雨降って、地固まる。〈四〉
わたしより一時間早く勤務を終えたさすがさんは、自由な時間を、未だカウンターの中で過ごしていた。仕事中に着用するエプロンは身に着けず、代わりにグレイのパーカを羽織っている。
何をしているのだろうと手元を見ると、どうやら客注台帳を眺めているようだった。
客注台帳とは、お客さんから取り寄せや予約の依頼を受けた際に記入するものである。
大体は短冊状のものが繋がって三枚綴りになっていて、一枚はお客さんへの控えに切り離し、もう一枚は店側の控えに、最後の一枚は、実際にその商品が届いた際に使う目印の短冊になる。言わずもがな、客注とは、お「客」様「注」文からである。
「さすがさん、なにかご注文ですか?」
社員さんや契約社員さんなら客注担当の方もいらっしゃるし、注文もするだろうから眺める機会は多くあるけれど、しがないアルバイトがじっくりと眺める理由は、勤務中に客注を受けた場合か、もしくは自分で注文したい本がある場合のどちらかだ。
さすがさんの場合、もう勤務は終えているので自動的に後者になるかと思いきや、さすがさんは緩やかに首を横に振った。
「じゃあ何をしてるんですか?」
たっぷり十秒間ほど溜め込んでから、さすがさんはぼそぼそと言った。
「……暗号」
「暗号?」
首を傾げてから、思い至る。
「ひょっとして、日下部さんのですか?」
さすがさんは頷いた。
「でも、傘が届いた以外に暗号文みたいなものはないって……」
「ヒント」
「ヒント?」
何がだ。尋ねかけて、「傘が?」と言葉を変えると、さすがさんの首が、またこっくり、上下に動く。
「でも、傘が何のヒントになるんですか?」
「暗号」
「はあ」
ふりだしに戻った。
そのあと、さすがさんはまだ台帳と睨めっこをしていたけれど、わたしが勤務を終えて宗田さんとバトンタッチをするころには、その姿を消していた。
もう帰宅されたのだろうかと、どこか残念な気持ちで事務所のドアを開けると、滑り込んだ先にさすがさんがいらしゃった。
「ひええ」
と、思わず変な声をあげてしまう。
「か、帰ったんじゃなかったんですか……」
心臓のあたりを押さえながらそう言うと、さすがさんは首を横に振った。
そして、
「このあと」
「このあと?」
「ヒマ、すか」
「……えっ」
いつぞやも訪れた小人国に入るにはパスポートは要らない。強いて必要なものを挙げるとするなら、パンナコッタを頼むのに必要な代金ぐらいだろう。
さすがさんとわたしは連れ立って、久万河書店からそこそこ離れた場所にある喫茶店、リリパットにやってきていた。
前回と同じく、何を頼もうかと悩んでいる最中に、あつあつのカフェラテが届く。今日はわたしがウサギ、さすがさんが猫だった。
ウサギが時計を持っていること、それから猫がにんまり笑っていることから察するに、時計ウサギとチェシャ猫だろう。今日は小人国より、不思議の国と称するほうが相応しそうだ。そんなちいさな幸福に、わたしもつい、口元がチェシャ猫になってしまう。
わたしはパンナコッタを、さすがさんは特製巨人パルフェなるものを頼み、しばらくはちびちびとカフェラテを啜っていた。注文の品が揃ったあたりで、ようやく、さすがさんが口を開く。
「たぶん」
「はい?」
「暗号、どれかは、たぶん」
わたしにとっては、さすがさんの言葉も相当暗号に近い。が、さすがにコツを掴めるようにはなってきた。
「わかったんですか?」
さすがさんは頷いた。ただ、「暗号、どれかだけ、いちおう」と念を押す。
「暗号の答えはわからない……ってことでしょうか」
顔の動きによる答えはイエスだ。
「だから、並木さんの、ちから、……借りたくて」
「わたしの?」
思いのほか大きな声が出た。静かなリリパットの中では必要以上に響いてしまって、他にお客さんもいないのに、ついつい辺りを見回してしまう。ご主人と奥さんは全く気にされていないようで、わたしは再びさすがさんに視線を戻した。
「あの、なんで、……その、わたしの?」
「本」
「はあ」
「好きだし、よく読むって」
「ああ、それは、まあ」
否定はしませんが。
「たぶん、読んでるひとのほうが、わかるとおもうから」
さすがさんはそう言うと、黒のメッセンジャーバッグから、折り畳まれたコピー用紙を数枚取り出した。何かと思って広げてみると、それは客注短冊のコピーだった。
「こ、こんなの持ち出していいんですか?」
「……いいか、わるいか。なら」
「はあ」
「わるい、……かな」
「……こ、こらぁっ」
曲りなりにも個人情報である。店内で見る分にはいいとしても、店の外へ持ち出して閲覧するのは気が引ける。
だが、わたしが再び折り畳もうとするのは、さすがさんの手が阻んだ。驚いて見上げると、さすがさんは先を促すように、こっくりと頷くだけ。
幸い、場所はリリパットである。他のお客さんはおらず、注文も済ませているので、ご主人や奥さんも放っておいてくれている。まずもって流出の可能性はないし、きちんと処分をすると約束して手打ちとした。再びコピーへと視線を戻す。
いずれも、何の変哲もない短冊である。出版社名、書名、冊数のほかに、お客さんの名前と電話番号。入荷連絡の際、留守番メッセージを入れてもいいか伺っているのだろう、ルス可という書き込みもあった。
なぜこれをコピーしてきたのだろう、と首を傾げそうになるが、全ての短冊を見終わって、あるひとつの違和感に気づく。もう一度すべての短冊に目を通した。
「これ、全部おなじ出版社ですね」
「はい」
出版社名のところには、東京創元社の文字があった。物によっては、「創元」だとか「創元推理文庫」だとか、そういった書き込みもしてあるけれど、すべて同じ出版社であることには変わりない。そのちぐはぐさが、違和感に気づくのを遅らせていた。
著者と本のタイトル、それから注文したお客さんの名前を受けた日付順に並べてみると、こうなった。(敬称は省略する)
・北村薫 『空飛ぶ馬』――ヨツヤ フミエ
・天藤真 『皆殺しパーティ』――シノヘ キョウコ
・北川歩実 『透明な一日』――フタツギ マコト
・大崎梢 『配達あかずきん』――ミタニ コウキ
・フリッツ・ライバー 『死神と二剣士』――イガラシ カオリ
その五冊を頼んだひとの中に、突如として映画監督が登場して、すこし、笑ってしまった。喜劇映画だけに、尚更。同姓同名なのだろうか。
そのコピーを見て真っ先に思い浮かぶのは、本のタイトルを一字ずつとる、いわゆる縦読みである。
ただし残念なことに、「そみとはし」では、「オムライス」にすらなりえなかった。
「でも、どうしてこの短冊を?」
「傘が」
「傘?」
さすがさんは取り出したボールペンで、コピー用紙の空白部分に何やらを書き込んだ。わたしはそれを、さすがさんが書き終わるまでじっと見守っていた。
アリス 黒い船 猫の折り畳み
これら三つの言葉がそれぞれ丸で囲まれ、その下には矢印が伸びていた。矢印の先に続くのは、アリスであれば「横顔、猫、時計」、黒い船には「帆船」、折り畳みには「猫」である。
さすがさんは、おもむろに口を開いた。
「創元で、なにをおもいだしますか」
「創元ですか?」
一瞬考えて、素直にぱっと思い浮かんだものを言う。
「北村薫? あとは米澤穂信の『さよなら妖精』とか、『折れた竜骨』とか。似鳥鶏とかのデビュー作もありますね。加納朋子の『ななつのこ』に、若竹七海の『ぼくのミステリな日常』も。日常の謎が多いのかな」
と、鼻を鳴らすような音が隣から零れた。さすがさんを見ると、僅かに肩が揺れていた。ひょっとしたら笑ったのだろうか? いやいや、そんなまさか。
「って、好きな本の話じゃないですよね。ええっと、……ミステリですかね」
「ほかには」
「他? え……SF? あと、ファンタジーとか出してますよね」
「はい」
再びボールペンを手に取って、さすがさんは何やら書き込んでゆく。先ほどとは違い、記入はすぐに終わった。増えた文字は、「M」、「F」、「SF」のアルファベットのみ。
これにはわたしも見覚えがあるので、首を捻ったりはしなかった。
創元推理文庫の分類である。Mはミステリ、Fはホラー&ファンタジー、SFはそのまま、SFを示す。久万河書店では出版社ごとに棚を分けているけれど、創元の棚に関しては、SF、F、Mという順番で本を並べていた。今まで通っていた江南書房は出版社がごった煮の著者順だったから、最初は五十音が入り乱れているなあとふしぎな気持ちだったことをよく覚えている。が、その分類に気がついてからは、こちらのほうが断然見やすいと感じた。
「並木さんは、むかしの創元推理文庫、知ってますか」
「昔の……ですか? 古書店でクリスティの短編全集なんかはちらほら集めてますけど」
「じゃあ、むかしの分類は」
「昔の分類……?」
今と同じように、M、F、SFではないのだろうか。
視線でもってその意を訴えると、さすがさんは、言葉を続ける。
「むかしは、マーク」
「マーク?」
コピー用紙の空白をどんどん埋めてゆく。手がさすがさんの書く文字を見るのにやっかいな位置にあったので、それが外されたとき――すなわち、さすがさんが書き終わったとき、わたしは少なからず驚きの声を上げた。
そこにはそれぞれ落書きのようなシルエットが書いてあったからだ。わたしが言うことでもないけれど、これはもしや。
「……さすがさん、美術苦手ですか?」
さすがさんはまるでわからないと言うように、首を片方に傾ける。
自覚がないのか。
へたくそ、だとは、なかなか言い出しにくい雰囲気だった。
「ええっと……本格推理小説、これは……なんだ……? 千葉県のシルエットですか?」
「横顔です」
「あ、そう……ハードボイルドは、あ、わかった! うなぎ!」
「拳銃です」
「あれ? あ、でもサスペンスはわかりますよ、キツネでしょ?」
「……猫です」
そのあたりで、さすがさんがシルエットに書き込みをはじめた。「その他ミステリ、法廷、倒叙もの」にあるニッコリ絵文字のようなものには「時計」、「怪奇と冒険小説」にあるおじさんの顔には「帆船」。
「見覚えは」
「はあ……」
いかんせん落書きのほうが気になってしかたがないもんで。
とは言い出しにくい雰囲気だったので、頭の中からうなぎその他もろもろを追いやり、もう一度じっくりとシルエットを見直す。
しばらく見ていると、わたしもようやくさすがさんの真意に気づいた。
「これ……ひょっとして傘の」
「はい」と、ややふてくされた調子で、さすがさんが頷いた。
一度認識すれば、なるほど、と頷けた。たとえば本格推理小説のマークである横顔や、その他ミステリ云々の時計は、アリス柄の傘にアリスのシルエットや時計ウサギの持ち物として。猫はアリスの傘はもちろん、その柄を持つストライプの折り畳みにも登場している。黒い傘には帆船のワンポイントが施されてあったし、そう思えば、唯一のビニール傘にも納得だった。拳銃をモチーフに持つ傘が見つからなかったので、Sex Pistolsのステッカーを貼ることで、その意を示そうとしたのだろう。
傘おき女さんが残した傘すべてが、創元推理文庫を示すヒントになっていた。
わたしは、はっ、として、短冊のコピーに視線を移動させる。
「じゃあ、この注文は……傘おき女さんが?」
「確認してないすけど、たぶん」
「でも、普通の注文が入ってる可能性もありますよね?」
さすがさんは首を横に振って、それから短冊のある部分を指差した。
そこには、「電話受」という文字が記されている。
「電話注文……?」すべてがそうだった。
「顔が、みえないから」
わたしも納得した。
「気づかれないわけですね」
「はい」
そもそも、傘を置いていく行為で既に三人と対面してしまっているのである。客注をお願いする相手も時と場合を見計らって選ぶことはできるだろうけれど、見つかったら厄介だ。その点、電話であればまず気づかれない上に、偽名を用いれば何回でも注文できる。現に注文を受けているのは全部店長だけれど、ふつうに記入されているあたり気づかれなかったのだろう。
「でもおかしいですね。タイトルを繋げても何の言葉にもならなさそうですよ」
「それで、困ってて」
「ああ」
猫の手も借りたい、ということだろう。納得すると同時に、さすがさんでもわからないことがあるのか、とすこし驚いた。
しかし以前にさすがさんが言っていたように、さすがさんとて普通の人間なのである。わたしは胸の中でさすがさんの言葉を反芻してから、短冊たちと向き合った。
「本のタイトルがダメなら、作者名でしょうか」
口に出しながら、ちがうだろうな、と思っていた。作者名を一文字ずつとっても、「キテキオフ」とわけのわからない単語になるのだ。さすがさんにももちろん否定された。汽笛オフ、ならどうだろう。などとは、言わない。
「でも、アナグラムっていうこともありえるんじゃないですか?」
「アナグラム」言葉の意味をたしかめるように、さすがさんは言った。
「ほら、暗号とかでよくあるじゃないですか。アナグラム。暗号好きの日下部さんのために、ひょっとしたら彼女がひとひねりふたひねりしたって可能性はないですか?」
この考えにはすこし自信があったのだけれど、さすがさんはゆっくりと首を傾げただけだった。
「アナグラム」
「はい」
「なる?」
ふむ。「キテキオフ」を頭の中でこねくりかえす。
「……テフキ、オキ?」
手拭きおきがどうした。と言わんばかりの視線を浴びせられた。気がする。
「じゃあ、あらすじとかどうですか」
「あらすじ」
「文庫のうしろとかにあるでしょ。その本の説明とかが書いてあるやつ」
「はい」
「創元の場合は、内容説明が、ページを開いた中にもあるんですよ。ひょっとしたら、そこに何か意味があるかもしれません」
今度こそ、という意をこめた提案は、そこそこさすがさんの興味を煽ったらしい。ふたりして、おいしいパンナコッタと巨人パルフェをいささか駆け足でかきこみ、そのまま駆け足でリリパットをあとにした。
向かったのは、江南書房である。店に戻ってもよかったのだけれど、久万河書店の創元推理文庫の棚はそう多くない。探すなら、ミステリに強い江南書房のほうがいいと判断したのだ。
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