四月の雨、五月の花〈三〉
一期一会、という言葉がある。
意味はだいたいの方がご存知のことと思うけれど、辞書などで引くと、「一生に一度の出会い」だとか、または「一生に一度きり出会うこと」などと記されている。
この定義に、道端で通りすがった誰かさんや、カフェでの会計待ちの列で前に並んだひとも含められるのであれば、わたしが長い長いと仮定する、人生というものの中で出会うひとは、きっと一期一会の方が多いのだろう。
なぜこの言葉を思い出したかといえば、月曜日三時限目の英米文学入門という授業で出てきたからである。入門の授業なので、英米文学といわれぱっと思い浮かぶようなものばかりが題材に挙げられるが、今日はたまたまシェークスピアだった。
シェークスピアで挙がる名前といえば、それこそ『ロミオとジュリエット』や『ハムレット』、『マクベス』などであろうけれど、一期一会はその『マクベス』にまつわるキーワードとして出てきた。
内容がどうこう、というわけじゃあない。
「そういえば、昔ね、大沢たかおのマクベス、観に行ったことあるんですよ、私。朗読劇、一期一会。ご存知ある方いるかしら?」
と、こんな世間話の延長の段階で出てきたのだ。挙手するひとはほとんどいなかったけれど、ひとり、熱心な大沢たかおのファンだという女の子が手を挙げていた。
大阪で観劇したらしいその女の子は、野外のステージで行われたその朗読劇について熱く語り、「まさに一期一会だったんです!」でその熱弁を締め括った。
授業や英米文学にはほとんど関係がないといっていいけれど、そこまで熱弁されると、幾つかのキーワードが脳内へ浮かぶ。
わたしの場合、ひとつは大沢たかお、もうひとつは『マクベス』、最後のひとつが「一期一会」だったわけだ。
そしてそれを思い出したきっかけが、テレビ雑誌をコーナーに補充した折、すれ違った人物だった。
「あれ?」と思って振り返ったときには、目に映るのは後ろ姿で、どうして振り返ったのかも思い出せない。首を傾げながらレジに戻り、二度目の「あれ?」を感じたのは、その人物が、わたしのレジにやってきたからだった。
レジに商品を通している間はどうしても画面に夢中になってしまうから、既視感に気づいたのは、テレビ雑誌を数冊と、もうすぐ映像化が公開される文庫本という会計を、小計ボタンにより確定したあとのことだった。お客さんに視線を移し、そこでようやく、「あれ?」なのである。
文庫本にカバーをかけながら、まじまじと見つめてしまった。お客さんがお金を用意している最中はよかったものの、その用意が終わると、途端に目が合う。
「?」
「あ、えっと、お会計お預かりいたします」
「はい。お願いしまぁす」
砂糖菓子のような語尾と共に、甘いかおりが香った。
「あ」
「えっ?」
昨日江南書房にいた子だ。と、思い至った。
思えば身に着けているものも、昨日と同じ制服だ。カーディガンの色だけが、今日は黒になっていた。
制服の女子高生などという存在は、駅から近くのこの場所では見慣れていて、すぐには気づけなかったのだ。視覚だけでなく、聴覚、嗅覚と、五感のうちのみっつが覚えていたから思い出せたようなもので、そうでなければ、別々の場所で出会ったような女子高生は、わたしにとって「一期一会」の存在になっていただろう。
そんなわけで、ここでようやく、冒頭の「一期一会」が、わたしの頭の中に浮かんでくるのである。
思考の小旅行に旅立っていたから、そんな件の女子高生は、ふんわり頬を緩めながら首を傾げた。
「なんですか?」
「あっ、いえ、あの、私事というか……」
「わたくしごと?」
苦しまぎれに、テレビ雑誌の表紙になっていたアイドルさんの名前を出した。
ら、それが当たったらしい。
「そうなんです、大好きなんですぅ!」
「わたしも好きで、それでつい声をあげてしまいました」
「あはっ。わかりますよぉ。カッコイイですよねぇ、超好きでぇ」
そのあたりは、テレビ雑誌を数冊お買い上げされるあたりで察せられる。ので頷いた。
「そうなんですよぉ。全部集めないと気が済まないんです、こーいうの。もうタイヘン」
結局、その女子高生が今度のコンサートではアリーナ席なのだという情報まで頂戴して、その背中を見送ることとなった。お話の後半部分では、ずらりと後ろに列ができてしまっていたから、急かすようになってしまってすこし申し訳ない気がした。女子高生にも、後ろで並ぶお客さんにも。
しかし思えば今日はジャンプの発売日だ。ゆっくりしている暇はなかった。わたしはとなりで並ぶさすがさんと共に、ひたすら次から次へと並ぶお客さんたちを捌いてゆく。
ようやく波が途切れ、ひと息吐けるようになったころには、喉が渇いてしかたがなかった。
店長にお伺いを立てて、事務所へと一度水分補給に向かう。
事務所の扉を開けたところで、マジックミラーになっている鏡に、さすがさんが映っていることに気がついた。
「うわっ」
「…………」
「え、さすがさん? どうしたんですか……あ、水分補給?」
尋ねると、首は緩慢に動く。横に。
「ちがうの? じゃあどうなさったんですか」
今度は、首はどちらにも動かなかった。代わりに口を開けて、ぼそぼそと何かを言う。わたしは聞き取れなくて、右耳をさすがさんのほうに背伸びさせるように突き出した。
すると今度は、「貴家くん、ちょっときて」などと店長からお呼びがかかる。
結局、さすがさんの用件がなんだったのかわたしにはわからなかった。上がり際に尋ねてみようと考えていたことを思い出すころには、すっかり帰路の途中だったのである。
まあ、さすがさんのほうも、それほど重要なことではなかったのかもしれない。と、わたしはそのまま帰り道を辿った。
今にして思えば、さすがさんに対して悪いことをした。けれどそのときのわたしには、どうにも思い至らなかったのである。
なにせ、わたしとさすがさんは、後者の意味でいう――一期一会では、ないのだから。
必殺仕事人ならぬ必殺アルバイター瀬尾さんから連絡が届いたのは、ちょうどそのあとのことだった。
なにかと思えば、シフトのご相談。いきなり短期のアルバイトで欠員が出て、お願いをされてしまったとのこと。もしわたしが出られないようなら断るので、よければ、という形だったのだけれど、わたしの方は予定もなかったので快諾した。瀬尾さんがいつも出勤する時間には間に合わないので、そこだけ店長に融通していただく。
連続の勤務になったりすると、疲労感や課題の蓄積っぷりが真っ先に悲鳴を上げる要因になったりもするものの、水曜日は比較的に行うべき課題も少ないので、どちらかといえば新鮮で悪くはない。
おまけに、出勤した際、話を知らないさすがさんや鳴海さんが「あれっ?」という顔で二度見してくる、という反応もたのしめる。この日ももちろんそうだった。
「さすがさんさすがさん、びっくりしました?」
「はい」と頷くように、首がゆったり上下する。
「瀬尾さん休みなの?」
「なんか短期のバイトお願いされたって言ってましたよ」
「さてはあっちのほうが時給よかったな」
「……それは聞いてないですけど」
「いや、ゼッタイそう。だって瀬尾さんお金の亡者だもん」
ふつうなら「こらこら」とたしなめるところだけれど、まあ、と頷いてしまう。
「家計簿つけてるんでしたっけ?」
「らしいね。あと五百円玉貯金二年目突入って言ってたよ」
「すごい倹約家ですよねえ」
「そんな瀬尾さんの代わりに稼いでいきなさい。薄給だけど」
「はいはい」
仕事に入る前に朝礼を受ける。幸い、二日前にも出勤しているせいか、申し送りは少なかった。予約活動を行っていたコミックの特装版が昨日で予約を締め切ったこと、夜に入っているバイトは備品補充に気をつけること、それから、月曜日に既に買った商品を間違えて買ってしまったらしく返品したいとお客さんから電話があり、本日来店予定とのこと。
「また返品ですか……」
「そういえばこないだもあったね」
「ややトラウマ気味です」
「まあでも、今回は買った日に電話が来てたし文庫だったから、たぶん大丈夫だと思うよ」
鳴海さんがそう言うと同時に、背後から「すみませぇん」と間延びした声がかかる。レジにお客さんが来ているのだ。
朝礼を切り上げて、レジに向かうと、「あっ」と思った。
「あっ。おねえさん、こないだの」
今度のコンサートでアリーナ席に座るらしい女子高生が、そこにいた。
気づいたのは向こうも同じらしい。ひらひらと片手を振って頬を緩めた。怪我でもしたのだろうか、白い指先にガーゼのようなものが巻いてある。
「こんにちは。どうしたんですか?」
「えっと、本を返したいってこないだ電話したんですけどぉ」
「あ、ひょっとして文庫の?」
「そうなんですぅ、あたし、もう持ってて読んだことある本まちがえて買っちゃって」
女子高生は文庫本を鞄から取り出し、その上にレシートを重ねてわたしのほうへと出してきた。アイドルさんの話で盛り上がったことは記憶に新しいけれど、レシートがなければ返品は受け付けられないので頂戴する。
定例句となりつつある交換のお勧めを言うと、申し訳なさそうに首を振られた。鳴海さんも後ろから「返品で了承してるから大丈夫だよ」と声をかけてくださったので、そのまま文庫本の分だけ、返金する作業に移る。
すると、わたしの横に、にゅっと腕が伸びてきた。
ぎょっとして振り返るわたしを気にも留めず、その腕の持ち主であるさすがさんは、今まさに返品を受け付けようとしていた文庫を手に取った。
何をするのかと見守っていたら、さすがさんは、久万河書店のカバーを外した。
きちんと書名がレシートに記載されているものと合っているか確認するためだろう、と、ここまでは頷ける。実際、カバーを外して現れた表紙には、イラストに重なるようにして書名が記されている。
そのあと、さすがさんは最後までぱらぱらとページを捲ったあと、持ち上げた顔を女子高生のほうへと向けた。文庫を眺めるよりも二倍三倍以上の時間がかかっていたように思う。ワカメのような前髪のカーテンにその瞳が覆われていなければ、こう表現できただろう。「見つめていた」と。
「……さすがさん?」
いつもなら、いよいよさすがさんも恋に落ちてしまったのだろうか、などと下らないことを考えてしまうわたしだけれど、何も言わずにお客さんを見つめる様はいささか異様で、声をかけることにもすこし戸惑った。
恋とかいう浮足立った冗談が不釣り合いなほど、雰囲気が張りつめていたように感じられたからだ。
女子高生は困ったように首を傾げて、それからくちびるに弧を描いた。
「…………何か?」
そしてそれが、長い膠着状態の終止符となったのだった。
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