってしかるべきだと思いませんか?」


 解読の兆しが見えてきた矢先のことだったから、わたしはやや拗ねた口調になってしまう。さすがさんはぱらぱらと『空飛ぶ馬』を捲り、最初の一ページ目をじっと見つめていた。


 読んだことのあるわたしは、宮部みゆき先生の紹介を読んでいるのだな、とピンとくる。


『空飛ぶ馬』の内容もさることながら、わたしはここの宮部先生のご紹介もすごく好きなので、つい頭の中に文章が浮かんでしまう。ひとを殺さずして本格推理小説を完成させた北村さんのこの小説を、「幸福な結婚」と称するところも気に入っている。


 が、やはり、ここは目録にも載っているこの一節――「私たちの日常にひそむささいだけれど不可思議な謎のなかに、貴重な人生の輝きや生きてゆくことの哀しみが隠されていることを教えてくれる」を挙げておきたい。読み終わったときにこの紹介部分に再度目を通し、「日常の謎」にふれたときの、うれしくてさみしい、ふしぎな感情に名前をつけてくれたのが、これだ! と感じたのだ。わたしのお気に入りである。


 しかしさすがさんが今読んでいる個所を暗唱するのは簡単でも、本題は別なのである。わたしはさすがさんが没頭しているあいだ、また棚の上から下までを洗い直す作業に戻った。

 問い合わせのときだって、たまに目と鼻の先にある本に気づかないこともあるのだ。今回だってその類かもしれない、と思ったのだった。

 そうしていると、うんうん唸っていた姿が、どうも不審に映ったらしい。


「あの……」声をかけられてしまった。

「何か本をお探しなら、お伺いしましょうか」

「いいんですか?」

「はい。何をお探しでしょうか」


 すっかり覚えてしまったタイトルを三つほど読み上げる。尋ねてきた店員さんは、三、四十代ほどの男性の方だったから、ひょっとしたら店長さんだったのかもしれない。メモもとらずに、レジカウンター内にあるパソコンのほうへと向かっていった。

 わたしたちが追いつくころには、ぱらぱらと本を捲るほどの余裕さえあった。


「全部品切れですね」

「取次にもないんですか?」

「はい。というか、出版社にも在庫ないんじゃないかなぁ」

「え?」

「目録に米印がついてる本なんで。品切れか在庫僅少本ですね。明日でよければ電話してみますけど、どうします?」


 そう言いながら、ご丁寧にも持っていた目録をわたしたちの方に差し出してくださった。受け取ったのは、リーチの長いさすがさんだ。

 せっかくのご厚意はありがたいけれど、買うかどうかわからない。せっかく注文していただいて届いたとしても、中の内容紹介が見たいだけなのだ。買うことを視野に入れてもいいけれど、いかんせん、月末も近い。お財布事情が芳しくないので、答えもすこし考えてしまう。


「いいです」


 そう言う声が聞こえて、頭上を仰いだ。

 さすがさんが言ったのだと気づくには時間がかかり、店員さんに至っては気づいていない。依然としてわたしの答えを待っている。

 そのままさっさと江南書房の入口を潜ってしまうので、わたしは「大丈夫です、すみません」を置き土産に、そのあとを追いかけた。すっかり目録を返すことを忘れ去っていたけれど、目録は無料でいただけるものだし、「ありがとうございましたー」の声が聞こえてきたので、ひとまずはさすがさんに追いつくことを目標とした。


「……さすがさんっ、ちょっ、さすがさんってば!」


 駅から近い久万河書店は、通勤通学のない日曜日の夜のほうが比較的空いているけれど、かといって日曜日はひとの出入りが少ないというわけでは決してない。ちょうど日も落ちてきたせいか、いつかのように居酒屋の勧誘をするお兄さんお姉さんがたがそこかしこに並んでいて、さらに「これから飲むぞ!」と横並びに歩いてくる若者たちも大勢いる。

 わたしはそれらの波に逆流するように、駅へと向かってゆくさすがさんの背中を見失わないように、ところどころぶつかりながらも追いかけていった。

 ようやく追いついたころには息が切れていて声が出せなくなっていた。


 代わりにさすがさんのシャツを掴むことで、意志表示をする。

 つまるところ、「まってください」の意を。


「ど、どうしたんですか、いったい。いきなりお店出ちゃって」

「……」

「え? なに?」


 ぼそぼそと何かおっしゃっているのは、くちびるの形からわかるものの、何を言っているのかはさっぱりである。

 背伸びをして耳を寄せると、さすがさんも身を屈めてきた。

 うっ。近い。

 などとドギマギしていたから、わたしは、さすがさんの言葉の意味に、すぐには気づくことができなかった。今でも惜しい。わたしが女でなければ、あの場でさすがさんを問い詰めて、その意味をすぐにでも知ることができたかもしれないのに。


 さすがさんは、最後に、こう言ったのだ。


「たぶん」


 それと、


「わかりました。ぜんぶ」

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