雨降って、地固まる。

雨降って、地固まる。〈一〉


「あ、雨だ」

「雨ですね」

「雨かあぁ」


 と、その雫の猛攻を知ったのは、店内の床が汚れていることがきっかけだった。


「ちょっとモップかけてきます」と真っ先に事務所へと駆けてゆく宗田さんは相変わらず気が利いていて、わたしと若蔦さんは「あ、はい」と間抜けな返答を返すことしかできなかった。


 時は六月のとある金曜日。梅雨入りをして、もう一週間になるころだ。


 これが学校や自宅であるなら、窓を叩きはじめる雨音や、暗くなった景色によって「ああ、雨が降ってきたな」と知るところになるだろうけれど、我が久万河書店のある場所は地下一階。外へと通じる出口もエスカレーターを上がればあるにはあるが、その外の音が地下のわたしたちのもとに届くには、八百屋さんの威勢のいい掛け声と、数分おきに訪れる電車の音に負けないぐらいの大きさでなければならない。大木を割るくらいの雷ならひょっとしたら、と思うけれど、そんな雷が落ちる日であるのなら、まず店はお休みを頂戴するに決まっている。


 そんなわけで、地下一階の店舗はしばしば外界から隔離されがちなので、雨の判断には傘や、床の汚れ、それから、お客さんの衣服が役に立つ。

 だいたいは、お客さんの持つ傘にビニールの袋が被せられているのを見て、「あら、そろそろ降り出したのかしら?」などと思うのだけれど、この日は、床の汚れがまず目についたのだった。


「並木さん」

「どうしたんですか若蔦さん」

「俺、今日傘持ってきてないんだけどどーおもう」


 朝に見た天気予報で、お姉さんが夜の降水確率は九〇%だと言っていた。

 ので、一拍置いてから、正直な感想を述べることにした。


「アホなんじゃないですかね」

「あのさ、俺一応先輩なんだけど、そのへんわかってる?」

「わかってますよ。だからちょっと言葉を柔らかくしたんじゃないですか」

「どこが」


 言わずもがな、「なんじゃないですかね」の部分である。


「わたしとしては婉曲法を用いたつもりです」

「婉曲どころがガッチガチのストレートっすけど」と不満げに溜息を吐いてから、若蔦さんは言った。

「後輩ってかわいくねーな」


 お前が言うか。と、ふだん宗田さんに対する態度を見ているため、思ってしまう。


「じゃあ若蔦さんの先輩にあたる宗田さんに聞いてみたらいいじゃないですか」

「バカかおまえ。先輩に聞いたらこう言うに決まってんだろ」

「バカでしょ」


 どうやら背後で話を聞いていたらしい宗田さんご本人の声も重なって、二重に聞こえた言葉は、若蔦さんの眉間にくっきりと深い皺を刻み込んだ。最初は「バカ」と言われたことに腹を立てたのかと思ったけれど、どうやら発言が被ったことを気にしているらしい。宗田さんと若蔦さんの関係性はよくわからない。

 モップをすいすいとかけてゆく宗田さんの後ろ姿を眺め、ぱっ、と頭に浮かぶのは、『モップガール』や『天使はモップを持って』だ。前者は小学館、後者は文藝春秋から文庫化されている作品で、どちらも女性とモップ、という鍵が宗田さんと重なっているから、ふと思い出したのだろう。

 なんとなく、今日、ひさしぶりにそれらのページを開いてみようかしら、と思った。そうすれば、わたしの心もモップがけをしたようにつるつるのぴかぴかになるかもしれない。


 季節は梅雨時である。空の青を拝見した日はすこし遠い過去のこと。今は雨こそ降らずとも、その一歩手前の灰色空ばかりで、なんとなく気分が落ち込む日々が続いていた。

 雨が悪いというわけでもなく、かといって曇りの灰色空が悪いというわけでもない。ただ、憂鬱というものは重なるもので、一度そんな気分に陥ると、なにもかもがどんよりとした色で映り込んでしまうのだ。白と黒がはっきりしないこの色が、何よりも憂鬱だった。


「どうかした? 並木さん」

「店長」

「この間からなんかちょっと元気ないんじゃない」

「そんなことは」


 ない、とは、いえない。

 肩を落とすと、


「いったいどうしたの。ふやけたおせんべいみたいになってるわよ」と、店長。

「……探偵って、苦労するんだなぁ、とおもって」

「なにそれ? 収入の話?」


 途端に現実的である。


「そうそう。薄給っぽいから」


 ハハハ。とから笑いでから元気。店長に気遣わせてしまったのはさすがに申し訳なく、わたしはぐりぐり、と頬を指先で押し上げてみた。にっこり。

 けれどすぐに、しゅるしゅる、と気分は下り坂になってしまう。しかたがない。この気分の下降自体は、天気にとって言いがかりがすぎるような私事である。


 もっとも、そんな私事を除いても、梅雨というものは、本屋にとってはいわば天敵のような存在であることはたしかだ。

 まず、湿気で本がやられる。何も目に見えて濡れるわけではないけれど、炙ったはまぐりのように、ぱっかりと本が開いたりする。はまぐりであれば唾を飲み込むような光景も、本であるとただひたすらに見苦しい。

 一番上の本を一番下に入れ替えるようにして対応しているけれど、何度やってもきりがないのだ。特に、表紙が見えるように面陳にしている講談社文庫あたりは、この季節になると、よく緩やかな反乱を起こしている。


 それから、傘を手に持つお客さんが増える。雨が降っていれば、それに水滴がついていることはもはや自明だ。

 だいたいのお客さんは、駅ビルの入口に据えてある傘専用のビニール袋をとり、それを傘にすっぽりと被せた上でお店にやってきてくれる。本を扱っているのだ。飲食物を持ち込まないのと同じ配慮を、だいたいの方はしてくださっているといっていい。

 ただ、つけない方も、やはりすこしはいらっしゃる。ビニールがいつのまにかとれてしまっていたりする場合もあるし、ほんのすこしだけだから、という雰囲気の方、もしくは折り畳み傘だから、という方など様々だ。

 特にビニールは被せるだけだから、傘に多くの水滴がついていた場合、その重みでいつのまにか落ちていることもままある。現に、店内に限らず、脱ぎ捨てたストッキングの残骸に似たビニールは、この季節、あちらこちらで目にすることができた。ある意味、梅雨の風物詩である。


 もちろん、それ以外にも天敵たるゆえんはいくらでもあるけれど、鵜狩さんがうっかり者のレッテルを貼られるように、雨がやっかい者とされる大きな理由のひとつに、忘れ物もまた、挙げられる。

 モップの代わりに、今度は傘をいくつか引っさげた宗田さんがお戻りになった。


「なんか農家のおっさんみたいっすね」

「うるさいバカツタ」

「ひでえ。だってゴボウに見えんじゃん」


 言い得て妙である。

 わたしは噴き出しそうになるのをぐっと堪えた。


「しょうがないでしょ。色んなとこに忘れられてるの見つけちゃったんだから」

「まあ、雨ですもんねえ」

「雨だからなあ」と若蔦さんは頷いて、「あ、ビニ傘。一本俺持ってかえっていい?」

「忘れ物だっつってんでしょ」

「だってビニ傘じゃん。閉店までに来なかったら来ないって」

「それでも忘れ物は一度保安室に届ける決まりなの。あんたの分なんてないっつの」

「俺が濡れて風邪引いてもいいっつーんすか先輩は」

「それは困る」


 と即答するので、わたしと若蔦さんは「えっ?」と聞き返した。すると、


「だって次のシフト代わってもらってるから」

「あ、そう……」

「まあ既に誰が持ってきたのかわからない置き傘なら事務所に幾らでもあるし、それ借りてけば? これは全部保安行き」

「最初からそのつもりだよバーカ」

「バカとは何よ先輩に向かって」

「ま、まあまあ二人とも、お客さんいますから」


 そっぽを向く二人を宥めると、若蔦さんは相変わらず眉間の皺をくっきりと携えたまま、宗田さんの手にあった傘を奪い取った。


「傘五本も差して帰る気?」

「んな変なやついるわけないっしょバーカ」

「はいはい。ありがとバーカ」


 なるほど。事務所に持って行く役を買って出てくれたらしい。

 やっぱり宗田さんと若蔦さんの関係性はよくわからない。が、仲が悪い、というわけではないようですこしほっとした。


「それにしても、五本は多いですね」

「そうだねえ。まあビニ傘が大半だったから、忘れてもまあいいや、ってなっちゃったんじゃないかな。二本ぐらいまともなやつもあったけど」

「あ、さっきの、アリス柄でしたよね。時計うさぎとかがシルエットになってたの」

「本とか小物とか細部にもこだわってて可愛かったよね。あとは青のストライプかな」


 どちらにせよ、持ち主が愛着を持った傘なのだろうから、


「今日中に来ていただければ一番ですけどねえ」

「ほんとうに」


 単純に、傘がなければ困るだろう、という意ももちろんあるけれど、この場合はほんのすこしの下心もある。

 なにせ、既に忘れ物として事務所に保管している傘は、あの五本だけじゃあないのだ。

 この時期に限らず忘れ物はちらほらとあるけれど、梅雨時は傘の忘れ物がその比ではない。既に数本の傘が事務所の壁にぶら下がっているのを出勤時にも見かけたし、梅雨の時期はそれが増えてゆく一方だ。


 そのうえ、当久万河書店では、最近ふしぎな出来事が続いている。


「先輩、並木さん」

「若蔦さん。どうかなさったんですか?」

「出たみたいっすよ」

「え」

「傘おき女」


 事務所から戻ってきた若蔦さんの右手には、アリス柄の傘が握られていた。

 その逆の左手には、一枚の白い紙。広げてみると、女性らしい丸まった字で、「必ず取りに伺いますので、そちらのお店で保管をお願いします」と書いてある。

 覗き込んで、宗田さんは目を丸くした。わたしも同じ反応を示す。


「うそ、ほんとに?」

「なんかダイイングメッセージみたいですね」

「ダイイングしてねーだろうが」

「それもそうでした」


 それにしても、残念である。


「次に応対するのはわたしだって思ってたのになぁ」

「俺はちょっと予想してたけどね」

「えっ」

「だってここんとこ連続っすよ、傘おき女。さすがにそろそろ直接は限界感じる頃合いっしょ」


 わたしも宗田さんも、もっともだと頷いた。

 傘おき女さんに実際に出会ったことのない店員でも、情報の伝達は行き届いている。久万河書店のアルバイトカーストにおける最下位層に位置するわたしでさえも、次に来店されたら話を聞いてね、と鳴海さんから念を押されていた。


 なにせ、この傘おき女さん、とっても奇妙なのである。


 いちばん最初は、まだ爽やかな青空がわたしたちを見守ってくれていたときのこと。猫のシルエットがかわいらしい、晴雨兼用の折り畳み傘が届けられたことがはじまりだった。


 そのときに応対したのは、パートの駿河さんだ。

 駿河さんから聞いた話によると、その傘おき女さんは、先述した傘をレジに持ってきたそうだ。


「あの、これ、忘れ物みたいなんですけど」

「あら。わざわざありがとうございます。どちらにありました?」

「えっと…………文庫のあたりに…………」

「文庫の?」


 そこで駿河さんは、少々「おや?」と思ったらしい。店内の奥にあたる児童書コーナーや実用書コーナーには忘れ物がしょっちゅうあるけれど、文庫はレジからも見通せる場所がほとんどで、そもそも長居をされる方がいらっしゃらないから、忘れ物なんかは滅多にない。

 それでも、親切で持ってきてくださったのだろうし、悪い方には見えなかったので、駿河さんはその傘を受け取った。すると、去り際に傘おき女さんは、こんな言葉を残して行ったのだ。


「ひょっとしたら持ち主の方が取りに来るかもしれませんから、本屋さんで取っておいてもらうことはできませんか」


 こう言われて、駿河さんは最初、首を傾げたそうだ。


「なんとなく、忘れた人、友人の彼女に似ていた気がするんです。友人に本屋さんに忘れてないか彼女に聞いてみて、ってメール送ってみるので、そうすれば二度手間にならないかなぁ、って」

「ああ。そういうことなんですね。もちろん、構いませんよ」


 駿河さんは、とても親切な方なんだなぁと思った、とおっしゃっていた。事実、この言葉を面と向かって言われたら、わたしだってそう思う。ひとのいい駿河さんだから、余計にだ。


 ただ、これで事件は終わらない。いや、むしろこれがはじまりだったのだ。

 それから、南野さん、瀬尾さん、鵜狩さんの三人が似たような相談を受けた。先述したように、傘の忘れ物も、あとで取りに来るという申し出も実際のところそう珍しいものではない。

 おまけに、そう珍しいものではないと思っている物事に関しては、申し送りはひどく簡素だ。

 南野さんも瀬尾さんも、「傘の忘れ物、あとで取りに来るって言ってたんで事務所置いときますね」程度で、それが「忘れた本人ではない別の女性が頼んだ」ことであったり、「いつごろいらっしゃるかも未定である」ことだったり、という情報を全員が共有することになったのは、ずいぶんとあとの話だ。


 怪我の功名というべきか、いいですよと請け負った鵜狩さんが、間違えて件の忘れ物の傘を持って帰ったことによって、傘おき女さんの存在が露わになったのだ。

 鵜狩さんの傘はいわゆる「こうもり傘」と言われて真っ先に思い浮かぶような、真っ黒の傘だった。そのときに傘おき女さんが置いていった傘も同じような真っ黒の傘で、鵜狩さんは、つい〈うっかり〉、その傘を持って帰ってしまったらしい。

 いざ傘を使おうと広げてみたら、見覚えのない船のマークがワンポイントに入っていて、そこで取り違えに気がついた。しょんぼり項垂れて出勤してきた鵜狩さんの、「預けられた傘を間違えて持って帰ってしまって……」という発言に、全員から報告を受けていた店長が「そういえば」と傘を置いていく女性のことを話しだした。


 そこでようやく、全員にお願いした女性が同一人物であるということが、皆の知るところになったのだ。


 しかし、そこまでして、いったい何がしたいのか。


「名探偵ごっこでもしたいんじゃないすか」と言い出したのは若蔦さんだ。

「少年探偵団みたいな?」

「そうそう。探偵バッジとかつけてさ」というのは、少年探偵団は少年探偵団でも『名探偵コナン』のほうである。

「ひょっとしたら子供にやらせるレクリエーションなのかもよ」

「本屋使ってそんなことするなら相談ぐらいしにくるでしょ。第一、けっこう若かったって瀬尾さんも言ってたじゃない」

「あ、そっか」

「バカ」


 むっとした若蔦さんは、「でも暗号だってことに間違いはないじゃないすか」と言い返した。宗田さんは間髪入れずに反論する。


「暗号じゃないかもしれないでしょ」

「はあ」


 わたしは語尾が下降気味の、若蔦さんは後ろに疑問符が付きそうな上昇気味のイントネーションで、同じ単語を発した。


「暗号以外の可能性もある……ってことですか?」

「考えればすぐにわかるでしょ」


 宗田さんは垂れた髪を耳にかけ、にべなく言った。


「こんなの、ただの悪戯よ」

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