雨降って、地固まる。〈二〉


「と、宗田さんはおっしゃったんですが……どう思いますか、さすがさん」

「…………」


 さすがさんからは相変わらず返事がないものの、こちらを向いて、軽く首を傾げるモーションをとったから、それが返事と見てとっていい。

 日曜日のお昼間。相変わらずお客さんの数は少なく、目立った立ち読み客も、カウンターの前でパズル誌を物色している青年や、ファッション誌をぱらぱらと捲る女性ぐらいしかいらっしゃらない。

 のんびりとした恒例の時間に、わたしはさすがさんに件の傘おき女さんについて尋ねていた。

 ほんとうであれば、わたしが出くわしたあとにでも世間話の延長線上に置いて話してみようと思っていたのだけれど、結局がまんが効かなかったのだ。

 宗田さんや、若蔦さんの見解も含めて、ひととおりお話しすると、「並木さんは?」とでも尋ねるように、また首が反対方向に傾ぐ。


「わたしは、悪戯じゃないと思う……」そこまで口に出して、ふと考え直す。

「……いえ。悪戯じゃないといいな、と、思っています」


 そう口にしながら、わたしはまだ青空晴れやかな五月のことを思い返していた。すこし前に起きた五月の事件は、なんとなく、わたしの心にちいさな傷を残したままで、わたしはその靴擦れのような痛みに、依然として悩まされている。

 青空はまだまだとおく、曇天や雨音に慣れた今の季節のように、わたしの心も残念ながら梅雨入りをしてしまっているのだ。


 だから見知らぬ誰かの行為に、悪意以外の理由があれば、と願ってしまう。

 それは、一度秘められた悪意を知ってしまったからこそ抱く感情だった。


 いつの間にか黙り込んでいたらしい。視界に映るようにと身を屈めたさすがさんの顔がこちらを向いていて、ワカメさん越しに視線が合うのを感じた。


「とはいえ、まあ、店長も今のところ害はないからほっとこうって言ってたし、別にいいっちゃいいんですけどね」

「…………」

「あ、でも傘おき女さんに会えたら、あのアリスの傘とかどこで売ってたんですかって聞きたいかも。さすがさんはどうですか? 鵜狩さんが間違えて持ち帰ったあの黒い傘も、シンプルな船のマークが結構カッコよかったと思うんですけど。梅雨の季節だから、傘にはやっぱりこだわりたいですよね」

「船のマークがついた黒い傘?」

「そうそう、あれカッコよかったなぁ……ちょっと高そうでしたよね」


 などと軽快に答えを返してから、「ん?」とさすがさんを二度見した。さすがさんはというと、まっすぐ前を向いている。

 その視線を追うように前を向くと、さっきまでパズル誌を物色していたはずの男性が振り返り、わたしたちを見つめていた。どこか鬼気迫る表情で、思わず一歩、身を引いてしまう。

 が、お客さんなので、そうも言ってはいられない。


「いらっしゃいませ。あの……なにか、お問い合わせでしょうか?」

「えっ?!」

「えっと、こちらを見ていらっしゃったので……」

「あ、それは君が、船の、あの、傘のことを話していたからで」

「傘?」


 さすがさんを横目に見ると、ゆっくりしっかり頷いていた。

 そこで先ほど感じた違和感の正体に気がついた。


 あれはさすがさんではなく、このお方が言ったことだったのだ。


 思えば、さすがさんがあそこまで滑らかに話すところは、三ヶ月ほどご一緒してこのかた見たことがない。

 それと同時に、思い至る。


「ひょっとして、傘おき女さんのお知り合いですか?」

「玉置オンダ? 僕は日下部くさかべあつしですが……」


 名前だと勘違いされたのだろうか。名乗られてしまった。


「あ、いえ、えっと……」


 そこでかいつまんで事情を説明した。事情と言っても、傘を置いていく女性がいること、それから、そのひと曰く「取りに来るかもしれないからこの店で保管しておいてほしい」とお願いされた傘が溜まっていることの二点のみだ。

 悪戯説や暗号説に関しては、いちおうお客さんのことなのだし、まだ伏せておく。

 しかし話している最中から、額を手のひらで覆った日下部さんは、話が進むにつれて、背中を丸くしはじめた。

 猫のようだな。などと考えていると、


「……見た目はどんな感じでしたか?」

「わたしは応対していないからわからないんです。さすがさんは応対しました?」


 横を向くと、さすがさんはふるふる首を振った。この場合は、横に、だ。

 日下部さんが至極残念そうに肩を落とすので、


「あ、でも、特徴……っていうか、話は聞きましたよ。ヘンなことしそうにない、ふつうの方だったとしか聞いてませんけど……あ、たしかショートカットだったかな。ちょっと快活なリンネル系だって」

「リンネル系?」

「こう……ふわふわっと、ナチュラル系の格好を好まれる方というか。菊池亜希子さんとか、わかります?」


 男性陣がそろってとぼけた顔をするので、本来客注や在庫チェックに使うパソコンを拝借して、菊池亜希子さんの画像を検索した。ドラマなどにも出ていらっしゃるから、見たことがないというわけではあるまい。

 わたしの場合は友人がたいそうなファンで、いつだったか、神保町に『豆大福ものがたり』を観に行くのに付き合った。朝早くから並んだせいか、豆大福の缶バッジを頂戴できた上に、神保町でカレーを食べ古書めぐりを楽しみ、最後に豆大福をお供に映画を楽しむことができた。その後、友人の影響もあって『マッシュ』を購入してしまったのは、いい思い出である。

 そんな菊池亜希子さんの画像を見て、いよいよこの世の終わりといわんばかりに、日下部さんは頭を抱えはじめた。

 そしてうんうん唸り声を数秒発した後に、


「それ、たぶん僕のこ、婚約者です……」

「ええっ?!」


 偶然とはほんとうに、よくあるものである。

 さすがさんと顔を見合わせて、周囲にお客さんがそういらっしゃらないのを伺ってから、話を続けていただいた。


「なんていうか……彼女は変わっていて、奇行に走りがちというか、あ、かといって別に変な子ではないんですけど」

「個性的、ということでしょうか」


 と、言葉を豆大福に包むように言い換えると、日下部さんは頷いた。


「でも、どうして婚約者さんだって?」

「傘です。僕の傘がなくなるすこし前に、彼女が姿を消したもんだから」

「傘、……ああ、黒の!」

「話を聞いている限り、僕の傘にすごく特徴が似ているので」


 ついつい口を挟んでしまいました、と、日下部さんは苦笑い。


「それに……彼女が言ったんです」

「はあ」

「傘を探して、って」

「傘を?」


 わたしはさすがさんと顔を見合わせた。一体どういう意味だろう?


 ちょうどそのタイミングで鳴海さんが出勤してきたので、鳴海さんに相談してから、件の傘を取りに行った。女性物の傘は必要ないかと思えたけれど、傘おき女さんが置いていったものなので、それらも一応手に持って行く。

 事務所を出たところでさすがさんが待ちかまえていて、わたしの抱えた傘を取り上げて運んでくれた。ありがたい。

 そのまま日下部さんの元へと向かっていく。

 口火を切るより先に、「ああ」と声を上げたことから答えは明らかなように見えたけれど、一応日下部さんの前に全ての傘を掲げてみせた。


「どうですか?」と尋ねるは鳴海さん。

 日下部さんは黒い傘を広げ、船のポイントを確認してから、

「僕のです……」

「他の傘はどうでしょう」

「他の傘?」

「黒い傘以外にも、ここにある傘は全部同じ女性が置いていったものなんです」


 日下部さんのものらしい黒い傘、それから猫柄ストライプの折り畳み、女性らしいアリス柄。変わり種でビニール傘の内側に、Sex Pistolsのステッカーを貼った傘もあった。

 日下部さんはそれらを手に取って慎重に眺め、


「あんまり覚えてないのでわかりませんけど、アリスの傘は彼女のだと思います。よく使っているのを見ました。折り畳み傘も日傘でそんなのを使っていた気がしますが、ちょっと曖昧ですね。残りひとつの……ビニール傘に関してはあんまりピンときません。このバンドのファンって話は聞いたことないですし、洋楽とか、そんなに聴いてたかなぁ」

「おかしいですね。たしかにこれも置いていったって聞いたんですけど」

「間違えたとか?」

「でも南野さんだから、間違えたとも思えないなぁ。鵜狩くんなら別だけど」


 それには、うっかり、頷いてしまう。

 まあ何にせよ、持ち主らしき人物が見つかったのだ。傘を三本も持ち帰っていただくのは、その光景を想像するに頼みにくいけれど、傘おき女さんがおっしゃったとおり、「取りに来るかもしれない」という方がいらっしゃったのだから、めでたしめでたし。

 とは、なかなかいかないらしい。


「あの……それで、彼女、何か言っていませんでしたか?」

「え?」


 鳴海さんとわたしは探るようにアイコンタクトを交わした。


「特にこれといったことは……」

「持ち主の人が取りに来るかもしれないから、本屋さんで保管しておいてほしい、とか。それぐらいですかね」

「そう……ですか」


 傘が戻ってきたにしては、どうにも気落ちした様子であった。

 気落ち、という表現もすこし遠いかもしれない。傘の柄から先っぽまでを隅々まで見直して、ボタンを外した状態で一周させる。広げなかったのは、店内であるという配慮だろう。傘の他にも気にかかることがあるような、そんな雰囲気だった。


「……どうかなさったんですか?」

「あ、いえ、あの……」


 何か気になることがあるようにも見えるけれど、言いたくないことを無理に尋ねることも忍びない。

 鳴海さんと顔を見合わせて首を傾げていると、さすがさんがいつのまに席を外していたのだろう、傘を一本手にして戻ってきた。

 もう片方には、何やらメモを抓んでいる。


「さすがさんそれってもしかして、傘おき女さんの……」

「ひょっとして今見つけたの?」


 さすがさんが頷くよりも前に、その脇を駆け抜けていく影があった。

 驚いて立ち尽くしたままその姿を見送っていると、店を出たあたりで叫んだのだろう、「まひろ! まひろぉぉお―!」との声が響き渡る。

 声の主は言わずもがな、日下部さんである。

 日曜日で店は空いているといえど、人通りはそれなりにある。道ゆく人がなんだなんだと視線を向け足を止め、警備員さんが来るのも時間の問題に思えた。

 わたしたちは状況を把握するために必要な、ちょっとばかしの間をいただいた。


「ちょっと行ってくる」という鳴海さんを送り出し、それからとなりの背高のっぽさんを見上げる。


「ほんとに傘おき女さんがいらっしゃったんですか?」


 尋ねると、返事は手に持ったメモに任せるつもりらしい。わたしは目の前に掲げられたメモを読む。



  ――おとりおき希望 『ハートの4』

  江良里様 080-××××……



「……ひょっとして、ウソ?」


 ぼそぼそと返答が返ってくる頃には、日下部さんを引き連れた鳴海さんも戻ってきた。

 二人には、きっとさすがさんの答えは聞こえていなかったに違いない。


「嘘も方便」


 聞こえていなくてよかった、と、思ってしまった。

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