四月の雨、五月の花〈四〉


 さすがさんの様子は、そのあともおかしかった。

 いつもなら言葉を発しないながらも、動いてはいる。だから普段は足りない言葉よりも、その動きを見て、「ああ今はカバーを折っているのね」、「じゃあわたしはFAXでも送ろうかしら」などと判断するのだけれど、それが今日に限ってはひたすらに立ちっぱなし。気がつけばもうそろそろ上がる時間にまでなっていた。

 いよいよもってこれは危ない、と鳴海さんに判断されたのは、新刊などが集う文庫の話題書コーナーで、数分の時間を直立不動で過ごしていたときのことである。

 鳴海さんからのお達しで、わたしがカウンセラーに抜擢された。

 いつもならしぶしぶ、という表情を隠しもしないけれど、わたしも気になる。

 事務所で帰り支度をしているさすがさんの肘をつつき、まずはこちらを振り向かせてから、


「さすがさん、今日はどうしたんですか?」

「どう」とはもちろん、くちびるの動きである。

「変ですよ、様子」

「ヘン」


 はあ、とため息のような返事を放って、さすがさんはエプロンの紐を結びなおした。


「……また働くんですか?」


 尋ねると、今度は紐をほどいて、そのままストンと床に落としてしまう。

 明らかにおかしい。


「何か、あったんですか」


 言っても返事はない。一度わたしの方を見たきり、あとは俯いて、垂れ下がったワカメさんの向こう側に、表情をすべて追いやってしまった。

 人間誰しも胸に抱えていることはあるだろう、と思う。それを暴くのは、どんな理由があろうと、必ずしも善というわけではない。けれど、その一方で、完全なる悪でもない。

 カーディガンを羽織って帰り支度を整えたさすがさんは、「じゃあ」を代弁した頭の傾き――ひとはそれを会釈と呼ぶのかもしれないが――とともに、この場をあとにしようとした。


「言葉にしなきゃ」


 ぴたり、とさすがさんの足が止まる。


「言葉にしなきゃ伝わらない、……って、言ったじゃないですか」


 なにも、わたしが言ったという意味だけではない。國永さんにさすがさんが言った言葉もそうだった。さすがさんもきっと思い出しているのだろう。両腕はだらりと身体の横に落とされたまま。扉の前に立ちはだかるわたしを押しのけようとはしない。

 もう閉店間際の時間である。レジにいらっしゃる鳴海さんからの呼び出し音が鳴らないことをいいことに、ゴールキーパーよろしく立ちはだかっていると、さすがさんの足がくるりと回れ右をする。

 はて。と首を傾げていると、ちいさな声が聞こえてきた。

 さすがさんは事務所のいちばん奥に設けてある椅子に腰を下ろし、わたしはそれを見届けてから仕事に戻る。


「まってます」


 と言う、さすがさんのくちびるが見えたから。




 さすがさんより三十分遅く終わるわたしを待っていただいて、三人で店をあとにした。電車に乗る鳴海さんと別れ、わたしとさすがさんは、舟堂駅南口の飲み屋街を歩く。


 夜の街の明かりは目にやさしい、と思う。

 居酒屋の店内から漏れる明かりも、道の端を点々と照らす街燈も、すべてが橙帯びた光で、その中にぽつぽつぽとん、と上から落とした絵具のように鮮やかな色彩が紛れ込む。違和感ばかりを覚える蛍光灯の真っ白な明かりとは違って、どこか太陽に近しい色だ。

 わたし自身は居酒屋の勧誘にはそう滅多にお目にかからないけれど、肩を並べているのがさすがさんだから、ちらほらと声を掛けられた。その度に頭を下げるのはわたしで、さすがさんは無言でするすると客引きの皆さんの合間を抜けてゆく。

 カラオケの勧誘に引っ掛かりながら、そういえばさすがさんは歌うことはあるのだろうか、そして歌うなら一体何を歌うのだろうか、などと立ち止まりかけたところで、ようやく振り返っていただけた。


 そして振り返り、さすがさんが姿を消して行った先は、江南書房だった。


 もう深夜十一時になろうか、という頃合いである。我が久万河書店も、本屋にしては遅くまで明かりを灯しているほうだけれど、江南書房は日付が変わるまでの営業なのだ。それゆえ重宝されるのだろう、ちらほらと立ち読みをしているお客さんがいらっしゃった。

 しかし深夜の静けさを保ってもいるので、さすがさんの声はよく聞こえる。


「おぼえてますか」

「なにを……ですか?」

「返品したやつ」

「はあ」

「あのひとが」

「あのひと……」


 今日の返品は女子高生ぐらいだったのでそう尋ねると、さすがさんは頷く。


「はい。最近映画化してましたから」


 さすがさんはそこで、わたしの行先を阻むように通路で立ち止まった上で、「表紙は」と短く尋ねた。

 本の表紙というものは、覚えてなさそうで覚えていて、覚えていそうで覚えていないものだ。

 なんとなくの記憶に頼りきった結果、いしいしんじの『プラネタリウムのふたご』をお求めのお客さんに、重松清の『流星ワゴン』をご案内してしまったことがある。今思えば、なぜ間違えたのかすらわからない。恐らく、「星っぽい表紙」というおぼろげな記憶で、「あそこにあった星空っぽい表紙はいかにも件の本だったようななかったような」と思考は違う方向に小旅行したのだろう。

 しかし今日は、さすがに、さすがさんが久万河書店のカバーを外した光景を、となりでじっくり見ていたので覚えている。


「たしか、オレンジの……夕焼けの中、抱き合っているカップル、みたいな感じのイラストじゃなかったですか? 内容も確かそんなかんじですよね。恋愛小説」


 わたしの返答を聞くと、さすがさんは身体をずらして、通せんぼしていた道の通行許可をわたしに与える。質問に答えないと進めない心理テストのようだな、などと考えて、わたしは示された先を覗き込んだ。


「あれ?」


 そう感じた一瞬の違和感。その正体には、すぐには気づけなかった。

 最初は間違えたのかと思った。高く積まれた文庫の表紙には、今日女子高生が返品したものと同じタイトルが記されている。

 けれど、表紙がまったく異なっていたのだ。そこには映画のポスターと同じ、主演二人が向かい合っている。色合いも淡いブルーに近い。


 さすがさんはそのまま一番上にある文庫を手に取って、ぺらり、とカバーを外した。

 すると、


「あっ!」


 外した――ように見えたそれの下から、ほんとうのカバーが出現する。わたしが先ほど挙げた、オレンジの、抱き合っているカップルのそれ。


「これって…………帯?」


 さすがさんは頷く。わたしにも、どうやら事情が呑み込めてきた。

 映像化や著者のナントカ賞の受賞が決まると、出版社から送られてくる書籍には大抵それを宣伝する帯が付く。映画化決定、ドラマ化スタート、芥川賞、直木賞、本屋大賞受賞、エトセトラ、エトセトラ。そのほうが売れるからだ。実際、その効果は大きい。

 そして映像化の場合、帯には大抵ポスターと同じ主演俳優の画像や、もしくは映画のワンシーンなどを切り取った写真が載せられる。基本的には本の三分の一程度の大きさだけれど、物によっては、本のほとんど全部を覆うような大きさの、帯というよりもむしろカバーと呼ぶに相応しい帯もつく。最近だと、文庫化に合わせて映像化の帯をつけた、湊かなえの『白ゆき姫殺人事件』などがそうだろう。集英社が力を入れているのだ、と、店長が話していた。


 今、さすがさんの手の中にある文庫にも、同じようにほぼ全体を覆う帯がついている。


 わたしの記憶と異なっているのはそこだった。

 つまり、女子高生が持ってきた文庫には、その帯がついていなかったのだ。


 わたしの胸を、ゾクリ、夜が走る。


「……でも、もともとついていなかったのかも」

「……それも、かんがえた。けど」


 さすがさんは、文庫の一番後ろを捲る。いつかも見たような仕草は、いつかと同じように、本の奥付を確認していた。


「ジューハン」

「はい」

「されたばっかのだった、から」

「……はい」


 元の山に文庫を戻して、さすがさんはその列を整えた。書店員の宿命だろう。本屋で働いている人は、自分が客の立場であっても乱れた本を直さずにはいられない。

 けれど乱れた気持ちは、どういうふうに整えればいいのだろう。


「さすがさん」

「はい」

「どうして、言わなかったんですか。あのとき。あそこで。……あの子に」


 ――わたしに。


「……それは」


 すこし、困った顔をした。

 厳密に言えば表情は見えなかったけれど、さすがさんのくちびるが、開いて閉じてを数度繰り返したからそう思った。思ったままを考えなしに放るわたしと違って、さすがさんは、考えに考え抜いてから口に出すひとだから。


「ないから」

「ない?」

「証拠」

「…………証拠が、ないから?」


 確かめるように、項垂れるように、首が上下に動いた。


「ほんとは」

「え?」

「ほんとは、並木さんにも、いわないつもり、だった」

「……どうしてですか?」


 さすがさんは、通行の邪魔になると思ったのだろう。店内を冷かすこともせず、そのままわたしの背を押すようにして、店の外を目指した。

 わたしは戸惑いながら、それに応じた。

 背を押しながら進む足音に混ぜるように、さすがさんの声が聞こえてきたからだ。


「傷つくと、おもったから」


 橙の光を背に受けながら、わたしたちはもときた道を歩いた。

 行きはやさしいと感じた光は、影のせいであまりやさしいとは感じない。客引きの殿方が声をかけてこないから、すこしさみしくも感じるのかもしれない。

 喧騒や賑やかさというものがわたしたちから離れてゆくみたいだった。離れないのは、さすがさんだけだ。わたしが歩調を緩めると、それに合わせる。さすがさんは、そういうひとだった。


 それでも、わたしは、さすがさんと別れるときにこう言った。


「さすがさん」

「はい」

「わたしは、……わたしは、信じたいです」

「……はい」


 どっちを?

 そう尋ねられないことに安堵してしまったのは、なぜだったのだろう。

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